第3話 桜散りて

「ねえ、あんたは桜って好き?」

「何ですか急に。まあ……嫌いじゃないですけど」

「あたしは嫌い」

「は、はあ。そうですか」


 僕ら以外誰もいない図書室で、先輩は図書委員が見たら顔をしかめそうなくらい雑に本を数冊積み上げると、勢いよく顎をのせた。

「っていうか足蹴らないでくださいよ。地味に痛いんですから。ほら足をぶらぶらさせない! スカートの中見えますよ」

「は? 机の下まで覗きに来るようなのはあんたくらいしかいないでしょ」

「覗きません、風評被害です」

 部活を引退した後、暇になったらしいこの面倒臭い先輩に呼び出されて早数回。中身のない話だったり時事問題だったり色んな話をしたけど、まさかこんな春休みど真ん中にお呼びがかかるとは、全くの想定外ってやつだ。もう卒業したはずなのに先輩は制服だし、僕も在学生だから制服。一回くらい、私服姿を見てみたかった気もする。怖いもの見たさって言ったら、たぶんひっぱたかれるから言わないけど。(一応補足しておくと、まだ僕はひっぱたかれたことはない。まだ。)

 大袈裟に身振りを付けて、先輩は繰り返した。

「あたしはね、嫌いなの、桜が」

「それ、さっきも聞きました」

「まずねえ、桜って皆好きなんでしょーっていう雰囲気が嫌いなの。分かる? あんたらの感覚が一般みたいに言うのムカつくのよね。あたしたちの卒業式でも咲いてなかったしさ、空気読みなさいよね。それに、散るところがきれいとか言うけどさ、あんなの地面に落ちて踏んづけられたらきったないゴミじゃない。上ばっかり見てるからそんなこと言えるのよ。都合のいいときだけもてはやすの、本当嫌い。大っ嫌い」

 どうやら、今日は機嫌がすこぶる悪いらしい。こんな日は聞き役に徹するに限る。下手に反論したら何倍になって返ってくるか分かったもんじゃない。おお怖い。積み上げた本をきちんと棚に戻して、先輩は再び椅子に座り直すと大きく大きく溜め息をひとつ。恨めしげな視線も添えて。

「本当にどうしたんですか? まさか、卒業が寂しいんですか?」

 と、これはほんの冗談というか、笑い飛ばしてもらうためのフリだったのだけど、あっけなく目論見は崩れ去ることになる。

「そうよ」

「え?」声が漏れるのと同時に、さっきまで付いていた頬杖も折れた。


「へ、へえ。先輩ってサッパリお友達とも別れるタイプだと思ってました。ほら、最近って携帯でいつでも連絡取れるじゃないですか」

 さっき反論したら返ってくると考えたのは自分なのに、言ってしまってから気がついた。これはまずい、手が出てきてもおかしくない。そう覚悟して先輩に視線をやると、初めて見るくらいにしおれた様子で、まるでこっちが悪者みたいな状況になってしまった。しかも、よくわからない唸り声まで聞こえてくる。

「せ、先輩?」

「あたしが、桜嫌いな理由はね、まだあるの」

俯せて表情を見せないまま、もごもごと続ける。

「桜はね、別れを連れてくるのよ」

 暖かかった日差しは、カーテンを引きたくなるくらいに強い西日に変わっていた。


「桜といえば春、春といえば出会いの季節、とか言うけどね、出会いの前には絶対別れがあるのに、何もなかったみたいに、感動とか、涙とか、色々あるはずなのに、そういうの全部に目をつむってなかったことにして、へらへらしてられるの、ほんと、あたしは嫌なの。クラスメイトとも部活メンバーとも、その、あんたとも会えなくなるわけじゃないけど、会うことが特別になるんだよ。今までは普通の、当然のことだったのに。教室にあんたを呼びに行くことももうできなくなるし、放課後の教室でああやって駄弁ったことも、綺麗話になるんだよ、全然綺麗でも何でもないのに」

 相変わらず顔は上げないけれど、声の調子からおそらく泣いていることが分かってしまった。意味もなく座り直したりしても、居心地の悪さは消えなかった。僕は、うっかり開けてはいけない扉を開けてしまい、あまつさえ覗いてしまったのかもしれない。かけるべき言葉を探して虚空を見ても、しけった本たちの題名は何も教えてくれなかった。もともと図書館には縁遠いから、普段の行いのせいか? 僕の葛藤など知らず、先輩はすっかり黙り込んでしまった。控えめな嗚咽がひやりとした空気を縫い、僕だけに届いて溶けていった。

 「大丈夫ですよ、まだ僕はあなたと同じ身分にはなれませんけど、あなたの後輩だった事実は全然綺麗なんかじゃない、どこにでもあることです。それに、それこそ電話してくれれば、飛んでいくことはできませんけど、電車に乗って会いに行くくらいはできます。……あなたの、後輩ですからね。怖い先輩には逆らえないんですよ」

 自分でも何が大丈夫なのか分からなかったが、考えなしに飛び出たのは、冗談でも、取繕うための社交辞令でもなかった。僕はこの人に呼ばれたら、なんとしてでも会いに行こうとするのだろう。そして、こうして意図の掴めない話に付き合うのだろうなと、このとき妙な確信が心のどこかで小さく顔を覗かせた。真正面に座っていて手が届かないから、やり返すように、弱く彼女の足を蹴った。文句をありありと顔に貼り付けて、ゆるゆるとこちらを向いた彼女を見たら、思わず口元がゆるむ。

「……何よ、ださいって?」

「いえ、先輩も女の子なんだなあって」

 男の上級生は、卒業式が終わってからもよく集まったりしているという。過去の学校になど興味はないというように、与えられた休みを謳歌しているようだ。

「しんみりするのは女の子の特権なのよ、覚えときなさい」

「ええ、よく覚えておきます。でも」

クエスチョンマークを浮かべた先輩の方に身を乗り出すと、彼女は驚いたように椅子を後ろに引いた。


「そんな風に言われたら期待しちゃうのは、男の子のさがなんですよ? 覚えておいたほうがいい」


「う……」

 勢いよく顔を覆っても、高い位置でひとつに結われた髪のせいで丸見えな耳は真っ赤に染まっていて、今はもう沈んでしまいそうな夕日に照らされた姿に、思わず言葉が漏れた。そうだ、これは僕の意思ではない。

「先輩って、もしかして僕のこと好きじゃないですか」

 別に見当違いでも、これでいつもの先輩に戻ってくれればいい。当たっていたら、その時は、まあ、そういうこと。

 秒針のない時計の音が、聞こえるような気さえする静寂。

「で、どうなんです? 優しい先輩は困った後輩に答えを教えてくれるんですか?」

「あんたさあ」

「なんです」

しまった、つい楽しくて深追いしすぎたか?

「いや、何でもない。そうね……。ただ答えを教えるんじゃ、あんたのためにならないわ」

一息入れると、人差し指をびしっと僕の鼻先に突き付けた。

「夏までに、あんたの答えをまとめておきなさい。あたしがここに帰ってきたとき、聞くわ。模範解答も教えてあげる」 

 この可愛い人は、どこまでも。

「分かりました。満点の時は、ご褒美とかあるんですよね?」

「随分調子に乗るようになったわね……。仕方ないなあ、花丸だったら、デートしましょ。女の子とのデートよ、男の子だったら嬉しいでしょ?」

「楽しみにしてますね。どこに行くか、考えておきます」

 窓から伝わる冷気が、火照った彼女の頬を冷やしていった。




 夏。

 長い髪を下ろして可愛らしい服に身を包んだ先輩が、僕の手を引いてずんずん歩いていく。今日は右も左も人と屋台で埋め尽くされている夏祭り。手を繋ぐ口実としては、上々だろう。

「ねえ、結局何点だったんですか?」

「教えてあげない!」

 いたずら心で少し手に力を込めると、先輩は真っ赤になって振り向いた。


「察しの悪い男の子は、好きじゃないから!」

 手をぱっと離して人混みに紛れていく影を追いかける。リンゴ飴で許してくれるだろうか。

「このリンゴ飴、さっきの先輩みたいに真っ赤ですよ」

「バカ!……あんた、あたしへの敬意がこれっぽっちもないわよね」

これくらい、と親指と人差し指で隙間を作った手を、逃がさないように握る。

「僕は好きですよ、先輩のこと」


 先輩の模範解答は、威勢のいい屋台の呼び声に紛れて、僕にしか聞こえなかった。

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少女たちのしおり 東里あずま @wes_tex_

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