第2話 手紙

 その女は、赤いポストを化け物か何かの様に見やると、静かにその場を離れた。

 既に辺りは暗く、冬の冷気がヒタヒタと、女に纏わり付いて来た。

 街の石畳には女の足音以外、何も響かない。

 遠くでは酔客なのか、それとも物乞いなのか、誰かが喚く声が微かに聞こえる。その声が、まるで亡霊が自分に呼びかけている物の様に思われて、女は思わずゾッとした。

 コツコツと石畳を踏みしめる音が、夜空を満たした。

 その音の間隔は少しずつ、だが確実に短くなって行った。

 早く家に帰りたかった。

 辛い職場でのあれこれや、心に抱えた決して癒せない傷の事を忘れられる唯一の場所が、女にとっては家だった。

 心が温まる訳ではない。

 家には女しか居なかったから。

 けれども家の中にいれば、その日はそれ以上傷つく事が無かった。

 どれ程石畳を歩き続けたものか、やがて、街の外れにある一軒の家の前で女は立ち止った。

 女は直ぐには家の中に入らなかった。

 家の横に立っている可愛らしいポストへと近付くと、静かにその中へ片手を入れた。

「あっ」

 女は思わず声を上げた。

 カサカサと手に封筒の様な物が触れる感触があった。

 女は用心深くそれを取り出した。その口から、歓びの溜息が漏れた。

「愛するイザベラへ」

 封筒の表には、その様に書かれてあった。

 そして裏には、女がずっと愛し続けている男の名前が、女にとっては見慣れた筆跡で書かれてあった。

 女はウキウキとした気分で、家の中へと入った。

 既に、今日あった悲しい事、辛い事は頭の中から消え失せていた。


 ヒヨコマメのスープに、薄い食パンという侘しい食事を済ませると、女はそれを脇に退けて、先程ポストから取り出した封筒を目の前にそっと置いた。

 宝箱を開ける様に慎重にペーパーナイフで封筒を開けると、そこには見知った文字が書かれてあった。

「まあ、ジョナサン……。今月もちゃんと手紙を送って来てくれたのね」

 女は嬉しそうに呟くと、その手紙を愛おしげに撫でた。

 まるで、女の愛が手紙を通して男の方へと行き渡るとでも思っているかの様だった。

 手紙を撫でている女の顔は恍惚としており、それはそれは美しい物だった。

 やがて、女はフッと溜息を吐くと、その手紙を静かに読み始めた。


 愛しいイザベラ。この一ヶ月、元気にしていたかな?

 僕は今、パリに居ます。宝石店の店員というのもとても大変だけど、まさか三カ月の間に三つの国を渡り歩く事になるなんて思いもしなかったよ。

 三カ月前、僕は確かにイギリスにいたけれど、一月後にはイタリア、そして今度はフランスで宝石に関する仕事をしなければならなくなってしまったのだからね。

 パリというのは不思議な街です。葡萄酒とパンをまるで神の恩寵か何かの様に考えている人ばかりが住んでいると言えば良いのかな。後、プライドが異様に高い。時折、その高慢さが鼻に付くけれど、それさえ我慢すれば、まあまあ暮らしやすいところかも知れない。大昔の様に糞尿塗れという訳でも無いしね。

 そちらの生活はどうかな? 僕はまだ暫くの間、君のもとへは戻れない。本当は戻りたくてしょうがないのだけれど。ああ、何と言えば良いのだろうね? この気持ち、このもどかしさを表すのは言葉では出来ないのかも知れない。

 けれども、僕の愛は決して変わらない。それだけは誓っても良い。許されるならば、今すぐにでも辞表を叩き付けて君の所へ飛んで行きたい。

 待っていてくれ、イザベラ。後数カ月、そう、後数カ月で僕は必ず君の所へ戻って来るよ。そうしたら、君の好きなお茶を飲みながら、ゆっくり旅の話が出来るだろう。僕はそんな普通の生活に憧れているんだ。君と二人、そういう幸せな生を紡ぎたいと思っている。それだけはどうか、信じてくれ。

 それじゃあ、また。

                     君のジョナサンより愛を込めて


 短い手紙を読み終えると、女は暫くそのまま椅子に座り続けていた。

 嬉しい報せの筈なのに、女の表情は暗かった。何かに必死に耐える様な、そんな表情だった。

 やがて女は椅子から立ち上がると、食器はそのままして、寝室へと向かった。その右手には手紙が握られている。その手は、心なしか震えている様だった。

 寝室へ入ると、女は小さな書き物机に置かれたランプのスイッチを捻った。

 灯りが書き物机の周りだけを照らし出す。

 そこには、書きかけの手紙が大量に置かれてあった。

 もしもそこに他の人間がいたら、その光景に目を疑ったかも知れない。

 何故なら、その手紙の出だしは全て同じ文言で始まっていたからだ。


 愛しいイザベラ。この一ヶ月、元気にしていたかな?


 女は暫くの間、その手紙の束を見つめていた。

 その瞳から、一筋の涙が流れた。

 カサッという音がして、右手に持っていた手紙が床に落ちた。同時に、たとえようのない悲しみが、女の胸を締め付けた。

「ジョナサン、貴男は本当に何処へ行ってしまったの? 五年前、一体貴男に何があったの?」

 涙声でそう呟くと、女は涙を拭った。

 そして唇を真一文字に引き結ぶと、書き物机へと向かった。

「続けなきゃ。この世界を生きるために、生きて貴男にもう一度会うために、私は続けなくちゃ……」

 そう祈りの呪文の様に呟くと、女は書きかけの手紙の一つを取り出して、続きの文言を記し始めた。

 彼の筆跡は、過去に貰った手紙を使って何度も練習していた。だから、彼女は迷うことなく言葉を紡いで行った。

 男が女をいかに愛しているかを。そしてもう直ぐ帰って来るという希望を持たせる報せを。

 何時しか、彼女の悲しみは引いていた。

 それに反比例して、彼女の心は徐々に喜びと期待に満たされた。

 夜は静かに更けて行った。その中で、女は黙々と手紙を記し続けて行った。

 五年前に彼女の元を去って行った男が、一ヶ月に一度送り続けている手紙を。


 女の幸せな幻想は、遠からず破られる事になるのかも知れない。

 何故なら、女の愛していた男は、五年前の冬、パリの路上で遭遇した強盗によって無惨にも刺し殺されていたのだから……。

 二十世紀には後数年届かない、冬の物語である。

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