第3話 闇の中の犬

「それじゃあ、お先に失礼しますよ、アル」

 同僚のテオフィール・フェイユがそう言って、自分の席からフラリと立ち上がった時、私は心底ほっとした。

 フェイユは、歳は私よりも二つ下の三十五、ガリガリに痩せた体躯をしており、あたかも肉が少しばかり引っ付いた骨を繋ぎ合わせた様に見える。会社の女性達からは頗る評判が悪く、また男性達からは少々小馬鹿にされている所があった。

 別に会社での態度や成績に問題がある訳ではない。その点、このテオフィール・フェイユという男は信頼できる同僚ではあった。仕事一辺倒で、決してミスは侵さないし、頼まれてもいないのに毎晩何かを待ち望む様にして深夜まで残業をし、明日すれば良い仕事をその前日には完璧に終わらせてしまう、といった様な類の男、それがテオフィール・フェイユなのだ。

しかしながら、彼の口調や雰囲気、ときおり何の前触れもなくビクリと身体を震わせる癖や、近くに寄ると感じる饐えた様な独特の臭いが、他の人間を彼から遠ざけるのであった。そして、私も彼をそれとなく遠ざけようとする人間の一人であった。

私はワープロの画面から少しばかり視線を外して、フェイユを一瞥し、更に彼の後ろに見える掛け時計の時間を確認した。時計は午前零時を少しだけ過ぎていた。

「ああ、お疲れ様」

 私はワープロに視線を戻すと、出来るだけ素っ気ない言葉を彼に返した。

 途端に、開けていたオフィスの窓の外から物悲しげな犬の鳴き声が聞こえて来た。

 私はハッとして、思わずフェイユの方を見たが、直ぐに見なければ良かったと後悔した。

 フェイユはジッと私の方を見ていた。その口元には何とも言えない奇妙な歪みが生じていたが、それが笑みだと判るのにさして時間はかからなかった。

 真夜中に、会社内で「死神」だとか「骸骨」だとか陰口を叩かれている三十過ぎの男から気持ちの悪い笑みを向けられる事ほど厭な事はない。

 けれども、フェイユは直ぐに笑みを引っ込めると、そそくさと開いている窓の方へと近付き、パタンと音を立てて窓を閉めた。

「パリとは言え、犬に支配されている事は他の街と変わりは無いのでしょう」

「それにしてもバカに大きな声だったぜ? こんなビルの六階からでもはっきりと聞こえたんだから」

 彼の言葉を無視しても良かったのだが、口が勝手に動いてしまった。

「けれども、毎晩この時間帯になると、いつでも犬が吠え立てているではないですか」

 フェイユはとても嬉しそうに言った。その口調が私には不快だった。

「そうだったかね? 私も時折残業はするけれど、今までこんな犬の鳴き声が聞こえる事なんて無かったよ」

「気付かなければ何とも思わない物でも、気付くと気になって仕方がなくなってしまう物ですよ」

 フェイユは今にも口笛を吹き出しそうだった。

「それじゃあ、僕はこれで失礼します。良い夜を」

「そちらこそ、良い夜を」

 私はおざなりにそう言うと、フェイユを視界から締め出そうと思い、また視線をパソコンのディスプレイへと戻した。

 コツコツというフェイユの立てる靴音が次第に遠ざかり、オフィスのドアを開ける音、そして閉まる音がした後にはもう、何の物音も聞えなくなってしまった。

 その事を確かめてから、私は漸く視線をディスプレイから離した。

 グルリと辺りを見回してみたが、もうフェイユの姿は見えなかった。

「全く、気味の悪い男だ……」

 私はそう毒づくと、作業を再開した。明日の会議の準備が後少しで終わりそうだったのだ。


 それからどのくらい作業をしていたのだろうか。

 不意に、私の耳に犬の鳴き声が聞こえた。

 私はギョッとして、作業を止めて視線をキョロキョロとオフィス内に彷徨わせた。

 心なしか、オフィスの灯りが薄暗くなっている様な気がした。

 窓を確認してみたが、全て閉まっており、鍵も内側からかかっていた。

「聞き違いか……」

 一体何を聞き違えば犬の鳴き声に聞こえるのか判らなかったが、無理矢理自分を納得させて、席に戻ろうとした。

 その時だった。

 今度は、はっきりと聞こえた。

 低い、それでいて挑発的な犬の鳴き声だった。

 その声を聞いた途端に、私は恐ろしい事実に気が付いて、全身の毛孔が一気に開いた様な気がした。

 犬の鳴き声が近すぎるのだ。

 ここはビルの六階だ。窓も閉まっている。本来であれば、犬の鳴き声など殆ど聞こえない筈なのだ。

 けれども、今の鳴き声ははっきりと聞こえた。外からの鳴き声がこうもはっきりと聞こえる訳がないではないか。

 そう。判り切った事だ。

 きっと、先程の鳴き声もそうだったのだろう。

 犬の鳴き声は外ではなく、このオフィスから聞こえていたのだ。

 気付いた途端に、私は軽いパニックに襲われた。

 その場に立ち竦み、下の方をバカみたいに眺めまわした。

 当然、犬の姿など見えない。

 そうこうしている内に、今度は低いうなり声が聞こえて来た。

 自分が何かのっぴきならない事態に巻き込まれつつある事がひしひしと感じられた。

 だから、自分の荷物を片付けてこのオフィスから出ようと思い、私は慌てて自分の席へと戻った。 

 その時だった。

 タッタッタッタッタッタッタ……。

 オフィスを何かがグルグルと駆けまわる音が聞こえて来た。

 同時に、あちこちで犬の唸り声や鳴き声が聞こえて来る。

 いや、恐らく声の主体は一つなのだろう。

 それがオフィスの周りをグルグルと旋回しているのだ。

 走り回る音と鳴き声はドンドンドンドン此方へと近付いて来るかの様だった。

「来るな、来るんじゃない!」

 私は恐怖の余り叫び声を上げていた。

 けれども、走り回る音も鳴き声も止みはしなかった。

 音が一定程度まで近付いた時に、私の鼻腔を妙な臭いが擽った。

 雨に濡れた雄犬が放つ独特の臭気にも似ていたのだが、それ以上に私のイメージを掻き立てる何かが、その臭いには籠っていた。

 或いは、それはパニックを起こした私の頭が生み出した妄想だったのかも知れないが、結局判断は付かなかった。

 もう否定しようもない目に見えない犬の存在感が、私に無駄な考えを起させる余地を完全に奪っていたからだ。

 私は一歩も動く事が出来ず、ただ成り行きを見守る他なかった。

 やがて、犬の鳴き声がこれでもかという程に近くなった時だった。

 フッとオフィス内の電気が消えた。辺りは闇に包まれた。

 無音の中で、私は目を開けたまま次に起こる筈の「何か」を待っていた。

 やがて前方の闇の中で、何かが笑う様な声が聞こえた。

 フフン。

 たったそれだけだった。

 けれども、私には判った。それが決して犬などではない事が。

 私が真の恐怖に囚われたのは正にその時だった。

 同時に、私を包み込む闇全体が笑ったかと思うと、いきなり物凄い勢いで私はオフィスの床に組み伏せられた。

 必死に抵抗しようとしたが、相手の力は異常に強かった。

 耳元で、声が聞こえた。

 ハァハァハァハァハァ……。

 犬とも人とも付かぬ声だった。

 そして最後に、そいつは私の顔に向ってハァッと息を吹きかけて来た。

 途端に、私は先程まで嗅いでいた妙な臭いをどこで嗅いだ事があったのかに気付き、そのまま気を失ってしまった……。

 我に返ったのは、自分の携帯電話の音のお蔭だった。

 目を開けると、煌々とオフィス全体を照らす灯りが目に入った。

 立ち上がって辺りを見回した。

 けれども、部屋の中はさっきまで作業をしていた時と全く変化は無かった。

 無駄な事とは知りつつ辺りを見回してみたが、犬の様な物の姿はおろか、その足跡や臭いといった何等の痕跡も見出す事は出来なかった。

 私はぼんやりとした気分で、オフィスの掛け時計を眺めた。

 午前一時を少し過ぎていた。

 机の上に投げ出してあった携帯電話がまだ鳴っていたので、私は夢の中にいる様な気持ちで、電話を取った。

「もしもし?」

 聞き覚えのある声が耳朶を打った。

 声の主はテオフィール・フェイユだった。

 その声音は邪悪さに満ち溢れていた。

「もう事は終わっただろうと思いましてね……」

「事? 事って何の事だ?」

「犬ですよ……アル、犬です」

 その声音には抑えきれない様な歓喜が込められており、私は知らずゾッとしてしまった。

 私が何かを言う前に、フェイユは言葉を続けた。

「本当なら、あなたにお伝えする義理も無いんですが、それだと流石に礼儀にもとる気がしましてね、それでお話するんですが……。あの犬に、僕は十年近く悩まされたんです。そう、あれは入社して直ぐの事でした。僕はその日、運悪く仕事を大量に残していましてね、残業をするはめになったんです。深夜の零時位だったでしょうかね、突然オフィスの中で犬の唸り声が聞えたんですよ。何事かと思った時にはもう遅かった。そいつは僕を組み伏せて、生臭い饐えた息を吹きかけて来たんですよ。それで何もかも全部が狂ってしまったんです。僕はあの酷い匂いやゾッとする様な吠え声にそれからずっと憑りつかれ、ノイローゼ気味になって身体も痩せ細り、今、皆がバカにしている様な姿に成り果ててしまったって訳です」

 ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。

「一体どうしたらこの地獄から解放されるのか、正直見当も付きませんでしたよ。ただ、僕に出来る事は、あの事が起った時間帯まで会社にいて、一緒に残業している誰かにこの疫病神が乗り移る事を祈る事位しかありませんでした。何の確証も無く、十年以上も! けれども、ああ、神様! このあてずっぽうな試みが、今夜何故だか成功してしまったんです」

 フェイユはそこでまだ一息吐いた。

 フェイユの話した事柄のお蔭で、彼がどうして今まで何かを待ち望む様にして残業をし続けていたのかが判った。

 フェイユは抑えきれない興奮を隠すかの様にして、また話を再開した。

「あの時、犬が大声で僕の横で鳴いた時ですよ、あなたが吃驚したような顔をしたから、僕はこいつはしめたと思ったんです。少なくとも、それまでは一緒に残業している連中がこの犬の鳴き声を聞く事なんてなかったですからね。これは上手く行けば何とかなるかも知れないと思って、僕は急いで開いている窓を閉めたんです」

「何故だ?」

 私は漸くそれだけは口を挟めた。

「何故ですって? 僕はそのまま部屋から逃げようと思ったからですよ。もしもあの犬が、僕が逃げた事に気付いて開いている窓から追いかけて来たら、折角のチャンスがフイになりますからね」

 つまりフェイユはあの時、外からの鳴き声を遮断する様に見せかけて、オフィスの中にいる犬が外へと出ようとする通路を遮断したのだ。一体、そんな意図があったなんて誰が予想できただろう?

「それから、僕は出来るだけ手早く片づけを済ませると、急いで部屋を後にしたんです。ちゃんとドアも閉めてね。幸い、犬は追いかけては来ませんでした。それで、僕は解放されたんです」

 フェイユは弾んだ声のまま続けた。

「僕はもうこの会社を辞めますよ、アル。もう一度だって近付きはしません。パリからも逃げるつもりです。故郷のブルターニュで、ワイン作りの手伝いをしてこれからの人生は過ごす心算なんです。家族もそれを願っています」

「おい、フェイユ、待て……」

「ああ、それから後一つだけ……」

 フェイユはそう言って、言葉を切った。それから、フフンと笑ってこう続けた。

「それ、僕は仮に犬とは言いましたけど、絶対に犬じゃありませんよ……」

 言い終えたかと思うと、フェイユは乱暴に通話を切ってしまった。

「畜生! くたばっちまえ!」

 私は携帯電話に向って罵声を浴びせると、そのまま怒りにまかせて床に叩きつけた。

「犬じゃないだと? フフン、そんなの判っていたさ!」

 私がそう叫ぶのと同時に、耳元でこんな声が聞こえた。

 フフン。

 同時に、それまでフェイユの体臭だと思っていた臭いが、私の周りを一気に包み込んだのが判った……。

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アン・モヴェ・レーヴ公の覚書~或いは崩壊のプロフェシー~ 渋江照彦 @shibue728

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