アン・モヴェ・レーヴ公の覚書~或いは崩壊のプロフェシー~

渋江照彦

第1話 アリッサム

 月の光を浴びて、アリッサムの白い海が照らし出されている。

 その花群に囲まれる形で、中央には大きな切株が一つ植わっていた。果たしてどの様な種類の木なのか、そもそもいつごろに切り倒されたのか、その判別は容易ではない。

 穏やかな静寂が、この舞台を支配していた。

 本来であれば、今宵もこの舞台は静かなままに幕を閉じるはずであった。月の光は、それが当然だとでも考えているかの様に、どことなく眠たげでもある。

 だからだろう。光に照らし出された舞台に一つの影が現れた時、月の光は驚いたかの様に鋭くなった。

 アリッサム達も、そんな月の光を今まで感じた事が無かったものだから、ギョッとしてその白い花や緑の葉を強張らせた。

 けれども、影はそんな事は些細な事だとでも言う様に、フラフラと舞台の中央、大きな切株の前に現れた。

 それは、黒いコートを羽織った貧相な顔付きの男であった。彼は今朝、宿賃を二カ月も払わなかったために、宿を追い出されたのだ。

 男は元々、パリでも名のある楽団の指揮者であった。もう十年も前の話である。

 その頃、男の身なりはもっと清潔な物であった。

 指揮の腕も上々で、抑える所は抑え、解き放つ所は解き放ち、聞く者は勿論の事、演奏している団員をも奇妙な高みへと螺旋を描いて誘って行く、そんな手腕の持ち主であった。

 当時、パリ中で彼にかなう指揮者はいないと言われていた程であった。

 しかし、そんな彼の転落は早かった。

 その原因は当時、如何様にも噂された。けれども、結局真相は闇の中。実際に人々の目に触れた事柄は、この男が一夜の内にパリの街から消えてしまった、という事だけだった。

 十年の間、彼が果たしてどこを彷徨っていたのか、それは誰にも判らない。

 けれども、パリに居た頃は自信に溢れていた男が、この十年ですっかり生きる気力を無くしてしまった事だけは確かであった。

「猫にでもなれれば、まだ良いだろうに」

 男は夜風に吹かれるたびに、最近はそんな事ばかり呟いていた。

 今宵もそうだ。そして、不運を嘆きつつやって来たのが、この奇妙な舞台であった訳だ。

 男はアリッサムの花を踏み倒しながら、この舞台の中央へとやって来た。

 理由は特に無かった。街道を進んでいる内に、ふっと脇道へそれてしまい、それからずっと歩き続けて出た所が、ここだったのだ。

 いつから道がアリッサムの花に変わったのかさえ判らなかった。

 男は、アリッサムの花群に囲まれた切株に目を落とした。

 それは、月の光が試みたちょっとした悪戯だったのかも知れない。男にはその切株が指揮者の乗る台の様に思われたのであった。

 男はフッと苦笑した。

「音楽は、決して離れないのか」

 言いながら、男はその切株の上に乗った。

 途端に、男の目には、灯りに照らされて指揮者の指示を待つ幾千幾万の楽団員が視えた。皆、今か今かと男の顔を見つめていた。

 その様子を視て、久しぶりに男の中で何かが騒いだ。気が付くと、男は高々と指揮棒を振るっていた。

 それに合わせて流れて来たのは、ショパンの『幻想即興曲』であった。

 男は必死になって腕を振った。抑える所は抑え、解き放つ所は解き放つ。

 音色は螺旋を描いて高みを目指した。

 するとどうだろう。

 曲が進むに連れて、楽団員達の座っている場所が高くなっていった。そしていつしか、楽団員達は壁の様に男を取り囲んでいた。

 けれども、男は指揮を止めなかった。

 楽団員達の壁と男の間で奇妙な均衡が作られた。その均衡を保ったまま、曲は急に終わりを告げた。

 途端に、楽団員達の壁は、白いアリッサムの花群と化し、物凄い音を立てて、一気に男の方へと押し寄せていったのであった……。


 白い水面が光る湖の上に、月が光を投げかけている。

 湖の中央には、小舟が一艘揺れている。

 その小舟の中には、一匹の白い猫。

 湖に落ちて溺れ、最後の力を振り絞って小舟の中に転がり込んだのだろう。白猫はずぶ濡れになって、死んでいた。

 その白猫の脇には、誰が忘れたものか、みすぼらしい黒のコートが一着、脱ぎ捨てられてあるのだった。

 小舟は白猫を乗せて、静かに揺れている。

 まるでこの風景が永遠に続くかの様に。

 そんな夢見る小舟に、月は微笑ましげに、いつまでも光を投げかけ続けるのであった。

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