卒業は死神

樫木佐帆 ks

卒業は死神



scene 1


 開いていたスマートフォンの液晶に雪がひとつ落ち、液晶の画面を伝って地面に落ちるのを見て、私はスマートフォンを見るのをやめ、コートのポケットの中に仕舞った。何かメールやラインを打っていたのではなく、見ていたのでもなく、ましてやゲームをやったりインターネットを見ていたのではない。何もする事が無かったからスマートフォンを開いて、待ち受け画面と今の時刻、残りの電池を確認しただけだった。


 今は午後の4時34分。これから遊ぶ予定なんてなく、早く家に帰りたいわけでもなく、コンビニやどこかに寄りたいという事もなく、ただ、学校近くの公園、屋根がある場所で、音も無く降り続ける東北の雪を見続けていた。見続けるしかなかった。何も見るものが無いからだ。


 東北の雪は何もかもを億劫にさせる。東北、特に山形の雪は北海道の、まるで地面に突き刺すような鋭い雪とは違うものだ。冬の北海道には行った事がないが、テレビでのニュースなどを見る限り、私はそのような印象を持つ。山形の雪。山形の雪は柔らかい綿を千切って雲の上から落としたように一つ一つの雪の粒が大きく、ふわふわと冬の風に舞い、やがて鉛のようにべったりと重く町全体に貼りつく。


 11月頃に降る今年初めての初雪、雪は天使、ホワイトクリスマス、スキーリゾート。雪と密接な関わりを持たない人たちは雪に対してそのような良いイメージを持つ。東北に住んでいないからそういう事が言えるのだ。東北に住む者にとって、東北の雪が好きなのはまだ小さい子供だけだ。子供の登下校、蛍光色のようなパステルカラーのような水色や黄色やピンクの全身防寒具を着て雪で遊びながら歩く子供の姿を見ると、私はもうそこに戻れない事を知る。


 小学生から中学生になる頃に訪れる思春期は何もかもを残酷に映しだす。中学校には小学校ほどの自由がなく、制服やジャージは地味で、小学校の時に夢見ていた中学校生活の現実を味わう事になる。空はコンクリートで作られた建物のようなグレー色、目の前はどこまでも終わりの無い白の壁。綿のような雪で遠くの建物が見えない。見えたとしても山があるだけなのだが。楽しいものが何も無く、テレビで知った音楽アーティストの事やバラエティ番組とお笑い芸人の事をただ延々とお喋りするこの田舎では、この東北の雪は閉塞の象徴なのかもしれない。


 こうして考えている間にも降り続ける雪が私の毛糸の帽子や紺のコートの肩に積もっていく。手袋をした手で払おうとしても、綿で出来たふかふかとした生地ではどうしても雪が払えきれず、残る。革で出来た薄い鞄も、払おうとすればするほど雪がこびりついて取れない。今日は1月12日。3学期の始めから日数が経っていないので特に憂鬱なのかもしれない。来年は、ああ、大学入試共通テストらしいがどうにも実感が持てない。私はまだ進路を決めていない。どうして進路というものがあるのか。どこにも行けやしないのに。雪の粒が頬に落ちたので指で払った。


 ここにいてもどうしようもないので帰ろうとした時、コートの中でスマートフォンが鳴った。ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。美和からだった。


「もしもし?」


「あ、裕香? 今どこにいる?」


「学校前の公園だけど」


「ちょっと待ってて、私も一緒に帰る」


「ん、わかった、待ってるね」


 予定が出来てしまった、と私は思った。ここにあと数分居なくてはならない。私と美和は友達だ。小学校の時から一緒だった。だからと言って子供の頃を思い返すほどでもない。美和は昔から私についてきた。何をするのにも一緒が良いと言い出し、中学や高校の部活も一緒になった。


 私は正直、美和の事が少し鬱陶しかった。美和がいつも側にいるせいで友人関係が限定されるからだ。私が美和の他に友人を作ろうとすると、いつも美和が干渉してきて、ダメになった。他の人から見れば私たちは仲が良く、親友という事になるのだろう。まあ、来年、卒業したら私と美和は離れ離れになるだろう。卒業も悪くないなと少しだけ思った。美和はまだやってこない。



scene 2



 お元気ですか…というのもヘンだね。


 こうやって手紙書いたのって小学生の頃以来かな。年賀状とかは毎年送りあっているけど、手紙ってそういえばなかったよね。書きながらちょっと恥ずかしいかな。


 この間、テレビを見ていたら手紙を配達日を指定できるという郵便局のサービスを知ったんだ。そんなのやってるんだ、と思ってこの手紙をそのサービスを使って送る事にしました。ちゃんと届いてるかな。卒業式の次の日に届くようにしたんだけど。


 この手紙が届く頃、私は、いません。


 骨は…貰ってくれた? ごめんね貰ってくれって頼んじゃって。でもどうしても裕香ちゃんに貰って欲しかったんだ。裕香ちゃんって書くの(呼ぶの?)久しぶりだね。小学校の時は私、裕香ちゃんって呼んでたよね。懐かしいな。いつからお互いに名前を呼び捨てで呼ぶようになったんだっけ。



scene 3



 私の家の郵便受けに一通の手紙の封筒が入っていた。差出人は吉澤美和とあった。その手紙を見つけた瞬間、私は急に体の力が抜け、その場にへたりこんでしまった。ありえない。何故。どうして美和から手紙が送られてきたのか。美和はもう、この世にはいない。


 高校3年。大学入試共通テストが終り卒業を控えた3月。美和は何の前触れも無く突然自殺した。私には何も言わず、メールも何も残さないで、スマートフォンの電池が切れてどこからも繋がらなくなるように自殺したのだ。自殺の前の日、私と美和は普通に会って、話していたし、メールもやりとりしていた。学校でいじめられているということもなかった。普通だったはずだ。何も変わりはなかったはずだ。


 死因は手首の静脈と動脈を傷つけた事での出血多量。話によると両方の手首と腕に深い傷と浅い傷があり、おそらく、静脈を傷つけただけではいつまでも死ねなくて、それで動脈まで傷つけて体に残っていた血を出した、という事だった。美和の遺体には腕に無数の傷が付いていて隠せないので、包帯が巻かれていた。遺書が残されていた。そこには両親への今まで育ててもらった感謝の言葉と、これから生きていく自信がなく自殺すること、そして、骨を友達の私──渡辺裕香に渡して欲しいという事が書いてあった。その遺書には自殺する理由らしい理由が書いていなかった。どうして美和が自殺したのか美和の両親も分からなかったらしく、美和が自殺した当時は半狂乱気味に私に美和の話を聞きに来た。いじめはなかったのか、男が関係しているのか、何か変なものにハマっていなかったか、色々聞いてきた。私は何も知らなかった。いつも美和の横にいたのに、美和の事を何も知らなかったのだ。


 美和の両親は不思議と私を疑わなかった。小学生の時からの唯一の友達だったからだ。美和には私しか友達がいない。だから、通夜、葬儀、火葬に友達として参列したのは私一人だった。遺書の通り、私は美和の骨を分けてもらった。美和の両親から「あの子はもう結婚も出来ないから左手の薬指を貰ってくれる?」と言われ、私はその通りに左手の薬指、指輪をはめるところの骨を小さなガラス瓶に入れ、コルクの蓋で封をした。美和の骨が入ったガラス瓶は、物が物なだけにどこにも仕舞う所が無く、私の飾り棚の上に置かれてある。


 そして美和が自殺してから12日後、美和から手紙が届いた。卒業式の翌日だった。私はもう学生ではない。3月、まだ桜も咲かない寒い季節。私は玄関先に座り、美和からの手紙の封筒を見続けていた。



scene 4



 ちょっと待ってて、と電話で言いながら美和はなかなかやってこなくて、こちらから電話をかけようかとした時に美和はやってきた。遅いよ、と私が言うと、美和は本当は5分ぐらい前に来ていて私が美和の事を待っている様子を見ようと隠れていたらしい。とりあえず軽く美和の頭を叩いた。


「いや、裕香が私の事待ってるのっていいなあと思って」


「意味わかんない。寒いんだから待たせるな」


「遠くから写真も撮ったんだよ、ほら」


私は美和のスマートフォンを強引に奪ってその画像を消してからもう一度美和の頭を叩いた。


「…いったいなぁ、写真撮ったくらいで」


「盗撮されれば誰だって怒る。しかも待たせやがって」


「ごめんって、コンビニであったかいもの奢るから。あんまんと肉まんとピザまん、どれがいい?」


「おでん」


「えー? ん、まあいいけど」


「大根とはんぺんとそれとココア」


「お金、そんなにもってないんですけど。…おでんにココア? 食べ合わせ悪くない? それ」


「とりあえず何でもいいから食べたい。つか寒い。マジ寒い」


 なんだかんだで私と美和は友達だった。普通に友達がする事はやっていたと思う。学校で宿題を見せたり、休み時間に話したり、カラオケに行ったり、買い物したり。普通過ぎて何も書くことが無い。コンビニでは美和におでんとココアを奢ってもらった。美和が大根をはんぶんこしてというので半分分けてあげた。あーん、と美和が口を開けるので雪を放りこんだ。ひっどーいと美和は言いながら笑った。



scene 5



 この手紙は裕香ちゃんにしか送っていません。遺書と一緒に同封しようかなと思ったんだけど、そうすると多分他の人、お父さんやお母さん、そして警察の人に見られるだろうから、裕香ちゃんにだけに届くようにしました。だって裕香ちゃんに迷惑かけちゃうの嫌だったし。裕香ちゃんにだけ私の自殺の理由を知って欲しかったんだ。


 何から書けばいいのかな。裕香ちゃんとの事はいっぱいありすぎて、どこから書けばいいかわかんないや。


 私がこれから書くことは、もしかしたら裕香ちゃんを苦しめるかもしれないけど、本当は自分の中だけにしまっておいた方が良かったのかもしれないけど、書くね。



scene 6


 玄関に座りっぱなしで何してんの、風邪ひいちゃうから部屋に戻りなさい、という母親の声がして、私はやっと呆然とした状態から我に帰る事ができた。だが、それと同時に死んだはずの美和からの手紙の存在が私の心を乱していく。


 心臓がどくどくと鳴っている。もしかしたらこの手紙はとんでもないものではないのかという予感がしたからだ。薄い桜色の封筒。美和の字で書かれた私の住所と差出人。これはきっと誰にも見せてはいけないものなのだろうと直感で思い、急いで自分の部屋に戻り、部屋の鍵を閉めた。


 今日配達された手紙を受け取ったのが私でよかった。母親が受け取ったのなら家の中で事件になっていただろう。手紙を開封するのは気が重かった、が、手紙を見ない事にはどうにもならない。ふと美和の薬指が入っている小瓶が目に入る。死んだというのにまだそこにいるようで、私は小瓶を机の中に仕舞った。そうしないと美和が一緒に手紙を見てるようで嫌だったからだ。手紙の封筒は赤いハート型のシールで封がされており、私は何を思ったのか赤いハート型のシールが破れないようにと丁寧に手紙を開封することにした。


 何が異常なのか私にはわからなくなっていた。美和が自殺した事は一般常識的に異常な事ではある。卒業式を前に女子高生が自殺したという事件は全国ニュースにもなった。美和が自殺した理由は本当に何も無く、報道する側も事件の報道する方向性が見出せずに「将来を悲観して」やら「生きる気力が無い若者症候群」というような感じで美和の自殺の報道は2日間ぐらいで終わった。自殺する人は多い。だが学生が卒業式前に自殺する事は稀である。そういう意味で美和の自殺は異常だった。


 そして今、手に取っている手紙も異常だ。最初のページに目を通して、どうして死んだはずの美和から手紙が届いたのかはわかったけれど、それでも異常だった。自殺する事を仄めかす内容の手紙で、実際に美和は自殺したからだった。つまりこの手紙が美和のいう日時指定配達サービスで投函された時点で美和の自殺は決まっていたのだ。美和が生きていればたちの悪い冗談で済んだのだが、実際に自殺してしまった。計画的な自殺。頭が混乱していくのが自分でもわかった。



scene 7


 裕香ちゃん、昔から私と一緒にいた裕香ちゃん。私と裕香ちゃんの最初の出会いって覚えてる? きっと覚えてないよね。


 小学生の時ね、図工だったかな、私が絵の具セットを忘れて、その頃は私は誰にも何にも言えないおとなしい子だったから先生に言うのもできなくて困っていて泣いてたんだけど、その時にね裕香ちゃんが絵の具セットを貸してくれたの。2人で使おうって、それが私と裕香ちゃんとの出会い。クラスメイトだから出会ってたんだけどね、初めて裕香ちゃんが私に声を掛けてくれたの。


 私はそれまで友達なんかいなくて、一人ぼっちだったんだけど、裕香ちゃんが話しかけてきて、それから私、裕香ちゃんにべったりになったよね。いつでもどこでも裕香ちゃんに付いて回って、うん、迷惑そうに思われてたのはどこかでわかってたけど、裕香ちゃんはね、私の友達なんだ、って。絵の具セットを貸してくれたのは裕香ちゃんにとって些細な事なんだろうけど、私にとってはそうじゃなかったの。嬉しかったなあ。中学でも高校でも一緒に居たよね。迷惑じゃないかなって少し思ってたけど、それよりも裕香ちゃんと一緒に居たかったんだ。


scene 8


 私は美和との初めての出会いを覚えていなかった。何となく記憶の底にあるようで、でもそれは見つけられなかった。子供の頃の記憶などそのようなものだろう。全部覚えているようで覚えていない。


 覚えているのは何となく強い印象がある記憶だけで、その印象が強い記憶を覚えている理由など子供の頃だからよくわからない理由で覚えているのだ。例えば私が小学1年の頃、家の近くにマクドナルドが出店し、連れて行って貰いたがったのだが、何となく親に言い出せずにいたという思い出がある。何故こんな記憶をすぐ思い出せるのか、マクドナルドの近くを通るたびに思い出すのかよく分からない。

 

 他にも月にアメリカがあると思い込んでいた頃の記憶や、学校の近くでキリスト教関係の宗教関係者が絵本のようなビラを配っていた事など、それは夜に見る夢のような感じで端々に覚えている。子供の頃の記憶とはそういうもので、きっと美和が手紙で書いているのはそのような些細な事なのだ。私には些細で、美和では些細な事で無かった事。小学二年の頃から美和はずっと隣に居て、それが普通だった。だから初めてあった時の記憶など覚えていない。



scene 9


 子供の頃の話ってなるとつい長くなるよね。他にもいっぱいあるけれどそれを書いちゃうと紙がいくらあっても足りなくなるからやめとくね。


 私がこうやって手紙を裕香ちゃんに出したのは他でも無く私が裕香ちゃんに伝えたい事があったからです。


 今まで私は裕香ちゃんと一緒にいて、居続けて、高校も同じで一緒に居て、私にとって裕香ちゃんは初めての友達で、ずーっとずーっと一緒だと思ってたんだ。裕香ちゃんはいつでも居るって感じでさ。


 でも私たち卒業すれば別々になっちゃうよね。進路も違うし。


 私はそれが分からなくて、裕香ちゃんがどこか遠くに行ってしまうというのが分からなくて、考えても考えても分からなくて、どうしていいのかわからなくて、卒業が私たちを裂くのならば、その前に死んでしまおうと思ったんだ。



 ねえ、裕香ちゃん。好きだよ。



 絶望的に好き。



 友達の好きなんかじゃなく、本当に好きなんだ。



 裕香ちゃんにとって私はただの友達かもしれないけど、私にとって裕香ちゃんは特別に好き。卒業が私たちを引き裂くのならこの幸せのまま死にたい。そう思って私は卒業式の前に死ぬことを選んだんだ。こんな形での告白は卑怯かもしれないけれど、裕香ちゃんならこれまでもこれからもただの友達でいようと言うだろうから死ぬことにしました。


 気持ち悪いって思うかもしれないけれど、思ってるかもしれないけれど、私には告白する事なんてできなくて、こんな形でしか伝えられなくて、ごめん。



ごめんね。




scene10


 最後に「ごめんね」と記された美和からの手紙を読み終わって私は何もしてあげられなかった無力感に包まれた。返事をしたくても美和はもうこの世にはいない。美和はどんな気持ちでこの手紙を書いたのか想像するしかなかった。好きと書かれた手紙の文字がとがりながら震えていて、きっと手紙でも告白するのが怖かったのだろう。私は手紙を封筒に戻し、机の中に仕舞った美和の骨が入った小瓶を取り出し、机の上に置いた。そして、気づけなくてごめんね、と誰もいない部屋で一人呟いた。


 翌朝。雪は積もっていたが降っていなかった。私は美和が眠る墓地へと向かっていた。私の中にあるこの思いとは何かを確かめるためだった。そして美和のお墓の前で私は泣いた。贖罪でもなく後悔でもなく、ただ失ってしまった美和という存在が寂しいと思って泣いたのだ。手紙には裏にPSと書かれて、裕香ちゃんありがとう、と記されていた。きっと美和の命は卒業式が奪っていったのだろう。卒業は死神のようだと思った。

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