第5話

邦人は言う。


「そもそも君が、代官山の御実家を爆破したから、ご両親を僕が預かっているわけなんだけど。違った?」


香苗は答える。


「あれは、自分の命か、両親か、という二者択一を迫られて、ほかの競争者もいたし、他に方法が無かっただけよ。たとえ脅しでも、自分の助かる選択肢を選ぶにきまってる。だから私はいま、ここに座ってるんだけど?」


二人の前にメインのステーキが運ばれてくる。邦人はレアの頬肉が、香苗には香ばしくよく焼いたヒレ肉である。香苗は、運んできた白髪まじりのウェイターを見上げ、二つの皿を見比べてから、瞬きをして邦人を見直す。


「まさか、食の好みまで知ってるの?」


邦人は両手にフォークとナイフを構え、やや当惑気味に言葉を返す。


「情報元をいくつか当たった甲斐があればいいけど。なに?間違ってた?」


マッシュドポテトを合わせて真っ赤な一切れを口に含み、もぐもぐと喉元に収めると、悪くはないという顔をして、二切れ目にとりかかる。そんな彼の様子を見ながら、香苗も大きく切り取った一つを、口にぽいと放り込む。思わず唸る。


借り物のシェフのはずなのに、このレベルの高さは何というか。香苗は、想定以上の人間が目の前に座っているような気がしてきた。


「ところで、食事は美味しいし、文句はないんだけれど、あなたからは口説き文句の一つも無いのかしら?」


シャンパンの残りの一口をあおる邦人は、「あぁ」という目をして、名残惜しそうに皿を見下ろすと、口を拭う。


「口説き文句と言うか、さっき、話が出た家族のことから、僕の話をすることになると思う。僕はそう、言い換えれば君の夫に自己推薦という形で応募して、合格しないといけない訳だから。君に少しでも好ましく思われるような材料を、この場で提供しないとね」


上階の喧騒が、振動となって彼らの頭上にも迫っていた。香苗は目を上げ、邦人は、店の奥に首を振る。二人の周囲に座っていた客人たちは、そろそろとまばらに立ち上がっては互いに顔を見合わせ、不安そうに店の出口へ急ぐ。支払いもそこそこに互いの背を押し、二人を残して、すべての客人が出ていく。


店員も二人ほど出口に立っていたが、それは見送りというよりも、誘導に近かった。支払いに並ぼうとするお客を、無言のうちに『無用』と送り出し、とにかく外へ外へと進ませる。


そんな様子を遠目に二人が確認していると、主菜を運んできたのと同じウエィターが、今度はきらりと光る、小さな銀色のトレイを運んできた。


その両手には肌色の薄いゴム手袋。容器の上には、二本の注射器と、キリル文字で内容物が記された薬剤の小瓶が同じく二つ、転がっていた。


「彼は医者でね」


邦人がそう言って、ウエィターを信頼の眼差しで見上げる。香苗は思わず身構えた。医者だと言われたその男は、言葉を発することなく浅く頷くと、ゴム製の駆血帯を取り出し、邦人に腕を差し出すよう、優雅なジェスチャーで求める。


邦人は上着を脱いで椅子にかけ、シャツの腕を捲ると、何の躊躇いもなく腕をひねり、静脈の浮いた面を晒す。


「何をしてるの?」


香苗が尋ねると、邦人は「だって…」と言いつつ、自分の腕をじっと見ている。針が皮下に侵入し、うっすらと赤い液剤が注射器の中から抜けていくのを香苗も見守った。


「どうぞ」


そこでようやく男が言葉を発し、脱脂綿で注射痕を押さえた邦人が、やや言いにくそうに、香苗を見て答える。


「だってを食べたから。君のには入ってなかった?」


香苗はナイフを思わず取り落とし、残ったフォークで、ステーキを皿の端に寄せる。


「ごめんなさい、だってあなた。どうして」


邦人は軽く首を振って、香苗の言わんとすることを遮ると言った。


「いや、確かにここの厨房は僕が手配したシェフが仕切ってる。でも、食材を運んできた業者はあまりよく知らない。そう、気にしてなかった」


邦人はシャツの袖を引っ張って元に戻すと、椅子に深く腰掛けた。香苗は自分の額に手を当て、『分からない』という体で言う。


「よく理解できないわ。てっきり私は、ここを、あなたの陣営が取ったと聞いたものだから、毒とかの仕込みはすべて排除されたと思ってたの。ちなみに肉よ。きちんと火を通せば問題ないものだけど、あなたレアで食べたわ」


香苗がため息をつくと、医者は『あなたもどうですか』という表情を向ける。香苗は小さく手の平を向けてNOと言った。その様子を邦人はじっと見つめて、それが彼女の本意であると判断すると、男に言った。


「ダメかなぁ、この順序は」


男はやんわりと愛嬌のある笑みを浮かべて、香苗の視線にも応えながら言葉を返す。


「ご結婚なさる身なら、奥様の心労を取り除く、という大事な価値がございます」


香苗は内心『よくできた医者だな』と思い、いや、本当にただの医者な訳はあるまいと、一人で反論した。


邦人は男の言葉に『難しいなぁ』といわんばかりの顔をしてから、香苗を見る。


「いや、ね。僕のところでは、盛られた毒はとりあえず食べるか飲むかする、というのがちょっとしたルールでね。それというのも、相手が期待した結果に乗っかることで、そのあとの細かい調整とか、流れの主導権とかが手に入れやすいからなんだ。それに、いい研究材料にもなる」


「じゃあ、あなたはどういう毒かを分かっていて食べて、それを中和する薬も用意させていたの?手間もリスクも大きすぎるわ」


香苗は両手を広げて抗議の意を示す。医者はお辞儀をして、ようやく店の奥に戻っていく。


「自分の身を分かっていて危険に晒すのが好きな男とは、結婚できないわ。改めると誓える?」


香苗がこういったところで、天井の換気口から、白い煙がふわふわと降りてくる。


それを視認した時点で邦人は、ポケットの携帯から撤退の合図を送信する。そして一足先に立ち上がり、エレベータのある方向へ走り出していく香苗の腕をぐいと掴んで捕まえると、逆の方向へ引っ張る。


「何をするの離して!」


彼女の肘が、邦人の鳩尾を突こうとして宙を切る。邦人は身を屈めて彼女の腰ベルトを掴むと、腹にぐっと力を入れて、駆け出す方向に重心を移動させながら彼女を肩に担ぎあげる。


香苗もまさか、邦人が自分を持ち上げるとは予想していない。驚きのあまり身を固くし、不安定な宙ぶらりんに耐えかねて、逆さまから彼の腰ベルトを強く掴んだ。


「そうそう、その方がいい」


上下振動をなるべく抑えた独特の走法で、邦人は、ふっふっと、軽いジョギングのペースを維持しながら、レストランのビュッフェテーブルを横目に、段差をあがり、ピアノのある最上段まで上った。


「な、なに?出口なんて」


香苗が、血の上ってきた頭にくらくらしていると、邦人はそっと屈みつつ、ベルトを離してくれと言う代わりに、ぺシぺシと彼女の尻を叩く。香苗は勿論ムカついたが、彼のベルトから手を離す。


「ありがと」


邦人が礼を言う。胸に抱きかかえる様に下ろされると、香苗はぐしゃぐしゃになった髪を両手で整え、息を吐く。


「で?」


その挑発するような眼差しに、余裕のない怒りの色を認めた邦人は黙って頷き、彼女の胸元を指す。


「あとは君の道具で、そこの窓の中央を撃って」


邦人は、自分たちが映り込んだ目の前の巨大な一枚のガラスを指して言う。香苗は何を言うのかと、眉を吊り上げる。


「割れるわけない。それに割れたとしてここは二階よ。通行人にも被害が出るし、警察だって来るわ。そんなことできない」


ここまで言って、続きもあったが、不意に胸が苦しいような気がして、わき腹を抑える。もしかしてサオリの用意してきた煙のせいかと思ったが、自分には効かないはずだ。すると、見た目には区別のつかない別の成分だろうか。


香苗は、息をつこうとするが、肺の底を、こちょこちょとくすぐられるような妙な感触のせいで、上手くそれができない。


代わりに吸いこんだ空気が、まるで引き金になったかのように、ヒクヒクと脇腹が攣れて「ヒャッ、ヒヤッ」と、なんとも気味の悪い笑い声が香苗の口から漏れた。


「消防は、さすがにもう来ているだろうけどね。彼らはいつもセットだろう?」


邦人は、そんなどうでもいいことを言いつつ、苦しそうな香苗を見下ろす。次に彼女がどうするのかを見たいのだ。


煙は十分な濃度でフロアに溜まり、彼らの腰の位置までを朦々と白く埋めていた。


香苗は、さっきの注射を受けておけば良かったのではないかと、今更ながらそんなことを思いつく。


言葉が出ないので、この場で尋ねることも出来ないのが忌々しい。要するに邦人は、彼女が何と返答しようと、最初から過程を変えるつもりはないのだ。


じゃあ、何故彼は、自分を必要だと云えるのか。香苗は少なくともここで終わりにするわけにはいかなくなった。震える腕を挙げて、大きすぎる的を撃つ。


真ん中とはいかないが、それほど外れたわけでもない。


衝撃がそのままガラスの表面に微細な蜘蛛の巣を描き、それがみるみる放射状に広がっていく様は、水面に浮かぶ凍結現象をみているようだった。


ミシ、という加重のかかる音がして、ガラスが外側へ向けてなだれ落ちる様に、破れてキラキラと落ちていく。香苗は強い空気の流れを背に受けながら、自分が撃ったのは、すくなくとも建物に使用される通常の強化ガラスではないと分かった。


煙が渦を巻き、割れた窓の外へ排出されていくのを見ながら、さながらバイオテロだなと失笑した。


「じゃあ行こうか、チャペルに」


邦人は満足そうに笑った。


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