第9話 悲しみの忘れ方3
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「……とても大切な記憶なんですね。どうして、それを忘れたいなんて思ったんですか?」
ゆゆが注いだ麦茶はすっかりと半分が消え、コップは汗をかかなくとも快適な体温を保っているようだった。男性は……相川は自嘲気味の笑いを浮かべて、ただ首を捻っていた。
「……人を恨み続けるって言うのって、疲れないと思いませんか?」
「恨んで……え?」
「俺は、今を生きないといけません。渡瀬君は生きたかったけれど、彼の身体がとても弱く、長く生きる事ができませんでした」
大事な友達の事を語ったせいだろうか。あれだけどもっていた相川の口調からはすっかりと澱みが失せ、はつらつとした中学生を思わせるような口調で、彼はスラフラと言葉を述べていた。
「今でも……クラスメイトの事を許す事ができないんです。俺が人を信じる事ができず、ネオニートになったのも、結局の所渡瀬君が死んでしまった原因を作った奴らが、葬式で泣いて、平気で今を生きていると言うのが、今でも許せないんです。今はSNSで簡単に現状を知る事ができます。そこから割り出して、時折復讐でその事をばらまいてやりたいって、もしそうなった時、一体どんな言い訳をするんだろうって、今でも思うんです。
その妄想の後……思うんです。本当に渡瀬君は、そんな事望んでいるんだろうかと」
ゆゆは黙り込んだ。
そして軽く首を振った。
「……申し訳ありませんが、今回の件はお受けできません」
「どうし……て!」
また、口調に澱みが戻ってきた。
中学生の相川はすっかりと消え失せ、現在ネットで食べている相川へと戻っていた。
ゆゆは悲しげに首を振った。
「私は残念ながら、今、渡瀬さんが何を考えているのかは分かりません。死に神だったら分かるのかもしれませんが、私は魔法使い……魔法使いでは彼が何を考えているのかを把握する事は不可能です」
「で……も」
「相川さん。多分、人を恨んで、憎んで、嫌悪して……いいと思うんです。人は綺麗なままでは生きていけませんから」
キリスト教が掲げる大罪として、強欲、傲慢、色欲、暴食、嫉妬、憤怒、怠惰があげられる。
しかしもしこれらを抜いてしまったら、人は人ではいられなくなる。キリストが一体どんな人物だったのか、そもそもこの教義を上げたのは彼なのかは、残念ながら不勉強のゆゆには分かり兼ねたが、これだけははっきりと言える。
中学生時代の憎しみも、悲しみも、それらを大きく引きずって生きてもいいのだと。
「嘘をついて自分の気持ちを誤魔化す。それが最大の悪だと思いますが、あなたはただ素直に、中学時代の人を憎んで、今でも渡瀬さんの事を大事に思っています。それがきっと、あなたの創作活動に必要な事ですから」
「俺の……」
「どうか、その気持ちをなくさないまま、今を、現代を生きて下さい」
そう言って最後にゆゆが頭を下げると、彼女の絹のようなブロンドの髪がぴかぴかと光ったフローリングの床にくっついてしまいそうな錯覚を覚え、相川は狼狽えた。
「わ、わ……分かり、ました。あの……お金は」
「私がただ、知り合った方にお茶を出しただけです。いただけません。その替わり、今度あなたの作ったと言うものを見せて下さいませんか? 私、本当にインターネットって言うものに疎いんです」
そう言うと、相川はここに来て初めて無邪気に笑った。そして頷く。
「話を……聞いて下さってありがとうございます」
「いえ、また一緒にお茶をしましょう」
頭を下げられてしまった相川は、ただゆゆが顔を上げるのに心底ほっとした後、ドアをカランと鳴らして帰っていった。
ゆゆは水盆にポイポイと花を入れた。これは魔法ではない。ただのおまじないであり、ただの願い事である。浮かべた花の色は青く、瑞々しい青はすっと水に溶けて消えた。
相川が誰かをこれ以上恨みませんように。憎みませんように。
気持ちを静める匂いのラベンダーに、記憶を留める匂いのレモン。それらのアロマオイルを水盆に落とすと、最後にまた、青い花を浮かべた。
「どうか……忘れませんように」
中学時代の事はしょっぱく苦く、全部が全部、大人になってもなお「ああ青春だった」の一言で済ませられる程軽いものなんて一つもない。
大人が今を必死で生きているように、中学生だって今を必死で生きているのだ。それを軽んじてはいけない。
青い花は勿忘草。
花言葉は名前の通り、「どうか私を忘れないで」。
憎しみも悲しみも喜びも友情も。
全てを背負って今を生きればいい。
大人になる。たったそれだけで軽く生きられる事もあるのだから、中学時代の重さ位、ずっと背負えるはずなのだ。
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