第3話 猫逃げる
とりあえず馬を返した後で、拳銃の弾を入れた小袋を落としたことに気づいた。また馬を借りるのも癪なので走って戻った。周囲は暗く、失せ物を探すにはあまり良くはないが、朝から失せ物探しは恥ずかしいものであるから、これはかえって幸いだった。
来た道を遡って歩くうち、錦山神社まで戻ってしまった。
もはや誰もいない参道にて、月明かりを頼りに目を凝らして歩くうち、長く背を預けていた石灯籠の脇に小さな袋を見つけた。拳銃の弾を入れた袋だった。良かった良かった。
一人満足していると脇の茂みの奥で、緑色の目が光っている。
大きな瞳だなと思ったところ、にゃあと言って姿を見せたのは二間ほどの銀と黒の猫だった。残念ながら、どこをどう見ても虎ではない。
ーーなんだ。大きな猫じゃないか。
僕がそう言ったところ、大猫は口だけ少し開けてか細い声でにゃあと鳴いた。そうですと言ったようであった。どうやら図体はでかくても猫は猫である。あまりの人の多さに怖がって茂みから姿を出せなかったに相違ない。思えば悪い事をした。
手を出したところなめたので、頭を撫でた。猫は人馴れしているのか大人しくしている。餌の一つもやりたいが何もないので家に来るかと言ったところ、大猫は身をすりつけ、ついてきた。
こうなると可愛いものでそのまま下宿屋に戻り、鍵が開いていることをいいことに、一緒に階段を登って鰹節を一本やった。
堅過ぎたのか大きな舌で鰹節を舐めている姿を見て、満足して寝た。布団は敷きそびれたがゆるゆると動く尻尾を枕に、良い夢を見た気がした。
翌日。近藤君が家にやって来て腰を抜かさんばかりに驚いた。
何を騒ぐかと思いきや猫に驚いたのであった。
ーー化け猫ですよ。先輩。
そんな事を言う。いささかうんざりしつつ、昨日に引き続いて熊本も既に科学都市として歩み出そうというところだ。今更化け猫が出ても鍋島もなければ相良もない。そもそもどちらも熊本には関係ないじゃないかと諭した。
近藤君は納得しない。挙句、先輩が猫に魅入られたと珍妙な事を言って慌てて駆け出して行った。以上のやり取りにて当の本猫はどうしていたかというと箪笥の上で丸まって、じっと様子を見下ろしていた。猫は中々、うるさい人間には慣れぬものである。
降りてきたので頭を撫でたところゴロゴロ言うので、背を撫でて暇を潰した。熊本では犬は不人気だが猫は人気である。上を見て尻尾を振るのはいかにも熊本の美学から遠いが、猫は尻尾をぴんと立てて、まこと、男らしい。
そのうち下で大騒ぎ。階段から下を見下ろすと、近藤君を中心として、とんでもない数の武装警官隊がいた。窓から外を見れば警官隊に加え野次馬に昨日の連中と、十重二十重の大騒ぎになっている。猫が怖がって背中を押し付けてくる。
ーー何がどうした。
そう尋ねると、近藤君は事もあろうに僕を無視して猫に声をかけた。
ーー化け猫め、先輩を返せ。
ーー僕はお前のじゃないぞ。
ーー話がややこしくなるので先輩は黙っていてください。
ーーそうか。
僕が黙ると近藤君は猫に僕がいかに頼りないかを説いている。頼りないから祟るのはやめろということであった。各論について反論したいのは山々だが口ではどうとでも言えるので、これは今後の生き方で見せつけるしかあるまいと僕は思った。
大猫は耳の後ろを後脚で掻いていたが、そのうち近藤君の甘言に乗ったか、それとも単に腹を空かせたか、ぴょんと飛んで屋根の上を歩いて何処かに行ってしまった。
あれはあれで可愛げがあったのに残念だ。下を見れば槍を持った士族がなんだ、大きな猫じゃないかと感想を述べている。ほら見ろ、僕とだいたい同じことを言ってるぞと思ったが、近藤君は涙を浮かべて僕の無事を喜んでいる。僕はそれで、これ以上の文句を言うのをやめた。熊本人は武に屈する事はけしてないが、親切には遠慮する。
それで、化け猫騒ぎは沙汰止みになってしまった。
皆、虎を退治するのに憧れるものはいても猫退治では格好がつかないと思ったらしい。大きいだけでは当世中々通用しないものである。
厄介なのは近藤君で、彼は事あるごとに僕に感謝すべきですと言い張ってきかない。猫ではなく後輩に祟られたかとそんな気分になった。
どうせ祟られるなら毛がふさふさで目が大きい方が良くないか。そう思う日もある。
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