アナァキズムは結婚式場で

ミーシャ

第1話

“すべての問題は、問われるために存在するのであって、具体的な答えによって生かされるものでは無い”。

 

 僕は、このちょっとひねったテーゼが好きだ。


おそらく僕は、この前提をもって、いかなる間違いも正せると信じていた。



けれども、僕の数少ない経験のうちで、そんな大それた間違いなんて起こったためしなど無く、要するに、日々を疎んじ生きていた。彼女に会うまでは。


はじめて彼女に会ったのは、家族と連れだって行った“某”遊興施設であったと、記憶する。


「特別な誰か」というのは、既にどこかで一度ならず、二度は出会っていると世間ではいう。


だから、そんな幼い頃の接点まで引き出して、彼女を僕の人生に関わらせることも、あながち、間違いでは無いと僕は思う。そのことを思い出させてくれたのは、彼女の方ではあったけれど。


「赤い風船がよかった!」


例によって駄々をこねる妹の幼い足を見おろし、7歳の僕は、あさっての方向に救いを求めていた。


母は、ママ友に持って帰るためのお土産を買うために、長蛇のレジに並んでしまって、姿も見えない。父はといえば、またこの妹の機嫌をとるために、イチゴ味の期間限定ポップコーンを買いに走って行ってしまったきりで、とうの僕が、トイレ前の植え込みに、妹と二人並んで座って、お守り役だ。


そのうち、トイレに行くと言い出すであろうことを想って、僕はうんざりし、こどもであるがゆえの技とらしい、ため息をこぼした。


「こんなの嫌!」


散々迷った挙句、きれいなお姉さんにもらった緑色の風船が、妹の手から離れていく。当然僕は、それを見ていただけだ。


「トイレ行きたい!」


それ来た、と思った時だ。“救いの女神”ならず、彼女が、僕たちの目の前に立ったのは。


「これ、あげるわ」


苛立ち度マックスだった妹は、僕の隣で大人しくなった。それほど彼女は、どこか幼くも、超然とした雰囲気をすでに持っていた。「小うるさいガキ」を放っておけない位には、まだ、優しかったけれど。


「・・・ありがと」


女は見合った瞬間、女同士でなんらかの序列が発生するらしい。妹は、一目で彼女の下っ端になった。


「いいのよ」


彼女はそう言うと、得意顔の笑みを残し、そのきれいな編み込みのある後頭部を向け、去って行った。


僕はそのとき、彼女が間違いなく、三つは年上だと思ったのだが、実際は、同年だった。彼女は、そのときの僕を、「頼りない兄」だと言って、いまでも苦笑交じりに、僕の困り顔が今でも、馬鹿っぽいと言ってくれる。


それはそれで楽しい。なにせ彼女が、こうしたくだらないことで、笑ってくれる時の顔は、普段に無い、うちとけた空気を作り出してくれる。


それが、僕の願望上の「彼女」のコアで、あとの辛気臭い現実は、この幻想のほんの飾りに過ぎなければ、僕は、何も悩む必要がなかったはずで。


けれど現実は、いや、「現実」なんていう枕詞なんて、いかにも青春臭くて、その上、どうでもいいくらい軽い。


なぜ他の言葉がないのか。


彼女の人生は、彼女だけのものだし、僕はそのことを彼女の口から、姿から、様子から、匂いから、雰囲気から、はたまた書いたものから想像するだけ。


哀しいことに彼女を知る人間さえ、僕は知らない。ただ直接に彼女からしか、彼女の情報を得ることができない状況。


これを、ヒトは幸福というのか、不幸というのか。僕は、その両方だと言おう。


もし、彼女を知る人間が、僕より彼女と親しい男だったら? 


そして、その男が、僕より何らかの点で“勝って”いると、僕が認めるようなことがあれば、どうだったろうか。


結果は見えている。嫉妬だの何だの、疾しい劣等感で、彼女に対して失礼な態度をとったかもしれない。


だが、それは実際、無かったことだ。これが幸福に数えられることの一つ。では、不幸はというと、僕が実際、どれだけ彼女を知っているのか、はたまた、僕の存在が、彼女の心と人生において、どれだけの重要性を持っているのかについて、決して「はかる」ことができないということ。


いくら綺麗ごとを並べようと、特別な人間が特別であるためには、他の全ての知り合いという“定規”が必要になる。


そう、比較する。比較して選ぶ。恋人なり、伴侶なりというのは、いかなる基準であろうとも、比較検討の末に存在するものだ。

だから、僕にとって彼女は特別であると知れても、彼女の方が同様に特別だと僕を想っているのかを、ただただ、彼女の態度のみで判断するという、情報不足このうえない状況のまま、僕はこの1年を過ごしてしまっている。


これは、一種のペーソスとも言える。彼女との交遊に関して、邪魔者は存在せず、ひとえに、信仰心にも似た情愛の行く末を、己の信心の弱さと天秤にかける。


彼女には、具体的な敵が、それも彼女の命を狙う敵が、常時複数存在し、彼女はそれを何度となく打ち破っては、僕に会いに来てくれる。しかし、その彼女に会うたびに、試されるのは僕のほう。僕の敵は、僕自身。


彼女はそれを知ってか知らずか、黙りがちになる僕の視線を捉えては、時には熱く、時には物憂げに語る。そして、ひどく泣いた後のような、腫れぼったい目をして現れたときなどは、何も言わずに僕の胸に飛び込んできた。


そんな彼女の言うことだから、どれだけその話の内容が、突拍子も無く、ほんとうに小説のように奇抜で、底抜けに血なまぐさくて、危なっかしくても、僕は耳を傾けた。


そうして話してくれることが、彼女の、僕に対する精一杯の信頼と愛情の証だという、陳腐なほどの純情は、きっと誰にでも容易に理解できるはずだ。


セックスがお手軽になり、音の無い交信も会話も安易なモノになったがゆえに、僕たちは彼女の「真実の話」こそを、拠り所にした。


他人に聞かれないよう、傍受の類が一切紛れ込まない、彼女のもう一つの棲家であるマンションの一室。


表札には、彼女の仮名である「糸谷」が刻まれ、ドアをあければ、女子の部屋っぽいピンクのフロアーマット。そして白い、ごてごてした飾りのある姿見。


「よく出来ているね」と僕が言うと、「私の趣味では無いんだけれどね」と彼女は答えた。工作員に用意される部屋の内装は、はたまた有能な心理分析官の手で行われるのだという。


僕は、是非とも彼女の本当の家の方にお邪魔したかったが、そちらだと逆に、プライヴァシーが無いのだと彼女が言うから、僕はそのたびに肩を落とした。


健在でかつ、彼女の真実を知らない温和な両親に会えば、彼女のことも理解できるのではないかという淡い期待も、彼女の不信そうに曇る目の前では、打ち払うより他に手立てはない。


僕は、彼女の淹れてくれた暖かい烏龍茶と、彼女手製のバタークッキーを、交互に口に運ぶ。


彼女は、僕の食べ方をきれいだと言い、あまり進まない自身の食の方を、僕が食べているのを見て、脳的に満足させる術を心得ていた。


「こうしていると、いざという時に動けるでしょ」


いざというとき、というのは、間違いなく命を狙う敵に襲われる時のことだが、後できけば、太るのを心配したからだとか、はっきりしないことを言っていた。


彼女はときどき、ひどく可愛らしいのだけれど、正直、それをどうやって上手く伝えればいいのか、わからない。


「“K”はかわいいよ」


彼女の隙を見ては、僕は言葉にする。でも、そのたびに彼女は、困ったような顔をして「そうかな?」と切り返す。


真に受けたりなどしない、と言わんばかりの何か、それまでいい感じに進んでいた話でさえ頓挫するような、冷たい空気を放つ。


僕は、紳士的に言葉で、彼女とのあいだを埋めようとする。けれどそれは、相手がその趣旨を感じ取ってしまうと、たいてい上手くいかないものなのだ。

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