Rain boots days


「おい、何してんだ! 勝手に読むなよ!」

「読んでるよー。はい、これでおっけー☆」

「☆をつけるな☆を!」

「君って結構細かいところ気にするよね」

「じゃなかったらこんなん書かないだろ」

「ああ、確かに」















 十月二十四日 火曜日 雨 「長靴を履いた巨乳」



 ひんやりと湿っぽい空気の中、僕は目を覚ました。

 予報通り、雨が降っている。

 これはいやな予感がする。

 案の定、鏡をみると髪はめちゃくちゃになっていた。とりあえず頭から水をかぶって全てをリセットする。

 こんな雨でも大学は授業がある。もっとも、たったひとコマのために十分以上も坂を上りたくないので、もうサボってしまおうかとも思う。どちらにせよ、まだ授業までにはかなり時間がある。

 僕は窓をあけた。

 ひんやりとした空気が部屋の中に流れ込む。

 すかさず窓際に置いてあった煙草の箱とライターを手にして、箱から一本取り出した。口にくわえて火をつけると、雨のにおいを少し吸ったのか若干土臭い煙草の薫りが口の中に広がった。

 あんまり吸い込むと苦しくなってせき込んでしまうので、このあたりで煙を吐き出す。

 白く濁った煙は、雨の中に拡散して、すぐに透き通って消えていった。

 下品な水音をたてながら、雨はどんどんと勢いを増していく。僕は煙草を吸いながら、二限に向かうであろう大学生の集団をぼんやりとみつめた。

 ちなみに、今このあたりを歩いているということは、すでに五分から十分ほどは遅刻することを覚悟していると思われる。その程度であれば遅刻とみなさない授業も多いだろうし、つまりは目下の学生たちはそれくらいのレベルということである。

 突如、見慣れた背中が現れる。

 佐貫悠太郎が、やや急ぎ足で坂を上っていくのが見えた。灰色の使い込んだリュックと、紺色のくたびれたコットンセーターは、傘をさしていないせいでずぶ濡れだ。

 学校に着く頃にはきっと全身濡れ鼠だろうなと思いながら、僕は灰皿に吸い殻を押しつけ、もう一本に火をつけた。

 煙草の煙を紫煙と表現するが、よくよく考えるまでもなく、紫色の煙などおとぎ話かテーマパークの演出などでしか見ないだろう。なぜ、この白く濁った煙をそう呼ぶのか、僕はわからなかった。

 いや、だが。

 確かに御厨智子の煙管きせるからのぼる煙は、ただ白いだけでなく何か不思議な色がついているように思う。

 実際は白い煙であることは明らかなのであるが、やはり御厨が現実とはすこし離れた存在だからだろう、なんとなく色がついているようなそんな気がする。

 もちろん僕が吸っている煙草は「紫煙をくゆらせる」といったような表現をすれば笑われてしまうくらいの安物だし、やっぱり何度見ても僕の吐く煙は白く濁っているだけだ。

 そんな風にとくに何を考えるでもなくぼおっとしていたその時である。


 こんこん、と優しく扉が叩かれた。


 何だろうと思い、僕はまだ半分ほどある煙草をもみ消してドアを開ける。


「うわぁ煙草くさっ!」

 そんな声とともに、小柄な女子大生が何の断りもなく僕の玄関に侵入してきた。

 学部の同期の眞鍋陽子まなべようこだ。

「それはいきなり来たお前が悪い」

 突然の彼女の訪問はよくあることだが、めんどくさがり屋の眞鍋がこんな土砂降りの日に気まぐれで僕の部屋までやってくるはずがない。

「で、なんか用か?」

 僕が訊ねると眞鍋はえへっ、と作り笑いをした。えくぼでも見せたいのだろうか。

「見てこれ! レインブーツ!」

 彼女はそう言いながら足を前に出した。

 ショッキングピンクのオシャレな長靴がそこにはまっていた。

「ああ、長靴か……」

「ちがうよ! レ・イ・ン・ブ・ウ・ツ!」

「いや、一緒だろ」

「ぜんぜんちがうから! ただの長靴だったらこんなに長くないでしょ!」

 確かに。

 眞鍋の足にはまっているのは明らかにゴム素材のショッキングピンクの長靴ではあるが、見た目はブーツのそれである。

「これいくらしたと思う? なんと八百円!」

 眞鍋の妙に低い声が玄関に響いた。

「まあ長靴だしな」

「だからレインブーツだってば!」

「というかお前、その格好……」

 いまさらながら気がついたのだが、眞鍋はびっくりするほどの完全装備だった。しかも傘はお風呂に浮かべるアヒル隊長のようなどぎついレモン色、雨合羽(っていうと眞鍋に「レ・イ・ン・コ・オ・ト!」と怒られるから僕は決して彼女の前ではそう言わないが)はこれまた秋の空を模したようなスカイブルー、そしてその下には小さな紫色のナップサック、くすんだ緑色のワンピースに紅色のニーソックスときて、最後にショッキングピンクの長……レインブーツ。

「小学生かよ!」

 色彩がひどすぎる。ちょっと前の現代アートかよ。

「えへっ! よーちゃんでーす! ななさいだよ!」

 眞鍋はぴょんぴょんととびあがってふざけた。

 身長に不相応な胸の膨らみがぽよんぽよんと弾む。

「七歳児にそんな胸の脂肪はない!」

 僕はその何カップだかわからないがおそらくAから数えたら片手で足りなくなるくらいの大きさの膨らみを指さした。

「おにいちゃんなにいってんのー? これやきゅうぼーるだよー?」

 眞鍋はおっぱ……胸の膨らみを掴んで、甘くいたいけな声を出した。普段の声からするとどこから出ているんだとツッコミたくなるようなギャップである。

 ちょっとまて、というか、それ、野球ボールより遙かに大きいぞ。

「ああ……硬式じゃなくて軟式の方ね……」

「おにいちゃんなにぶつぶついってんのーたばこくさいよー?」

「いやぶつぶつ言うのと煙草臭いのは関係ないだろ」

「たばこ! だめ! ぜったい!」

 眞鍋はどこの幼女の真似をしているのかわからないが、この言葉だけ無駄に鼻にかけた媚びるような声になってしかもわざわざ脇を締めてその胸の膨らみ、もといおっぱいを強調させるようなポーズをとった。

「七歳児はそんなあざといことしないしお前も煙草吸うじゃねえかよ。やめろ」

 さすがに悪意がありすぎる。

「あっはい」

 声がほぼ一オクターブ下がった。怖っ。

 眞鍋はさっきのテンションはどこへやら、急に力が抜けて虚ろな目で僕を見つめた。

 普段からこういう女なので別になんとも思わないが、おそらく初めて彼女を見たらきっとびっくりするだろうなというくらいのテンションの高低差である。

「あー、疲れた」

「そりゃな」

 あれだけのノリを年甲斐もなくやれば誰だろうと疲れる。しかもこんな気が滅入るほどの雨に。

「ねえ、煙草ちょうだい」

 眞鍋は虚ろな目で僕を見つめた。

 その一重まぶたの上目遣いは、咲子とは違う退廃的な色っぽさがある。

「はいはい」

 とにかくこの完全装備の眞鍋を玄関で武装解除させてほしかった。でなければ畳がずぶ濡れになってしまう。

「ちゃんと脱いでから上がれよ」

「何そのセクハラ」

 眞鍋は僕を信じられないという目で見つめた。

 信じられないのは僕の方だ。

「誰も全部脱げとは言ってねえだろ。そのあまが……レインコートとか傘とか全部玄関にかけといてってことだよ」

「ああ、なんだびっくりした。急に発情したのかと思った」

「あっそう」

 眞鍋はどこか魂のようなものが抜けた顔をしてレインコートをゆっくりと脱いでいく。そのほんの少しずつ、焦らすような脱ぎ方は、はっきり言って、無駄にエロい。

「今私のことエロい目で見てたでしょ!」

 眞鍋はニヤニヤしながら僕を見つめた。

 人の表情を読むなよ気持ち悪い。

「わかったからエロボディ自慢はもういいよ」

「自慢してないじゃん」

「間接的にしてる」

「まあべつに君に自慢してもしょうがないけどね」

「そらそうだ」

「で、ほら」

 眞鍋は畳に上がって煙草をひったくり、それをすばやくくわえたかと思うとあごを差し出して僕に火を促した。

「ん、はやく」

「そこまでやるなら自分で火をつけろよ」

 僕はライターで彼女の煙草に火をつけてやる。

「んー。ふう……」

 眞鍋は無駄に色っぽい声とともに白く濁った煙を吐き出した。

「久しぶりのエクシアたん」

「エクシアから変えたのか?」

「今ルビーの3ミリだよ」

「へえ、ルビーか」

 おっさんじゃないんだから、とはとても言えない。

 彼女の喫煙する姿があまりにもサマになっていたので、僕も吸いたくなって新しい煙草に火をつけた。

「あ、そうそうここ、においがこもるから煙は窓に向かって吐いてくれ」

「わかってるよ君の家何回来たと思ってるの」

「わかってなさそうだから言ったんだよ」

 それに眞鍋が僕の部屋で煙草を吸うのはたぶん初めてだと思う。

 眞鍋は窓の外に煙を吐き出すために僕に近づいた。

 そして窓に身を乗り出して外を向いて煙を……。


「げほっげほっ」

「あっごめーんけむかった?」

 僕に思いっきり吹きかけた。


「ごめんじゃねえよ。わざとだろお前」

「しまったバレたか」

「ふざけんな」

 ぱしん、と頭を軽くはたいた。

 おかげで僕のパーカは煙草の匂いが染みついてしまったじゃないか。

「いやなんかほら、吹きかけて欲しそうな顔してたから」

「どんな顔だよ。そんな趣味はねえよ」

「でも君ってドエムじゃん」

「まあそれは否定しないが」

 そして眞鍋は何事もなかったかのように煙草を吸い続けた。

「でさ、そろそろ僕の部屋に来た理由を教えてくれないか?」

 眞鍋の性格からしてこんな天気にわざわざ僕の部屋を訪れるということは、それなりの理由があるはずだ。

「え? ないよ」

「うそつけ」

「なんで」

「お前が理由もなく僕の部屋にくるのはもっと移動しやすい天気の時しかないだろ」

「だから、レインブーツを見せに来ただけだって」

「じゃあ帰れよ」

「やだよこんなに雨降ってるし」

「矛盾してる!」

 なんだこいつ、今回いやに手強いぞ。

「乙女心は複雑なのよ」

 眞鍋は煙草を僕の灰皿に押しつけながら言った。

「あっそう」

「そうそう」

 眞鍋はすでに吸い殻となってしまった煙草を見ながら、とてもさりげなく僕に寄りかかってきた。

「……」

 確信した。

 こいつ、絶対僕になにかをせびる気だ。

「ねえ、私おなかすいたんだけど……」

 眞鍋は僕の耳元で、ささやくように言った。

 ちゃんと胸の膨らみを僕に押しつけてくるあたりがあざとい。

「それがお前の目的なんだな……」

「昨日からウチに醤油しかない……」

「米もないのかよ。塩と砂糖は?」

「全部水と混ぜてスポーツドリンク作った……めっちゃしょっぱくて飲めないけど……」

「意味わかんねえ」

「もうお金がないよう……しくしく」

「わかったから嘘泣きしながら抱きつくのやめろ」

 しかもしくしくって。ライトノベルか。

「ごはん……」

「だから離せって!  動けないだろ!」

 僕は眞鍋をふりほどくと、キッチンに向かった。

 かといって僕も生活が楽なわけではないし、しょっちゅう自炊するようなマメさもない。

 しかし都合のいいことに、少し前に、札切ふだきりからもらった無洗米と、新聞社の代理店から新聞契約の時にもらったレトルトのカレーがあった。

「お前運がいいやつだな……」

「なんで?」

「僕は普段買い置きも自炊もしないのに、今日はなぜか食い物がある」

「そうなの? やったー! ありがとう」

 眞鍋は女の子座りをしてあどけない笑みを浮かべた。まだ飯を作ってやるとも、分けてやるとも言ってないのだが、まるで僕が眞鍋に飯を振舞うことが決定しているかのような喜びようである。

 もちろん、作るに決まっているのだけれど。


 とりあえず米は炊けるだけ炊いた。次に炊くのがいつかはわからないし、これからしばらくの間冷凍保存したご飯を食べていればこっちの食費も節約できるだろうと考えたからだ。

 そうして米を炊いている間、レトルトも温める。

 これでお昼を食べ終わったころには三限に向かうのにちょうどいい頃になるだろう。


 そう思ったその時だった。

 こんこん、と扉をノックする音がした。

 まだ午前中だというのに二人目の訪問者とは、なかなか珍しい。

 扉を開けると、背の高い中性的な顔をした女性が立っていた。同じアパートに住んでいる留学生のそんさんだった。ちなみに学年で言うと僕や眞鍋と同じ学部三年である。

「マナカ、この前のお礼してなかったナ」

 この前、僕は孫さんに日本酒をプレゼントしたのだった。もとはといえば佐貫さぬきが祖父から成人祝いに贈られたものだったのだが、佐貫は日本酒が苦手で、僕も飲まないので、近くに住んでいてもっとも日本酒が好きな孫さんに譲ることにしたのだった。

「あのポンシュ、かなり美味しかったヨ。ゴチソウサマ」

 孫さんはそう言いながら僕にふきんをかぶせたお皿を渡した。

 この寒い日に受け取ったそれは、とても暖かかった。

「いったいこれは?」

「ジツは、鶏肉を特売で買ったら買いすぎちゃって……食べきれないから唐揚げにしてみんなに配っているのヨ。マナカ、お昼はまだダロウ?」

「ああ、今作っているところだけど……」

「ほう、マナカが自炊するなんて珍しイ……」

 そう言われてしまうと否定できない。

「ん、これは、ナガグツじゃなくて……ナントカブーツだナ」

 孫さんは僕の玄関にあるショッキングピンクの異物に目ざとく気がついたようだ。

 なんとなく、いやな予感がする。

「あ、思い出したレインブーツだ。で、なんでそんなのがマナカの家にあるのダ?」

 孫さんは面白いものを見たかのように、口元をニヤつかせながら僕の顔をのぞき込んだ。


「あ、お客さん来たんだ」


 なにを思ったのか、そのタイミングで奥の眞鍋が玄関まで現れ、孫さんと会った。


「はあ、なるほどネ……」

 孫さんのニヤけが口元から顔全体に広がっていく。

「おい、マナカ、その子はイッタイ誰ダイ?」

 孫さんはニヤニヤしながら僕に聞いた。

「いや、同期の眞鍋だけど。眞鍋陽子」

縦波たてなみ大学経済学部経済システム学科の眞鍋です」

 眞鍋は普段の調子はどこへやら、僕の後ろに巧妙に隠れながら明るく少し真面目に挨拶した。

「ほう、マナカと同期でケイザイ……ということは、ワタシとも同期だナ。よろしくネ、マナベさん。ワタシはソン、中国から来タ。気軽にソンと呼んでくれていいヨ。同期だしネ。ワタシもケイザイ学部ネ。学科は違うけれどモ」

「孫さんですね、よろしく」

 眞鍋はにっこりと上品な笑みを浮かべた。

 こいつ。

「もしかしたら、ジギョウで会うかもしれないネ。というか、ワタシのコト、顔だけなら見たことあるんじゃないのカナ? 大抵のジギョウは前の方で受けているからナ」

「そうですか……私、授業にあんまり来ないから……」

「そう。なるほど、そういうことネ」

 孫さんはどうやら何かを察したらしい。

「それなら、ワタシと同じジギョウがあったら何でも聞いてくれて構わないヨ。ケータイは持っているから、あとでマナカにでも連絡先を聞いてクレ。ヒマジンだからナ、ジギョウは全部出ているシ、成績だってマナカよりずっといい自信がアル」

「そうなんですかー。すごーい」

 確かに、孫さんは留学生用の奨学金で最も成績のハードルが高いクラスのものを貰っている。おそらく僕よりもほぼすべての科目でひとつグレードが上、くらいの成績の差があるはずだ。

 そもそも、僕が知っている中国人留学生で、彼女以上に流暢に日本語を話す人を見たことがない。それだけでも優秀であることが伺える。そこまでして、今となっては中国以上に退廃しかかった日本にどういう用があるのだろうかと思い尋ねたいくらいだ。

「と、いうわけデ。この唐揚げ、マナカと一緒に食べてクレ。あまりいい肉ではないガ、まあ不味くはないはずダ、ワタシがちゃんと味見をしているからナ」

「わーありがとうございます! 先に机にならべとくね!」

 眞鍋は嫌みなくらい完璧に、「マナカと同棲中のカノジョ」を演じた。

 ただの嫌がらせである。というか、嫌がらせ以上の何物でもない。

「じゃあ、孫さん、また三限に……」

「ソウネ。別にサボるならノートと配布物くらいは貸してやるカラ、ごゆっくりお楽しみください? っていうんだよナ?」

 孫さんはニヤニヤしながらそう言った。

「ああ……まあ皮肉として使うならそうだな……ある意味違うけど」

「なんだっけ? あ、思い出シタ! リアジュウバクハツシロオ!」

「よく知ってるな」

「ワタシ、ネットスラングにも詳しいのダヨ」

「すげえな」

「ともかくだな、ヒニンはちゃんとしろヨ。シャレにならないからナ」

「だからそういう仲じゃねえよ」

「……ナドとマナカ容疑者はキョウジュツしてオリ……」

「勝手に犯罪者にするな!」

「まあ、ともかく、あんまり騒いで大家さんに迷惑をかけるでないゾ。キミも知ってると思うガ、ここの家賃は格安だからナ」

「わかってるよ。だから僕と眞鍋はそういう関係じゃねえって」

 ああ、もう、面倒くさい。

「はいはい、わかったわかった。とにかくワタシは三限のジギョウに出るから、困ったことがあったら言ってクレ」

「ありがとう」

「まあ、そういうことダ。じゃあナ」

 孫さんはそう言って颯爽と去っていった。

 はあ、全く、なんて留学生だ。

 あらゆる意味で、ただ者じゃない。


 家の時計が正午五分前を示したとき、カレーができあがった。

「うわーおいしそーいただきまーす」

 眞鍋は両手をあわせて感謝をした後、おいしそうにカレーを食べ始めた。

「うわーい、一日ぶりの固形物だー……」

「本当にひどい生活だったんだな……」

「ありがとうふーちゃん!」

 おい。

「おいやめろふーちゃんって呼ぶなそれだけはやめろ」

「ん、まだダメなの? わかった」

 眞鍋はほんの少しだけ寂しそうな顔をしたが、その後は何事もなかったかのようにカレーライスを平らげた。

「あーおいしかった。ごちそうさま」

「お粗末さまでした」

 食器を片づけて、洗う。

 ほっておくととんでもないことになるのは、すでに散々経験しているので、面倒でもすぐに洗ってしまうことにしたのだ。

 といってもほんの僅かだから苦にもならない。

 と、すべての洗いものを終えてふきんで手を拭いている時だった。

 部屋の方から小さな寝息が聞こえた。

「おいおい……」

 奥を覗くと、案の定、眞鍋が僕の布団で寝ていた。

「食ってすぐ寝ると牛になるぞ……」

 いや、ある意味もうなってるか。

 と、僕ははだけた彼女の胸元を見ながらそう思った。

 しかし、困ったことになった。鍵をかけて出ていくわけにも、鍵をかけずに出ていくわけにもいかないし、眞鍋を起こすのは非常に面倒だ。

 これでは、僕は三限の授業に出られない。まあ、パーカーが煙草臭い時点で、半分くらい諦めてはいたのだが。


 仕方なく、孫さんに電話して、レジュメを取っておいてもらった。

「まったく……」

 眞鍋はすやすやと、本当に子供のようなあどけない顔で眠っていた。彼女が僕よりも年上だということが信じられなかった。

「仕方ないか……」

 彼女の寝顔を見ていると、なんだか僕も眠くなってきた。

 というわけで、僕は畳の上で一眠りすることにした。



 翌日、そのまま眠りこけてしまって体調を崩した僕に坪井から電話がかかってきて、自分もロリ巨乳が大好きだと言いながらロリ巨乳の素晴らしさについて一時間ほど語られたが、別に僕はロリ巨乳に萌える要素を何ひとつ感じないのでまったく共感できなかったということを、ここで付け加えておく。





「私がロリ巨乳……孫さんにはそう見えたのね」

「まあ、間違っちゃいないけどな」

「えっそうかな? そんなに童顔かなあ?」

「……」

「なんか喋れよ」

「痛い! どこつねってんだ!」

「痛いとこだよ。そんな微妙な顔するなよ」

「だから痛いっつってるだろ! やめろ!」













 十一月二十九日 雨 「机に眠る君と雨の音」



 雨とも霙ともつかないようなものが、曇りかけの窓に映った。

 僕は講師の声を右から左に受け流しながら、窓の外を眺めた。大学のメインストリートは悪天候かつ授業中のためか人はまばらで、その閑散とした風景がより寒々しさをリアルに訴えかけてくるようだった。

 隣の吉岡和則よしおかかずのりは黙々とノートをとっており、ほんの少し前にいる志島咲子しじまさきこは机に敷かれたベージュのコートの上に突っ伏していた。先っぽにゆるくウェーブのかかったハーフアップの髪がだらりと垂れ下がっていて、その間から真っ白なうなじがのぞいているのが、いたずらに色っぽい。暖かそうな紅色のカーディガンは、寒がりの彼女の上半身を優しく包み込んでいて、薄い茶色のスカートと真っ黒なタイツがその下に続いていた。

 僕は咲子の足元を見た。咲子は茶色のブーツを履いていて、ヒールが所在なさげに床から離れてぶらぶらと小さく揺れている。

 講師の声を受け流しながら、僕はひたすら咲子を観察していた。咲子はどうやら熟睡しているようで、たまにぴくっと痙攣している。普段しっかり者の咲子を見ている僕としては、このような無防備に眠っている咲子が別人のように見えて、とてもかわいらしい。

 眠れる森の咲子。

 きっとその茨は、鋼のように硬く鋭いに違いない。

 などと、そんな戯れ言を考えていると、携帯電話にメールの着信が入った。


>真中さん

>原稿、無事受け取りました。読ませていただきましたが、とてもおもしろかったです。僕もこんな風に物語に引き込めるような文体が欲しいです。文芸誌ですが、できあがったら若干部差し上げますので、必要な部数をあとで僕までお伝えいただけるとありがたいです。

>Y.S


 ミステリー研究会の後輩である山崎からだった。どうも僕の文章がお気に入りらしく、ミス研の活動の他にも、彼が主催する同人サークルに寄稿させてもらったりしている。いかにも文化系といったような優しい面もちと物腰が特徴の彼だが、得意な分野はエログロナンセンスで、時たまとんでもないことを言い出すという非常につかめない部分があった。

 僕は彼に軽い返信をして、携帯電話をしまった。

 相変わらず授業はゆっくりと進んでいく。やや年老いた教授は、すこし哲学的なアプローチをしながら、自論を展開している。が、僕にはその内容が依然としてよくわからなかった。

 自然と僕の視線は咲子の方に収束していく。

 咲子はいったん目を覚ましたが、周りを確認して髪の毛をすこしだけいじると元の態勢にもどった。どうやら最初はなからこの授業を聞くつもりはないらしい。なんのために県外の実家から二時間近くもかけてここまで通っているのか訊きたいところではあるが、それこそ通えるような距離に実家があるのにわざわざお金をかけて下宿しているのになんでその成績なのかと訊き返される恐れがあるし、そんなことをされては僕の精神ゲージはあっという間にゼロになってしまう。

 それに、おそらく咲子は僕よりも授業のコマ数が多い。抜けるときには完全に力を抜いておく、彼女の性格を考慮すれば、今はお疲れなのだろう。特に優しい言葉もかけることもできないので、そのままにしておくことを決めた。

 お姫様は、手が届かないから、お姫様なのだ。

 などと、戯れ言を考えながら僕は苦し紛れに窓の外を見た。すると、遠く、図書館の方から、見知った顔が歩いてくるのが見えた。

 同期の眞鍋陽子は、ショッキングピンクのダウンジャケットを着込んで、大きなポンポンがついた真っ白なニット帽に、オレンジ色のマフラー、ふわふわの綿毛がついた耳当てをしていた。彼女のぶにっとした脚をぶ厚そうな真っ黒のタイツが覆っており、足元にはこれまたふわふわしたものに上部を覆われているムートンブーツがはまっていた。なんとなく、教育テレビのアニメに出てくる人気者の子ブタを思い出した。

 彼女は窓の外から僕の姿を見つけたらしく、にこっと笑って手を振った。

 最近黒く染め直した彼女の傷んだ毛先が、まるでワックスがかかっているかのようにふわっと揺れた。

 お前、この授業とってるよな?

 僕は思わず声に出そうになったツッコミを抑えつつ、隣の吉岡にも気づかれないようにさりげなく手を振り返した。

 そしてすかさずメールする。

 眞鍋は手袋をはめていない。北国出身の彼女は、関東地方の寒さくらいでは手袋を使わないらしい。曰く、携帯電話が使いづらいだとか。

 早速ダウンジャケットの右ポケットからワインレッドの携帯電話を取り出した眞鍋は、ぱっと画面を見るとすぐにぴこぴこと何かを打ち込んで携帯電話を元の右ポケットにしまった。

 すかさず、僕の携帯電話がメールの着信を静かに伝える。


>だってあのおじいちゃんの話、すぐ眠くなっちゃうんだもん(^_^;)いつも寝ててもしょうがないし、だったら図書館で教科書読んでた方がいいかなって(^-^)

>だから代わりに聴いといて☆


 メールにはこう書かれていた。まったく、まがりなりにもちゃんと出席している咲子とは大違いだ。

 僕は眞鍋の方を見た。

 眞鍋は、「じゃ、そういうことで」といったような表情を浮かべると、手を振って去っていった。

 相変わらず勝手な女だ。

 そう思っていよいよ板書の文字でも読むか、と黒板の方に向きなおった時である。

 またも、眞鍋からメールの着信がきた。

 今度は何かと思って僕は文面を開いた。


>さきちゃんの寝顔かわいーね(^-^)


 ただの嫌がらせだった。

 というか、なぜ眞鍋はあれほど遠くからしか僕を見ていなかったにも関わらず僕がずっと咲子の寝姿を見ていたとわかったのだろうか。

 と思ったので、こういう文面で眞鍋にメールを送った。


>どうして僕が寝顔見てるってわかった?


 答えを予想していたのか、返信はすぐに帰ってきた。


>あ、やっぱり見とれてたんだ☆

>かまかけただけだよ、ごめんm(_ _)m


 畜生。

 今度会ったら首筋にキンキンに冷えた指を当ててやる。

 僕は携帯電話をしまった。

 逃げていたはずなのに、いつのまにか追いかけている自分に気がついたような、そんな気分になった。


 講師の話は誰が聴いたところで確かに何の面白味もなく、しかも話に緩急も起伏もあったものではないので当然教室の中では少なく見積もっても半分くらいが眠りこけていた。

 教室には温暖で怠惰な空気が蔓延しており、ともすれば僕自身も教授の呪いにかかって百年の眠りについてしまいそうだった。

 咲子は相変わらず呪われたままだ。眠っている姿でさえ綺麗にまとまっているというのが、なんとも彼女らしい。周りにいる彼女の友達たちの中には、おいおい、とため息をつきたくなるほど酷い寝方をしている子もいる。

 もっとも今は授業中なのだが。

 隣の吉岡も、のんびりとお舟を漕ぎ始めた。

 こうなってくると、どうしても寝ることがためらわれる。むしろ、僕は最後まで起きなくては。悪しき呪いにかかってしまえば、本当に百年もの間眠ってしまって、気がつけば縦波大学は荒廃して茨に囲まれ、助けにくる騎士がいないまま、僕たちは揃ってここで朽ちていくかもしれない。


 もちろん、そんなはずはないのだけれど。


 老教授はなおも、めげることなく話を続ける。話を聞いている者は、おそらく誰もいないような気がするのだが、呪詛を発しているかのように、彼は頑なに講義を続けている。


 なぜか、僕の中に、この沈滞した空気をいとおしく感じ始めるものがあった。


 それはおそらく、永遠とも感じられるような時間の淀みが、日常の一部分だけで構成されているという幸運によるものだろうと思う。これがもし世界の終わりなどという究極の非日常に浸食されてしまっていたならば、気味が悪いにちがいない。

 だからこそ、僕は逆説的に、この時間が永遠に続けばいいのに、などという縁起でもないことを考えてしまったのかもしれない。


 そんな対立した感情を抱える僕をよそに、教授は喋り、咲子は眠っていた。

 窓の外に降る雨の音が、いっそう強くなったような気がして、僕は少しの間目を閉じた。


 終業の鐘の音が遠くに聞こえた。




「さきちゃんかわいい」

「なんかやめて」

「なんで? かわいいじゃん」

「そうだけど、なんか恥ずかしい」

「おまえがいうな」

「痛っ! だからそこをつねるな!」














 三月二十三日 雨 「COLORS ~above the rainbow~」



 窓の外から入る鈍色にびいろの風景と、周囲に薄く広がるしとやかな雨音が部屋を覆っていた。

 雨の日そのものが嫌いなわけではないのだが、雨というのはなぜか、不吉なものを想像してしまうので、若干憂鬱にならざるを得ない。

 もっとも、雨の日に悪いことばかりが起きたわけではなく、いいことも起きてはいる。どこかのバンドの歌ではないけれど、思い出に残る日というのは、いつもだいたい雨が降っているものだなあと思う。もしかすると僕も、雨男と呼ばれる部類なのかもしれない。

 にゃあ、と猫の甘い鳴き声がして、僕は自分の仕事を思い出した。

「ユキ、おはよう。ちょっと待ってな」

 数週間ほど前、真っ白ですらっとしたこいつを拾った時も雨だったなと思いながら、僕は飼い猫の雪月花せつげつかにツナ缶を平らな皿にあけて差し出す。

 雪月花は不思議なことにキャットフードを食べない。どうやら臭いがあまり好きじゃないようだった。それで、若干贅沢ではあるが、僕はいつもツナ缶を彼女に差し出している。

 雪月花は置かれたツナ缶をしばらく見つめると、僕の方を向いてにゃあと一礼するかのように鳴いて、食べ始めた。

 その姿は捨て猫だったとは思えないほど上品であった。僕が思わず見とれるくらいには。

 と、玄関の、暗い橙色をした扉がこんこん、と二回ノックされる。

 眞鍋陽子だろう。

「今あける」

 僕はツナ缶を食べている猫をまたぎながら、扉を開けた。

「ただいま」

 両手にぱんぱんの半透明な買い物袋を持って、空色のレインコートをフードまですっぽりとかぶった眞鍋が、僕の部屋にささっと入った。

 眞鍋はレインコートを脱ぐなりふわあ、と大きな伸びとあくびをして、

「ねむい」

 とひとことだけ言った。ピンク色のセーターに覆われた胸の膨らみが重たそうにたぷんと揺れる。

「いつまでも寝ていると牛になるし、いいんじゃないか、それで」

 僕が嫌味を言うと、彼女は、

「もうなってるよお」

 と自分の大きな胸を両手で持ちながら言った。彼女の手では持ちきれなくてこぼれ落ちそうになっているし、まったくずいぶん身体を張ったギャグだ。

「はいはい。まあ、いずれにしてもご苦労さんでした」

「ほんとだよ。朝が弱い人間におつかいを頼むなんて、鬼畜の所業だよ。下衆の極みだよ」

 いやいくらなんでも言い過ぎだろそれ。

「しょうがないだろ、ユキをおいていくわけにはいかないし、僕じゃないとご飯を食べないんだよ、こいつ」

「知ってるよ……ほんとわがままな猫だよね。まあ、私の方が君よりお姉ちゃんだからね、こういうことも進んでやるけれどもさ……」

「いや、だいたいそのおつかいは僕の為じゃないだろ。ユキの為だろ」

「げっバレた」

「バレたもなにも、頼んだの僕じゃないか」

「あっはい」

 そう言いながら、眞鍋は買いもの袋からツナ缶と鰹節、そしてトイレ用の砂や持ち出し用のケージなどを次々と出した。

「これで外にもユキちゃんを連れ出せるね」

「ああ、今日で桜が散らなければいいが」

 まだ三月だというのに、連日最高気温が二十度を軽く越えるような暖かい日が続いたおかげで、縦波市周辺でも一気に桜が開花したので、眞鍋に朝早く買い物に行かせてから昼ごろに花見へ行こうと思った訳なのだが、たまたまその日が雨だったという、なんとも残念な天気に見舞われた結果がこれである。

「そういえばさ、ちゃんとみんなに今日じゃなくて明日やるって電話したー?」

「ああ、それは大丈夫だ。坪井に佐貫、山崎にミヤコ、あと吉岡と東雲さんにも電話したから」

「ん?……シノノメさん? 誰それ聞いてない」

 眞鍋は目をこすりながら僕に訝しげな視線を向けた。

「去年の今頃事務所の世話になった人だよ。吉岡のカノジョ。合唱団の子」

「あ、あーあの子か思い出した。たしかに、かわいいもんね。というか君が好きそう」

「いや別にそういう理由じゃないんだけど」

 この花見は、単に怪異を通して関わった人をなんとなく一堂に会させてみたかったという僕自身のわがままによって企画されているわけで、当然ながら女の子はもっと多くていいはずなのだが、人数的に少し厳選させていただいたという話で。

 東雲真理菜しののめまりなは、ちょうど僕が御厨智子の事務所でバイトを始めてから少しして、ようやく自分の能力と役割に気づき始めた、つまり仕事が板に付き始めたころの、怪異の被害者である。吉岡が所属するサークル、縦波大学合唱団で、吸血鬼にまつわる怪異があった。その当事者で吸血鬼に襲われた女の子こそが、東雲真理菜である。思っていた以上に事件が素早く解決してしまったので、まったくの部外者である眞鍋の記憶にはさしてひっかからなかった案件なのだろうが、僕としては、あの吉岡にカノジョができるというオチがついていたので、忘れようにも忘れられないという背景があった。

 そうでもなくとも彼女の件は、忘れられない事件ではあったのだけれど。

 仕事が板に付いたころ、というのは、僕の幼なじみである志島咲子が事実上現世から封印させられてしまった時期と一致する。咲子が現世から消え去って初めての怪異が、東雲真理菜の件であった。

 咲子の姿が見られなくなって、もう一年が過ぎようとしている。僕自身の潜在能力と、咲子の開花させていた能力とが合わさり、僕が怪異の絡んだ事件を解決していくごとに、夢の中の咲子は徐々に身体を取り戻していった。

 しかし、全てが揃ってさあ現世へ戻ろうというその時に、邪魔が入ってしまったのだ。しかし、気にしたところで咲子が戻ってくるはずもない。

 眞鍋と怪異を背負い合いながら、僕らはなんてことのない大学生を演じようとどこか必死になっていた。

「ねえ、ユキちゃんごはん食べ終わったみたいだよ」

 眞鍋が雪月花を指さした。雪月花はちんまりと座ったまま、僕のことを見つめていた。

「あー悪い悪い。ちょっと考えごとをしていた」

「どうせ咲ちゃんのことでしょ」

「うるさいな」

「やっぱり。君ほんと咲ちゃん好きだよね」

「だからなんだよ」

 僕は雪月花の皿を片づけて洗った。

「いやいや、なんでもないですよー」

 眞鍋はしれっとした顔でそう言った。なんかムカつく。

 そういえば、まだ朝ご飯を作っていない。

「そういえばさ、ご飯まだー?」

 うわ。

 うわあ。

 あんまり嬉しくないタイプの以心伝心である。

「わかったよ作るから待ってろ」

「わーいありがと。今度は私が作るからね」

 一週間前から毎日そう言われてもですねえ。

「今『お前の言う今度っていつだよ』って思ったでしょ?」

「ああそれな。言っとくけど、ドヤ顔で言うことじゃないぞ」

 僕は凍ったご飯を冷凍庫から取り出し、火にかけて油を敷いたフライパンに適当にぶち込んだ。

「でも実際私が作った方がふーちゃんより上手いよね」

「ああ! 確かにその通りなんだけどね!」

 だったら作れよっていう。

 そしてご飯についた霜のせいで跳ねた油が容赦なく僕の手に襲いかかってきた。熱い。

 逃げるようにして冷蔵庫のドアをあけ、卵を……。

「あれ?」

 卵がない。

 そういえば、ここのところ毎日炒飯だったが、卵を買うのをすっかり忘れていた。そもそも、毎日朝ご飯が炒飯というところが問題なような気はするが、ともかく一度作り始めた以上、僕は具なし炒飯として料理を考えていたため、その主な構成要素を占めている卵がないとなると。

「こりゃ、参ったな」

「えっなに? まさか炒飯作ろうとして卵切らしたとか?」

「その通り」

「あはは。バカじゃないの?」

 眞鍋はくすくすと笑った。

 雪月花はその横にたたずみながら僕を心配そうに見ている。

 ふうむ。

 まあ、最悪、中華調味料と醤油その他で味を調えれば、炒飯ではないにしても焼き飯くらいにはできるが……。一応ちゃんと自炊しているつもりである僕の薄っぺらなプライドが、それはやりたくないと主張している。

 しかし、いかんせん炒飯を連発してしまったせいで、ほかに具となりうるものがない。というか、卵がないんだしこれはもう炒飯にはならない。

「どーすんのよ。まあ別に私は醤油ご飯でもいいけどね。あーおなかすいたー」

 眞鍋が無責任な声を出して布団に倒れた。

 と、その時。

 こんこんこん、と玄関の扉が三回ノックされた。二回ノックする人間なら、眞鍋以外にもいるが、三回となると僕の中で思いつくのは一人しかいない。

 しかし、またどうして……。

「あっ……やっべ」

「どうしたの? ご飯焦がした?」

「いや、それよりある意味深刻なミスだ」

 僕はとりあえず、フライパンの火を止めた。

 そして、扉をゆっくりとあける。

 そこには、予想したとおりの、黒ずくめのセーラー服を着て、首から大きめの十字架をさげた女子高生霊能者がいた。

「傘……忘れた……」

 声の主、札切零七ふだきりれいなは弱々しい声で、倒れそうになりながらも、なぜか僕を睨みつけていた。その両腕には、布の真っ赤な手提げ袋があって、たくさんの荷物が入っていた。

「あ……なるほど」

 眞鍋の低い声が後ろから妙に響いた。

 とにかく僕は彼女をシャワーに案内した。


「これ、私のだけど、着れるかなあ……。ゼロちゃん、私よりもちょっと、いやかなり大きいよね」

「いえ、おそらく大丈夫だと。それに眞鍋さんが思ってるほど大きくはないと思います……」

「あっほんとだ。ちょっと丈が足りないような気がするけど、なんとか外でも着れるねこれ。あーでも……うーん、だいぶ胸の部分あま……」

「いえ大丈夫です。本当に、大丈夫です」

「そうなの。じゃあいいや」

 一般的な男子大学生の僕は、こんな会話が行われている洗面室を覗きたくて仕方がないのだが、覗いたら最後僕の人生は物理的にも社会的にもほぼ終わったも同然だろうし、雪月花がなぜかさっきからずっと僕の方を見ていて、それがなんとなく僕の考えていることを咎めているような気がしたので、僕は仕方なくキッチンでこの作りかけのご飯をどうするべきか長考することを余儀なくされたのであった。

 もっとも、最初からそれ以外にやることがなかったのだけれど。

 声がやんだかと思うと、洗面所の扉が開いて、眞鍋と札切が出てきた。普段、制服オア黒ずくめウィズ銀の十字架というスーパー中二病スタイルの札切が、眞鍋のようなガーリーでカジュアルな格好をしているというのは、なんだか新鮮だし、なによりも首からぶらさがっている大きな十字架が意外にも眞鍋の古着のようなゆったりとした紺色のチュニックに合っていた。奇跡的だ。

「どしたの、ゼロちゃんのスタイルに見とれちゃった?」

 眞鍋がぼっとしている僕を見て呆れたように言った。

「いや別に、ゼロのスタイルがいいってのは前から知ってたから」

「うわあ……」

 札切があからさまに引いたような顔をした。

「なんだよ」

「せ、せくはらだ」

 と言いながら少し顔が紅くなっている。

 そんな破廉恥なことを言ったつもりはないのだが。思春期の女の子って柄でもないのに。

「まあ、それはどうでもいいんだけど、ゼロちゃん、どうしてここまで来たの? もしかして、あいつのお花見に呼ばれてたの?」

 眞鍋が札切に妙な目配せをしながら言った。それとなく目配せをしているつもりなのだろうが、何かをたくらんでいるのはバレバレである。

「はい、そうです。一昨日あたりに来たければ来いと言われて、それでお花見がどういうものか調べて、必要なものを買って、真中に見せてやろうと思って」

 そして札切も応えるのが下手くそだ。目線がかなり泳いでいる。せりふも棒読みだし。

「なるほどねー。それでその荷物か」

 なんなんだ、なにを仕掛けるつもりだお前ら。

「はい。……どうだ真中、これで十人分のお花見が出来る。ボクは未成年だからお酒は買えなかったけれど、食べ物ならボクが十人居ても足りる」

 いやお前それ……。

 ちなみに、札切の一人分はだいたい僕の三分の一人分くらいに相当する。

 本当に札切十人分なら、せいぜい僕と眞鍋、あと佐貫か坪井くらいしかまかなえない。

「ゼロちゃんって結構節約家なんだね」

「えへへ……」

 なに照れてんだよ。褒めてねえよ。お前それ嫌味だよ。

「で、具体的に何買ってきたんだ?」

 僕がその言葉を言ったとたん、札切がとても驚いたような顔をした。

 眞鍋はこらえきれなくなったのかくすりと笑っている。

 おいおいなんだこれ。

 すると、札切は目を細めて、

「真中……お前、それがボクに対する態度か?」

 と、僕が全く予想だにしなかった切り返しをした。

「えっ?」

 不意を突かれて僕は動揺した。

「あっ、私がさっきどさくさにまぎれて、お花見が中止になったってことと、ふーちゃんがそれをゼロちゃんに言い忘れてたことを吹き込んどいたから」

「そこをどさくさにまぎれさせなくていいだろ! ややこしいわ!」

 なるほど、どうりで怪しい動きをしていたと思ったら、二人して僕を追い詰めるつもりだったのか。なんでそうなったのか全然わからないけれど。

 とはいえ、実際眞鍋が言っている通りなので、弁解できるわけもなく。

「それについては申し訳ない」

「まったく、どうしてくれる。馬鹿正直に来てしまったじゃないか。どう責任をとるんだ」

 札切は腕を組んでふんぞり返っている。

 ここまで威張られても困る。だいたい常識的に考えて、これだけ雨が降っていればお花見は中止だと考えるのが普通だろう。

「わかったよ。とりあえず腹減っただろ、飯作るから食ってけ」

「なるほど、いいだろう。妥協してやる」

 いちいち言い方がムカつくやつだ。

「でもさふーちゃん、焼き飯しかないじゃん。しかも二人分しか」

 眞鍋が不満そうに言った。さっきしょうゆ色の焼き飯でもいいと言ったのはどこのどいつだ。ましてやお前が少し我慢すれば札切のぶんくらいはなんとかなるだろうに。

「おい、まさかボクの買ってきた焼きそばを使うのか?」

 札切の視線が少し鋭いように見えたのは、僕自身が図星を突かれたせいだと信じたい。

「やっぱり買ってきてたか。焼きそばはお前の大好物だもんな」

「でも、せっかく花見のために買ってきたというのに、この天気で、しかもこんなチンケな家で作られた焼きそばを今ここで食べたくはない」

「あっそ」

 いちいちわがままな奴だな。というか、冷静に考えたら、花見にやきそばセットを持っていっても作れない。どうやら札切は花見とバーベキューを勘違いしていたらしい。なんて奴だ。

「まあいいや。とりあえず、焼きそばは作らないから、僕に焼きそばセットをくれ。二玉でいい。粉末ソースもな。あと焼きそばの具一式もくれ」

 すでに僕の中には焼きそばとご飯の調理法が浮かんでいた。というか、もうこれしかないだろう。

 僕は札切から焼きそばを二玉受け取ると、フライパンに火をかけ直し、コップに水を汲んだ。

「あー、わかった。そういうことか……」

 眞鍋がぼんやりとつぶやいた。


「よし、これはもう焼きそばではないだろう」

 僕はご飯と焼きそばと野菜が渾然一体となった、一様にソース色の、見かけは多少悪いが個人的には自信作であろうその料理を、真っ黒な皿に盛ってふるまった。

「なんだこれは……」

 札切は訝しげに僕をみつめた。

「えっと、なんか関西の料理だよね?」

「ああ、『そばめし』だ」

「そば……めし……? 聞いたことないぞ」

「まあいいから食ってみろって」

「真中がそこまで言うのなら、そうしよう……いただきます」

 札切は僕らより一足先にそばめしを口に運んだ。

「なんだこれ! 思ったより、うまい」

 彼女は信じられないといった顔で僕を見つめた。

「そいつはよかった」

「うまいんだ! じゃ私も! いただきまーす!」

「お前な……」

「うわっなにこれうまっ。ふーちゃんにしては天才的だわこれ。やばっ」

「うーんなんだかそこまで言われるとちょっと」

 複雑な心境である。

「そういえば」

 札切が思い出したように、雪月花を指さした。

「あの子にはあげないのか?」

「いや、あいつはさっき食ったからな」

 そういえば、猫を飼っている家庭ではたいてい家族とともにご飯を出すのだろうか、と僕は思った。

「なんだ……。確かに、食が細そうだしな。かわいそうだが、これはボクが食べよう」

 と、言ってそのまま皿にがっついた。

 札切も眞鍋と同じくらいたらふく食べた。僕はただただ、まれにみる札切の食べっぷりに圧倒された。多めに作っておいてよかった。


 しばらくして、雨もあがったので、札切が帰ると言い出した。

 僕は彼女を玄関まで送っていった。

「いや、世話になったな。わざわざ雨宿りまでさせてくれた上に、おいしい朝飯も食わせてもらえるとは。真中のこと、少しだけ見直した」

 札切は、満足げな顔をして言った。

「あと、眞鍋さんにも世話になった」

 確かに、今回は僕よりも眞鍋にお礼を言った方がいい。僕は償いとして当然のことをしたまでだし。

「いえいえ、また明日会いましょうね」

 眞鍋は僕の後ろで優雅に手を振った。

「はい、あの子も、明日来ます?」

 札切はふたたび雪月花を指さした。

 綺麗な猫だからか、彼女も気に入ったらしい。

「ああ、ユキも連れてく」

「ユキというのか」

「いや、本名は雪月花だ。あだ名がユキ」

「雪月花……変わった名だな。まあ、明日も会えるなら、ボクはそれでいいや」

 札切は一瞬不思議そうな顔をしたが、どうでもよくなったのか、すぐに元の無表情に戻った。少し怖い。

「眞鍋さん、この服、明日はちょっと無理ですが、いつかそう遠くないうちに洗って返しますね」

「うん、急がなくていいからね」

「それではまた明日。ごきげんよう」

「じゃあな」

 紺色となった札切零七は丁重に礼をして帰っていった。黒でないのは、やはり珍しい。


「雨、あがったね」

 眞鍋は、部屋の窓に身を乗り出して、すっかり水色になった空を見つめてそう言った。

「ああ。虹が出てるな」

 僕は眞鍋に並んで言った。

 そうして煙草を取り出した。

「あっずるい私もー」

 眞鍋は僕がくわえようとした煙草をひったくって、自分の口にくわえた。

「おい」

「あとで返す」

「いつだよ」

「今度」

「だからいつだよ」

「今度だって」

「……まあいっか」

 僕は緑色のライターを取り出し、眞鍋のものとなってしまった煙草に火をつけた。

 雨上がりの清浄な空気が、煙草の灰と煙によって汚されていった。けれども、くっきりとできた虹だけは、煙に汚されることなく、しばらくそこに留まり続けていた。














「しかし、不思議なもんだよな」

「何が?」

「こうして、僕が文字として残した記録はしっかりと刻まれているんだなって」

「そりゃそうだよ」

「何で?」

「心の中に刻んだ記憶を、もう一度整理して記録するんだからさ」

「なるほど、だから最後まで残っているのか」

「でも、これで終わりだね」

「ああ、そうだな」

「ちょっと怖いな」

「世界も何も、もうすべて終わっているのだから、怖くないよ。ほら、だって、もう、終わっているのだから」

「そっか」

「そうだよ」

「ねえ」

「何」

「おやすみって言って」

「何で?」

「いいから」


「おやすみ」

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The magic nightmare ~MATERIAL~ ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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