ーⅥー The Least 0 Letter

















































「真中くん……」


 もう少し。


「大丈夫……?」


 もう少しだ。

 おそらく、あとひとつの怪異さえあれば……。


「顔色、悪いよ?」


 咲子をこの暗い、何もないところから呼び戻せる。


「ねえ、聞いてる?」


 どこだ。

 最後の怪異は、どこにある?


「ちょっと」


 遭うのは一体、誰だ?


「ねえ……」


「私の話、聞いてよ……」




 目が覚めた。

 悪夢だ。

 いや、どうだろう、これは悪夢なのだろうか。


 シャワーを浴びた。

 すっかり冬の鋭い空気になってしまった朝から身を守るために必要なことだ。

 身体がほんの少しだけ、だるい。僕自身の与えられた業だったとしても、やはり罪悪感を覚えずにはいられなかった。

「ふう……」

 浴室から出て素早く服を着替えた。しかし寒い。それにしても寒い。寒すぎる。

「んにゃ……」

 昨日買ってきたばかりのセーターに袖を通しながら洗面所を出ると、布団がもぞもぞと動いていた。まるで蓑虫だ。

 ばし。

 思い切ってその物体を蹴ると、

「いたーい」

 と全身から眠そうなオーラを纏った声がする。なんとなく面白くなってきたので布団をはぎ取ってやった。

「ひ、ひえっ、さ、さむううう」

 眞鍋陽子まなべようこは摂氏数度というしゃっきりとした外気を全身に容赦なく浴びせられ、無理矢理覚醒を強いられた。

「おにだ! あんたはおにだ!」

 ぷええと意味不明な鳴き声とともに彼女は不服を漏らした。

 むしろ鬼はお前のほうなんだけどな、と言いたい気分をぐっとこらえた。

「おはよう」

「ん、おはよ」

 こうして朝の授業に出る支度は始まる。


「ふーちゃん」

「なに」

「一限なに?」

「比較経済史」

「ふーん、私中国経済」

 坂を上る。

 冬とはいえ、雪は降らないので、これくらいの坂は体温を上げるのにかえってちょうどいい。

「ふわあ。慣れると寒くもないね」

 眞鍋は真っ白な息を吐いた。

「北国出身は強いな」

「まあね」

 クリーム色のニット帽についているポンポンがひょこひょこと跳ねる。こうしてみると、眞鍋もなかなかかわいらしいな、と柄にもなく思った。

「なんか失礼なこと考えたでしょ?」

 彼女はめざとくそれを感じ取る。

「見た目がそんなんでもないから、中身だけはかわいくしないといけないからね。それが女の子の義務だから」

「なるほど」

「なるほどじゃないだろ」

 眞鍋はぱしんと僕を軽くはたいた。もこもこのダウンジャケットは衝撃を吸収する。はたく側もはたかれる側も。

「それを見抜くのが男の義務だっつってんの」

「はあ」

「なんだその気のない返事はー! この鈍感野郎!」

 眞鍋はぽかぽかと殴る。例によって全然痛くはないが。

 そうこうしているうちに正門をくぐり抜け、経済学部の講義棟へとたどりついた。

「そういやさ、山崎くん、最近連絡とれないんだけど、見た?」

 一階で授業がある眞鍋と階段で別れ際、そんなことを言われた。

「いや、授業はかぶらないからな」

「まあそっか。優秀だもんね」

「そうでもないけどな」

 お前が単位落としすぎなんだろ、と言いたいのはやまやまだが。

「なんか用があるのか?」

「ううん、同じ授業のはずなのに全然見ないし、モーニングコールでもしてやろうと思ったんだけど、携帯もつながらないんだよね」

「なるほど。まあでも……」

「よくあることなんだけどさあ」

 眞鍋は僕の思考を読みながら、どこかしっくりこないといった様子だった。

「わかった、とにかく他のミス研か文芸のやつに聞いてみるよ。風邪で寝込んでいるかもしれないしな」

「うん、お願い」

 眞鍋が山崎の心配をするとは、それ自体がなにか不自然なような気がする。

 まさかとは思うが。

「いや、あいつに限ってそんなことないよなあ」

 大教室に入っていく彼女を見ながら、僕はぼんやりとそうつぶやいた。


 比較経済史を担当している小谷こたに准教授は、ハスキーな声とそれに似合わないふんわりとした丸い体型が特徴の、経済学部ではかなり人気のある女性講師である。

 親しみやすい見た目から繰り出される分かりやすくも造詣の深い授業は、大学三年生以上でないと受けることができない上級科目でかつ月火の一限という凶悪な組み合わせにもかかわらず、講義棟の二階でもっとも大きな213教室に割り当てられるほどの人気だ。

 僕は先に来ていた吉岡の隣に座り、彼が頼んでいた中級ミクロ経済学のレジュメ及びノートと引き替えに、前回サボったぶんのレジュメとノートを手に入れた。

「産業革命の項を休むとは、相当切羽詰まっていたのか、あるいは坪井以上にどうしようもない奴なのか……」

 吉岡は渡すなりそう皮肉を言った。

「しょうがねえだろあれは非常事態だったんだよ」

「まあ、詳しくは聞かないさ。どうせ坪井のぶんもとってるんだ、コスパはいい」

 吉岡は僕が渡した紙の束を受け取りながら言った。

 ちなみに坪井も吉岡も小谷ゼミなのだが、僕はこの授業に坪井がいた回をちゃんと覚えている。最初の回、最初の小テストがあった回の二回だ。

 そんなこんなで、いつものように密度の濃い授業の終了を告げるベルが鳴った。

「では、今回はここまで」

 小谷准教授は黒板を丁寧に消して、ピンマイクのスイッチを切った。とたんに教室がざわつきはじめる。次の授業があるので、吉岡とともに席を立とうとすると、小谷准教授が慌てて僕に駆け寄った。

「真中くん、あとでお話があるので、社会科学研究棟の私の部屋に、昼休みか四限後に来てもらえます? できれば今日がいいのだけど……」

「あ、はい。今日なら昼休みが空いてますので、そのときでよろしいですか?」

「ではそれでお願いします。場所は……」

「わかります」

「そう。お願いします」

 彼女はそう言って足早に去った。

「なんだ……」

「先週の授業サボったからじゃないか?」

 吉岡が真顔で冗談を言った。たちが悪い。

「いやな予感がするな」

「ま、頑張れよ」

 気楽に言いやがって。

 そうして僕らはお互い違う授業に向かった。


 一限になにもなかったのか、101教室にはひんやりとした空気が張りつめていた。先ほどと違って、人が少なく閑散としている。水嶋准教授の授業は受講者数と履修者数に大きなギャップがあることが多く、このように大教室にわずかな受講者になることも少なくない。

「あの……あの……」

 いつもと同じ席に座ると、か細い小さな女性の声が聞こえた。が、周りを見渡しても声を発してそうな人物は誰もいない。

「あの……ねえ……」

 しかし、ぼそぼそと声だけは聞こえる。

 そういえばこの声は……。

 僕は気を澄ませて、もう一度周囲を見回した。

 そして、声の主を見つける。

「希美子さん?」

「あ、見えてくれた?」

 巴希美子ともえきみこは、ひどく怯えた様子で僕を見つめている。

「ああ……やっぱりつらい……男の人としゃべりたくない……」

「じゃあなんで話しかけてきたんですか……」

「いや、あの……なんか最近周りの空気がおかしいから……」

 巴はか細い声でそう言った。相手を伺うような上目遣いと、その震えるような声はなんとも男としての官能を刺激してくる。常にこんな感じであってほしいなと不謹慎なことを思った。

「気を、つけてね……」

 そう言って彼女は消えた。

 一体なんの予兆なのか。彼女がわざわざ僕にそう話しかけるくらいだから、すでに六本木舞は何らかの準備をしているに違いない。

 そんなことを考えているとチャイムが鳴った。

「あっ、真中さんじゃないですかー」

 チャイムと同時に教室に駆け込んだ男に話しかけられた。

「おう、田村、元気か」

「いやー、編集作業と課題でそれどころじゃないっすねー」

 田村正隆たむらまさたか。ミス研の後輩で、大きな丸い身体とおどけた口調が特徴だ。

「お前いくつサークル入ってるんだよ……」

「えーっと……文芸でしょ、ミス研ですよね、あとサークル連合自治会に……うーん、いくつでしょうねえー数えられないなあ」

 そう言った彼の折った指は左手の薬指に達していた。そりゃ多忙にもなるわ。

「そんなことより真中さん、山崎くん知りませんかね? 連絡がとれなくなっちゃいまして……部長なんですけどねえ彼……」

「なるほど、そういうことか」

「はい。おかげでミス研の先月の会計がしまらないんだよなあ」

 苦笑いしながらそう言う田村の眼鏡の奥は、きわめて冷静な視線があった。相当探しているに違いない。なにせ僕にまで聞きにくるのだから。

「実は僕も探しているんだ」

「本当ですか? そりゃちょうどよかった、ついでに僕にも連絡するように言ってもらえます?」

「ああ、いいよ」

 お前は探さないのな。

「いやあ、ありがとうございます。真中さん探偵だもんなあ」

「うーん、まあな」

「巨乳のカノジョがいるもんなあ」

「おい待て」

 真偽はともかくどこからそんな情報を仕入れたんだ。

「あれ、違いましたっけ? セーラー服のほうでしたっけ?」

「やめろ」

 たぶん眞鍋と札切のことだろう。

「眞鍋さんはミス研のアイドルでしたからねえ」

「どういう嫌味だよ」

「いやいやいやいや、嫌味じゃないっすよ。というか真中さんガチで知らないんですか、眞鍋さんのミス研メンバー内でのポジション」

「知らねえ」

「嘘でしょ。やばいなこれ、死ぬほどウケるんだなあ」

 田村は眼鏡をかちゃかちゃとさせながらにやにやしている。

 だいたいあいつあんな奔放な感じなのに処女だったからな、と喉まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んだ。

「まあ、知らない方がいいこともありますからね。それと、くれぐれも山崎くんのこと、お願いします」

 彼はそう言って教室を出ようとする。

「サボるのかよ」

 僕がそうツッコむと、

「いえいえ、黒板を見てください」

 と言って去っていった。

 黒板には、「二限の『計量経済学』は水嶋先生の体調不良により休講です」と書いてあった。見渡すと周りには誰も居ない。

「あの人、なんか怖いですね……」

 か細い声が聞こえてきたような気がした。

 彼みたいな人間が一番つきあいやすいんだけど、とは言わないことにしよう、誰も居ないし。


 こうなったら、山崎の家に行くしかないな。

 そう思いながら、僕は図書館のカフェでホットドッグを食っていた。

 山崎修司やまさきしゅうじは、確かにあまり連絡がまめな方ではないのだが、ミス研の部長としての仕事はきちんとしていると、先日聞いたばかりだ。それがここ数日、完全に顔を見せないとなると。

「嫌な予感しかしない」

 ぼそりと呟いても結果は変わらない。

 徐々にカフェが混み始めたと思ったら、昼休みを告げるチャイムが鳴った。

「もうこんな時間か……」

 とりあえず眞鍋にメールをして、小谷准教授の研究室に向かった。


「わざわざありがとうございます」

 ノックをして研究室に入ると、小谷准教授が難しい顔をして机に座っていた。歴史と経済学の本が各地にうず高く積み上げられている。

 社会科学研究棟の四階、中央階段のすぐ近くに、彼女の研究室はある。

「いえいえ」

 部屋の様子は人の心の状態を表すらしいが、それに倣えば小谷准教授の精神状態はどう見ても良好とはいえないようだ。

「散らかった部屋で、申し訳ない」

「お構いなく。むしろ僕としてはこういった部屋の方が楽です」

 水嶋准教授という、自室を混沌の空間に引きずり込む天才を知っているので、むしろ大学教員というのはそういう業を背負っているのかもしれないと思っていたところだ、それを払拭できる糸口が見つかってよかった。

「水嶋先生のお部屋は確かに、正気を疑うレベルではありますが……」

 水嶋准教授の部屋はどうやら教員同士でも有名らしい。

 ん、待てよ。

「あれ、僕が水嶋ゼミなの知ってるんですか?」

 ちなみに、水嶋准教授のゼミ生は僕ひとりだ。

「はい、むしろ、水嶋先生のゼミ生であるあなたを呼んだのです」

 小谷准教授はいつになく真剣な目をしている。

「実は、水嶋先生の部屋に、ある論文があるのですが、それを参照したいのです」

「なるほど」

 水嶋准教授に直接頼めないのだろう。

「しかし、なぜか連絡がとれないので、形式上、ゼミ長であるあなたに鍵の申請をしてもらって、一緒に探してほしいのです」

「わかりました。どんな論文なんですか?」

「実はですね……」

 と、ここで小谷准教授の耳がわずかに赤くなった。

「その、その論文なんですが、私と水嶋先生の共同研究なのですよ」

「えっ」

 分野が全く違う者同士の共同研究。

 驚いたのはもちろんそこなのだが、それ以前に。

「待ってください、ご自分で書かれた論文なら、先生も持っているはずですよね?」

「それが、お恥ずかしい話、データごと紛失してしまいまして……」

 商売道具だぞ、そんなんでいいのかよ。

 とは思いつつも、断ることもできないわけで。

「わかりました、その論文について、いくつかお聞きしても?」

「ええ」

 そう言って小谷准教授は、論文の特徴を教えてくれた。

「わかりました、なんとか探せると思います」

 研究室の鍵を管理している学務まで小谷准教授と一緒に向かい、水嶋准教授の研究室の鍵を借りた。

「私は次の授業がありますので、これで。論文は、私の研究室の前にあるポストに入れておいてもらえますか?」

「レポート提出用のポストですか?」

「はい」

「わかりました」

「よろしくお願いします」

 小谷准教授は丸っこい身体を少し窮屈そうに折り畳んで頭を下げた。なんとなく、そこまでしなくてもいい気がしてくる。


 社会科学研究棟の五階。

 寒々とした空気が特徴的なこの建物の中でも、とりわけ寒々とした雰囲気を漂わせているフロアだ。何故なのかは、たかだか学部生ごときの僕では知ることも察することもできない。だから、その寒々しさだけが伝わってくる。

「本当にこんなところでよく研究できるよな……」

 思えば、階段でこのフロアに上る度にこんなことを呟いている気がする。

 フロアの中でも一番奥まったところに、水嶋准教授の研究室はある。

 501号室。

 その扉の横には「水嶋みずしま 亮介りょうすけ 准教授」とあった。

「しかし寒いな……」

 僕は思わずコートを羽織ってから、鍵を取り出して扉を開けた。

 途端、異様な光景が眼前に広がる。

「……」

 あまりにも驚きすぎると叫び声も出ない、ということをこの時知った。

 もちろん、水嶋准教授の研究室は、そもそも異様ではある。しかしそれは、乱雑さの点ではなく、無秩序な点、部屋全体がランダムノイズのような、位置関係と物体の属性がなんら関係ないように配置されている――たとえば、本棚にはエロ本とファッション雑誌とビジネス書、そして学術書が隣同士で置かれている、というように――という、人間的にあり得ない部屋の使い方をしているというだけで、彼の部屋は、物理的にみればそれこそ一般的な学生の部屋や他の講師よりも片づいている。

 はずだった。

 しかし、目の前の光景はそうではなかった。

 背筋に徐々に異常さが伝わってくる。

「……なんだ、これ」

 床、壁のあらゆるところに、それは犇めいていた。

 その物体は、たいていは黒く、小さく、ちょこまかと動いている。

 最初は部屋の中に入り込むあの虫が大量発生したのかと思ったのだが。

 けれど中には、真っ赤なものもあることに気づく。

「……?」

 これは。

「文字か」

 真っ赤なものは、丸い図形と数字がほとんどだった。しかも、水嶋の筆跡である。

 黒いもののほとんどは、よく見ると大抵がアルファベットだ。たまに漢字やひらがな、カタカナも混じっている。

「まさか……」

 僕は素早く研究室に入り込み、扉を閉めると、手近にあったハードカバーの本をとって開いた。

「そういうことか」

 本は、すべてのページが見事に白紙になっていた。

 つまり、ここで犇めいているのは、この研究室にあった本などの文字なのだ。

 そう気がついた時、ふと目の前を「ビャアアアアアアアアアアアアン」と派手なフォントの文字が横切った。漫画雑誌から抜け出してきたのだろうが、あまりにも突然だったので僕は思わず笑ってしまった。

 漫画雑誌からも、ということは……。

 よく見ると、ところどころにピンク色の卑猥なゴシック体が、文字通り踊っているのが見えた。見えなくていい。知らん。団地妻の何がいいのだろう。女子校生(女子高生、にあらず。つまり、そういうこと)に関しては、まあわかるけれど。

「あっ、まてよ」

 今になって気がついたが、これでは小谷准教授のお目当ての論文を探すことができない。なにせ、本だけでなく、ペーパーに至るまで、すべての活字が自分の持ち場をはなれて部屋中を駆け回っているのだから。彼らを整列させる方法を、僕は知らないし、考えつくことすらできなかった。

 とすると。

 どうやって怪異を解決させる時間を稼ぐか、という問題になる。当然、今日中にすべて解決するはずはないだろう。だが、小谷准教授は一刻も早く論文を手に入れたいはずだ。

 僕の腕の見せ所でもある。こんなところで自分の探偵としての実力なんて、示したくはなかったけれど、やるしかない。


 しかし、やることが急に増えてしまった。

 僕は携帯電話をしまい、社会科学研究棟を後にした。


「ありませんでしたか……」

 電話口の小谷准教授の声はシベリア平原のように平坦で、冷たかった。

「仕方ありません、別のつてを探します。どうもありがとう」

「僕のほうでも先生に連絡をとってみますので」

「申し訳ありません、そうしてもらえると助かります」

「ではまた」


 研究室に鍵をかけてから、フロアを降りて建物の出口に向かうまで、時間短縮と寂しさを紛らわせるために彼女に電話をしたのだった。

 そもそも、水嶋准教授の研究室で、彼の持ち物から特定の物を、彼の協力なしで取ってくるということそのものが非常に難しい。なにせ、どこにあるのか見当をつけることが不可能なのだから。

 そうか。もしかして、それが水嶋准教授の目的なのだろうか。つまり、セキュリティ上の問題。

「しかし、あのおっさん、そんなに大事な研究してんのか……?」

 いや、本人からすればとんでもない研究なのだろうけれど。だいたい、それで飯を食ってるわけだし。

 と、ジーパンのポケットが震える。

「なんだよ……」

 僕は番号を確認し、電話に出た。

「ねえ、もう授業ないよね? 今すぐこっち来てくれる?」

「こっちって……もしかして山崎の家?」

「うん! 急いで! やばいから早く!」

 眞鍋の焦った声と、ほんの少し遠くで山崎の間延びした苦笑いが聞こえた。

「からかってるのか?」

「いいからはやくきてってうわああああきもい! きもい! いやあ!」

 眞鍋がとことこと走る足音が聞こえ、電話は切れた。

 ただ事じゃなさそうなのはわかったが、しかし山崎の苦笑いが気になる。

「しょうがねえな……」

 眞鍋の言うとおり、これから授業はない。

 仕方なく、西門を目指した。


 山崎修司の家は、大学の西門から歩いて十分ほど、縦波総合鉄道の和合坂わごうさか駅の前にある商店街のほど近くにある。ゆるやかな坂道を上り続ける僕の家からの道と異なり、彼の家から大学までの道のりは、行きはよいよい帰りはこわいという言葉がしっくりくるもので、台地からひたすら急な石段を下り続けるというものだった。

 つまり、逆に言えば。

 大学から山崎の家に向かうとなると、十分近くひたすら石段を上り続けることになるわけで。

「はあ……畜生……」

 こんな寒い日でも、全身に熱い血が煮えたぎってしまい、頭はがんがんと痛む。

 これが真夏であったらと思うと……縦波市営地下鉄四ツ谷北よつやきた駅周辺に住むことにした大きな理由である。

 まだまだ自分は二十代なのに、ここ二、三年で大きく体力が衰えたような錯覚に陥ること数分、なんとか山崎の住むアパートの前までたどり着いた。

 そこにはもこもこの眞鍋がいる。

「あ、きたきた!」

「なんなんだよ一体」

「いいから見てよ! ほんときもいから!」

 と、眞鍋は山崎の部屋へと案内する。

 山崎は普通にいるんだろうし、何がおかしいのか。

「おい、入るぞ」

 扉をあける。

「あ、どうぞどうぞ」

 中には朗らかに笑みを浮かべた山崎がいた。


 信じられなかった。

「いや、おい、お前……」

 山崎の部屋は、

「なんですか?」

 真っ黒に犇めいていた。

 そう、あれだ。

 さっきみたやつ。

「よく、まともでいられるな……」

 思わず、そうつぶやいた。

 夥しい量の活字が、縦横無尽に飛び交っている。

 それは、水嶋准教授の研究室ほど色彩豊かではないが、活字の動くスピードや密度は、この部屋の方が圧倒的に上だった。

「ひい」

 後ろで眞鍋が悲鳴をあげ、腕につかまってきた。今彼女はダウンの前を開けていて、中にはセーターを着ているということが、とてもよくわかった。

「いやあ、ちょっと前からこんな感じで、メールも打てないんですよね……ははは」

 はははじゃねえよ。

 山崎は笑いながら携帯電話を見せた。

 そこにはバックライトと壁紙の画像だけで何も映っていない。

「うわあ……」

「どうも、文字という文字が全部整列できないみたいなんですよね……どうなってんやろって思うんですが」

 彼のその力が抜けたような笑顔が、どことなく狂気に感じられる。

 まさか。

 僕も携帯電話を開いてみた。

「うわあ」

 案の定、文字がふるふると震えて、ぴょんと画面から出てきた。あわてて閉じて、ポケットにしまう。

「いやああ!」

 眞鍋は僕に抱きついている。第三者がいる中でそんなことをやられてもなあ。というか、うっかりすると死にかねないな、これ。

「このこと、誰かに言ったか?」

「いえ、誰にも。眞鍋さんもいきなりここを訪ねてきただけやし……多分先輩たち以外は誰も知らんと思います」

「とりあえず、誰にも言うなよ」

「言うも何も、これ、信じてもらえんでしょう?」

 山崎は相変わらず朗らかに笑みを浮かべている。それは、事態の深刻さに気づいているのかどうかすらわからなかった。

「うーむ……」

「とにかく、僕は収まるまで引きこもってます。そういえば、真中さんってこういうことを解決されるお仕事をなさってましたよね?」

「ああ、いいよ、解決する。ただし……」

「代償なら、どんなのでもいいですよ。持ってかれて困るのは……命だけですかね」

「ずいぶん欲がないんだな」

「あと童貞かな」

「もらわねえよ! つーかいらねえよ!」

 というか、そういうの、大切にするんだなお前。

 なんか、意外だった。

「えー私は欲しいけど」

「そりゃお前はな」

 そこで話に入ってくるなよややこしい。

「いやあ、眞鍋さんのお世話にはなりませんよ。眞鍋さん、もう真中さんの肉便器じゃないですか」

 おい。

「ちょっと待て」

 おい。

 それ、そんなに爽やかに言うことかよ。

「違うんだなあ。逆だよ」

「おいこら」

 やめなさい。

「えっじゃあ真中さんが……」

 山崎は驚嘆のまなざしで僕を見る。

「ちが……うわけじゃないけど根本的に何かがおかしい! いや、違う! 多分違う! というか、絶対に違う!」

 よくよく考えてみれば眞鍋の主張はそこまで間違っているわけではない。確かに、現状では彼女の糧になっているのは僕のほうだ。

 だけど、よりによって今その話を持ち出すなよ。

「そうなんですか……なるほどなあ」

 山崎はうんうんとうなずいた。何勝手に納得してるんだよ。

「とにかく、お前はそのまま音信不通を装っとけ。田村とかそこら辺は僕がなんとかしておくから」

「わかりました。申し訳ありませんが、できるだけ早く解決してくださいね」

「もちろん」

 水嶋准教授も同じ怪異に巻き込まれていたし、これは一体何が始まるのだろうか。

 今度こそ、本格的に御厨智子の力を借りる必要があるように思う。


「智子さんとこいくの?」

「まあな」

「いってらっしゃい。私四限出るね」

 大学のメインストリートで別れたあと、僕は事務所を目指した。

 すると。

「あっ、真中くん!」

 と、後ろからほんわかした女子力の高い声をかけられた。

「こんにちは」

 振り返ると、東雲真理菜しののめまりながふわふわした笑みを浮かべて立っていた。彼女は、そのままとことこと歩いて、僕の隣についた。

「最近、寒いですね」

「うん」

 同い年だからといって、ちょっと知り合ったくらいでタメ口になるのはいかがなものだろうかと、夏頃から僕は密かに思っていた。

 そういえば、いつもストーカーのようにくっついているカレシがいない。吉岡本人の目的は、彼女が妙な怪異にとりつかれないように監視するというもので、そういう意味では今この瞬間にも(というか、僕と鉢合わせするような場合があるからこそ)東雲カノジョを見張らないといけないと思うのだが。

「そういえば吉岡は?」

「ああ、ちょっと風邪、ひいちゃったみたいで。困るよね。演奏会前なのに。関ヶ原くんもご機嫌斜めで」

「そうか……」

 とはいいつつも、何か妙な胸騒ぎがする。吉岡が風邪。あの頑丈で剛健そうな奴がか。それも、この時期。

 彼らが所属している縦波大学合唱団は、クリスマスイブに定期演奏会を行うのが恒例行事となっている。おそらく、その昔、団内での恋愛が当たり前に多かった頃に慣例になったのだろう。

 ともかく、そんな大事な時期に、吉岡が体調を崩すとは考えにくい。なおかつ、あいつが一般人として生きるならば、就職活動も始まるこの時期に、悠長に風邪など引いているはずがない。彼は、それほどまでに体調管理に長けている。

「そういえば、真中くん、あの」

 と、東雲真理菜は、不安げな表情をして、上目遣いに僕を見つめた。

 うん、まあ、咲子の六割くらいの威力かな。十分オーバーキルだけれど。

「どうしました?」

「最近、ビリーを見るの」

「ビリー?」

 それは、彼女が生み出した幻影。

 吸血鬼にして侍。

「この大学で、ちらっとだけ。でも、もう一度見ようとすると、いない。そんな感じなんだけど……」

 東雲の表情が徐々に暗くなる。

 確かに、ビリーが大学で見かけられるとなれば、一大事だ。彼はあの事件の後、六本木舞のもとに向かっただろうし、その手下として動いている可能性が非常に高い。先日、彼女に対して宣戦布告をした(というか、させられた)以上、僕か東雲か、はたまた別の誰かをつけねらっていることは明らかだ。

「それは、また……」

「あと、なんか最近大学の空気が、おかしいような気がするの」

「あんたまでそんなことを言うのか」

「じゃあ、他にもそういうことを言う人がいるのね!」

「あ、ああ……」

 しまった。探偵として今の凡ミスは許されないな。

 まあ、本当のことを言うと僕は探偵ではないのだしいいのだろうけれど。

「もしかして、今、その謎を追っているのね?」

「まあ、うん、そんなところかな」

 とりあえず適当にごまかしておこう。

「カズから聞いたんだけど、なんでも、大好きだった幼馴染みの女の子を救うために、こんな仕事をやっているんだって? なんだかカッコいいね!」

 東雲真理菜は瞳を光らせた。なにやってんだよ吉岡。早く風邪治せよ。

 まったく、これだから困るのだ。僕と咲子の関係は、そんなに単純に模式化できるものじゃない。一般化することのできない特殊なケースなのだ。

 とはいっても、事情を説明することもできなければ、目の前の女子大生にわかってもらう必要もないわけで。

「いや、それほどでも」

 こういう答えしかできなくなる道理。

「なんだか、運命を背負って、日常じゃないものと戦ってるって、すごく憧れちゃいます。まあ、私のカレシがあんなんだからかも知れないんだけど」

 東雲真理菜は強気に攻める。さしずめこぼれ球を拾ったフォワードのように。

 いくつかツッコミをいれたくてしょうがないのだが、眞鍋のようにはいかないしツッコむことそのものが野暮なケースのようだ。非常に残念ながら。

「うーん……まあ、とにかくやるしか、ないんだよね」

 嘘もつかず、本当のことも言わない。

 そういうコメントをするしかないのだ。

「真中くんのおかげで、その子も、大学のみんなも、救われるといいですね」

 そう言いながら、すっかり長く伸ばしてセミロングのお姫様カットになった黒髪を靡かせながら、現代に舞い降りたマリー・アントワネットは歌うように坂を下る。

 まさかとは思うけれど。

「あの、もしかして……」

「事務所まで、連れていってもらえる? さっきも言ったけど、やっぱり怖いの」

「はあ……」

 ただただ、ため息をつくしかなかった。

 そりゃ、まあ、しょうがないのだけれど。


「成る程……確かに偶然とは云い難いわね。これほどの怪異いたずら、貴方だけでは対処どうしようもないでしょう」

 事務所の主、御厨智子みくりやともこは、僕の報告を聴き終わった後、まずそう言った。

 文字が乱れる怪異。

 学内に漂う不穏な空気。

 そして、見え隠れする吸血鬼侍の影。

「でも、これで舞の全力フルコースとは、少し思えないわ。彼女にしては、本気を出していないような、そんな予感がするわね」

 本当はもう一つあるのだが、それは御厨に相談する前にある程度解決してしまっているし、ここで言うこともないので言わない。

「まあいいわ。とにかく、東雲さん、貴女、十分に気をつけて。一度怪異こちらに関わったら、今後も関わりやすくなるから」

《偶然は二度起きる程偏ってはいないのよ》

 ふと、真夏のある日に言われたことを思い出した。

「はい、どう気をつければいいかわからないですけれど、気をつけます」

 東雲真理菜は殊勝にそう言った。

「とにかく、まずは吉岡くんの看病をしてあげることがいいかしらね」

「でも、彼……」

「家が遠いんですよ、吉岡と東雲さん」

「それでも、貴女なりの看病は、出来る筈」

 御厨は、口調はやんわりと、しかし厳然とした表情でそう言った。

「はい……がんばってみます」

 彼女はそう言って、札切に促され、事務所を出ていった。

「まったく、どうしてあんな嘘なんか」

「嘘? 私、嘘なんて言ったかしら?」

「普通の人間は、怪異に一度関わったら、それ以降はないって、随分前におっしゃってましたよね?」

「そう。普通の人間であれば、ね」

「なるほど……」

 マジかよ。本当に普通じゃないのか。

「彼女は、吸血鬼を具現させてしまった怪異ことによって、すでに単なる凡人ひとでは無くなっているわ」

「なるほど」

「あと、貴方、そのまま黙っていると死ぬかもしれないけれど、どうするの?」

 うわあ。

 いきなりだな。

「いや、大丈夫でしょう。実際、今日まで死んでなかった訳ですし」

「そう。とにかく、運が悪いというただそれだけの理由で、私は貴方を失いたくはないわ。どうかしら?」

 と、言われているが。

 実際これはある種、プライベートな話題なので。

「そう。なら、事態が悪化しないように、私も最善を尽くす必要があるのね」

 と、煙管を取り出して、煙草を詰め始めた。


 水嶋准教授にメールを送ってみたが、返ってくる気配はなかった。

 ビリーの居場所も、当然ながらつかめるはずがない。どう考えても捜査が難航するとしか思えない。

「なんか進展あった?」

「ダメだ。まったく」

「吸血鬼侍は?」

「いかんせん気配だけだしな」

「そう」

 眞鍋はふーんと、考え込むように顔をあげ、右手の人差し指を顎の上に乗せた。

 どこかで見たことがある仕草だ。よく思い出せないけれど。

「とりあえず、先生まで巻き込まれてるのはなかなか大きいよね。いままで学生だけだったじゃん」

「ああ、そう言われてみれば」

 確かに、東雲真理菜しののめまりな雨宮桃子あめみやももこ佐貫悠太郎さぬきゆうたろう三嶋みしまさくら、関ヶ原健一せきがはらけんいち坪井浩之つぼいひろゆき巴希美子ともえきみこ、そして吉岡和則よしおかかずのり山崎修司やまさきしゅうじ。ここまでは全員が学生だ。しかし、今回は水嶋准教授まで怪異に巻き込まれているし、彼に至っては消息すら不明なのだ。

 薄気味が悪い。いったい六本木舞は何を考えて、水嶋准教授をこちら側に巻き込んだのだろうか。

「なんだか、大変なことにならなきゃいいね」

 眞鍋は自分の身に起きたことを棚に上げてそう言った。


 それからしばらくして、また小谷准教授に呼び出された。

「水嶋先生の行方がわからなくなっているそうですね」

 彼女はそう切り出した。

「はい、僕も連絡がとれなくて困っています」

「論文の件はなんとかなったので大丈夫なのですが、さすがに少し心配ですね」

「はい」

 よく見ると、小谷准教授の部屋は、数日前に訪れたときよりも整理されていた。それでもどこか雑然とした雰囲気があるのは、彼女の精神が決して良好であるとはいえない証拠なのかもしれない。

「何か連絡が入ったら、私にも教えてくださいね」

 小谷准教授は心配そうにそう言った。

 僕は研究室を後にした。

 その時だった。

 携帯がメールの着信を告げる。

 見たことのないメールアドレスだ。

「何だ、いったい」

 本文を開くと、こんな文字が現れた。


>Mr.MANAKA

I need help.

Please come to TATENAMI Sta. South-Eastside at 1700.

R.M ap


 何故英文なのかわからないが、ともかく水嶋准教授(か、もしくはそれに擬態した誰か)からのメッセージであることは確かだ。署名の後のapは「Assocate Professor」、つまり准教授の略記号だろう。

 しかし、縦波駅の南西口とは、随分人通りがまばらな場所を選んだものだ。午後五時とは言っても、あまり使われていない出口であるため、こんな真冬の寒空の下では閑散としているし、なにもここを指定しなくてもいいだろうと思うのだが、それほど人目につきたくない用事でもあるのだろうか。

 僕は時計を見た。午後三時三十五分。家に帰ってゆっくりと支度をしてから向かえばちょうどかな。

 そう思って坂を下った。


 アパートの階段を上がると、札切零七ふだきりれいなが僕の部屋から飛び出してきた。

「え?」

 思わず声が出た。

 札切の左目がきっと僕を睨んだ。そしてすぐにふるふると震え、涙が浮かんだ。

「えええ?」

 どういうことなんだよ。

 彼女の右目の眼帯が痛々しいくらいに白く、また中途半端に延びた髪は、ほんの少し傷んでいるように見えた。

「お前、どこ行ってたんだよ」

 六本木舞との圧倒的な能力の差を見せつけられて、彼女はどこかに姿を消したのだ。「修行する」という言葉を残して。

 そんな僕の言葉をまるで聴いていないかのように、札切はつかつかと歩み寄った。

「真中!」

「うおっ」

 彼女は僕の胸ぐらを摑みあげた。その瞳は涙に濡れながら光っている。

「おい、落ち着け。何があった」

 わけがわからないぞ。

 と、憑き物が落ちたかのように彼女の瞳から光が消えた。

「……いや」

 どさっ。

「いてっ」

 僕はアパートの廊下に腰をたたきつけられた。

「なんでもない。ただ、お前の顔が見たかっただけだ」

 立ち上がった僕はうつむきがちの彼女の顔を見ることが出来なかった。

 なんなんだよ。

 そして札切は、ポケットから出したくしゃくしゃの紙をビリビリに引きちぎり、オイルライターで火をつけた。

「じゃあな。そう遠くない未来に、また逢うことになるだろう」

 そう言って彼女は一瞬でオレンジ色の炎に包まれ姿を消した。

「なんだったんだ」

 もはや、夢だと言われても不思議ではない。僕の部屋から出てきて、僕をつかみあげて消えるって。

 まあいいや。

 僕は部屋に入る。

「あ、おかえり」

 眞鍋の声が出迎えた。

「なあ、ゼロがさっきまでいなかったか?」

「うん、いた」

 眞鍋も今帰ってきたばかりといった様子で、まだポンポンのついたニット帽をかぶっている。

「そういえば、鍵持ってた? のかな? なんか私が帰るより先にいて、なんか書いてたんだけど、私に見られたらまずかったみたいで、なんかすぐ飛びだしていっちゃった」

 眞鍋の表情がどんどん怪訝なものに変わっていく。

 考えれば考えるほど、札切の行動は意味が分からない。

 考えてみれば、札切は僕と眞鍋の関係性を知らない。あの日以降僕らは会っていないのだから。眞鍋の怪異が現れたのはちょうどその日、あの後なのだから。

「なんだったんだろう」

「しーらない」

 眞鍋は帽子をぬいで畳によこたわった。

「暖房も使ってたみたいだしね」

 あいつめ。今度会ったら暖房代を請求してやる。

 と、そんなことをしている場合ではなかった。

「さて、僕はこれから仕事だ」

「人に会うの?」

「そんなところ。水嶋准教授に会いにいくのさ」

「ふーん。気をつけてね」

「ああ」

 そうして僕は家を出た。

「あれ」

 外は雪がちらついていた。

 とたんに耳が痺れ始めた。


 人でごった返している縦波駅の中でも、最も寂れていて、最も小さな出入り口が、縦波駅南西口である。そこは、申し訳程度にある駅前の小さな噴水広場があるだけで、そこにもほとんど人はいない。

 辺りはすでに暗くなり始めているし、雪はちらついている。ある意味、僕らのような人間にとってお誂え向きかもしれない。灰色に染まった景色と、凍り付いた硬質な空気が頬を打つ。なんだかいやな予感がした。

「真中どの」

 声が聞こえる。

 目の前に、こんな冬でも和服姿の背の高い外国人のような男がいた。

 吸血鬼侍、ビリー。

 東雲真理菜の想像力と、六本木舞の能力によって生み出された、人型の怪異そのものである。

 その彼が、刀を抜いて、わずか数メートルの距離にいる。命の危険を感じた。

「僕を呼び出して、殺すわけか」

 やっぱり水嶋准教授は偽物だったのか。

「そんなつもりは無かったが……しかし、先生のお言葉でござる。命の恩人ながら、六本木先生には逆らえぬ御身。ご覚悟」

 そう言うとビリーは刀を振りあげて斬りかかってきた。

 札切と対峙した時よりも素早くて僕はかわすことが出来なかった。

 僕は一般人だ。残念ながら、ここまでのようだ。

 刀がスローモーションになる。人間は、避けようのない死を認識したとき、時間の感覚がゆっくりになると聴いたことがある。もう、僕は死んでいるのかもしれない。

 そう思った瞬間。

「な……なぬ」

 僕は斬られていなかった。ビリーの刀の切っ先が、僕の眉間の数センチ先で止まっている。

「斬れぬ! 何故だ!」

「そらそうだ」

 ふと、駅への入り口から、長いトレンチコートを羽織った長髪の男が現れた。

 水嶋准教授だった。

「よう、また会ったな」

「な、貴様は斬り捨てた筈……」

「あんたが斬ったのは、俺が用意した『Dummy』。そんなこともわからなかったのか?」

 水嶋准教授は颯爽と登場すると、コートの中から小さなメモ帳を取り出し、


 Attack Billy.


 と唱えた。

 メモ帳からたちまちブロック体の英字が大量に飛び出し、ビリーに向かっていく。

「わ……な」

 ブロック体に囲まれるビリー。英字たちは、ビリーを取り囲んで、ときたま矢を射るように、文字が文字を投げ飛ばして攻撃している。突き刺さった文字が当たった場所は黒く変色し、溶けて消えていった。

 ビリーの身体が、徐々にではあるが、こうして文字たちに食われていく。

「先生」

 僕は水嶋に呼びかけた。

「おう、真中くん。元気そうでなによりだな」

「あれは……」

「君もこちら側の人間ならわかるだろう。俺たちにとって、自分の能力という情報を、どれだけ機密にすべきものなのか」

 と言いながら、彼は駅へと向かおうとした。

 どうやら、水嶋准教授も何かの能力者であるようだ。

「待て!」

 後ろからビリーのはっきりとした声が聞こえる。

 ふと見ると、ところどころ穴があいているものの、彼は文字たちを消していた。どうやったかは、見ていなかったのでよくわからない。

「あー、あんなもんじゃ足りなかったか」

 水嶋はあからさまに嫌な顔をした。

「二人まとめて斬り伏せてくれよう」

 ビリーはそう言うと、自分の左手の親指にかじりついた。刹那、彼の全身が真っ赤になり、太く逞しく膨らんだ。

「自己吸血か。本気で俺たちを殺したいらしいな」

 水嶋はクールに言いながら、メモ帳を二ページ破って足下に敷いた。


 Protect us.


 と唱えると、文字の大群が僕らを取り囲む。

「ああ、でもこんなんじゃ役に立たないわな。向こうはパワーアップしてんだから」

 水嶋がそう言い終わると、ビリーは変わり果てた姿で不敵に笑みを浮かべていた。

「これで貴様等にはどうすることも出来まい! 今度こそ死んでもらう!」

 あちゃあ、もうこれ、原型なくなってるよ。東雲真理菜が見たら悲しむぞ。

 その時だった。

「きゃあ!」

 と、一番聴きたくない声を聞いた。

「なんだか、穏やかじゃない感じだねえ」

 水嶋准教授は落ち着き払った態度で、メモ帳からピンク色の付箋がついたページを破り捨てると、


Start.


 と唱えた。

 直後、ピンク色の付箋は燃え落ちた。

「あちゃー」

 水嶋が困った顔をする。

「どうしました?」

「俺じゃどうにもならんらしい。というか、もうすぐあいつは死ぬんだと」

 付箋のついていたページを拾い上げながら、水嶋はそう言った。意味がわからない。どういうことなのだろうか。

 そんな間にもビリーは文字の守備部隊を刀でなぎ倒していく。

「ビリーやめて!」

 遠くから、東雲真理菜の声がした。

「その声は、真理菜どのでござるか……?」

 しかし、東雲の声はするが、どこにも彼女の姿はない。

「なーんちゃって」

 呆然とする吸血鬼侍の前に、蝙蝠の翼と尻尾の生えた、下着姿の女が素早く入り込んだ。その胸はグラビアアイドルなみに大きく、今にもはちきれそうだ。

 眞鍋陽子はビリーを押し倒して、その唇にキスをした。

「んぐ……」

 赤く上気したビリーの身体がびくん、と震えたあと、彼の身体から徐々に血の気が引いていき、しばらくして動きを止めたかと思うと、全身が老人のようにごわごわとした質感になり、やがて指先から灰のように崩れていった。

「っはー。さすが、吸血鬼はレベルが違うわ。おなかいっぱい」

「……なんだ、こいつ」

 眞鍋は僕のほうを向くと、にこっと笑った。

 自分ですら苦戦しかけるビリーを、一瞬で倒した彼女に、水嶋は驚きを隠せなかったようだ。

「というか、寒くねえのかよ」

「んー、このモードになると大丈夫みたい。……なんかよくわかんない」

 よく見ると、眞鍋の髪はしなやかで上品な金髪になっていた。吸精鬼サキュバスが金髪と決まったわけでもあるまいに。

「あ、水嶋先生ですよね?」

 眞鍋は呆然と立ち尽くしている水嶋を見つけた。

「ああ、あれ……君、うちの生徒なの?」

 水嶋は信じられないといった様子で僕と眞鍋を見る。

「はい、経済システム学科の眞鍋です」

 そう言ったとたん、彼女の身体がピンク色の光に包まれ、元の姿をとりもどした。髪の色も就活ブラックに戻っている。

「眞鍋……俺の授業、受けてたか?」

「はい、一年の時に、基礎演習で」

「あ……思い出した。一枚半しかレポートを書いてこなかったな?」

「はい、あの眞鍋です」

 水嶋は苦い顔をした。

 そうして僕の方を向いた。見事なまでに呆れ顔の水嶋准教授を、僕は初めて見た。

「あのねえ真中くん、君がどんな女性関係を持とうがぼくはいっこうに構わないけれど、なにも、彼女にすることはないだろう」

「えーそれどういう意味ですか?」

 眞鍋が不服そうに口をとがらせた。

「君は研究者として向いていると思っていたのだが、どうやら違うようだ……」

 どうやら水嶋准教授は僕の学者としての素質を高く買っていたようだ。そんなことは知らないし、知る必要もないのだが。もうなる職は決まっちゃってるし。

「先生は、僕のことをそう見ていたんですか?」

「ああ、だから帝都大学の大学院を勧めたんだ」

 そういえばそんなこともあったな。

「まあ、いいわ。どうやら君には、進むべき道があるようだから。俺の右腕になるには、君はあまりにも酷い運命を辿っているな」

 散々な言われようだ。

「まあ、僕もそこまで先生のお世話になるつもりはありませんし、眞鍋のことでとやかく言われたくはないですね」

「なんかそのセリフかっこいいな」

 外野がなんか言ったが聞いていなかったことにしよう。

「そりゃ、俺だって口を出したくはない。だが、吸精鬼は……君には荷が重すぎないかい?」

《貴方、それがどれだけ重い宿命ものなのか、本当に判っているかしら?》

 御厨と同じことを言う水嶋。

「これ以上重いも軽いもないんです。僕は、普通の人間としてはすでに背負いきれないほどのものを抱えていますから」

 僕は、御厨と同じ答えを、目の前の男に返した。

「そうか、ならいい。私が間違っていた。……そろそろ仕事が終わるし、あと二、三日で復帰すると、小谷先生あたりに伝えてくれないか?」

「ええ、もちろん」

 どういう関係なんだ、とはあえて聞かないことにしよう。

「では、また研究室で会おう」

 水嶋准教授は、噴水広場を立ち去ろうとする。

「先生」

 僕は彼を呼び止めた。

「何だ? ゼミについては後だ」

 水嶋は皮肉げに微笑む。

「いえ、違います。ひとつだけ教えてください。……先生は、言霊師ことだまし、ですよね?」

 僕の質問に、水嶋亮介准教授は、些か狼狽したようで、目を丸くした。

「ああ……そうだが。よく、わかったな」

「知り合いに、同じことを言った人がいましてね」

「なるほど……確かに、この稼業の奴らは、みんな俺と同じことを言うだろうからな……では、時間だ」

 と、水嶋准教授は、メモ帳からページを破って、


 bye.


 と唱え、消えた。

「ねえねえ、言霊師ってなに?」

 どこか微妙な距離を保っていた眞鍋が、いつの間にかすぐ近くにいて、それにすごく驚いた。

「そんなびっくりした顔しないでよ」

「いや、むしろなんで今まで距離とってたんだ」

「水嶋先生が苦手だから」

 それはなんとなくわかっていた。

「で、言霊師って?」

 眞鍋の視線はいつになく、有無をいわさないものだった。

 わかったから。

「事務所に向かいながら説明するんでいい?」

「なんで事務所いくの」

「たぶん、ボスもそっちにいるはずだから」

「へえ、まあいいや」

 眞鍋はわかったのかわかってないのか、それすらどうでもいいのか微妙な表情で、駅に向かう僕についていった。


 言霊師。

 それは、文字通り、「ことば」を操って超常現象を引き起こす能力のある人間のことである。しかし、あくまでも人間の範疇であるため、呪術師や霊能力者の下位にあたる。

 逆に言ってしまうと、修練さえ積んでしまえば、誰でも言霊師になることはできる。ただし、その上位にある呪術師になれるかどうかは、生来からの怪異に対する親和性で決まる。御厨智子と六本木舞は、「怪異を司る者」の定義上、どちらも言霊師出身の呪術師ということになっており、札切や吉岡のような霊能力者とは厳密には異なる。

 といっても、どこが異なるのか、僕もよくわからないのだが。

 それに、御厨智子も六本木舞も、「魔女」と呼ばれている。それも、理由がよくわからない。もっとも、理論や制度がきちんと存在するわけでもないから、これでいいのかもしれないけれど。

「ふうん、わからないものだらけなんだね」

「まあ、そういう世界なんだろうな」

 地下鉄の喧噪の中、眞鍋の着ているダウンジャケットのもこもことした圧力を感じながら、僕は、自分が改めて何もわかっていない単なる人間に毛が生えた程度の存在だということを思い知った。この程度じゃ、とても探偵なんて、恥ずかしくて名乗れない。

《君は名探偵ではないけれど、探偵にはなれるよ》

 生粋の名探偵から言われた皮肉が脳裏をよぎった。そういえば、彼はいったい今、何をしているのだろう。

「私たち、どうなるんだろうね」

「知らない」

「そこは知っているフリをしなきゃだめでしょ」

「そうなのか?」

 そういうことは全くわからないのだ。

「いや、たぶん」

「なんだよ、知らないのかよ」

「よくわかんないもん」

「そりゃそうか」

 地下鉄のスピードがいつもより遅い気がするのは、気のせいなのだろう。

 地下鉄は「ヒルズ南」駅を出たばかりだった。

 と、電車が止まる。

 外は暗い。

「お、どうした?」

「なんだろ」

 電車が急に止まったことで、車内はそわそわとし始めた。

「本日も縦波市営地下鉄をご利用いただきありがとうございます。現在非常停止信号によって停車しており、係員が確認をしております。お急ぎのところ申し訳ありませんがいましばらくお待ちください」

 とのこと。

 非常停止とはものものしい。いったい何があったのだろうか。

「なんか、嫌な予感がするな」

「私も」

 僕らは顔を見合わせた。眞鍋の眠そうな一重まぶたが、怠惰に見つめている。つぶらな瞳はどことなく家畜のような従順さを想起させることに気がついた。なるほど、確かに。

「なんか失礼なこと考えてる」

「いや、別に」

「顔がぶたさんみたいだって思ったでしょ」

「いや、そこまでは」

 本当はもっと酷いことを考えていたなどとはいえない。

「だいたい豚に似てないだろ、どこも」

「そうなの? 昔田村くんにこぶたっぽいですよね、って言われた」

 ああ、なんか言いそう。

「あいつの言うことを気にするのか」

「まあね」

 と、地下鉄のスピーカーがごご、と音を立てた。

「確認をとりましたところ、この先のヒルズ中央駅で火災が発生したことによるものと判明いたしました。この電車は最寄りのヒルズ南駅に停車し、一時運転を見合わせる予定です。みなさまには大変ご迷惑を……」

 場は騒然となった。車内の殆どの人間が携帯電話を取り出して、情報収集に努めている。

 しかし、よりにもよってこんなこと、あるのだろうか。到底偶然とは思えない。


 仕方なく、ヒルズ南駅で降り、そこから事務所を目指すことにした。

 眞鍋がめざとく地図掲示板をみつけたおかげで、なんとかこれだろうという道を見つけて、たどり着くことに成功した。

「待っていたわ」

 御厨智子は、藤色の豪奢なワンピースを着ていた。


「……と、いうわけです」

「そう。有り難う」

 僕は文字の怪異の顛末をすべて話した。

「山崎くんに関しては?」

「よくわかりませんが、おそらく水嶋先生が深く関与しているんじゃないかと」

「それはそうでしょう。けれど、彼の怪異はまだ、終わっていないわ」

 御厨はぴしゃりとそう言った。

「え、でも、ほぼ解決したようなものじゃ……」

「貴方は、舞がなぜわざわざ『フルコース』と云ったのか、考えたかしら?」

「いえ」

 僕がそう言うと、御厨は冷笑をうかべた。

「あとね、眞鍋さん」

 御厨は呆然とする僕を無視し、眞鍋に目を向けた。

「残念だけれど、貴女が関われるのは、ここまでよ」

 そう言った御厨の目は、どことなく僕らをあざ笑うようだった。


「ちょっと、自分のとこ戻るわ」

 別にさっきのを気にしているわけじゃないんだけど、と前置きして、眞鍋は僕の部屋から出ていった。

 思えば、あれからだいたい一ヶ月ほど、この部屋で眞鍋と半同棲の暮らしを続けていたことになる。冷静に考えなくても、今までが異常すぎた。

 にしたって、あのひとことをそこまで気にしなくてもいいのに、とは思うが、言えるはずもない。

 御厨はどうしてそんなことを言ったのだろうか。

 フルコース。

 そして、ここから先は眞鍋が関われないということ。

 外は相変わらず雪がちらついていて、地面は粉砂糖がかかった洋菓子のような雪化粧がされていた。

 何か、重要なことを見落としているような、そんな気がする。

 すると、携帯電話が震える。

「おう、どうした」

「フヒトさん、チッス」

 電話の奥から坪井の軽薄な声がする。

「今家のまえにいるんだけど、ラーメン食いにいかね?」

「……今からか?」

 夜もだいぶ更けているが。

「おう。ほら、前期のやつもあるしな」

「なるほど」

 僕は扉を開けた。

 外には雪にまみれたロングコートの坪井がいた。髪の色は就活ブラックになっている。コートの隙間から覗く黒い背広は、どことなく似合っていない。

「就活か」

 しかし似合っていない。こんなんでちゃんと就職できるのかこいつ。それくらい似合わない恰好だった。

「今似合ってないって顔したなお前!」

「いや、だって、似合ってないだろ」

「知っとるわ! ほれ、浜根屋はまねや行くぞ!」

「浜根屋? 遠くないか?」

 浜根屋とは僕や坪井がいきつけのところで、大学周辺では一番遅くまで営業しているが、ここからは少し遠い。

「うるせえな。俺は今ネギ塩ラーメンが食いたいんだよ行くぞ!」

 坪井はやや強引に僕を連れ出そうとする。

「待て、この格好で出たら凍え死ぬ」

 慌ててコートを着て、外に繰り出す。

「そんなんだからカノジョに逃げられんだろうが」

 坪井の罵声はこの際無視だ。


「ネギ塩ラーメン大盛りネギ多めです」

「おっ、あざーす」

 浜根屋は、縦波のご当地ラーメンである「屋根系」の流れを汲んだ、あっさりとした塩スープに中細のちぢれ麺、そしてラー油のたっぷりかかった白髪ネギをあしらったネギ塩ラーメンが主力の、学生に優しいラーメン屋である。

「先頂くぜ」

「おう」

 坪井は山盛りのネギを前にしてそうそうこれこれとつぶやいた後、麺とネギを絡めて食い始めた。

「あーっ、やっぱうめえな!」

 大げさだな。何回通ってると思ってるんだ。

「ネギ塩ラーメン普通盛りカタメノリマシカルビ、お待たせしました」

「どうも」

 カルビ。

 この店の裏トッピングだ。二百円とお高めだが、ネギに塩とくれば豚カルビ、というようにこれが死ぬほどうまい。

 そしてもちろん。

「小ライスです」

「どうも」

 いやはや、贅沢。

「人の金で食うカルビはうまいか」

「うまいに決まってんだろ。それに、元はといえば僕のバイト代だからな」

 僕はネギを豚カルビで巻いて、口の中に放り込んだ。シャキシャキした食感とこってりとした脂が口いっぱいに広がる。

 全乗せだろうがなんだろうが好きなものを頼めと言ったのは坪井だ。当然カルビだって乗せていいはずだ。

 僕はそう思いながら、ご飯をかき込んだ。

 うまくないはずがなかった。

 そして、麺をすする。それはあっさりと、喉をながれていった。

 これを食うと、いろんなことがどうでもよくなる。

 実際僕は怪異のことなど、どうでもよくなっていた。

「つーか、フヒトさんってほんと就活しないの?」

「ああ、言っただろ、僕の職業はもう決まってるって」

「そうなんだな。まあ、お前が就活とか、無理だと思うわ」

 お前に言われたくねえ。

「合同企業説明会とか、ほんとしんどいぜ。朝から晩までいろんな企業見て、人事なんだか営業なんだかよくわかんないけどおねーさんが説明して、でなんかみんな一斉にメモ取ってんの。授業じゃ全然そんなことしなかったし、そういうクウキじゃねえじゃん。なんかウケるよな」

 なるほど。

「フヒトさん超マイペースだからな、きっとああいうとこ行ったら浮くぜ。超浮くって」

「だろうな」

 想像に難くない。人混みは苦手だし、一瞬で心が折れるだろう。

「ところで坪井、アレは、もう大丈夫なのか?」

「アレ? ああ、吸精鬼ならもう来ないよ、大丈夫」

「そうか。それはよかった」

 僕は麺を啜りながら、自分の勘が外れたことに気付いた。


 雪はやむ事がなく、しんしんと虚空を舞っている。

「はー食った食った」

 坪井はコートを羽織って満足そうに笑った。

「フヒトさんも元気出たみたいでよかった」

「ああ。ありがとうな」

 不本意ながら坪井によって救われたことは事実である。

「まあ、そりゃ修羅場っぽかったもんな。まさかお前が女子高生と二股をかけられるような奴だったとは」

 坪井はにやりと笑みを浮かべた。

「待て、お前、どこから見てたんだ」

「いや、たまたまセーラー服の女の子がお前の部屋に入るのを見たから、おっと、って思ってたら、そのあとに見たことある女が同じ部屋に入るし、そこにフヒトさん帰ってくるし……」

 どうやら、さっきの札切と眞鍋とのゴタゴタをたまたま見ていたようだ。それが原因で眞鍋がいなくなったわけじゃないんだけど。

「しかもまた、荷物結構抱えて女の子が出て行ったじゃん。これは決まりだなって」

「はあ」

「まあ元気出せよ」

「おう」

「あとどっちか決めて土下座でもなんでもしとけよ。お前の好みは知らんが、俺的には女子大生のほうがいいな。おっぱいでかいし、ヤりがいがありそうだ」

 本当に最低な奴だな。

「心配してくれて、ありがとうな」

 そして、坪井のおかげでひとつ、仮説を立てることができた。

 家に帰ったら確かめないと。

「じゃ、また」

「おう、内定とったらおごってくれよ」

「ああ、期待してる」

 そんな会話と共に、僕らは別れた。


 家に入ると、まず僕は自分の仮説を確かめたくなった。

「おい、いるんだろ」

 虚空に向かってそう語りかける。

「観念しろ、札切二三ふだきりふみ

「全く、しょうがない奴だな」

 その声と共に、目の前に札切二三がぬっと現れた。

「なぜ分かった?」

「ゼロが僕の部屋に入る必要性も、理由もそれくらいしか思いつかないからな」

 彼女が僕の部屋に隠れていると分かれば、札切零七はどんな方法を使ってでもそこに向かうだろう。

 札切二三に、とどめを刺すために。

「なるほど」

「あと、希美子さん煽動したの、ゼロじゃなくて、あんただろ」

「ああ、そうだ」

「ビリーと水嶋先生をぶつけたのもあんただな」

「もちろん」

「ということは、大学に妙な空気を張って能力者をおびき寄せたのも」

「私だ。それ以外いないだろう」

 そして全く隠さない。

 志島咲子は、彼女の存在を恐らく知ることが出来ない。なぜなら、札切二三はすでに死亡しており、幽霊であるからだ。

 幽霊なのに霊能力者。

 この言葉遊びのようなふざけた存在は、生前は札切家きっての秀才との呼び声が高かった彼女だからこそ顕現される。

「僕の部屋にいるのは、僕と眞鍋を監視するため」

「そうだ」

 札切二三は、呆れたような顔をしている。

「しかしなあ、真中。お前はなんというか……鈍いな」

「なんだよ」

「もっと早くに気付いてもらいたかったものだ。全く、私はずっと君らを見てきたんだ。その……かなり、しんどかったところもある」

 なるほど、そりゃそうだ。カップルがいちゃつくところを見たいと思うのは、よほどの変態だけだ。

「で、六本木舞はどこにいるんだ?」

 僕はいい加減彼女と決着をつけたいのだ。

 だが、そういうと札切はふふ、と嘲笑し、

「私の居場所も当てられたということは、おおよそ察しがつくはずだが」

 と言った。

 いや、全然わからないんですけど。

「六本木舞、あいつは今回、お前とんだ。それをよく考えろ。じゃあな。私はお前に存在がばれた時点で任を解かれることになっている。零七によろしく頼むよ」

「六本木舞が、僕と遊ぶことをやめた?」

「ああ、今まではお前と遊んでいたんだ」

 では、彼女の本当の目的は一体なんなのか。

「じゃあな」

 札切二三は音もなく消える。


 六本木舞の目的。

 それが分かるはずもなく、僕は眠りについた。



 歩いている。

 ただ、歩いていた。

 何も無い、真っ黒に広がる空間を、僕は歩いていた。

 今までなら、そこに咲子がいたはずだった。

 けれど、今日は誰もいない。

「咲ちゃん?」

 呼んでも、返事はない。

「ここは、少なくともその次元くうかんではないわね」

 ふと振り返ると、御厨智子が、勝負服の藤色のワンピースを着て虚空に鎮座していた。

「智子さん」

「どうやら、舞は貴方と咲子ちゃんの関係に気がついてしまったみたいね。だからこそ、眞鍋さんを吸精鬼にしたり、水嶋先生が動くように誘ったりした」

 なるほど。

 それなら、今までの動きは納得できる。

 眞鍋を使って僕を内側から崩壊させようとしたり、咲子から引き離そうとしたり、挙句の果てには札切姉妹まで動因しているあたり、六本木舞の本気が伺える。

「行きなさい。咲子ちゃんのところに。彼女はもう、因果ちからを持っている筈」

「はい」

 僕は駆け足で虚空に駆け込んだ。

 景色が全く同じだから、前に進んでいるという感触がない。


 ふと、妙な違和感がよぎった。


 なぜ、今まで一瞬で咲子のもとに行けたのに、今日は、それが出来ないのだろうか。

 と、額がずきずきと痛みだした。


「っ……」

 尋常じゃない痛みに、思わず額を押さえて蹲った。

 これは。

 額から、何か尖ったものが突き出ている。

「見ぃつけた」

 後ろから、何者かに抱きつかれる。

 背中に当たる大きな胸。

 わざとらしく首筋にかかる吐息。

 それほど若々しくない腕。

「僕に……何を……」

「これから起きることの、前準備かな。下ごしらえみたいな?」

 六本木舞は鼻に掛かったアニメ声でそう言った。

「な……」

「チカラを、挿れるね」

 直後、激痛が襲いかかる。

 額から、何かが生えてくる。

 骨と皮を突き破ったそれは、段々と大きくなり、僕の親指ほどにまでなった。

「これで、ふーちゃんは絶倫の鬼になりました。よかったね」

 六本木舞は、微笑みながら、僕の唇を優しく吸い上げる。

 その感触は思った以上に柔らかい。

「なに、を……」

「それは、これからのお楽しみ」

 六本木舞は、身体を離すと、やんわりと微笑んだ。

 と、直後。

 彼女の身体が横切る光に掻き消された。


「ふーちゃん!」


 涼しげな響きの中に甘い質感の声が、僕を浄化した。

 気がつくと、志島咲子が、そこにいた。

「大丈夫?」

「ああ、僕は……咲ちゃんは?」

「大丈夫。ようやく、元に戻れる時が来たね」

「うん」

「ふーちゃんのおかげだよ」

 ふーちゃん。

 元はといえば、この呼称を最初に使ったのは志島咲子なのだ。

 咲子は僕を抱きしめた。



「見ぃつけた」


 意地の悪いアニメ声が聞こえた。



 破裂音。



 衝撃波。



 そうして僕は、目を覚ました。









 どうなっているんだ。







 枕元には、手紙の便箋が置いてある。

 どうしてこれがここにあるのか。

 よく見ると、最初のページは乱暴に破りとられていた。


「もしかして」


 これは、札切が僕の便箋を使って手紙を書いていた、ということだろう。

 僕はページをめくる。

 筆ペンの裏写りが、かすかに残っていたが、文面を読み取ることは出来なかった。



真    人 



    手 、      す

私 あ    り   木     つべ      ね  た 

 の 、 は  つ   まったのです。



私、札切  は、     を お い   ております。

お  、お        。



 何のことだか、さっぱりわからない。


 携帯には、水嶋からメールが届いており、それによれば、山崎は無事に元に戻ったらしい。なんでも、水嶋が放った文字が、山崎の服についてしまったことが原因らしい。

 よかった。


 僕は、安心して、再び眠りについた。


 今度は、何も夢を見なかった。

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