5-2

 午後二時の2-A教室は閑散としていた。


 お昼時の賑わいが嘘のように、ぱったりと客足が途絶えてしまっている。おそらくこの後はずっとこんな調子だろう。あたしはふうとため息を吐くと、IHクッキングヒーターのスイッチを切って、ソーセージを茹でるための鍋に蓋をした。


「あっちゃん大丈夫? 疲れてない?」


 と、配膳係のゆずが話しかけてきた。


「え? あたしそんなにひどい顔してる?」


「顔はいつも通りだけど、ため息ついてたからさぁ」


「朝からずっと忙しかったみたいだしな。そりゃくたびれただろ」


 あたしとゆずのやり取りを聞きつけたのだろう。ちょっと離れたところでテーブルを拭いていた華子も話に入ってきた。


「ちょっと早いが、先に上がってもらうかい?」


「そうだねぇ。もうお客さんほとんど来ないだろうし」


 ぎりぎり生活指導の先生の目を逃れられる程度に脱色しているセミロングがよく似合う水泳美人の華子と、おでこを目立たせたおかっぱヘアがよく似合う和風美人のゆず。部活も出身中学も違う二人なのに教室ではいつも一緒にいるのは、日常のほんのちょっとしたことで気が合うことが多いからなのだろう。


「や、でも悪いよ」


「問題ないっしょ。みんなあんな感じだし」


 華子があたしの背後を指さして言った。なるほど。みんなもう、やることがないらしく、バックヤードで仲の良いグループに分かれて雑談を始めている。


「ま、あとはうちらに任せて、休むでも遊ぶでも好きにしな」


 ここまで言われると、断るのも気が引ける。あたしは二人に礼を言って、ひとまずは制服に着替えるために被服室へと向かうことにする。


「っと、悪い」


 廊下に出ようとしたところで、一足先に向こうから誰かが中に入ってきた。


「いらっしゃいませー……って、敷島じゃん」


「まだやってるか?」


「うん、まぁ」


 あたしは曖昧にうなづきながら、ゆずと華子に助けを求める――が、ダメだ。配膳係の二人は敷島の相手をあたしに丸投げするつもりらしく、バックヤードから謎のガッツポーズを決めてあたしの救援要請を拒絶した。


「とりあえず座って」


 あたしは敷島を手近なテーブルに案内して、メニューを渡した。


 だが、当の敷島はメニューをろくに見ようともせず、不思議そうに辺りを見回している。


「どうしたの?」


「いや、2-Aの出展はプロレスショーだという噂を耳にしたんだが」


「根も葉もない噂だよ」


 ひょっとして昨日のコブラツイストのせいだろうか。


「そうか。山辺から川原の衣装がすごいってメールも届いたから、てっきりお前がレスラー役をやるものだと思っていた」


「やってたまるか!」


「そうか。残念だな」


 何が残念だ。とりあえず清乃には後でもっかいコブラツイストを掛け直さなくてはならない。


「良いから早く注文決めてよ」


 と、さっきまでバックヤードに引っ込んでいたゆずが、テーブルにホットドッグとコップが乗ったトレイを二つ置くと「あちらのお客様からです」とだけ言って走り去っていった。


 あちらのお客様? 訝しく思いながらバックヤードに視線を向けると、華子が謎のサイドチェストを決めて見せた。いや、客じゃねえし。


「……川原の分もあるみたいだぞ」


 ああもう。わかってるから言わなくていいって!


「半分持って。場所、変えるよ」


「あっ、おい、待てよ川原」


 誰が待ってやるものか。あたしは2-A教室を出ると、敷島には構わずずんずんと廊下を進んだ。できるだけ人目につかないところが良いのだけれど、文化祭当日にそんな場所を望む方が間違っている。結局あたしは散々歩き回った後に、青空廊下で華子のおごりのホットドッグをぱくつくことにしたのだった。


「なかなか旨いな」


 あたしのすぐ隣でホットドックをゆっくりと咀嚼しながら、敷島が唸った。


「とくにソーセージが旨い。肉を食ってる感じがある」


「市内の養豚農家さんが作ってるのを格安で仕入れてきたんだって」


「自家製ってやつか」


「パンはその辺で売ってるごく普通のやつだけどね」


「そうか」


 相づちを打ってから、敷島はホットドッグの包みを見つめて、しばらく考え込んでいたようだった。


「……一鯨の件は残念だったな」


「仕方ないよ」


「仕方ないか」


「うん。誰かが外れくじを引かなくちゃいけない状況だったんだから、あたしたちがそれを引くのは当たり前の話」


 あたしは敷島と同じにホットドックの包みを見つめながら、朝のことを思い出す。


 教員の説得を終えて講堂に舞い戻ったあたしは、すぐさま生徒会のメンバーとともにステージの復旧に取り掛かった。新聞紙で水を吸った後、何度も雑巾がけをした。仲井君の発案で体育館用の送風機まで持ち込んで乾燥を行った。会長の要請で駆け付けた東高生もあたしたちに続いた。


 文化祭の開催決行に最後まで慎重だった教師たち――意外なことに大畑さんもそのグループの一員だった――も、こうした状況を目の当たりにしては、考えを変えざるをえなかったようだ。


 かくして五十海東高文化祭は予定通り開催される運びとなった。


 否。ひとつだけ予定通りとはいかないことがあった。


 復旧作業の影響で二十分遅れの開催となったのだ。


 講堂の予定は朝の開会式から夕方の閉会式までぎっしり埋まっている。


 誰かが外れくじを引かなくちゃいけない状況だった。


 だから生徒会は一鯨への参加を取りやめにした。仕方のないことだった。


 あたしにとってもそれはそうだった。


 いや、待てよ。そもそもあたしは一鯨になんか参加したくなかったはずだ。


 それをふざけた脚本家があたしを主演に指名したせいで、英単語の記憶すらおぼつかない脳みそに大量の台詞を詰め込まなきゃならなくなったわけで。昨日だって常日は誉めてくれたけど所詮は素人芸だってことはわかっていたし、本番でも同じように演じられるかどうか不安で、ベッドに入ってからも不安で仕方なくておかげでほんのちょっとしか寝られなかったわけで。もうステージに上がらなくて良いとなったんだから、ほっとしたって良いはずなのに――おい、しゃんとしろ。あたしの涙腺。


「敷島」


「ん?」


「あたしが良いって言うまでこっち見るの禁止」


 返事はなかった。それが了解を意図した沈黙であることはわかっていた。


 だからあたしはブラウスの袖で目の周りをごしごしと擦ると、ホットドックの残りを闇雲な勢いでほおばり、一緒にもらったコーラのレモネード割り――シュペッツィというらしい――で流しこんだ。


 ドイツでは定番の飲み物らしいけれど、少なくともホットドッグには合っていない。何より、甘い飲み口よりもなお甘ったるいシナモンの香りが、今のあたしにはきつかった。


 ああ、くそう。やっぱりあたしは一鯨に参加できなかったことを悔しがっている。

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