第4話
僕こと広尾邦人は、外国籍の友人たちからは、『クヒト』と呼ばれている。耳に入れた通信機からは、さっきからずっと、複数の声で歌う結婚ソングが流れてきている。世界の相場は知らないが、祝われて喜ばない男はいないだろう。
「KUHITO~HAPPY FOREVER~NO~MORE ISOLATION~NO MORE SLEEP, NON! HA, HA , HA!」
一度、シリアに送る手紙の件で、相談に乗ってもらったイリーヌの声が、少しだけ悲しそうだった。僕も、最初に会った印象で彼女に気が無い訳ではなかったが、既婚者であったので、やむなく断念したのだ。
おおむね仲間たちは、今日を一種のお祭り騒ぎと捉えているようで、それは僕が気前よく、ホテル泊を許したからなのだが、それも約束通り明日までだ。彼女との最後の交渉がまとまるかどうか、それは今夜次第で、明日に持ち越すと、間違いなく干渉が入って良くない結果になる。
「FOR KUHITO~CUPIDO SMILES FINALLY~, MARRIAGE~」
「分かった、うん、ありがとう。そろそろ彼女来るから」
「OK, GOOD LUCK KUHITO! WE ARE ALL STAND BY YOU TILL THE LAST SECOND」
「GOOD LUCK MY “T”, SEE ME」
言われなくとも、という返事代わりに、プツっと通信の切れる音がして、僕はイヤフォンを外して足元に投げた。タイミングよく、店の人が注文を取りに来てくれたので、僕はシャンパンと前菜を二人分頼んで、彼女を返した。それにしてもKは遅い。
7時と、メモを渡してもらうように頼んで、僕も着替えに一度外へ出た。時間にルーズなようには見えない彼女だったが、何かしらアクシデントでもあったかと気を揉む。
そのころ、Kこと香苗は、背中のジッパーと格闘していた。せっかくアップにした髪型が崩れてしまいそうな勢いで、半身をよじる。
「サオリ、ごめん、無理っぽいから着替えるよ。さすがにこれはきついわ」
彼女が選択したのは、上から下まで真黒なドレスだったが、最後の10㎝が閉まらない。
「時間があれば、リボンか紐を付けて編み上げるんですけど。すみません、非武装の場合のサイズで作ってしまって。私としたことが」
要は、香苗が胸元にしまったもののせいで、閉まらないのである。まぁ、ほかの可能性もあるが。
「おそらくこれは何かの啓示ね。押さずに引けと、控えめな淑女でいるべきだっていう」
ドレスを脱ぎ落して、黒のスリップ一枚になると、髪留めを外し、手ぐしで髪を荒く梳く。もとより緩く巻いてあった髪なので、それでもなかなか様になる。惜しむらくは膝上のナイフだが、靴に仕込んであるので代用できるだろうと手放した。
「スーツ、ある?仕事用の細身で、黒いやつ」
「えぇ、あります、ありますとも!」
サオリさんは早速、ワゴンの脇にかけられていた黒のスーツカバーを取り、香苗にパンツ、シャツ、背広の順に手渡す。ベルトは自分のしていたものを外し、香苗が後ろへ回すのを手伝った。
「あとは」
香苗は見渡し、ルームサービスとして置かれていた小さな花瓶から、一輪、花を抜いて自分の胸に飾った。
その青い小さな花は、うつむき加減に花弁を開き、物憂げな雰囲気を醸し出すのにもってこいだろう。
「じゃあ、10分遅刻だから」
香苗はサオリさんに最後のハグをして、足早に部屋を出る。サオリさんは香苗が出て行ったのを見送って一息つくと、準備に取り掛かる。時限発火式の子ども騙しばかりだが、こういう緊張感のある場面では、使い勝手がいい。
とりわけ見事なレース張りの白い箱から、円筒形の茶色い包みをばらばらと取り出し、赤い油性インクで書かれた数字を順に確認する。「よし」
ドアを開けて、誰も廊下に居ないのを確認すると、勢いよくその包みを転がし、ほぼ等間隔に行き渡るように配置すると、一抱えもある防毒マスクを頭に装着する。
点火装置代わりの改造トランシーバーをひねると、書かれた数字の順番に、円筒形の包みが、『シュー』という低い、爽やかな音を立てながら、煙を吐き出しはじめる。
いまはまだ煙幕がわりで、火災報知器がきちんと働くかの検査に過ぎない。7本目まで煙を上げたところで、ようやく騒々しいベルが鳴り響く。だが、同じ階で人が動く気配はなさそうだ。煙の粒子は特注性で、吸い込むと、思考能力と俊敏性が低下するが、それはおまけのようなもので、階下へ流れるように重い素材で作られている。これが大事である。
サオリは部屋に戻ると、念のため扉の隙間を粘着テープで塞ぎ、マスクをとる。右手に握ったトランシーバーから、暗号通信が流れる。高低差のある短い電子音の繰り返しで、二回同じリズムを刻んで途切れる。どうやら、階下は制圧完了らしい。まぁ、いたのは3人だというから。大した損害はないだろう。
「どうか上手く纏まりますように」
サオリは内心からそう祈った。そうでなければ、今回の作戦に割かれた予算の340万は、『組織合併』に伴う祝い金、その他経費扱いではなく、全くの赤字に計上される。これを取り戻すのは、いまの御時勢、決して楽なことじゃない。
それにしても、国内の非合法組織同士で、これだけ険悪な状況に陥ったのもここ2,30年で初じゃないだろうか。
そのころ、同ホテル二階のレストランにて、待ちかねた相手を出迎えた「クヒト」こと邦人は、ちょっとした催し物が始まっていることを、周囲の緊急要員が席を立ったことで知った。
静かに食事をするのもいいかなと思っていた手前、彼女の希望として容赦すべきか迷いながらの挨拶だった。
「K、待たせるね。てっきりドレスかと期待したんだけど。まだお預け?」
「そういうあなたこそ、胸元のチーフがダサいわ」
彼女はそういって、邦人のチーフを素早く抜いて自分の胸の間に差し込む。代わりのものになるものを探して、円卓中央に置かれた花瓶から、ピンクのバラを一本抜いて挿して見せると、ようやく『これでいいわ』という笑みを返す。
香苗が自分で椅子を引こうとするのを遮って、邦人は「どうぞ」と勧める。香苗は少し怪訝な顔をしたが、それに従って先に着席する。「ありがとう」
「いいえ」
彼女の到着を待つようにオーダーしていたシャンパンと前菜が運ばれる。さぁ、乾杯をというところで邦人は単刀直入に切り出した。
「君との結婚ことだけど」
宙に浮いたシャンパングラスに、香苗が不機嫌に言葉を返す。
「ロマンチックもあったもんじゃない。まぁ、いいけれど。Toast!」
「Toast」
互いに一口つけてグラスを置き、しばらく見つめあう。香苗がフォークを握って前菜を食べ始めると、邦人もテーブルの中央に置かれていたバターロールに手を伸ばした。
「″目には目を、歯には歯を”って、私的には古いと思うのよ。別に、攻撃されてからこっちも動く、攻守のどっちが有利かってそういうのもあるんだけど、だって、相手の受けた実害を、本当に測れるかっていうと、難しいじゃない?」
香苗は口を忙しく手を動かしつつ、話し出す。
「結局、やりすぎたり、やり足りなかったりして、双方に不満が残るっていう。だから、うまく距離をとって牽制し合って、仕事をシェアする必要があるのよね。でも、それじゃ、私とあなたって、どうにもならないじゃない? だから、こうなるようにしかならないというか、どう思う?」
二つ目のパンはオレンジの風味がしたが、それを喉の奥におしこんで、邦人は香苗の目を見る。邦人の意見を待っているようなので、言葉を返す。
「うちのチームは、とりあえず、僕のチームっていうことで、血の気は多くはない。でも、君があんまり彼らをいたぶると、どう出るか分からないな。保障はできない」
邦人は、食事に注意を戻す。香苗は上階の"プロモーション"を、邦人がどう思っているか知りたかったが、彼は随分と余裕というか、さほど気に留めていないようだとわかると安心した。
「そう、そうね。でもあなたのアプローチが少し過激だったから、いわゆるバランスよ。うちは、まだ私個人のために動いてくれる人間は少なくて、両親を無事に返してくれるまでは、どうしても好戦的になると思うの。二人は今どこ?」
香苗はこう言った後、緊張から唇を舐める。邦人は、その様子に気付かず、ただこの後のことを考えたが、少なくとも今日、香苗の親に会いたい気分ではなかった。
「今日中、じゃなくてもいいなら」
香苗はその答えに思わず口を尖らせたが、内心、今日二人に会っても、小言を聞かされたり、結婚を思いとどまる様、言われることは十分想像している。
だがそうすると、どのタイミングで二人を解放するのだろうとも思う。邦人という男が、少なくとも今この場で信頼できる人間とは思っていないだけに、慎重になる。
「邦人は、私に両親が必要無いって思ってる?」
香苗が伺い見るような視線で尋ねるので、邦人も少し思案して、言葉を返す。
「僕も、君のことをあんまり知らないし、もしかしてご両親のことがとても大事なのかなって、思わないわけじゃないけど。二人は僕のことを気に入らないみたいだし、説得できる自信がないっていうか」
邦人は本心から困った顔をして、香苗を見返す。香苗は眉を動かし、『そんなことなら』という調子で頷いて見せる。
「別に、そんなことは問題じゃない。もっと長期的な視点で考えると、私の両親は何かと役に立つのよ。私たちのような業種は、合併に伴って人員を減らせるわけじゃないし、むしろ、仕事を増やして拡大していく必要がある」
香苗の話に邦人も頷く。
「忙しいのよ、とにかく。もちろん、あなたを頼りにはしてる。でも、あなたは私のために働くんであって、組織のためじゃないのだから、使えるものはなんでも使えばいいのよ。互いに持っているものを十分に使いこなせなくて捨てるっていう意識なら、私たちに未来はないわ。Understand?」
「まぁ、そういうことなら」
邦人は左手を挙げて、指を鳴らす。
ウェイトレスが運んできたのは、小さなビデオカメラだった。撮影中の赤いランプが点いているので香苗が覗くと、両親が二人、ならんでベッドの上に寝ているのが見えた。邦人もちらっとその画を見て、咳ばらいを一つすると尋ねる。
「安全のため眠ってもらってるけど、起こす?」
「念のため訊くけど、このホテルじゃないわよね」
「うん」
香苗は、小さく映っている二人が朝の服装のままであることが気になり、確認をする。
「もしかして二人に使ったのって、24時間は起きないってあれじゃないわよね」
こう尋ねられて、『さすがだな』と邦人は感心して香苗を見た。その彼の表情に香苗は、肯定の意を汲み、信じられないという顔をした。
「10時間を超えると、意識障害が残る可能性があるのよ。いますぐ起こして」
「わかった」
ビデオカメラを持ってきたウェイトレスを、邦人がもう一度呼び、耳元で何かを伝える。彼女は自分を固視する香苗に冷たい一瞥を返し、少し急いだ足取りで店の奥へ戻っていった。
「ごめん、配慮が足りなかった。でも、僕が使うのは自前で開発した薬だから、15時間は大丈夫だよ、心配しなくても」
いたって反省していない様子の邦人を見ながら、香苗は自分に合わせて彼を再教育する必要があると考えた。あくまで推測だが、相当に倫理観を欠いた両親のもとで育ったのだ。
「ところであなたの両親は賛成なのよね」
香苗は主菜が来ないのを気にしながら、肘をつく。テーブルの上にあるものは、あらかた食べてしまった。邦人は、胸元のバラを気にしながら、あぁという感じで笑った。
「結婚も何も、あの人たちは自分の子どもがずっと、自分の手元に居ると思っている人たちだから。それこそ、何も言ってないよ。関係ないしね」
「あぁ、そう」
香苗は、呆れたという感想を隠さず、ひとり首を横に振った。一方邦人は、何が彼女を驚かせたのかと、自分の顎をさすった。
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