第5章/Karma
5-1
なんなんだ。これは一体なんなんだ。そもそも誰が? 何故? どうして?
早朝の講堂で、あたしは呆然と立ち尽くしていた。
「今朝、鍵開けに来たらこんな状態になっていたんだ」
あたしと同じに下手からステージを見つめてそう言ったのは名取会長だった。その表情は珍しく青ざめていて、唇も震えていた。
「くそっ」
バケツで一体何杯分になるのだろうか。ステージの床はすっかり水浸しになっていた。
特にステージ中央から上手袖の手前にかけてがひどい有様で、フロアにぽたぽたと雫を垂らしているところもあった。一方あたしたちのいる下手袖の方はほとんど濡れていない。
操作盤とピアノ――昨日のうちに下手袖に運び出してあった――まで被害が及んでいないのは不幸中の幸いと言えるのかも知れない。
「二人ともいるかー?」
入り口の方から正木先輩の声が聞こえてきて、あたしたちは袖から顔を出した。
「老松さんと仲井君も間もなく来るそうだ。今、山辺さんに迎えに行ってもらっている。おい名取、聞いているか?」
「聞こえている」
あからさまに不機嫌そうな声。正木先輩は小さくため息をついてから、ステージに駆け寄った。
「職員室への報告はどうする? 何なら俺が行っても良いぞ」
「まだ良い」
「しかし――」
会長はいつになく逡巡しているらしい。案じ顔の正木先輩に向かってかぶりを振ると「少し整理する時間をくれ」とだけ言って、黙り込んでしまった。
そうこうしているうちに清乃が常日と仲井君を連れて講堂に入ってきた。
「うっわ、本当に水浸しじゃん」
「どうしてこんなことに」
「どど、どうしましょう」
動揺する生徒会のメンバーをよそに、あたしはちょっと思いつくことがあって、下手袖から前室へと降りた。
搬入口はぴったり閉まっていて鍵も掛かっていたけれど、グラウンド側の窓はクレセント錠が外れていた。それに部屋の隅の清掃用シンクに水滴が残っている。犯人があの窓から侵入したと断定することはできないが、ここで水を汲んでステージに撒いた可能性は高そうだ。
なるほど。会長が悩んでいる理由がわかった気がした。その解き方も。
あたしは誰もいない前室で小さくうなずくと、ステージに戻った。
「名取会長、ちょっと良いですか?」
他のメンバーが不安を募らせる中、会長は隅の方で俯いてずっと考え込んでいた。
「何だ、カワ」
射抜くような鋭い視線――しかし、あたしは臆することなく問う。
「会長はこれがただのいたずらだと思いますか?」
「思わないな。いたずらでやるにしては度が過ぎている。文化祭に対して明確な悪意がなければこんなことはしないだろう」
「あたしもそう思いますが、だとするとひとつ気になることがあります」
「気になること?」
「はい。被害が限定的だということです」
そう言ってから、あたしはふと講堂内が静かだということに気が付いた。
いつの間にか、周りのみんなが口を閉ざしてあたしと会長のやり取りに注目していた。
「会長はたいたずらでやるにしては度が過ぎていると言いましたが、袖とフロアはほとんど濡れてませんし、操作盤も無傷です。こんなのは取り返しのつかない被害じゃないんですよ」
「あの様子だと緞帳も大丈夫だし、ステージさえしっかり乾燥させれば問題なく使えそうだね」
天井を見上げてそう言ったのは、演劇部出身の常日だった。
「そもそも犯人が本気で文化祭を中止に追い込みたいならもっと簡単な方法があるんですよ。例えば脅迫状を送りつけるとか。『文化祭を中止しなければ校内に爆弾をしかける』とでも書けば、学校も中止の判断をせざるをえませんよ」
「川原さん、発想が怖い」
正木先輩が大げさに身震いする素振りをして言った。
「でも、その方が確実です」
あたしはにっこり笑って言い返すと、正木先輩は苦笑いを浮かべて黙り込んだ。
「確実に中止になるけど、確実に警察沙汰になるんじゃない?」
代わりに口出ししてきたのは清乃だった。
「そうだね。犯人としてもそれだけは避けたいところだった。だから、この程度の嫌がらせをするだけに留めたんだと思う」
「確かにこの程度の被害なら、学校としても通報をためらう可能性は高いでしょうね。一学期にも事件があったばかりですし」
自覚なくあたしの古傷を抉る仲井君。言ってることは正しいと思うけど。
「おそらくその辺りは犯人も織り込み済みだったんだろうね」
それからあたしは改めて名取会長の方に向き直った。
「会長は文化祭を決行すべきか、それとも中止すべきかの判断で悩んでいたんじゃありませんか?」
あたしの問いかけると、会長は口元に手を当ててさっと目をそむけた。何かを恥じているような仕草だった。
「最終的には教師が判断する事柄だが……万が一にでも東高生の身に危険が及ぶ可能性があるなら中止を進言しなければならない。私はそう考えていた――カワはどう思う?」
「この程度の嫌がらせが犯人にとってはせいいっぱいなんだと思います。だからこれ以上はない。万が一にでも東高生の身に危険が及ぶ可能性はないのだと、あたしはそう思います」
「そうか」
相変わらず口元に手を当てたまま、会長は言った。
「ツネ、今から復旧に取り掛かれば文化祭の開始に間に合わせられると思うか?」
相変わらず口元に手を当てたまま、会長は常日に尋ねた。
「厳しい戦いになりそうですね」
「つまりは不可能ではないんだな」
会長が口元から手を放して、再度常日に尋ねた。常日はそれに「はい」とだけ答えた。
「何をするつもりだ、名取」
「決まってる。何が何でも文化祭を開催するんだよ」
そして、会長は獲物を駆る獅子のごとくに微笑んだ。
「正木とカワは職員室に行って状況を報告して欲しい。悪質なイタズラだが、犯人は生徒の可能性が高いと補足してくれ」
「決行の方向に議論を誘導するってことか」
「頼んだぞ。お前たちならうまくやれるはずだ。残りのメンバーはここの復旧だ。ツネの指揮で動いてくれ」
「それは構いませんが、会長はどうするんですか?」
「我々だけじゃ手が足りない。信頼のおける生徒に片っ端から声を掛けようと思う。さて、質問はそれだけかな? なら、早速取り掛かってくれ!」
おう! と叫んだのは正木先輩やあたしだけじゃない。常日も清乃も仲井君も、めいめいが
「鮎、頼んだよ」
あたしがステージを下りると、清乃が近づいてきた。
「大丈夫、今更中止になんてさせはしない。だから――こっちは任せた」
清乃は一瞬目を丸くした後で、ぱっと素晴らしい笑みを浮かべると、あたしの耳元で「百点」と囁いた。
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