第3話

都内一のホテルのロビーに着いた途端、彼女は僕のスマートフォンを要求し、どこかへメールを送った。別にどこへ送ったかなんて、予備の通信機器で分かるけれど、僕はいますぐそれをやる必要が無いと思った。


5分ほど待って、ようやく彼女の頼んだ者らしき眼鏡の女性が、化粧箱を積み上げたポーターと一緒に現れた。その女性は、僕の知る限り、彼女のいわゆる「御用聞き」である。たしか“サオリさん”とか言った。


サオリさんは、僕に同行の許可を求めたので、僕は、彼女のためにとっておいたホテルの鍵を彼女に預け、先に上っているように勧めた。


明らかに拍子抜けした様子のサオリさんは、Kに無言で理由を求めた。だがKは、さっきから落ち着かなげに、もはや苛立っているレベルで、サオリさんを急かし、僕のことをちらりとも見ずに、エレベーターホールへ向かっていく。


それにしてもサオリさんは、よほど有能なのだろう。さっきの箱には、もちろん見た目通りのものが入っているものもあるが、そのうち2箱は確実に危険物だった。


彼女の両親が、僕の手元にあるのは好都合だが、それだけに中途半端な異臭騒ぎなどが起こらないよう、彼女の扱いには注意が必要ということだ。


旅行鞄を下げた外国人が二人、こちらへ歩いて来る。


僕と目を合わせることなく、二人が立ち止まって話しを始めたところで、僕のほうも準備が整った。彼女はしばらく放っておいて、先に簡単に昼食を済ませよう。


夕食のために正装もしなくてはならないし、家にも連絡を入れないといけない。今夜は帰らないからと。



―スイート階へ向かうエレベータの中。

Kこと香苗は、もじもじと足を動かしつつ、下を向いている。サオリさんはピクリともせず、ポーターもサオリさんに倣って、香苗の様子を見て見ぬふりをする。


「ポーン」という、快い着地音がし、扉が開くや否や、香苗が右へ走り出る。サオリさんは、落ち着いた態度を崩さず、やや速足で彼女の後を追う。ポーターは、やや慌ててカートを回転させる。その回転で、フロアの照明がカートに反射し、すべてが金色に眩く見えた―。


香苗はすべてを予期していた。だから、彼の用意した部屋の前で、地団太を踏んで、こう言ったのだ。


「早く開けて!もれちゃうから!」


その声を聞いて、サオリさんは、またかといったようにため息を漏らし、「まことに残念至極」といわんばかりの視線で「主人」をみやる。


可哀想なポーターは、カートをぴたりと彼女たちの前につけると、すばやく身を翻し、香苗の前に恭しく頭を垂れたかと思うと、あっという間に懐から出したカードキーを扉に差し込み、おし開いた扉の先で、再度、頭を深々と下げて言った。


「どうぞ、お入りください」


香苗は、そんな彼に一瞥をくれただけで、部屋の奥へ直行する。ポーターは、彼の代わりに、カートを押して入ろうとするサオリさんと協力し、仕事を限りなく素早く終えると、張り付いた笑みを残して、消えた。


派手な流水音、はしなかったが、ドアの派手な開閉音がして、香苗が、もう半分脱ぎかけの状態で走り出てくる。

そして、長身これ見よがしに、サオリさんの目の前に立ちはだかると、彼女の肩をつかんだまま、ブンブンと前後に揺さぶりだしたら、サオリさんも黙っていられない。


「何なんですか、ちょっとは落ち着いて…」


香苗は、あたかも人の言葉を知らない発達期の子どものようであった。サオリさんの言葉も耳に届いているのかどうか。


気が済むと、ブラジャーを剥ぐように取り去り、靴下を脱ぎ捨て、今度は大きな奇声を上げて彼女に力いっぱい抱き付くと、ぱっと離れ、サオリさんの脇を抜けて、寝室へ走り込む。

そして、まるで子供のように、ベッドの上に飛び上がると、ジャンピングを楽しみ出した。


「やった…やった…!!!」


彼女が全裸のまま、ようやく発した人の言葉はこれだった。

香苗の喜び様はとにかく尋常では無かった。恥も外聞も無いというか、醜態これ見よがしというべきか。


若さの上に、全身隅々まで鍛え抜かれ、計算し尽されたバランスで、服の上からそれと見抜かれないラインを保持した彼女の身体は、美しいというレベルのものではあった。


だが、それらすべてをもってしても、彼女の頭の中身の残念さにはかなうまい、という感想を、かなり多くの人間が持つこと間違いなしである。



ベッドが悲鳴を上げだした。キュウキュウと鳴るスプリングと、木製の枠。彼女はようやく叫び疲れ、跳び疲れ、一日の疲労もあってか、へたりとそのままベッドの上へ崩れた。


その彼女を、腕まくりをしたサオリさんが、慣れた様子で、抱え起こし、バスルームへ運び込む。


しっかりと汚れを落とし、化粧もさっぱりとしたものに変えた香苗は、バスローブ姿に、乾いたばかりの温かい髪を掻き揚げ、ようやく人間らしい落ち着きで、化粧鏡の前の椅子に腰を落とした。

サオリさんが、すかさずコーヒーとコンフェティを給仕する。


「ありがと」


香苗は、ずずっと、コーヒーに口をつけ、鏡の自分をまじまじと見つめる。


「いけるよね、今日あたり、いけるよね、ねぇサオリさん」


サオリさんは、にやっという仕草で、右の口角をわずかに持ち上たが、それを鏡越しに確認した香苗は、同じように笑った。


そしてそのまま、我慢できないと言わんばかりの満面の笑みへと発展し、しまいには、大口を開けて笑い出した。


「アッハッハ!!アッハッハ!!」


「はしたないですよ。香苗さん」


そう言いつつも、香苗につられて、サオリさんも静かな笑い声をもらし始める。


香苗は、目から出た涙を拭いながら、そんな自分の姿を鏡で視認し、ふわりと異なる笑みを浮かべる。高貴な笑みの類だった。それもほんの束の間、ぐわりとサオリさんを振り返り、はっきりとした大声で話し出す。


「本当にたまらないわ! あいつ、見た目があんな安っぽくて物足りないのに、ものすごく危ないのよ! それで可笑しいの! 自分で育てた花を切ってしまうんですって!」


サオリさんは、香苗の声圧に心地よさそうに、ゆらりとみじろぐと、酔った様に応える。


「それは何なんです? 成功を否定する成功者? マゾヒストの一種? 性格破綻者? 家庭を持ってはいけない男のすること?」


香苗は胸を張って答える。


「いいえ! 私にとって都合のいい男の第一条件よ! 彼が育てて切り落とした花は、当然に私のもの。


彼は自分が手をかけたものに関心を持たない。けれど、そうしてしまった一連の過程に対して、一見、論理的矛盾にしか見えない虚無の感情を持て余してるわ。


それは私の中にある収拾のつかない充溢と、紙一重なの。似て非なるものでありながら、互いに焦がれつつ共感できるのよ。これは一生、添い遂げる相手に欠かせない情感。


私はずっと探していたし、見つけていた。この人生のもっとも早い時期に。だからあとは、それが文字通り熟して、彼が私を見つけるのを待つだけだった。


でも、競争は熾烈だった。ほんとうに、私から彼を得る機会を永遠に奪いそうな敵もいた。でも私はその都度、勝利したわ! だから、ここにいるの。ここに生きて、生きているのを喜べるのよ!」


香苗は、左こぶしに力を入れ、高々と宙に突きあげた。


「あとは一気に結婚まで持っていくだけ! 当然のようにドレスを着て、奇襲をかければいいの。今夜ね! 今夜決行!」


サオリさんは、心得ましたとばかりに、胸に手をあて、香苗に向かって恭しくお辞儀する。


「この時を、私も待っておりましたとも、お姫様。お言いつけの通り、カラスのように真っ黒なドレスと、天使のように純白のドレス、一揃い二着、ご用意しております。お好きなように」


香苗は、そんなサオリさんを満足げに見上げ、こくこくと首を縦に振る。


二人は早速準備に入る。まず、真っ青で小さな化粧箱から取り出されたのは、これまた白く小さな香水瓶だった。


「これね、サオリさん」

「はい、香苗さん」


二人は悪い笑みを浮かべて、互いにその小瓶の中身を噴射した。


「やみつきになるわね、この香り」


香苗がぱたぱたと自身の顔を手であおぐと、早苗さんが、小瓶を箱にしまいながら、たしなめる。


「でも、やや中毒性がございますから、“たまに”のほうが宜しいです」


部屋の中には、すでに濃度の高いバラの香りが霧散している。頭の奥がしびれるほどきつい。

「夜も更けてきたら、いよいよね」

香苗がストッキングを、足に通しながらこぼすと、サオリさんも聞き逃さない。


「なんですか、マリッジブルーですか」


その指摘に香苗が、ふと手をとめて、思案する。足はまだ片方しか通っていない。よじれて縮んだ黒のストッキングが、いかにも頼りない。


「不安、そう、不安…でも、さ、私は」


香苗がシリアスになったので、サオリさんもブーケを造る手をとめて、興味深そうに彼女を見やる。

香苗はしばらく言葉に迷った後、そうかと静かにうなずき、想いを形にする。



「交換なんだよ、つまりは自分と「自分」の交換。遊びがあったじゃん、そういうの。あれ、私、なかなか選ばれなくてさ、名前を呼んでもらうまで、他の子が行き来するのを、物凄い目で見てた」


香苗の昔は、サオリさんも、数えられるほどしか知らない。短くても、香苗が香苗らしい姿をしている時間を、誰よりも多く過ごしてきた、だからこそ、気になった。



「表面的には笑って、余裕のあるふりをしてたけど、ほんとうは全然でさ。で、自分がほとんど最後の方で、なんか、どうでもいいけど呼ばないと仕方ないじゃん、っていうような空気の中で、呼ばれると、それまで我慢してたのとか、どうでも良くなって、単純に楽しくなって、向かいの列に走って行った」


香苗が珍しく、自分のことを鼻で笑う。ふだんとのギャップで、サオリさんには、ひどく悲しげに見えた。


「私はね、そういうの、ほんとは好きじゃない。人間が嫌いで、それも周囲にはバレテたし、子どもだって、空気は読めるから。だから、いつか自分が望んで、同じように自分を交換してくれる人を見つけないと、って思ってた」


香苗はそう言いつつ、もう片方の足にストッキングを通す。膝頭がきれいに透けて腰の位置が定まると、隣の椅子から、小型ナイフを納めたホルダーを取り上げて、膝上にカチャリと装着する。


「たとえ、今、明日、この瞬間なにかが起こって、死ぬようなことがあっても、もとより、私が本当に持っているのはこの「私」という存在だけ。でも、何の対価や助け、教育、養護が無くて生きて来たと言うのは、間違っている」


足元に転がっているアタッシュケースを軽く蹴って開けると、中から小型の銃が覗いた。屈んでシリンダーを装填し、不備がないか確認すると、ブラジャーの合間に器用に押し込んだ。


「けれど、この私は、私のものだと言えるだけのことを、私は努めて達成して来たし、これからは、その“言”に見合う生き方をしていく覚悟を持ってる。だからこそ私は、彼と自分を


 サオリが見ると、香苗は涙を浮かべて立っていた。全身に武装して、隙もないのに、見慣れた姿のはずなのに、神々しく輝いて見えたのは、今日が待ちに待った日だからか。感嘆の溜息をつき、サオリは自分の主人を再認識した。


「わたしも、人間が大嫌い。でも、香苗さんに出逢って、私の知っている人間は、私が好きになるような人間では無かっただけだと知りました。


はじめて世界を受け入れた。だから、たとえあなたが今日死んでも、生きても、私はあなたを感じて生きていられる。どうか心強く、最後の一手を決めてきてください。あなたを信じています」


香苗は決心を決めたように、サオリさんを黙って見つめ、作戦実行の合図である静かな瞬きまばたきを送った。

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