大切な夢の忘れ方

第10話 大切な夢の忘れ方1

 スーツを着ると、汗ばんでカッターが背中に張り付き、ネクタイを締めた首もとが苦しい。

 スニーカーを履き慣れた足に、入学式で「一生ものだから」と値を張って買ってもらった革靴は未だにフィットしてくれなかった。爪先やかかとが、どうにも痛くてたまらない。

「スーツに個性を」とは言われているものの、黒いスーツ姿で個性を出すのがいかに困難か、カッターを白ではなく水色やら紫やらを着たらどんな扱いをされるのか知らない学生はいない。いるとしたら、それは就活をする必要がない奴だ。

 俺はスーツ姿のまま、今年何社目か分からないインターンに参加していた。

 学生をそのまま使う事はせず、当たり障りのない内容を行う会社もあれば、これはもうブラックぎりぎり一歩手前なんじゃと言うような事をしでかす会社もあり、一社終わるごとにくたびれていく。

 それが大人になる事なんだと言い出したのは、どこの誰なんだろう。俺は重たい足をずるずる引きずりながら、今日のインターンを終えた。

 いい事があるとすれば、同じインターンで知り合った連中とメール交換をする事ができると言う事。仮に他社でひどい会社があったらそこにエントリーするのを外す事ができるし、自分が興味ない業界の事を知る事もできるし、相手が知らない業界の情報をこちらが流す事ができるのは割と便利だ。

 そして。俺はいつもの店に顔を出した。

 普段通っている店は中華料理のチェーン店で、値段が安い割には本格的な中華が楽しめる上、酒を安価で楽しめると言う事で、普段から通っている店だ。


「おおっす、お疲れー」

「お疲れー。あー……今回もマジで最悪だったわ」


 手を振ってくれたのは、同じバンド仲間だった。大学ではモテたいからと言う理由で軽音部に入部しようとしたら、そこは全然ギター弾いてないと言う事で、音楽やりたい奴らで勝手に集まってサークルをしていたのだ。

 俺が金融関係をあっちこっち行っている間にも、メンバーもあっちこっち行っている。食品関係行っている奴とか、福祉関係に行っている奴とか。

 互いに近況連絡交換している中、「なあ」と誰かが言った。ちょうど今届いたばかりの揚げたて春巻きを食べている時だ。


「何」

「俺らさあ、いつ解散ライブする?」

「えー」

「ほら。就活が本格的に始まったら、後は就活と卒論にかかりっきりになるから、その前に解散ライブした方がいいだろって」

「あー……」


 途端に気まずい空気が漂う。

 俺らは別にプロになりたくってバンドをやっていた訳じゃない。一曲もオリジナル曲のないコピーバンドだったけれど、それでも文化祭で演奏すれば盛り上がったし、ライブを開けばチケットが全部はける事はまずなくっても、ばらばらと見に来てくれた子達から歓声を浴びるのは悪くなかった。

 でも……俺らそんな暇があるのか?

 別に大して金にならないライブだし、そんなのにわざわざ金を使う必要はあるのか?

 その疑問だって出てくると「だってさあ」とそいつは続ける。


「……卒業したら、どうなるか分かんないじゃん」


 それに答えられる奴なんて、一人もいない。

 ふいに、隣の席の大声が耳に飛び込んできた。俺らよりちょっと年上の女性グループが、女だてらにジョッキを掲げて飲んでいたのだ。


「ほんっと、クズだわ。クズ。上司死ねばいいのに」

「お疲れー……今回もノルマ大変だったしねえ」

「ほんっとお疲れだわ。何でずっと椅子譲らないんだろ、さっさと辞めればいいのに」


 あけすけに上司の悪口を言い続けるグループに、俺らは閉口する。

 今はまだ大学生だけれど、再来年には飲み会で上司の悪口を延々言ったり聞いたりするようになっているんだろうか。そりゃバイト先に対して文句がある時だってあるし、学校の先生の悪口を言う事だってあるけれど。


「まあ、おいおい考えようや。解散ライブの事は」


 そう言ってくれたのは誰だったっけ。

 その言葉に心底ほっとして、俺は「それもそうだな」と頷いていた。

 久々に飲んだビールだったにも関わらず、その日飲んだビールは妙にぬるく感じた。変だな、キンキンに冷やされているはずだし、店内の空調だって緩やかで、ビールが美味いはずなのに。

 大人を見ていると、大人ってつまらないんだなあと思う。誰かを下に見ないと立っていられない大人を見ていたら、心底馬鹿らしくなって、大人になるのが嫌だった。

 でもガキの頃みたいに「なりたくない」って駄々をこねていても、就活の時期は待ってはくれない。

 このもやもやした感情を引きずっていくのも本当に馬鹿らしいなと思っていたら、また別のグループの話が耳に飛び込んできた。


「ねえ、ここじゃない。忘れさせ屋って」

「可愛いー、絵本に出てきそう」


 女性グループがスマホをくっついて覗いているのがふっと視界に入った。

 俺は黙って餃子を頬張っていると、スマホを持っている女性が一人、内緒話みたいに声をすぼめて言っていた。多分そのグループに一番近かった俺しか聞いてなくって、他の皆は聞いてなかったんじゃないかな。


「ここで何でも忘れさせてくれるって」

「インチキ霊媒師みたいね、その言い方」

「まあ、ここ高級住宅地だし、金持ちじゃないと住めないはずなんだけどねえ、ここ」


 高級住宅地に、インチキ霊媒師。

 言葉の並びがあまりに奇抜で、俺はぬるいビールを飲みながら続きを聞いていた。

 華やいだ女性達は、さらに信じられないような話を続ける。


「忘れたい事があったら、ぴったり6666円払ったら、何でも忘れさせてくれるんだって。トラウマとか、不信感とか色々」

「お医者さんなの?」

「そういうのではないみたい。スピリチュアル?」

「やっぱりインチキ霊媒師じゃない」

「でもその手の人って、大々的に宣伝してるけど、ここの店って公式サイトもないし、本気で口コミしか情報がないんだよね。雑誌の取材も断ってるみたいな事は、匿名掲示板にも書いてた」

「そこまで行くと、逆に信憑性があるね」


 何でも忘れさせてくれる店。宣伝は一切しておらず、口コミ情報でのみ存在が確認されている。

 高級住宅街にある、絵本のような店。

 出てくる情報出てくる情報、もし酔いが回っていない俺だったら、「女子ってこういうの本当に好きだな」と雑誌の占い感覚で一蹴してしまっただろうけど、俺は酔いが回ってしまっていたんだろう。

 どうにもその情報を「デタラメ」と聞かなかった事にするなんてできなかった。

 飲み会が終わり、皆で割り勘した後、店を出て家に帰る電車を待つホームで、俺は聞きかじった内容を適当にスマホに入れて検索をかけてみる事にした。

 最初に引っかかったのは、それこそ口コミのオカルト情報ばっかり書いてある匿名掲示板のスレッドの一つで、見るんじゃなかったと思ってそのまま引き返そうとした中、気になるカキコミがあって、自然と目で追ってしまっていた。


【友達が例の店に行ってきました】

【マジで? 本当にあの店って物を忘れさせてくれるの?】

【それがさあ、なあんか店やってる子に追い返されたんだってさ。それって意味がないって】

【あれ、あそこにいるのって?】

【無茶苦茶可愛い女の子が店番やってるって】

【あそこって謎だらけなんだよな。何度行ってもたどり着けないって証言もあるし、稀にたどり着けた奴も、物を忘れさせてもらえず追い返されたりって】

【逆にこう考えられない? 本当に忘れたい事忘れた人は、そもそも忘れたい事を忘れてるから、店の存在自体覚えていないのかも】

【あー……】


 何度読んでもそれは、嘘なのか本当なのかさっぱり分からない内容で、俺は思わずうなってしまった。

 別のサイトを見てみれば、店の場所も書いてある。でも店の場所を知っている人の注意書きにも、さっきの匿名掲示板と同じような事が書かれている。


【ここに必ずたどり付けるとは限りません。願いがない場合は迷惑になるかと思いますので、節度を守って出かけましょう】


 何だか矛盾した書き方だな。

 場所の地図は、俺でもバスに乗り継げばたどり着けそうな場所だ。

 そこのサイトをアドレスに登録してから、俺は手帳を取り出した。明日は久々に大学もインターンもバイトもない、フリーの日だ。

 明日、その何でも忘れさせてくれるって言う店に行ってみようか。

 酔った勢いっていうのは恐ろしく、俺はあっさりと「そうすべき」だと思ってしまっていた。

 だって、こんな気持ちで就活したって、しょうがないじゃないかと。そう思ってしまっていたんだ。

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