第3話 蒼と雲の彼方で

 幾つもの戦闘機が織りなす轟音は、変わらずに遠くから聞こえてくる。どうやら今日の敵さんは少々しつこいようである。


 颯太そうたは草むらに寝転がったまま、飛行服の胸ポケットから1枚のカラー写真を取り出した。

 写真には、桃色地で装飾があるブラウスに、クリーム色のロングスカートを穿いた女性が立ち姿で佇んでいる。颯太そうたが知っている生身の素子もとこよりも、背が伸びて大人びた姿だ。

 亜米利加アメリカに帰国した素子もとこから、4年後に手紙と一緒に送られてきた写真だった。カラー写真というのが、いかにも亜米利加アメリカらしいなと颯太そうたは思ったのを覚えている。素子もとことは数十通の手紙のやりとりをしたが、戦争が始まると郵便も不通になったため、それっきりになってしまっていた。


「どうしてるのかな……」

 写真の中にいる素子もとこは、笑顔のまま答えない。亜米利加アメリカでは素子もとこも敵国人だろうから、帝国国内での敵国人への眉をひそめるような仕打ちを見聞する限り、素子もとこ亜米利加アメリカでよほどひどい仕打ちを受けているのではと思うとやりきれなくなる。


 ――ソータさん、あなたはとても素敵な男の子だと思うわ。


素子もとこも素敵な女の子だと思うよ。本当に出会えてよかった」

 颯太そうたは写真を再び胸ポケットにしまうと、草むらからヒョイと立ち上がり、引き締まった表情で補給を終えた四式戦よんしきせんへと歩を進めた。あとは敵機を一機でも多く叩き落としてやるだけだ。


「燃料と弾薬の補給、終わりました」

「ご苦労」


 颯太そうたは再び四式戦よんしきせんの操縦席に身を沈め、エンジンを始動させる。

 2,000馬力のエンジンが唸りを上げ、4しょうのプロペラが力強く回り……と思った矢先、エンジンが急に力なく停止して、颯太そうたは目を丸くする。


「何があった!? 尋常の止まり方じゃないぞ!」


 風防を一気にスライドさせて開き、颯太そうた四式戦よんしきせんから飛び降りると、少年整備兵に語気鋭く問い詰める。

 少年整備兵は言葉を詰まらせたまま答えない。すると、少年整備兵に表情はみるみる崩れてゆく。


「軍曹殿がもし死んでしまったらどうしようと思い、軍曹殿の機体には、燃料ではなく水を入れました……軍曹殿に私は死んでほしくありません」

 少年整備兵はそのまま泣き崩れてしまった。周囲の数人の少年整備兵もやはり泣いている。そこまで泣かれてしまうと、颯太そうたももはや何も言い出せなかった。



「……臣民の衷情も、朕よくこれを知るしかれども、朕は時運のおもむく所、堪ヘ難きを堪へ、忍び難きを忍び、以て萬世のために太平を開かんと欲す……」


 翌日の正午。

 詔書しょうしょが正午に放送されるというラジオニュースを聞いて、士官、下士官、整備兵など飛行場にいる全員が食堂に集合し、おんぼろな真空管ラジオの前に集まっていた。

 真空管ラジオから流れるノイズ混じりのニュースと詔書を、直立不動のまま聞いていた颯太そうたは、とりあえず帝国が亜米利加アメリカに降伏したらしいということは理解することができた。

 嗚咽おえつが漏れる食堂からひとり外に出た颯太そうたは、ふらふらとした足取りで滑走路脇の草むらまでたどり着くと、力なくペタンと座り込み、淡い青と深い蒼、白い雲が織りなす景色を呆然と見つめていた。


 ――どうしようかな、これから。


 緊張の糸が切れて呆然とした思考の中、颯太そうたはふと頭をよぎった言葉がそれだった。とりあえず空戦をすることはもうないだろうから、即死と隣り合わせの日常から解放されたことには違いなかった。

 深い……深い安堵感に全身の隅々まで包まれた颯太そうたは、草むらの上に寝転がり、しばらく何も考えずに空を見ていた。不思議と戦争に負けたという悔しさはなかった。


 ――鞘の内を悟れぬ蛮勇が故に、娘さんを命の危機に遭わせたことを忘れるな。


「鞘の内の勝ちこそ、剣士にとって最上の勝ちである……帝国の鞘の内を悟れぬ蛮勇が故に、国敗れ民と戦友の命は空に消えたか……剣の道理そのものだな」


 羽島はしまの言葉を思い出しながら紡いだ颯太そうたの言葉は、日本人や亜米利加アメリカ人をはじめ、数えるのも気が遠くなるほど無数の命と、その命が繋ぐはずだった未来の命をも飲み込んだ、白々しいほど淡い青へと吸い込まれるようにして消えた。


 ふと、素子もとこのことが気になった。というより無性に逢いたくなった。死を覚悟しながら思いかけず命を繋いだのを噛みしめたことから起きる、生物の帰巣本能のようなものなのだろうが、そんなことは颯太そうたには分からない。


「そうか、もう戦争は終わったんだから、自由に行けるかもな……亜米利加アメリカ


 颯太そうたはそうつぶやくと、意を決したように力強く立ち上がる。颯太そうたは行くと決めた。あの蒼と雲の彼方で、素子もとこに再び逢うために――

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