Encore

 僕は目を覚ました。全身にじっとりとした湿気を感じた。心なしか、息もほんの少し乱れているように感じる。

 胸騒ぎがする。

 時計も見ることなく、着替えて家を出た。


 外は、時雨が降っていた。雨の滴が顔にときたま降ってきて冷たい。

 そこで不意に目が覚めた。いや、正確に言えば我に返ったというところだろう。

 にゃあ。

 雨の降る音に混じって、猫の鳴き声がか細く響いた。

 思わずその方を見る。


 すらりとした真っ白な猫が、腰をおろしていた。


「猫か……」

 首輪はついていない。しかし、野良猫とは思えないほどに毛並みがいい。なにより、真っ白な毛に一点の曇りすらないのだ。都会の野良猫がそんな姿であるはずがない。

 迷った。この猫、どうしよう。

 にゃあ。

 と、僕が逡巡しているのを知ってか知らずか、猫は僕のもとに寄ってきて。足下に座り込んでこちらを見た。

 にゃあ。

 まるで、拾ってくれと言わんばかりだ。

 そこに、札切のようなどことなく尊大な印象を受ける。もしかすると、いいところの猫なのかもしれない。

「うーん」

 にゃあ。

 猫は僕を上目遣いで見つめ、ただただ鳴く。

 上目遣いという、たいていの男なら参ってしまう武器を用いるとは、猫のくせになかなかやる。さては、雌なのか。

 僕は猫を抱き上げた。

 みゃあ。

 猫は驚いて少し暴れたが、抱き上げるとおとなしくなった。

「雌か」

 雌だとわかると、なんだかとたんに可愛らしく思えてしまうから不思議だ。尋常じゃない気品もあるし、消えた咲子の姿を重ねるのは難しくなかった。

 これは、偶然じゃないのかもしれないな。

 僕はそう思って、猫を家に入れた。

 にゃあ。

 猫は、最初から僕の家で飼われていたかのように、部屋の中に入っていった。

「そうだ、名前」

 名前をつけることで、僕は猫の飼い主になれる。

 猫の肉球を雑巾で拭きながら、僕は彼女の名前を考えた。

 ただ単に、普通の名前をつけるには、あまりにも不思議な猫だった。僕は、何か、美しい名前をつけたかった。

 清廉な白さ、そして内から溢れる気品。

 そんな単語はないものか。


 すると。

「あっ」

 この前山崎からもらった、彼の所属する文芸サークルの合同誌の背表紙が、偶然目に飛び込んできた。


雪月花せつげつか

 熱に浮かされたように、僕は彼女の名をつぶやいた。

「お前の名前は、雪月花だ」

 にゃあ。

 雪月花は、それを気に入ったというように、しっかりと鳴いた。

 僕はなぜかその鳴き声が、世界中に響くような錯覚を覚えた。

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