第2話
彼女と出会って1年半。
彼女は、それでも僕に会いにやってくる。
大学の昼食休み、駅のホームでの待合時間、本屋での立ち読み、寝坊した朝の玄関先。
ゼミで遅くなった帰りの公園。こちらが時間を決めて会おうとすると、断るくせに、こういう僕の細かな動向を何で知るのか、偶然では無いほどに当然に、僕は彼女に出逢う。
始めは驚いて見せたけれど、いまではその無駄を省く。
心の距離を埋めなくとも、知らないことが多くとも、言葉を探り、顔色を探り、互いの必要性が確認できれば、何かが、そこに積みあがる。そしていつしか変化を生むだろう。とても重要な変化を。
僕は不自由の少ない実家暮らしだが、朝、白いご飯をのどに通しながら見たニュースで、とある閑静な住宅街で爆発があったことが知らされた。
ガス爆発で済ませるには、規模が大きくて、二十人ほどの死傷者と、テロ組織の関与を示唆するキャスターのまじめな表情は、きわめて不愉快なほど作り顔だった。
だれだって自由に笑いたい。不謹慎を責められても、笑う自由はあるだろう。僕はスマートフォンを取り出し、Kが近くまで来ていることを確認すると、ある男に電話をかけた。
「―そろそろ彼女に本当のことを言ってあげてよ。お手上げだ。降参する」
ようやく朝食の席に来た妹の頭は、いつもの「鳥の巣」状態で、僕はあらためて、その見事な完成度に感心しながら、言った。
「なぁ、妹。もし俺が、仕事をするって言ったらお前、驚く?」
「はぁ?」
妹は胡散臭そうな目を向けて答える。
「兄貴、親父にバイト誘われてもやらないって言ったじゃん。なに、女?」
僕は、黙ってうなずき、妹はあんぐりと、口に入れたハムエッグの塊を咀嚼するのを忘れて、僕の肩越しに台所の方へ向かって、大声でわめく。
「おにいが仕事するってまじで!」
その声で、ドンと二階の扉が開く音がし、ドタドタと親父の足音が一階のダイニングへとやってくる。
「ほんとうか!やっとその気に…。」
親父が揉み手をしながら、同じように調理を放り投げて、走り出てきた母親と、顔を見合わす。
「これでお前がまじめに普通の会社に行くことになったら、いつ母さんが、一緒に吹き飛ばしてしまうかわからないし、父さんたちもようやく安堵だ。なぁ芳江」
母親は、歓喜の余り涙をぬぐう。
「えぇそうね、お父さん。ほんとーに、好かったわ! 家族みんなで仲良くお仕事。夢だったから…身内で警察沙汰なんて勘弁だから、火種は潰しておくに限るしねぇ」
ふふふっと涙越しに笑った母親の肩を抱き、父親が嬉しそうに言う。
「おおっと、それはジョークかな? お前は本当に面白い女だ。何にしても、家族でずっといっしょにいられるというのはいいものだ。独りでやったって、つまらない! おや、何か焦げ臭くないか? 芳江」
「あらいけない。お味噌汁よ!」
妹はというと、母さんと親父の喜び様に「当然か」という顔をし、すっかり目の覚めた顔で、久しぶりの笑顔を僕に向ける。
「ほんと、兄貴の頭脳がほかの何かで役に立つとも思えないしね」
僕は首を一回しして、妹を見やって言った。
「それを言うなら、頭脳もだろ。実践でも座学でも、俺は負けたことないんだから」
「はいはい、また兄貴の自分自慢。わかった、わかった。で、その彼女は来てるんでしょ」
「うん、そろそろ」
そのとき、玄関の美しい呼び鈴が鳴らされた。
僕はよいしょと立ち上がり、玄関へ。扉を押すと、向こうから強く引かれて、思わずつんのめる。
「…」
Kは、頭のてっぺんからつま先まで、黒く汚れていて、それは間違いなく何かの噴煙
だった。
そして、いまだに信じられないとばかりに僕の顔を見つめる。
言葉を紡ごうとして、失敗するその口元は、少し血で汚れている。僕はたまらず言った。
「K、とりあえず外に出ようか。中じゃ、邪魔が入るから」
僕はきちんと踵に靴をとおし、後ずさって胸を抑える彼女を、ゆったりと促す様に、外へ出た。
玄関前を一台の車が通り過ぎ、止まる。黒の乗用車だが、もちろん「後部ガラス」は耐銃弾用特殊プラスチック製だ。
僕は動揺している彼女の手をとり、ぽかっと開いたドアへ誘う。彼女は立ち止まるが、僕は言う。
「いまさら危ないことは何もないし、失うモノも無いだろ?」
彼女は一際大きく眼を見開き、大人しく従った。
車に乗り込むと、ただちに彼女の傷や汚れを拭う。彼女自身も協力して、身づくろいが済むと、しばらくまた沈黙。うっすらとしか見えない景色の向こう側を見ているように、僕を無視したまま、彼女は車がどこかへ到着するのを待っている。
残念ながら、僕が目的地を言うまで、この車が止まることは無い。都心をぐるぐると走り回るだけなのだが、まだそれは言わない。
僕は、彼女に備え付けの冷蔵庫から出したミネラルウォーターを手に、まるで交換条件を出すように切り出した。
「もし僕が君の両親を助けた、って言ったら?」
彼女は、ピクリと肩を揺らすと、僕の言葉を瞬時に自分のものにしたようだ。
さきほどまでの暗い表情にわずかだが光が灯ったかと思うと、みるみるうちに緊張が解けてゆく。
そして、何とも言い難い、泣き出しそうな強い瞳で、僕の次の言葉を促す。
僕は、言葉よりも先に表情で、僕が彼女の敵では無いことを知らせると、彼女はようやく、歓喜の涙をこぼした。
正直、僕がやったことを彼女はありがたいと思うべきでは無い。それは彼女も分かっている。
自分の過失が招いた惨事が、第三者の介入によって、いくらかましなものになったからといって、自分の罪が無くなるわけでは無いからだ。
だが、そこで自分の身内の生死が関わるとなると、大きな違いがあるわけだ。それもかなり利己的な意味で。
「どうして…」
彼女はそう言いかけ、言葉を飲み込んだ。不適切だとふんだのだ。
この場で僕が、彼女の知る世界について明らかに優位な立場にあることは明白だ。またこの数年、彼女が奮闘してきたある取り組みについても、僕が関わっていることが知れた。
「君の両親には、つい最近、ようやく会えたんだ。それで言われたのは、『どうか娘に金輪際、会わないでほしい』だってさ」
彼女は驚きの表情を浮かべる。無理もない。なぜ自分のターゲットと両親に接点があるのだろうと疑問に思っているはずだ。
「君のお母さんは、Kの自由意志に僕が干渉することを嫌い、お父さんは、この業界に興味薄の僕に、君を好きになる資格さえ無いように思っているみたいだった。でもね」
耳に全神経を集中させて僕の話を聞くKは、とてもキュートだった。僕は高鳴る胸に、深呼吸し、言葉を続ける。
「僕は、なんにも決めていなかったし、そもそも娘の自由意思を尊重するなら、僕の意思も尊重してほしいと思った。
僕の親たちは、むしろ君をきっかけに、僕に家業を継がせようと画策したわけで、そのあたりは、君の家と僕の家との間は、まるでロミオとジュリエット、とまでは言わないけど、それなりに色々とね。まぁ、知らなくていいけど」
「じゃあ私がこれまでやってきたことって…」
Kはその賢い頭で答えを導き出した。が、僕は先に的確な言葉を与えてしまいたかった。
「そう、いわゆる花嫁修業だとでも…」
僕がそう言ってニヤリとした瞬間、Kの腕が伸びてきて、僕をぎゅっと力任せにドアに押し付けると、頸動脈をいっきに締め上げるのを僕は感じた。
感じたけれど、それは全く可愛らしい程度のものだ。
Kは負傷者だし、隙もあった。だから、僕はこれまでずっと我慢してきた恋人同士の接触に近いものへと、すぐさま転換することができる。
彼女の腰を引き寄せ、あたる胸の位置をわずかにずらすようにする。焦った彼女の抵抗する太ももを両脇で軽く抑え込むだけで、座席へ押し倒せる。狭い車内でも十分な芸当だ。
彼女は目を丸くし、僕の形ばかりのキスを頬に受けていた。これで僕は自分が彼女と同じ側の人間であることを示せたはずだ。
彼女の胸は、僕より早く鼓動を刻み、つられて僕も興奮が増すような気もしたが、それはまだ気のせいにできるレベルだ。
僕は、彼女のうでを自分の首から外し、彼女をまたしゃんと座らせた。
「あなたは知っていて、すべて知っていてなにも?」
早口で責めているようだが、まだ疑いは濃い。僕は返答を思案しながら、自分の首をさする。彼女の感触が色濃く残っているその首は、ひどくリアルに思えた。
「どうだろう、知っているだけで、僕にどれほどの責任が発生するんだ?」
僕は、またいつもの癖が出始めた。
「知っているのはあくまで第一条件に過ぎず、責任なんてのは、それから何らかの方向性を定めるなり、意思決定があってはじめて、負うべきじゃないのか?」
彼女は一瞬、何を言われたのかと目を見開いてみせる。
ほら見たことかと思いつつ、それでも息を吸う間を惜しんで、僕は言葉を走らせる。
「君に、僕を責めることは出来ない。君は勝手に君の見た世界の筋書きで、僕を自分の人生に組み込み、理解した。だがそれは君の都合で、他の誰の都合でもなければ、真実とも言い難いだろう?」
言ってしまうまで止まらない。
「君にとって僕はその程度の男か? 君の挑戦は、お遊びか? お遊びで人間をふっとばし、両親と実家をふっとばす? そんな程度の人間ではないはずだ君は」
僕のやや非難めいた言葉を、彼女は真に受け、ぐうの音も出ないようだ。
膨らんだ下唇をかみしめ、子どものような無防備さで考えている。だが、苛めすぎるのも嫌だ。僕は言い足す。
「どんな覚悟だろう? 君は、実家と袂を分けてまで、自分の理念を形にしようとした。それは自分で設問し、それにふさわしい回答を与えるかのように、自己充足的だ。まぁ、僕は、それだけではつまらないとは思うけれど」
あぁいけない。僕はちらりと彼女を見たが、完全に下を向いている。えへんと咳払いをして、しゃべり続ける。どうにかなるはずだ。
「ま、人それぞれだけど、それが世の中一般じゃ、“大人”“一人前”ということだ。君は立派にそれをやり遂げたじゃないか。そう、たしかにやらかした、後悔もした。救われもした、僕に。
思いがけない目にあって、それでもこうしてここに座っている。君は偉い!きっと賢い君のことだから、こんな状況もきっとすぐに理解して、答えを見いだせるだろう?どうだい?」
そのとき彼女はようやく目をあげ、僕を睨んで見せた。良い兆候だ。
「ほら、それだよ。どんな状況でも、きっと君は憎み、嫌い、拒絶の意を込めて破壊を選ぶ。
僕ら人間は、多かれ少なかれそういう性質の動物ではあるが、それを実際にやってしまえる真の人間は、全体に比して、くじらとミミズだ。あぁ、希少性、という観点でね。
率直に言ってしまうと、僕は君のような天性のテロリストを敬愛しているし、うらやましいとさえ思う。何故だと思う?」
彼女は目に落ちてきた髪を払い、疑問の視線を送ってくる。
「僕はね、動機の無い人間なんだ。壊すのも創るのも好きだよ。ただそれだけが好きだ。でもね、虚しいんだ、とっても虚しい。だって、その行為がある結果を生んだ瞬間、僕にとっては、もうどうでもいいんだ。
例を一つあげるとね、僕は花を育てるのが好きだし、育てている。だが、花が咲いてしまうとどうでもよくて、咲いた瞬間に、咢ごと花を切り落としてしまうんだ。
それは何だろう。矛盾なのかなと思う。でも、矛盾であること自体が問題なのでは無くて、なにか、そうだな…自分の行為を為して後、無意味にする行為?
そう、そして何にも残らない。
僕ができること、やりたいことはこういう循環に陥る。ダメなんだ。僕にはこの無限回廊を打破する意味がないのに、その腐敗した循環に生きているのも、嫌なんだ」
「その話…」
僕が一息ついた途端、彼女がカットインしてきた。
「なに?」
僕は期待をこめて彼女を見つめる。すると、彼女はふいと顔を背けて、タイトなパンツに浮き出た膝頭を、きゅっと合わせた。
「話が長くなるなら、もう少し考えたら? 私のことが好きなら、それくらいしてもいいはずよ」
「あ、ごめん」
腕時計を見ると、少し話しすぎてしまったようだ。そういえば、お腹もすいている。
「ほんとごめん、何か食べられるとこ、寄るから」
「…」
彼女は違うと言いたげに、僕を見て、また目を逸らした。
僕は頭を掻いて、いっそのこと、全部済ませようと考えた。
「うん、そうだね。とにかく全部できるところへ行こう」
僕は、車が赤信号で停まったところで、身を乗り出し、物言わぬ運転手の肩をちょんちょんとつついて、耳打ちする。
彼はうなずくまでもなく、青信号になると、ゆっくりとハンドルを右へきった。
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