第6話

緊張感一つ無い、緩み切った唇の端を見ればわかる。


この男にとっては、こういう事態が、全く大したことではないのだ。香苗はこの事実を本当に受け止めるには、この先、どれ位の時間がかかるだろうかと思案した。


割れた『窓ガラス』の向こうには、ホテルの裏庭らしい庭木の濃い緑と、オレンジ色に光る街頭。そして、窓掃除などのために、建設当初から設置されることもあるゴンドラだった。


「さぁさぁ」


邦人は香苗の手を引き、ゴンドラに乗り込む。

香苗はプラスチックの破片を蹴り飛ばし、ついでに邦人の胸元を、隠しナイフで切り上げてやろうかと思ったが、試すのはよした。相手の警戒心が無さ過ぎて、自分が張り詰めた状態であることが、いくらか恥ずかしいのもある。


二人が乗り込むと、静かにゴンドラが上がっていく。壁面伝いにサイレンと人の声、それもかなりの集団のざわめきが、鈍い反響の中に確かに聞こえる。ただ、それは少なくとも視界の範疇には無く、香苗は妙な気分だった。


2階を除いて、ガラス面のないタイルの壁面は、ひどく平らで、頂上までの距離感がつかめない。香苗は上を見上げる。気分は随分よくなっていた。


「こんな場所だから言うけど」


邦人は同じように空を見上げながら言った。


「僕はテロリストという職業も、それを心底楽しんでいる家族も嫌いでね」


両目の間の、すうっと通った鼻梁を掻きながら、邦人は続ける。


「物心ついたときから、どうやったら他に好きな仕事ができるかと思って、色々やってきたんだ。働いていい年齢でもなかったから、クーポンの偽造に始まって、クレジットカード、中学にあがるころには、戸籍やパスポート作成で、ブランド化して有名になっちゃったから辞めたけど。

 そういう感じで小遣いも自分で貯めたし、デジタル世界に詳しい友人が揃って来たら自然と、ハッキング集団が組織されちゃって、如何に商業化するかで、内部揉めに巻き込まれたりして、気が付いたら表向きに言えない仕事ばかりでさ」


邦人は「はぁ」と一息をつく。香苗は興味深く、聞き耳を立てる。


「そこでようやく、汗水流して働ける年齢になって、でも、だめだった。楽を覚えちゃったから。金の動きと言うか、どういう資産や予算で、どれだけの人を使って、っていうのを計算してきたせいか、使われる側におさまれないんだ。

 あれこれと興味の向くまま、ほとんど真っ黒なファンドも作っては、ネット上だけの知り合いに配ってインセンティヴを徴収したり、信用出来ない身内から隠したいとか、その他の言えない理由で、長者たちの預金口座の管理をしたり、いくらか、まともな仕事もしたけど」


香苗は、色々と問い質したいのを抑えて、一言に絞る。


「それで、今のあなたにどう繋がるの?」


邦人はちらっと横目に香苗を見て微笑む。


「僕は思ったんだ。何かを初めて、また終わりもあって、そういう繰り返しが一体どれだけ繰り返されれば、幸せになれるんだろうと。僕はただ、好きな仕事を探したかっただけ。社会における"自分の位置"を探しただけ。でも、その過程をいくら振り返っても、分からないんだ。

 最初は、家族と家業が嫌で、そこから離れて自立できる道、自分らしさなんかを求めた。たしかにそう。でも、今はもう、そんな年齢でもない」


邦人はひとり首を横に振る。


「どれだけ自分の財産や仕事、それに伴う責任が生まれて、苦痛と充実を感じたところで、また、どれだけの人の富や命、自由までを、意のままにできる権力と不遜を得たところで、僕には、他の誰かが思うような"満足"を見出すことができない。決定的にそれが自分という人間なのだと、ということを、僕は知ってしまった。だからこそ、だよ」


生暖かい上昇気流に似た強い風が吹き上げ、ゴンドラが軋む。香苗が背中を振り返ると、夜景がひどく美しかった。


「何?」


邦人もそう言って振り返り、納得して、後ろ手にゴンドラの縁にもたれる。


香苗は微笑んで右隣の男を見つめた。奇抜な発言には目をつぶって男の述懐を聞いていると、何かしらの発見はあるものだ。香苗の肯定的な表情に気をよくして、邦人は続けた。まもなくゴンドラは屋上に辿りつく。


「正直に言おう。僕には、僕が生きている限り行動して得られるもの、そして破壊するものの一つ一つに意味を与え、感情を吹き込んでくれる人が必要なんだ。僕にはそれが欠けている。全く呆れたものだけど、両親を嫌っているこの僕は、終局、同族嫌悪の倣いに過ぎないわけだ。倦もうと楽しもうと、何にせよ、既に死せずにテロリストを辞めることができない僕の人生には、同じ道を歩いてくれる健全な魂の持ち主が必要だと思う、君の様な」


「でも私は」


香苗がこう言いかけたところで、視界が開け、強烈なバックライトに、真黒な人影が目に飛び込んできた。と思ったら、飛びつかれていた。見ると、すっかり目元が煤で焼けた様子のサオリさんである。


「良かった!御無事で!」


邦人は、外から腕を伸ばしてくれるチームメイトに助けられ、一足先にゴンドラを降り、二人の様子を見ている。


「あなたたちがどうしたかと、それが気になってて」


本心から香苗はサオリの無事を喜んだ。香苗もゴンドラを降り、再度しっかりと抱き合う。サオリも香苗も、互いの顔を見て、深い安堵のため息をついた。サオリは答える。


「いいえ、私たちも、伸びてきたはしご車に、救助されかけたんですけど、説明できないものばかりでどうしようかと、その…クニトさんですか?合ってます?が上手く手をまわしてくれるから大丈夫だって、言われて。外部から邪魔が入りさえしなければ優勢だったはずなのに、なんだか、あれよあれよと、懐柔されてしまって、お恥ずかしい限りです」


サオリさんは、そう言いつつ、邦人をわざと遠目に見て、会釈した。明らかに気に入らないのだろう、口元は険しい。


「そう…私も準備が足りなかったせいで、あなたに迷惑をかけたと思うわ。第一、広尾邦人、という男のことを本当に理解してなかった」


香苗はそういいつつ、背後の男を振り返る。邦人は仲間から差し出されるスポーツドリンクに口を付けながら、小さく手を振ってこたえる。サオリはぷっとふてくされたが、すぐさま取り直して言葉を発する。


「いいえ、私のリサーチ不足です。謎の多い人物ほど、危機的状況に興奮して自分を見失うケースが多いもので、これほど、同業者を馬鹿にした作戦を考えるような人物とは思いませんでした」


「お褒めにあずかって何より」


邦人は、少し大きな声で会話に横入りすると、『失礼』というジェスチャーで、近付いてくる。


「ごめんね、僕はこれでも今回、余裕が無かったんだ。だってそうだろ?目的がいつもと違う。結婚を申し込むための舞台だよ。僕の良さや性格をKに判断してもらわなきゃいけない。そのほかのことには、多少、目をつぶってほしいな」


その言葉は、サオリに向けられたものだった。言われたサオリは、『言われなくとも』という体で、片方の眉を挙げて、敵対的な表情を見せる。香苗はおかしそうにその様子を見て、サオリに言う。


「本当に、あなた、嫌いよね。私の旦那になるっていうのに、そんなんで大丈夫?」


この言葉に邦人は目を見開き、サオリは、嫌そうに眼をふせながら、でも答えた。


「はい、わかってます。私個人が気に入らなくても、これが最初からの計画です。うまく纏まってくれるたようで、私はとても喜んでいます。もっと祝福出来たらよかったのに、何もかも戦闘がうまく…いかっ、…なんで…!」


サオリの目からぼろぼろと涙がこぼれ、嗚咽が漏れる。しまいにワーと泣き出してしまった。


邦人は、香苗の了承が得られたことで、幸せ笑いが止められなかったが、サオリには言っておかなければならないことがあると、口を開いた。


「いいや、僕は全面的にKのものになるからね。そういう意味では、対等じゃないし、君がずっとKの右腕だというなら、僕も君を最大限尊重して、二人のいまの関係が維持できるよう、努めるよ。それに、僕のような人間には、利得とか、提供する仕事の内容とか、そういう合理的理由で近づいてくる仲間は出来るけど、僕の人間性に惹かれて近づいてくる人間はまずいないからね。あなたのように、情熱的にKのためなら死んでもいい、という人間が前から欲しかったんだ。僕は"Kのもの"だけど、Kのものは、"僕のもの"でもある。この理屈、通るよね」


邦人が香苗に尋ねると、香苗は、少し迷ったように首を傾げる。


「まぁ、それが私たちの結婚による合併話の魂胆よね。それほど、簡単にいくかどうかは知らないけど」


そういいつつ、香苗の頭の中では、すでにどうにかしようとしているのが、サオリには理解できた。涙を拭い、サオリは背筋を伸ばして目の前の新しい『仲間』に言う。


「いいでしょう。私には香苗さんが全てです。この方に危害を加えない限り、ビジネスライクに行きましょう。馴れ合いは不要です」


「厳しいなぁ。ほんと」


邦人は肩を軽くすくめると、傍で待機している仲間たちに、なにやら大きな身振りで指示を送る。


『さぁ、行こうか!』


香苗にもその身振りが理解できた。なぜなら自分たちの使っている合図だったからだ。


さっきからの眩しい照明が一瞬消えて、また点くと、大型ヘリがそれも二台、ヘリポートに陣取っているのが確認できた。


バタバタと邦人側の人間や、香苗たちの仲間が、負傷者を助け、背中を互いに叩きあいながら、ヘリに次々に乗り込んでいく様は、さながら感動的だった。サオリも香苗と邦人を置いて、先に走っていく。


「巡回用のヘリを借りてね。僕たちはとりあえず、今回撮影クルーってことだから、映像を送らないといけないんだけど」


邦人は、香苗の目をじっと見つめて言う。


「そのあとは、式場に向かうけど、いいかな?」


香苗は承諾の意思を目で伝えながら、邦人に言った。


「あなたが自分のことを教えてくれたから、私も言っておくわ」


ここで背後の機のローターが回転し始める。聞こえない、というばかりに邦人は距離を縮めて身を屈めると、香苗の口元に自分の耳を寄せた。


香苗は騒音にかき消されないよう、声を張る。


「私がテロリストであるのは、社会の幸福のため!人々はもう、『望ましい社会』というのは何であるのか、わからないのよ!

 いくら詳細な部分や仕組み、権力構造を言葉では語れても、全体的ではないから、まったく現実的ではないの。端から形にしようっていう意思もないから!でも、私たちのような存在がいれば、社会は秩序の意義を取り戻すことができる!法の価値を思い出すことができる!そうでなくては、真の社会は滅びるわ!」


邦人は頷き、香苗だけに聞こえる声量で、言葉を返す。


「すなわちテロリズムとは、君にとっては、”社会への問い”なんだね。そして結論を人々に委ねてるんだ!」


香苗も頷き、邦人の手を取る。二人はじっと互いの瞳を見つめる。邦人は香苗の手を握り返し、歓喜して言う。


「権力が、人を支配していると信じられていた時代は、政治家や有力者を狙ったものだけど、不思議なことに、社会の発展により人々を支配できるのは、純粋な恐怖のみなんだと理解されている。だからこそテロリストは、まったく何でもない、一般の人間を標的にする。日常を破壊する。それが最も効果的だからだ。そうか、君のレゾンデートルは、問いかけなんだ!」


香苗は大きく首を縦に振った。


「“すべての問題は、問われるために存在するのであって、具体的な答えによって生かされるものでは無い”のよ!」


香苗がこの言葉を選んだのは、必然としか言いようが無かった。僕、こと邦人は、彼女に会うまでの自分を、間違いだらけの自分を、このとき捨て去ることを心に誓った。



*二時間後、結婚式場で―



「私、広尾邦人は、篠崎香苗を生涯の伴侶とし、病める時も健やかなるときも、彼女を愛し、支え、そのすべてに報いるために、自身の命と精神を捧げることを誓います」


「わたくし、篠崎香苗は、広尾邦人を生涯の伴侶とし、悲しみも喜びも互いに分かち合い、世界の崩壊の果てにも付き添うことを誓います」


弾ける拍手と歓声、クラッカーの火薬の匂いに、色鮮やかなフラワーシャワー。次々と抜かれたシャンパンと、心地よいグラスの重なる音、好みの分かれるビールにアイスワインまで。


白くかすむ部屋の空気に、二人は苦笑いを浮かべて、もう一度しっかりと抱き合った。そろそろ新郎新婦のダンスが始まる。彼らはまだ曲目を知らない。後はすべて仲間たちに任せてある。


二人の記憶に残る、生涯ただ一度の結婚式だったという。

                                 



おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る