The magic nightmare ~MATERIAL~

ひざのうらはやお/新津意次

Three cords Echude

Feat.H


 ヘッドホンから聞こえる爆音が、出来の悪いAMラジオのようにぶつぶつと途切れるのに、坪井浩之つぼいひろゆきは顔をしかめた。今のアルバイトの給料で初めて買った、三万円の高級ヘッドホンだが、使い込んでいるうちにコードの一部が断線してきているらしかった。

 音楽を正常に流さないヘッドホンなど、重たい装飾品にしかならない。浩之はヘッドホンをはずして、仕方なく地下鉄のロングシートに背中を預けた。

 不思議な感覚はすでにない。数日前までこの世の者でない怪異に曝されていたというのに、感覚は平凡を取り戻していた。むしろ、それこそが彼にとって少し不思議だった。

 大学の同じ学部の同期が自分の怪異を解決したのだが、それも結局、何がなんだかよくわからなかった。深夜のアニメみたいに、目の前で何か派手な儀式や戦闘が行われる訳ではなく、ただただ彼らの口から終わったという言葉だけを聞いて、実際に浩之の怪異は終了したのである。

 地下鉄の中は進行する轟音に支配されているおかげで、常に静寂を保っていた。

 なかなか悪くない。

 そう思った瞬間、縦波駅が近づいたことを知らせるアナウンスが遠くで聞こえた。


 縦波駅は、いついかなる時であっても人に溢れている。それが土曜の夕方であろうが、平日の昼間であろうが全く同じだ。同じ繁華街でも、そういった街は日本にさほど多くないのではないか。浩之はどうでもいいことを考えながら、おもむろに地下鉄の出口を上がり、雑多で色彩に溢れる街に出た。排気ガスや砂に汚れたネオンが、どこか異国情緒を漂わせるその通りは、縦波駅西口八番街と呼ばれ、カラオケルームやゲームセンター、ラーメン屋や焼き肉屋、安居酒屋などが並ぶ、大学生御用達の歓楽街だ。

 彼はその中でもとりわけ小さくひなびたゲームセンターに足を踏み入れる。十月の空気を帯びた、どこか軽やかな風が吹き付け、浩之の視界を奪う。

 ゲームセンターの中は雑音で満ちあふれていて、その中に身を置いているとまるで世間から隔絶されたような感覚に浸されるのだ。それは少し、さっきの地下鉄の中と似た感覚だった。彼は満足げな笑みでひとしきりそれを楽しんだあと、奥にある音楽ゲームコーナーへと向かった。

 鍵盤とターンテーブルを音楽のリズムに合わせて操作するタイプのそのゲームは、元祖音楽ゲームと呼ばれ、愛好者も非常に多い。浩之は自他ともに認めるくらいには上級者であると確信しており、この広い縦波に、広く浅い彼の交友関係に自分より腕のたつ者がいるなどとは想像していなかった。いたとしても、ひとりくらいだろうと思っていたのだ。

 だが。

「あ、坪井さん、いたんですね」

 後ろから、予想通りのよく通る声がして、振り向けば、灰色の眼鏡をかけた、落ち着いた服装の女子大生が彼を見上げていた。初めて見た頃から考えると、随分大学生として落ち着いたな、と浩之は大学の後輩である雨宮桃子あめみやももこの姿を見て思う。最初は麻素材をアピールしているような変にカジュアルなものを着ていたのだが、いつの間にかタイトなスカートに毛のカーディガンを羽織り簡素なブラウスという、独特ながらも絶妙なスタイルを確立している。

「ミヤコちゃんじゃん、最近よく来るね」

「その言い方はまるで私がそういう人間に見えないという意味にとれますね」

 意地が悪そうなほほえみから覗く八重歯がかわいらしい。浩之は自分が雨宮の見た目について意識したのが実は初めてではないかということに気づいて少しぎょっとした。彼は自分がどういう人間なのかをよく知っている。それだけに自分の中の僅かな違和感というものが許せない。

「そりゃそうでしょ。ミヤコちゃん、どっちかというとインドア派に見えるし」

「まあ、そうでしょうけど」

 雨宮の言葉を聞いているうちに、その違和感もしぼんでいく。

「それより聞いてくださいよ、私また段位上がったんですよ」

 またか。

 彼女は会う度に段位が上がっている。

「ってことは、ついに六段?」

「違います、七段です」

 雨宮桃子はどや、と言わんばかりのキメ顔を見せた。

「七段? ついに俺の二つ下まで来たの? すげえじゃん」

「坪井さん、それ嫌みにしか聞こえません」

「いやいや、始めて半年で七段になった奴なんて聞いたことないって。フヒトさんだって確か七段になるのに二年かかってるぜ」

「いや、真中さんとは比べないでくださいよ」

 あの人、なんかどんくさいし。

 この正直な物言いが彼女の特徴なのだが、それにときたまヒヤリとすることがある。

「そういえば、新曲聴きました? なんか新しいボーカルでしたよ。かっこよくてかわいいみたいな」

 そりゃそうだろ、と浩之は目の前の雨宮にとって衝撃的な事実を口にしそうになった。


 落ち着け。浮ついている。

 本心まで浮ついては、きっと壊れるぞ。


「あ、そうそう、槻木つきのきつかさちゃんでしょ?」

「ああ、そういえばそんな名前でしたね……って、よく知ってますね、知り合いなんですか?」

 雨宮の訝しげな視線に、彼は少したじろいだ。

「いや、知り合いじゃないけどさ、つかさちゃん、歌い手やってて、それでよく知ってるんだよね」

「ファンなんですか?」

「まあ、ファンっちゃファンかな。いちおー動画は全部チェックしてたし」

「じゃあなんでやってないんですか?」

「俺今来たばっかでしょ!」

 なんとかいつもの流れに話を戻した。

「んじゃやりますよ! やりゃいいんでしょ」

 丁度よく筐体が空いたので、彼は筐体に向かった。


「んだよエクストリームでレベル11かよ! こんなもんハードでいけるわ!」

「あの、坪井さんこの曲詐称気味で……あっもう選んじゃった」

「きたきた!」

「私はハイパー譜面でしたけど最初が初見殺しなので気をつけてください」

「うわっやば!」

「もっと酷いですね」

「嘘だろこれ」


 ――STAGE FAILED


 サンキューフォープレイングというわざとらしいカタカナ英語に見送られて、筐体を別の人に譲った。

「結局ボーカルに入る前に死にましたね」

「うるせえな!」

「1クレを見事に無駄にしましたね」

「ミヤコちゃんホント厳しいね俺に。なんかあったの?」

「何もないですけど。強いて言えば、坪井さん随分らしくなかったなあ、なんて思いましたけど」

 鋭い視線を向けられて、浩之は表情を取り繕うのが精一杯だった。

「坪井さんって、結構凝り性じゃないですか。好きな歌い手さんの曲だったら、少なくともハードでプレイしないと思うんですよね」

 ハード、正式名称ハードオプションというのは、その名の通り通常のプレイより難しいモードで、最初は一杯になっているゲージが、ミスをすると減っていき、0になったらその時点で曲が終了してステージ失敗、というものだ。普通のモードは、譜面通りに鍵盤をたたいていくとゲージが増えていき、一定値以上で終わればクリア、というものなので、どれほどミスをしても、曲を最後まで聞くことが出来るが、ハードオプションはそれすらも許さない仕様となっている。

「あと、いくら九段だからって一曲目にレベル11をハードでやらないですよ。リスクが高すぎます」

 確かにその通りだし、いつもの浩之なら絶対にやらないことなので、何も言い返すことが出来なかった。

「ミヤコちゃんすげえな、名探偵になれるよ」

「そうですかね」

 雨宮は少し恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「で、槻木つかささんとはどのようなご関係なんですか?」

 浩之は思わず雨宮から目をそらした。

「別に、大した知り合いじゃないよ。昔、イベントで顔を見てかわいいな、って思っただけ」

 嘘をつくべきではないと、彼の冷静な頭脳はそう判断した。

「なんだ、やっぱりいつもの坪井さんでしたね。てっきりカノジョか何かだと思っちゃいました」

「んなわけねえだろうが」

 あーあ、と見るからに脱力した雨宮を見て、浩之は安堵と同時にどこかもの悲しさを覚えた。

「それもそうか、坪井さんってカノジョいなそうだし」

「確かにいねえけど、面と向かって言うことじゃねえな」

「はあ……なんか疲れたんで帰りますね」

「なんでだよ!」

 雨宮はどこかすっきりした様子で踵を返し、出入り口に向かってすたすたと立ち去った。浩之はその後ろ姿を見送って、空いた筐体の元へと入る。

「そういや、最近つかさに電話してねえな……」

 さっきと同じ曲を選びながら、ため息とともにそんな言葉が口から出たことに、彼は少しだけ驚いた。

 曲はまだ、始まっていない。



Feat.M


 スケッチブックを広げて、鉛筆で人物のイラストを描き上げていく。ブレザーを着た高校生らしき少年の輪郭が浮かび上がる。長身の線の細い体型、眼鏡をかけた神経質そうな表情が次々と重ねられていく。

 完成した男子生徒に、「伊野上雅也 BY ミヤコ」とサインをして、雨宮桃子はスマートフォンで写真を撮った。

 インターネットの中では、それなりに絵を見てくれる人はいる。漫画を描くといろんな反応が返ってくるのが好きで、画像を投稿するソーシャル・ネットワーク・サービスに自分の描いた絵を投稿しているのだ。漫画を「連載」している人もいる。彼女のサークルの先輩である東雲真理菜しののめまりなもそのひとりで、桃子は彼女から紹介されてアカウントを作ったのだった。

 東雲は非常に熱心に活動している。一日に一度は必ず更新し、だいたいがお気に入りの場所だったり食べた食事だったり(たびたび吉岡和則の身体の一部が写っていたりして、そのたびに少し変な感じになったりもする)ではあるが、それでも週に一度は漫画を更新している。最近は学園ものの四コマ漫画が好きなのか、そればかり描いているようだ。

 桃子のスマートフォンが小さな電子音を鳴らす。先ほどのイラストに反応があったということである。

 あの子かな。

 つい最近、桃子のページをすぐに「お気に入り」に登録するユーザーが現れたのだ。更新するとそれほど時間を置かずにそのユーザーは「お気に入り」に登録するので、気になってユーザーのアカウントページを見てみると、どうやら女性らしい、ということ以外は全くわからない。

 桃子は勝手に、なんとなく女子高生をイメージしていた。彼女(かどうかはわからないが、ここは相手が女性であると仮定しよう)が時折綴る詩に、自分にはない若々しさがあったのと、ピンク色の文字で書かれた恋の詩が多いというのがその主な原因だった。

 しかし、そんな女の子が自分の描く絵を気に入るなんて、少し変わっているのだなあとつくづく思う。高校時代、桃子の絵を気に入ってくれるような友達は、不幸にも現れなかった。

 だから余計に変わっていると思うわけで。

 普段さして他人に興味を向ける性質ではない桃子であるが、そういうわけで彼女がだんだんと気になっていった。けれど、詩を載せている以外にその少女の投稿は皆無で、その正体はおろか、人物像に迫るヒントですら、その詩作以外に何もなかった。

 桃子はスマートフォンを手にする。

 画面には

「2Tさんがあなたの投稿をお気に入りに登録しました」

 という通知が出ていた。

 あの子だ。

 いつも通り、かなり早いペースだ。彼女は間違いなく一番最初にわかりやすい反応をくれる。けれど、何かコメントを残すわけでも、直接コンタクトをとるようなことをするわけでもなかった。ただ、桃子が一方的に承認されているだけのことだ。

「またスケッチブック?」

 真後ろから声をかけられて、桃子の背中は思わずぴくり、と動いた。

 すらりとした、モデルのような繊細な長身。モダンな雰囲気を漂わせる赤地のタータンチェックのバンダナからのぞく、少し癖のある焦げ茶色の髪の毛。清潔感と簡素さを兼ね備えた服装は、彼女の親しみやすい性格をかえって浮き出させている。

「アンナさん、急に話しかけないでください」

 午後四時の喫茶店には、名物料理のオムライスを食べにくるような客もおらず、桃子とあと数人の常連客だけだ。

「あら、集中していたのね、ごめんなさい」

 この喫茶店の女将でもあるアンナは、いたずらっぽい笑みを浮かべ、コーヒーを差し出す。

「これね、向こうのお客さんから」

 アンナはカウンターの先の一人の客の方を向き、柔らかくほほえんだ。

 当然というべきか、不思議なことにというべきか、桃子はアンナの言葉を理解するのにほんの少し時間がかかった。確かに、言っていることはわかる。そして、そんな場面が往々にして自らの妄想の中に登場しているのも認める。けれど、生まれてきてから二十年前後の人生で、そんな振る舞いをされたことはもちろん一度もない。今の今までそんな扱いを受けるような立場になった覚えもなかった。

「えっ」

「嘘じゃないよ。ねえ?」

 桃子にはさらに信じられなかったのが、視線の先にいた常連客の姿だった。桃子の想像、もとい妄想では、こんな粋な振る舞いをするのは中年もしくは初老の、お金にさぞ余裕のありそうな男性だと極めて理不尽に断定していた。しかし、実際はそのどちらでもない。桃子とアンナの視線の先にいたのは、ロシア帽をかぶった、金色のボブにショッキングピンクの眼鏡をかけた女性だったのだ。

 リ、リア充だ……。

 桃子の身体は徐々に硬直し、手が小刻みに痙攣した。なんだか少し、熱も出てきたような気がする。

「あ、ありがとうございます」

 桃子の声が不自然に裏返った。

 細長い手足から、フランス人形を連想した。何かのファッション誌のモデルなのだろうか。しかし、それにしては少し色のセンスがぱっとしない。桃子はファッションの専門家ではないが、それでも、派手なのはヘアースタイルだけで、あとは自然にとけ込みそうな、地味な灰色のニットセーターにジーンズといったレベルの恰好はバランスが悪いように見えた。個性的ではあるものの、服飾関係のプロとは考えにくい。

 彼女はにっこりと微笑んで、桃子に手を振って席を立つと、レジにいるマスターと会計を済ませて出て行った。

「あの人、最近よく見るのよ」

 アンナはまだ驚いた顔をしている桃子に話しかけた。

「どういう人なんですか?」

「なんかね、詩を書いたり歌を歌ったりするらしいのよ。シンガーソングライターって、ちょっと古い言葉だけど、そんな感じかしらねえ」

 まあ、深く詮索しないほうがいいかもねえ、などとつぶやいて、アンナは奥に引っ込んでいった。

 しかし、どうして彼女は見ず知らずの私にコーヒーを奢るようなことをしたのだろうか。

 桃子は記憶をたどる。アマチュアとしての経歴は、決して短くはない。漫画研究会の会誌だけでなく、ミステリー研究会の会誌の表紙などの大学関係もあれば、数冊ほどの同人誌に漫画を寄稿しているし、実は昨年の終わり頃には自分の作品集も制作した。参加した同人誌即売会の数は、確か七回だったはず。その中での知り合いや、本を買い求めた客の中に彼女がいなかっただろうか。

 だが、桃子は思い出すことが出来ない。それはそうだろう、彼女の知り合いの中にあれだけ綺麗に金髪のボブにしている人はいない。あんな人が知り合いにいたら、すぐに思い出せるはずだし、客として現れたとしても同じことが言えるだろう。

 まあ、この時点で思い出せないのだから、悩んだところで仕方がない。こういう時は、絵を描いてごまかすに限る。

 ちょうど、奥から大量のコーヒーカップを持ってきたアンナが出てきた。これからカップを拭くのだろう。桃子は、そんな彼女をちらちら見ながら、スケッチブックをめくった。

 これは、ネットにあげられないな。

 桃子の独り言はコーヒーの湯気に紛れて、カップを磨くモデルに届くことはなかった。ただ、マスターだけが、人の良さそうなほほえみを桃子に向けていた。



Starring.Tsukasa Tsukinoki


 自分で書いた詩だから、思いのままに情感を乗せて歌うことができるかというと、決してそういうわけでもなくて、旋律のアプローチはどうしても必要になる。だから私は彼らには、出来る限り自分の詩を歌にしてもらいたくはないのだ。そうしてできた歌を、歌いあげるのはとても難しいことだから。

 届くはずのない恋文を、届くものと思って書かなければ、この歌を作ることは出来ない。ことばは構成されたひとつの要素に過ぎず、それ以外の要素で薄められて日常にとけ込んでいってしまうからだ。毒は薬で相殺されて、水に溶かされて清涼飲料水になる。今までならそれでもよかったし、そうすべきだと思っていた。

 けれど、今回は違う。徹底的に一人を狙って、致死量の毒を込める必要がある。

 だからこそ、準備が必要なのだ。

 渾身の力を壁にぶつけなくては。チームのみんなにわかってもらえない。私は本気なのだと。壊れそうなくらい、痛いくらいに本気なのだと。

「なんだかとても切ないね。いつもとはずいぶん違う雰囲気になるだろうね」

 プロデューサー兼コンポーザーの中村さんは、少し意外そうに私を見た。

 私を受け入れ、ここまで歌わせてくれた人だ。



 槻木つかさ。

 インターネット発という色物出身ながら、キュートでポップな歌声でテクノポップシーンに展開、様々な曲を「歌ってみた」で自己流にカバーする新しいタイプの歌い手。

 そういったプロフィールで、私は紹介される。

 特に楽曲用ボーカルトラック合成ソフト「オートシンガー(通称:オトシン)」との兼ね合いを中心に説明するテキストが、テンプレートにあるのだろう、非常に多い。

 確かにそれは間違いではない。動画サイトにある私の公式アカウントには、そういった曲を歌い上げた自分の声で溢れている。槻木つかさという名前の冠には、だいたい「あの『歌ってみた』の」という文句がつく。

 私はそれがあまり好きではない。機械の代わりを、社会が私に求めているような気がするのだ。

 私は一人の人間であり、女であり、そして恋もする。


「この詩だと、バラード調になるけれど」

「ええ、そうしてください」

「大丈夫?」

 眼鏡の奥から心配そうな瞳がのぞく。

 心配される理由はわかるけれど。

「やらせてください」

「……そうか、安心したよ」

 中村さんの瞳が真っ直ぐに固まる。彼の、何かを決心したときの表情はとても好きだ。安心できるし、きっと奥さんもそう思っているだろう。

「知らないぞ、曲の途中で泣いても」

 中村さんの、途中で折れた犬歯がちらりとのぞく。きっと数日後には素敵な曲を用意してくれるだろう。


「ビートマンの新作に、君のボーカルを加えた作品が収録されることになった」

 中村さんが、神妙な表情で私にそれを告げたのは、確か二ヶ月ほど前の、それこそ前作ビートマンの最終アップデートが行われた後だった。

 ビートマン。株式会社クジラエンタープライズが提供する、ゲームセンター用の音楽ゲームだ。シリーズも十作を優に超える人気シリーズ。インターネットでの知名度を考えた上での登用だと気がついたが、そうだとしても大抜擢だ。今まで私が活躍していたのはまさにインターネットの世界だけ、それが、ゲーム業界という近隣とはいえ、メジャーな音楽シーンに一歩近づく世界に足を踏み入れたのだ。

 それだけではない、私自身、ビートマンの大ファンだった。新作が出れば常にプレイしているし、腕前だって、そこそこあると自負している。

「君がここで驚くとは思っていないけれど、あえて言わせてもらうよ、おめでとう」

「ありがとうございます」

「これは君の歌をより多くの人に届けるための一歩だ、とても大きい」

「そうですね、うれしいです」

「だから、君の、書き下ろしの詩を使いたい」

 中村さんの真剣な表情に、逃げ場はなかった。

 私の顔が凍っていくのがわかる。

「私が書いて……いいんですか?」

 これまでいただいた「プロ」としての仕事で、自分が詩を書いたものはない。元からある楽曲の人気にあやかった方が実力を出しやすいというのもあったけれど、本当は、それとは別の理由だ。

「ああ。やはり歌を歌う上で、歌手本人が書いた詩というのは、大きな波及効果をもたらすと思うんだ。それに、これは千載一遇の大チャンスだ。君の実力を持ってしても、こんな幸運はそうあるものじゃない。だからこそ、今までのやり方ではなく、きちんとした君の歌を作りたいんだよ」

 きちんとした君の歌を作りたい。

 中村さんの気持ちは痛いほどよくわかる。私をこれほどまでに見込んでくれて、ここまで支えてくれた人。

 たかだか二十過ぎの、それも金髪にボブを意地でも貫き通すという目立ちたがり屋でイタイ私をここまで育てた彼の言葉を、汲み取れないほど子供じゃなかった。

 けれど。

「中村さん、私が書いた詩、読んだことあります?」

「ない」

 それはそうだろう。詩を書くときの私は、違う人格だし、私の詩はどこにも公開されていない。

「私の詩は、普段歌っているような曲には合わない、とても地味で素朴な、重たい詩なんです。……それが、『槻木つかさ』に合うでしょうか? とってもかわいくないと思います」

 だからこそ、私は彼に伝えなくてはならない。

 私がつづることばは、ただの未練の塊なのだということを。

「なるほど、言いたいことはわかったよ」

 中村さんの顔は冷たくて、どこか不安な気持ちになる。

「でも、そこまでわかっている君なら、今までにない、『槻木つかさ』の詩が書けるはずだろう?」

 ことばが出ない。

「本気で、痛いくらいに本気の詩を書いてみてくれ。どんな曲にするかは僕が決める。君はそれを、ちゃんと歌い上げるだけでいい。僕を信頼してほしい」

 中村さんの柔らかい声が暖かくて、思わず私は泣いてしまった。


 さて、困ったことになった。

 机の中に隠してある、小さなメモ帳に私の詩はある。けれども、とてもとてもかわいらしいものではない。どろどろに汚れていて、人に見せられるようなものではないのだ。この調子で書いてしまってはだめだろう。

 こんな見た目だから、あまり信頼されないけれど、高校時代はちょっとオタクな(自分で言うのも変だけど)理系少女だった。地元では一番の進学校で、私の成績は学年でも五本指に入っていたし、特に数学は誰にも負けなかった。担任の先生も、帝都大学をはじめとした国立大学の受験を勧めていた。

 けれど私は、勉強があんまり好きではなかった。ただ単に、授業を受けていればその先が読めてしまう、それだけの話で、別に成績がいいからといって勉強が好きなわけではないし、いい大学に行ったところで地味な生活が待っていそうで、なんとなく私には向かないな、と漠然と思っていた。

月野つきのって、案外歌うまいよなあ、声もかわいいし」

 同級生の彼に、なぜか演劇部に誘われたのが、私の全ての始まりだった。

 いろいろありすぎたので割愛するけれど、その演劇部での日々がなければ、私がこの仕事をする事はなかっただろう。

 彼が側にいてくれれば、こんな時もきっと、かわいらしい「槻木つかさ」でいられるのかもしれない。本名にたった一文字加えただけの芸名だけれど、それは私に与えられた役の名なのだ。そう思うことで、全てを切り抜けてきた。

 けれど。

 このメモ帳に向かう私は、そんな彼を想う一人の根暗な少女、「月野つかさ」でしかなかった。

 たった一文字の違い。

 けれどそれは、次元の壁よりも厚いものだった。いまの私に、それを飛び越える能力はない。

 お行儀悪く胡坐をかいて、ベッドの上でなんとなく、考えてみる。

 最初に歌を歌ったとき、私はどうしていただろうか。

 最初に私が歌ったのは、体育館でもライブハウスでもなかった。インターネットの中、動画投稿サイトの片隅で、お気に入りの歌を録音したのだった。目立ちたかった訳ではない。ただ、自分の歌の特徴を知りたかった、それだけだった。

 けれど、それが今の仕事に結びついている。


「ああ、そっか」


 私は思いついた。

 毎日ひとつずつ詩を書いて、それをネットのみんなに見てもらおう。「槻木つかさ」だということを知られずに、ただただ詩だけを、ことばだけをのせていく。そうすれば、より磨かれたことばには注目があつまるし、そうでないことばは私の中に埋もれていくだろう。そうやってことばを磨いていけば、期日までにはきっちりと「槻木つかさ」の詩ができあがるかもしれない。インターネットでここまで来たのだ。その力を、今使うべきだ。

 はやる気持ちを抑えて、私は画像投稿サイトにアカウントを登録した。ハンドルネームは、女子高生だった頃に使っていた、自分の本名をもじったものにした。手書きの文字はどこにも公開されていないし、サインを求められることもなかったから、まさか特定されることはないだろう。

 そうして私は、再びネットの片隅で、ひそかに詩を写真に撮って投稿していた。

 しかし、画像投稿サイトなだけあって、いろいろなイラストが目に入る。巧い下手はあるけれど、みんな必死に頑張っている様子が見て取れた。何人か、引き込まれるような雰囲気の絵があって、よく見ると同じ人が投稿していた。私と同じように、イラストを描いた紙を写真に撮って、それをあげている。

 彼女のハンドルネームは、「ミヤコ」と言った。もしかすると、同人活動か何かしているのかもしれない。絵の端に描かれているサインは少し手慣れているけれど、プロというには少しシンプルだから。いずれプロになるのか、それともこのまま趣味にとどめて別の仕事に専念するのか、それはわからない。けれど私は彼女のことを応援することにした。素朴にひねくれた、そんな絵柄に惹かれた縁のお礼として。

 彼女の投稿が更新されるたびに、スマートフォンに通知がくるように設定した。こういうものは、投稿してすぐに反応があった方がいいのだ。私もそうして助けられた。そうしてここまで上ってこられた。


 こうして私と「ミヤコ」は、お互いに自分の作品を書いた紙を写真に撮って投稿しあう、ただそれだけの関係になった。もっとも、「ミヤコ」は私のことをどう思っているのかわからない。ただ、私がうまく書けたと思った詩にはきちんと彼女からお気に入り登録の通知がくるのだ。きちんと私を見てくれている。そんな妄想に近い確信が、「槻木つかさ」の原動力になった。

 遠くにいる相手を想うには忍耐ができなくて、けれど近くで見守っているなんて口が裂けてもいえなくて、そうして彼のいる街に住んでみて、運が良ければ会えるかな、なんて期待したりもしたけれど、結局神様はよく見ている。

 私は彼に恋文をしたためるしかないのだ。

 縦波の街を散歩しながら、虚空に彼を思い描くのは、簡単なことではないけれど、やると決めたからにはやらないといけない。しかも、みんなが納得するようなことばで。

 いつも通っている喫茶店「ぴろしき」で、私はいつものようにコーヒーとパウンドケーキを頼んで小さなリングノートを広げた。真っ赤な万年筆の先から、桜色のインクがいたずらに線を描く。インクをこの色に変えてから、私は詩をうまく書けなくなった。この色では、暗いことばを綴れない。そう思って、あえて色を変えてみたのだ。お風呂の残り水でインクを抜くのは思ったよりも大変で、私の相棒が生まれ変わっていくのを感じた。

「いつもありがとうございます」

 女将さんが、朗らかな笑顔でコーヒーを出してくれる。赤みがかった髪に真っ白なヘアバンドが映える。女将さんと言うには少し若いくらいの綺麗な人なのだけれど、ここには彼女とマスターくらいしかいない。私もついに覚えられたのだろう。

「何を書いているの?」

 とても人なつっこい笑みを浮かべて、彼女は私に寄り添う。

「詩を書いているんです」

 この見た目だから、特に目を引いたのだろう、こみ上げる恥ずかしさを抑えて、私も本当のことを言った。

「詩? へえ、それなら主人が詳しいかも」

「そうなんですか?」

 思わずマスターのほうを見た。ずんぐりむっくりとした、野生の熊みたいな見た目からは想像もつかない。

「ねえあなた、この子、アーティストなんだって」

 アーティスト。

 合っているのか間違っているのか、微妙によくわからないが、なんとなく女将さんに本質を見抜かれたようでやっぱり恥ずかしい。

「へえ、そうなんだ」

 マスターのつぶらな瞳が私を映す。その視線が私の相棒に素早く向くと、表情が少しほころんだ。

「キムラのホリゾントライトか。中細だ、珍しいねえ」

「万年筆わかるんですか」

「うん、使ってるし。僕はクレタケのグランドライン。中字」

 マスターはポケットからペンを取り出す。それは、毛筆の老舗が文具業界に衝撃をもたらした、最新鋭にして最高級の万年筆シリーズだった。ペン先は収納されていて、大きなノックがついている。

 まさか。

「ノック式ですか」

「そうそう、珍しいでしょ」

 マスターは満足げな顔をする。

「しかもこれ、ペン先が十八金なの。シルバーゴールド」

 マスターのノックできらりと光ったペン先は、間違いなく貴金属のそれだ。恐らく、数万円はするはずだ。

 そんな情熱に恐れおののいていると、マスターは私のペン先を見つめて目を丸くした。

「君桜色のインク使ってるの?」

「はい、変えたんです」

「へえ、かわいいねえ。それで詩書くの? 女の子っぽい感じがいいの?」

「そうなんです、それで変えたんですよ」

「なるほどねえ、さしずめ、好きな男の子に手紙でも書く感じかな?」

 思わず固まった。どうしてこうも、想いを看過されるのだろう。

「伝えたい言葉よりもさ、その人に実際に会ったらまず言う言葉があるじゃない。そこから考えてみたらいいんじゃない? 練習と思ってさ」

 マスターはそう言って笑った。


 それが、私の始まりだった。


「そういえば、この詩、タイトルがないね」

 中村さんは、私の手書きのメモを見てそう言った。

「あっ、忘れてました」

 とっさに嘘をつく。私は普段、詩にタイトルを付けない。付けても付けなくても、綴られる言葉は一緒だから。結局期日までタイトルを思いつけなかっただけだ。

「うーん、タイトルも付けてくれないと困るなあ……」

「すみません……でも、私こういうのに題名付けるの苦手で……」

「うーん……わかった、僕が付けるよ」

 と言っても僕もそういうセンスないんだよなあ……といいながら、中村さんは私のことばを睨みつける。

「遠くにいる恋人に宛てられた、素朴な言葉……よし、決めた!」


 そうして私は歌う。

 この言葉が、彼に届きますようにと祈って。

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