2-3

 第一校舎の一階に足を踏み入れると、空気が少し重たくなった気がした。


 来賓室、校長室、事務室、印刷室。横を歩くだけでも心がどんよりしてくる。多分、この付近には普通科高校の劣等生向けの結界が張られているんだと思う。


 東側の突き当り――職員室のドアは開けっ放しになっていた。いつものことだけど職員室の中は閑散としている。


 東高の教師陣は科目ごとの連帯感が強いのか、あるいは諸々の束縛を嫌ってなのか、職員室に居つかず、科目教官室を常の住処すみかとしている者が少なくない。


 束縛する側に立つ人間――例えば教頭なんかは、さすがにそういうわけにはいかないらしく、今日も今日とて丸メガネの奥の瞳で神経質そうに書類を睨み付けている。


「文化祭の資料をお持ちしました。開会式のプログラムとシナリオでっす」


「置いといてください。後で読みます」


 書類から片時も目を離さずに、教頭は言った。甲高い声が耳に触る。


「ちゃんと生徒会執行部に顔を出してはいるようですね」


「まぁ、一応」


「彼らに迷惑をかけてはいけませんよ。あなたは執行猶予付きなんですから」


「努力しますよ」


 うっとうしさしか感じられない声援に背を向けて、職員室を後にする。あたしは生徒をリンゴか腐ったリンゴかにしか区別できない教師との会話に異議を見出すようなマゾではない。


 と、印刷室の横を通りがかったところで、見慣れた中年男が白衣姿の男と並んで階段を下りてきた。


「おう、川原。妙なところで会ったな。呼び出しか」


 見慣れた中年男――担任の大畑さんが、あたしに声を掛けてきた。


「違いますって。生徒会長のお使いです」


「そうか。頑張ってるようだな」


「まぁ、一応」


 職員室の時と同じだけど、ちょっとだけニュアンスの違う受け答え。どうもあたしは三十個のリンゴのそれぞれに美点を見つけようとする担任教師のことが苦手なようだ。


「確か、生徒会のメンバーで一鯨に出るという話でしたね」


 横に立っていた白衣の男――大畑さんと同じ数学教師の福屋ふくやが口を挟んできた。


 数学教師が何故白衣? と思わないでもないが、中のシャツがチョークで汚れなくてすむとか、ポケットが大きくて中に色々入るだとか、これはこれで便利らしい。それに、大柄で手足の長い福屋が着こなしは結構様になっている。小柄な大畑さんがどれだけ高級そうなスーツを着ても、いまひとつぱりっとしないのとは大違いである。


「ああ、職員会議で言ってましたね」


 2-Aの御仏は、年下の同僚に対しても丁寧語を使う。


「ええと……待ってくださいね。確かこの辺に……」


 福家は白衣のポケットをごそごそやって、中からくしゃくしゃに畳まれた紙を取り出した。


「生徒会は……演劇をやるそうです」


 どうやら職員会議で配られたとおぼしき資料を見て、福屋は言った。


「おう、それはそれは」


「演目は――ロミオとジュリエット」


「え?」


 あたしは思わず声をあげてから「ちょっと見てもいいですか?」と言って、福家が広げた紙を覗き込んだ。


 ――確かにそう書いてある。


「どうしたんだい?」


 女子から密かに人気を集めている甘柔らかい声で、福屋は尋ねてきた。


「あ、いや……うちらがやるのはロミオとジュリエットじゃないんですよ」


「そうなんだ。まぁ欄外に『講演内容は調整中です』とあるから、変更になったってことかな」


 福屋の言葉に曖昧にうなずきながら、あたしは資料の日付を確認する。神託より前の日付。ってことは、誰かが無理くり演目を書いたってことなのかも。けど――。


「それじゃあ、本当の演目は文化祭当日のお楽しみということですかな」


「ダメですよ、大畑先生。ぼくらはリハーサルの確認担当になってるじゃないですか」


「おっとそうだった。失敬失敬」


 二人の数学教師がにこやかに談笑するのを見ているうち、あたしの中に生じた微かな違和感は淡雪のように溶けて消え去ってしまった。

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