第10話 ダブル・カンパネラ

 翌日の早朝、病院のベッドで美穂は目を覚ました。彼女の頭には包帯が巻かれ、体には水色の患者衣が着せられ、右足首にはギブスがはめられていた。ベッドの脇には昨夜の衣服がビニール袋に入れられて置いてあった。その一番上には赤黒い血がこびり付いた白いマフラーが乗っていた。美穂は上半身を起こし、両手を窓のブラインドから洩れる光にかざした。美穂の両手は無事だった。傷一つ付いていなかった。

「気が付いたんだね」

 十分後、佐倉が部屋に入ってきた。彼は水の入った花瓶を両手で抱え、美穂の前を素通りしてゆくと、それをテーブルの上に置いた。半透明の青色で、氷のように四角いガラスの花瓶だった。佐倉は頭がぼさぼさで、普段以上にみすぼらしい感じがした。紺のジャケットは椅子に掛けられていた。佐倉は美穂に背を向けたまま言った。

「先に花瓶を買っておいたんだ。花を持ってくる人がいるだろうからね」

 美穂はやっとのことで口を開いた。

「佐倉さん。どうして、ここにいるんですか?」

「覚えてないのかい? 昨夜、君は階段から落ちて……」

「そうじゃなくて、佐倉さんがです」

「僕が?」

「いつから、ここにいるんですか?」

「昨日の午後八時頃……君が救急車で病院に運ばれてから一時間後くらいかな? あの時、君はまだ手術中だったけど」

「佐倉さん、私……」

 美穂はわっと泣きだした。嗚咽まじりの醜い泣き方だった。流れ出る赤い血、救急車の赤いランプ、点滅する赤信号。死という恐怖、ピアニスト生命を絶たれるという恐怖。彼女はそれらを思い出し、今は「助かった」という安堵の気持ちでいっぱいだったのだ。佐倉は美穂のことを黙って見つめ、彼女が泣きやむのを待ってから言った。

「昨夜、橘さんが君の代わりにパレス・ガーデンでピアノを弾いたんだ」

「え?」

 美穂は佐倉から事の次第を聞かされた。亜衣が白いドレスを着て、雨の中でソナタ・熱情とラ・カンパネラを弾いたこと。その直後、倒れて救急車で運ばれたこと。今は自宅で安静にしていること。

「亜衣さんが……私のために……」

 美穂の目には涙が溜まり、唇は真一文字に結ばれていた。佐倉は美穂の横に椅子を移動させ、その上に腰掛けた。彼の眠たそうな顔にはブラインドからの光が当たっていた。数分間、無言の時間が流れた後、佐倉は美穂の右足首を見ながら言った。

「その足首だけど、複雑骨折したらしい。元々弱かったのか、変にひねってしまったのか、詳しいことは僕にはわからないけど、かなり状態が悪いそうだ」

「複雑骨折……」美穂は自分の右足首を見た。「右足首……。佐倉さん、状態が悪いって、どういうことですか?」

「一生、治らないかもしれないということだよ。これはピアニストにとって致命的なことだ。右足はペダルを踏む方の足だからね。ただ、まだわからない。詳しい検査をした後じゃないと。いずれにせよ、しばらくペダルを踏めないよ」

「佐倉さん……私、ピアノはもういいです……」

「そうかい」佐倉は立ち上がった。「だけど、君は必ずピアノを弾くよ。いや、そうしてもらわなきゃ困るんだ。静井さん、僕との約束を覚えているかい?」

 美穂は頬を赤らめて答えた。

「ピアノ・コンツェルト……」

「そうさ。僕は君のためにピアノ・コンツェルトを書いているんだ。最初から、そのつもりだった。君を初めて見た時、君のピアノを初めて聴いた時、その時から……。もう少しで完成するよ」佐倉は美穂の手をとった。「いつだったかな? こうして君の手を見た時、僕は確信したんだ。僕はこの人に曲を捧げるために生きてきたんだと」

 美穂は佐倉の目を眩しく見つめた。

「佐倉さん。私、佐倉さんのことが……」

 佐倉は美穂の手を放した。

「曲のタイトルは『明日へ』だ」佐倉は上着をとった。「西園寺さんのことは心配しなくていい。僕から話しておくよ。あの人も昨夜からずっとこの病院にいるんだ。今はロビーで休んでいるはずだけど」佐倉は最後に美穂の目を見た。「やっと涙が止まったね、静井さん」

 佐倉は病室から出ていった。美穂は何も言えなかった。彼女は今、放心状態だった。ずっと遠くの方を見ていた。そして、亜衣のことをふと考えた。『亜衣さんは私に何か隠している。きっと、ずっと前から。何故、亜衣さんは私の代わりに雨の中でピアノを弾いたの? 亜衣さん、ここに来て。本当のことを教えて……』美穂の目は、亜衣の目のように悲しく輝いていた。

 その頃、病院一階のロビーでは佐倉と西園寺が対面していた。二人の周囲は静かだった。まだ朝も早いため、数人の看護師と患者の姿があるだけだった。西園寺はゆっくりと立ち上がった。その顔は青褪め、唇の端が小刻みに震え、いつもの涼しげな様子が完全に消えていた。目の前にいる佐倉の顔をまともに見ることもできなかった。佐倉はしっかりとした口調でこう言った。

「たった今、静井さんが目を覚ましました。気分は悪くないようです。ただ、しばらくはそっとしておいた方がいいでしょう。彼女はひどく混乱しているに違いありませんから。右足首のことや、橘さんの代役のことは私から一通り話しておきました。それから、あなたのことも……」

「静井さんは……私のことを決して許してくれないでしょう……」

「許されるのではなく、あなたが許すのです。静井さんを、彼女の全てを。私は静井美穂というピアニストを全力で応援してゆくつもりです。彼女のために曲を作り、そのためなら何でもするつもりです」佐倉は西園寺の肩を軽く支えた。「西園寺さん、あなたも彼女を応援してくれますよね? 当然、そうでしょう。あなたが見つけたピアニストなんですから。あなたは彼女を見つけ、彼女の才能を認め、彼女の人格を愛した。私も同じです。我々はこれからも彼女のことを支えてゆかなくてはなりません。五年後も、十年後も……いや、彼女が自分の翼で飛び立つまでは。西園寺さん、私に協力してくれますね?」

「私にできることがあるのなら」西園寺はやっと顔を上げた。「何でもするつもりです。あの娘のためになるのなら、何でも」

「ありがとうございます。それでは、私は帰ります。楽譜は完成次第、こちらに持ってきます。まだ手直しをする部分があるので」佐倉は歩きだした。「あの曲はまさに静井美穂そのものなんだ。彼女の生き様と呼応している。あらゆる苦難を乗り越え、怪我を克服してゆき、そして……」佐倉は病院の出口近くまで来ていた。「年末年始はもちろん、冬の間はここに来ることになるぞ。彼女を支えてゆかなくては。もっと彼女の呼吸に耳を澄まさなければ、あの曲は完成しない。あの曲は完成しないんだ!」

 病院の外で、佐倉は最後の一言を大声で叫んだ。遠くにいた老婆が振り返ったほどである。佐倉は両腕を高く上げ、両手を限界まで広げた。その顔は空に向き、両手で何かを掴もうとしていた。天気が良く、雲一つない青空。足元の水溜りには青空と彼の姿が映り、全てが眩しく輝いていた。

 結局、亜衣は美穂の見舞いに来なかった。涙のクリスマスから一週間が過ぎ、年が明けても連絡すらよこさなかった。美穂は孤独な病室で落胆していたが、その横には佐倉の姿があった。佐倉は世間話をしたり、食事の世話をしたり、リハビリの手伝いをしたりと、美穂の復帰のために自分のできる限りのことをした。

 亜衣の友人や知人は何か言いたそうだったが、本人はまるで気にしていない様子だった。曜子は気まずそうに、心配そうにしていた。実は、東城から『金輪際、静井美穂とは一切関わるな』と強く言われていたのだ。「命令」という形は、亜衣にとって初めてのことだった。いくら温厚で、亜衣を全肯定している東城でも、今回の一件、つまり豪雨の中での代弾き、それによって倒れるという一件には堪忍袋の緒が切れたのだ。もちろん、国際コンクールを控えているということもあった。また、TVピアノトーナメント決勝での敗北という、亜衣のイメージが損なわれたことも根に持っているようだった。

 一月上旬、亜衣は空港で越知たちに見送られ、ひとりで飛行機に乗っていった。行き先はブリュッセル。二月に行われる国際コンクールに出場するため、亜衣は予定よりも早く旅立った。飛行機の中で亜衣は財布から何かを取り出し、熱心に眺めていた。それは、あの時、二人で撮った一枚限りの写真だった。美穂の首には白いマフラーが、亜衣の首には黒いマフラーが。二人とも笑顔だった。亜衣は涙を浮かべ、しゃっくりを上げた。隣には外国人の子供が座っていた。色が白く、瞳が青い、六歳くらいの少年だった。少年は亜衣のことを心配そうに見上げ、ハンカチを渡そうとした。亜衣はそれを無言で受け取り、小さく頷いて微笑んでみせた。亜衣は美穂の復活を誰よりも信じていたのだ。


 橘亜衣が優勝した! 世界三大コンクールの一つ、ブリュッセル国際コンクールで。日本人として初、もちろん彼女としても初めてのことだった。最終選考で亜衣が弾いたのはラフマニノフのピアノ・コンツェルト第二番。荘厳な雰囲気のコンサートホールで、亜衣はその曲を完璧に弾ききった。世界中から集まった聴衆たちは興奮の渦に巻かれ、ステージ上の亜衣はこれまでで最も輝きを放っていた。そして、その彼女が数日後に帰国するという。ブリュッセルからの越知の手紙には、そういった内容が興奮気味の言葉で記されていた。

 佐倉はその手紙を丁寧に折り畳み、ジャケットの内ポケットに仕舞った。彼は今、夕暮れの公園のベンチに座っていた。これから美穂の元を訪れるところだった。三月上旬、長い冬がようやく終わろうとしていた。佐倉はベンチから立ち上がり、並木道を歩き始めた。彼の左手にはパンの詰まった紙袋が抱えられていた。佐倉は無精ひげをさすり、悲しく微笑した。その目は支離滅裂な光を放ち、相変わらず遠くを見つめているようだった。夕日が木々の影を映し出す中、佐倉の影はゆらゆらと亡霊のように揺らめいていた。

「静井さん……。橘亜衣は僕らの敵だ。僕らの想像をはるかに超えた敵だ。あの人にはやはり勝てないんだ。だが、それでいいじゃないか。彼女のような人間がいる一方で、僕らのような人間もいる。それでいいじゃないか……」

 横浜市、美しが丘。公園から徒歩五分ほどの距離に美穂の住む小さな家がある。百葉箱のような、二階建ての白い一軒家。西園寺たちの配慮で、美穂は駒沢からここに引っ越していた。その駐車場にはエメルスがあり、その一室にはグランドピアノがある。春風のような軽快なメロディー。美穂は今、ピアノを弾いているところだった。ペダルを踏む右足からはギブスがとれていた。佐倉は呼び鈴を鳴らさずに建物の中へと入り、ピアノの音色が聞こえてくる部屋へと廊下を歩いていった。美穂は夕日色に輝くガラス張りの壁をバックにピアノを弾いていた。佐倉は部屋の前で立ち止まり、美穂が鍵盤から手を離すのを待った。曲が終わり、美穂が振り向いた。

「佐倉さん、こんにちは」

「うん。これ、パンだから」

 佐倉は部屋に入り、楽譜棚の上にパンの詰まった紙袋を置いた。美穂は佐倉の横顔を見つめ、明るい声で言った。

「気分転換に、ベートーヴェンの悲愴を弾いていたんです。あと三週間ですよね。もっと頑張らなくちゃ」

「ペダルはきちんと踏めるかい?」

「はい、なんとか。まだ違和感がありますけど、少しずつ感覚が掴めるようになってきました。指はしっかり動きます。入院中も指だけは動かしていましたから」

「そうかい。そろそろオーケストラと合わせる必要がありそうだね。西園寺さんたちが動いているはずだけど。少し休まない? コーヒーを淹れてくるよ」

 佐倉は部屋を出ていった。美穂はグランドピアノの前に座ったまま、窓の外を眺め始めた。部屋は庭に面しており、木々や花々が風に吹かれる様子を間近に見ることができた。美穂の顔には夕日が当たり、あの可愛らしい笑顔を輝かせていた。彼女は三月下旬の復活コンサートに向けて練習をしている最中だった。佐倉が部屋に戻ってきた。彼はマグカップを美穂に手渡すと、自分は窓際に寄りかかった。

「橘さんがブリュッセル国際コンクールで優勝したよ。四日後に帰国して、品川のホテルで凱旋パーティーをやるらしい。僕も君も呼ばれている。どうだろう? 僕は行かないけど、君は行くだろうね」

「行きます。私、やっぱり、もう一度だけ亜衣さんに会って、ちゃんと話がしたい。今、亜衣さんが私のことをどう思っているのか、それだけが知りたいんです」

「君なら、そう言うと思ったよ」佐倉はコーヒーに口をつけた。「たぶん、それが一番いいんだろう。君が直接会って、自分の目で確かめるのが。招待状はピアノの上に置いとくよ。僕には必要のないものだからね。それじゃ、僕は帰るよ。僕には僕で行かなきゃならない場所がある……」

「佐倉さん? どこへ行くんですか?」

「……」

「次は、いつここに来てくれるんですか?」

「……」

 佐倉はマグカップを楽譜棚の上に置き、無言で部屋から立ち去ろうとした。美穂は顔をこわばらせ、座ったまま叫んだ。

「待ってください! 私の復活コンサートを聴きに来てくれるんですよね?」

 佐倉は美穂に背を向けていた。

「……行かないよ。客席にも行かない。あのピアノ・コンツェルトは君にあげるよ。ダブル・カンパネラも。もう、君ひとりで何でもできるよ。ついに君は自分の翼で飛び立ったのだから。今の君には僕も橘さんも必要ないはずだ。だけど、来週のパーティーにはぜひ出席しなよ。その後は君次第だ。どういうピアノを弾き、どういうピアニストになってゆくか。じゃあ、さよなら……」

「佐倉さん、どこへ行くんですか? 教えてください。まるで二度と会えないみたいなこと言わないでください。佐倉さん、私は……」

「静井さん、君ならわかるだろ?」

 佐倉はそう言い残し、部屋を出ていった。美穂はこの言葉の意味について考えながら、佐倉が持ってきた焼きたてのパンを一口食べた。

 この日の夜、佐倉は特急列車に乗り、東北の辺鄙な村を訪れた。そこは彼の故郷だった。翌日の早朝、佐倉は実家を出て、近くの森に足を踏み入れた。少年時代、彼がよく遊び、よく迷子になった場所だった。森の中心には、大きな湖があった。湖の水面は太陽の光を湛え、無数の鮎のようにさざ波を立てていた。水際に彼自身の死体があり、その死に顔は幸福そうであり、そのそばには大量の薬物が散らばっている……佐倉はそんな光景を見ているのだった。『アメリカへ行こう。ニューヨーク交響楽団に僕の曲を見てもらおう。でも、その前に……やっぱり、僕も人間なんだな』佐倉は目を細め、口元を微笑ませた。死人のような顔に生気が戻っていった。


 それから三日後。午後七時、品川にあるホテルの大広間で、亜衣の凱旋パーティーが開かれた。天井にはシャンデリアがいくつも輝き、床には厚い絨毯が敷かれ、テーブルの上には豪華な料理やシャンパンが並べられていた。音楽家や著名人、音楽関係者やマスコミ関係者などの姿があり、彼らは間もなく登場する亜衣のことで盛り上がっているようだった。美穂は西園寺と神野とともに来ていた。一度挫折したとはいえ、今の美穂には一種のカリスマ性があった。美穂は白いドレスを久し振りに身に纏い、右手には大きな花束を抱えていた。西園寺は東城の姿に気付き、親しみをこめて声を掛けた。

「東城さん、お久し振りです。今回は誠におめでとうございます。私たちアリス・ミュージックの社内でも祝福ムード一色ですよ」

「ふん、そうですか」東城は態度を急変させた。「一節は、西園寺さんたちにもお世話になったことがありましたな。そういえば、静井さんだったかな、そこにいるのは? どうですか、足は治りましたか?」

 美穂は目を伏せて答えた。

「はい、なんとか……」

「それは結構!」東城は美穂から目を背けた。「あなたはあなたで頑張っているみたいですな。まあ、もう二度と橘と勝負をすることはないでしょうが」

「世界の橘亜衣ですからね!」

 曜子の最後の一言で、この険悪な状況がなんとか収まった。西園寺と神野は今にも東城に詰め寄りそうだったのだ。そんなことはお構いなしに、東城は越知など他の人々と馬鹿笑いをしていた。越知は気まずそうに美穂に目を遣ったが、言葉を掛けることはしなかった。美穂はげんなりした顔で、テーブルの上のシャンパンばかりを見つめていた。そこに蛯原がやって来た。

「みなさん、お揃いで」蛯原はにこやかに言った。「西園寺さん、彼女の復活コンサートでは、ぜひとも振らせてもらいますよ」

「ありがとうございます、本当に」

「いえ、とんでもない」蛯原は美穂の横に立った。「静井さん、君に一つ聞きたいことがあるんだが、佐倉君のことを何か知らないかな? 完全に行方不明なんだよ」

「私も、知りません」美穂は泣きだしそうだった。「佐倉さんはどこへ行ったんでしょうか? 四日前に私の家で会ってから、携帯電話もつながらないんです」

「そうか、君も知らないのか。いつか、こうなるとは思っていたが。いや、彼の性格上、きっと旅にでも出たんだろうよ。佐倉君は人と関わり合うことが嫌いでね。仕事でやむなくそうなると、その後には必ずと言っていいほど雲隠れをしてしまうんだ。だが、連絡もよこさないなんて珍しいな。いや、そのうち我々の元に戻ってくるよ。あれ? その花は橘さんにあげるものかい?」

「そうです。亜衣さんに……」

 その時、会場の奥の扉から亜衣が姿を現した。亜衣は黒いドレスを着ていた。テーブルの至る所から拍手と歓声がわき上がり、それぞれがグラスを高く掲げたり、祝福の言葉を叫んだりした。亜衣は中央の道、人々が対面で二列になって並んでいる間をゆっくりと歩いていった。彼女はおそろしく機嫌が良いようで、行く先々で足を止め、来賓客たちと言葉を交わしたり握手をしたりした。曜子の言葉を借りれば、まさに「世界の橘亜衣」という感じだった。美穂は二歩三歩と前へ出た。事故の後遺症で、その右足は引きずられていた。美穂は花束を両手に持ちかえ、亜衣に正面を向いた。五メートル、四メートル、三メートル……。亜衣はわずかに顔を歪ませたが、決して美穂に目を向けることがなかった。二メートル、一メートル……。美穂は眩しく目を輝かせ、花束を亜衣に差し向けた。そして、美穂が口を開こうとした瞬間――亜衣はそれを無視して、目の前を通り過ぎていった。美穂は亜衣に背中を向けたまま、花束を深く下ろした。その顔は青褪め、涙すら出ないようだった。亜衣もまた美穂に背を向け、ずっと先まで歩いていった。美穂の周囲にいた人々は冷水を浴びせられたような感じになったが、すぐに歓喜に満ちた雰囲気に戻った。西園寺たちは美穂に駆け寄り、彼女の肩や花束を持ってあげた。

「静井さん、あなたはあなたよ」西園寺が力強く言った。

「なんて女だ!」神野が舌打ちした。

「元々、橘亜衣はああいう人間なんだ」蛯原が冷静に言った。「静井さんには別の一面も見せていたかもしれないが、あれが本来の彼女の顔だよ」

 だが、美穂の耳には何も聞こえていなかった。彼女の目には遠くにいる亜衣の姿だけが映っていた。学園祭の時と、パレス・ガーデンの時と同じ――あなた、誰?――という亜衣との距離感。美穂はようやく亜衣から視線を外し、会場から去っていった。その後も亜衣は楽しそうに会話を続けていたが、時々何かを探すように目を泳がせ、その度に相手の言葉を聞き逃すことがあった。『これでいいのよ。私たちは住む世界が違う。私にとっても、美穂さんにとっても……これで良かったのよ』不意に、亜衣は両耳を両手で塞ぎ、その場にうずくまった。周囲から亜衣を心配する声が上がったが、亜衣はなかなか立とうとしなかった。亜衣は『これ以上、美穂と関わらない』という東城との約束を守ったのだった。

 夜も更けた頃、美穂はあの白い家にあるグランドピアノのそばに立っていた。窓際には半透明の青いガラスの花瓶が置いてあった。美穂は亜衣に渡すはずだった花束をその花瓶に移し、そっと水を注いだ。窓の外から月の光が射し、美穂をやさしく照らしていた。彼女の顔は花がしおれるかのように、悲しくもあれば美しくもあった。涙が溜まっていたが、流れてはいなかった。泣く時は佐倉と再会した時と、美穂は決めていた。いつか必ず、どこかで会えるはずだと彼女が信じてやまない佐倉と。美穂はグランドピアノの前に座り、ソナタ・月光の第一楽章を弾き始めた。美穂はまだ何も知らないのだ。本当の孤独というものを……。


 三月下旬、美穂の復活コンサート当日。都内のコンサートホールには二千名を超える人々が集まり、音楽家や音楽関係者、ザ・セブンやカナリアの人々、美穂の音大時代の先生や友人たちが勢揃いしていた。さらには東城や越知の姿もあった。誰もが美穂のピアノを忘れることができなかったのだ。ステージ上ではオーケストラのメンバーが準備を済ませ、指揮者とピアニストの登場を待っていた。

 控え室では精神統一をする美穂の姿が見られた。美穂は椅子に座ったまま、目を閉じ、両手を口元で組み合わせていた。頭には何も付けていなかった。前髪を全て上げ、後ろで固く結んでいるため、普段は見せない額や耳があらわになっていた。衣装は桜色の華やかなドレスだった。美穂は目を開き、両手を下ろした。その顔はメイクをしっかりほどこし、大人びた表情に変わっていた。いよいよ出演の時刻、蛯原が美穂に声を掛けた。

「静井さん、準備はいいかな?」

「はい。何も問題ありません」

「頼もしくなったね。じゃあ、行こうか」

 ステージ上に二人が姿を現し、客席から拍手が鳴り響いた。美穂はステージの袖から中央まで、右足を引きずりながら歩いていった。左肩を前に出し、少し遅れて右足がついてくる。そんな歩き方だった。聴衆たちの中には憐れみの表情を浮かべる者もいたが、本人はいっさい気にしていない様子だった。美穂はグランドピアノの前に座り、オーケストラの方を、それから蛯原の方を見た。彼らは「大丈夫だよ」と頷いた。会場中から潮が引いてゆくように、音がやみ、動きが止まっていった。蛯原が指揮棒を上げた。チャイコフスキーのピアノ・コンツェルト第一番の始まりである。

 オーケストラの壮大な音がステージを包みこみ、その直後の静寂の中を美穂のピアノが駆け抜けていった。伸びやかなバイオリンの高音、存在感のある打楽器の重低音。美穂はピアノの前でじっと構え、その時が来るとともに上半身をのけぞらし、鍵盤に向かって腕を振り下ろした。右足はしっかりペダルをとらえていた。彼女の頭の中では、亜衣との思い出を懐かしむよりも、聴衆たちを感動させようという意識の方が強かった。その表情は以前のように恍惚とせず、現実を頑なに見据えようとする力強いものだった。曲は第二楽章、第三楽章と進み、美穂とオーケストラは復活のメロディーを奏でていった。今の美穂には「何かのために」ということがなかった。自分のためにということさえ。ただ曲と向き合い、ただピアノを完璧に弾く。そんな彼女の決然とした想いが伝わってくる演奏だった。最後の音が鳴り、客席から拍手がわき上がった。ステージ上ではオーケストラの編成が変わり、続いて「明日へ」の演奏が始まった。

 美穂のピアノ独奏で幕を切った。華やかだが、どこか影のある和音の連続。美穂は佐倉の悲しい微笑を思い出していた。佐倉が耳を澄ませていたアスファルトに響く足音。それが佐倉自身の足音へと変わり、今、美穂の手によって再現されていた。その上に乗ってくるバイオリンの主旋律。『佐倉さん、あなたは私に教えてくれた。芸術を追究する飽くなき魂を……』フルートの音が合間に入り、曲は少しずつ盛り上がっていった。再び美穂の独奏。美穂は両手を大きく開き、オクターブより二音広い和音を何度も打ち鳴らした。聴いている者が、見ている者が涙してしまいそうなくらい壮絶な演奏だった。だが、美穂の表情は変わらなかった。目を鋭くし、唇に力を入れ、あまりにも情熱的な形相。曲は最後にメインテーマを再度奏でて終わった。そして、第二楽章へ。

『君ならできる……イメージを掴むんだ』

『ダブル・カンパネラは生きている』

『僕はどちらかというと心配している』

『君の手を見た時、僕は確信したんだ』

『僕には行かなきゃならない場所がある』

 美穂は佐倉の言葉を思い出していた。無愛想で、無精者で、決して他人から好かれる性格と外見とは言えない。だが、彼が持っていた芸術性は、美穂にとって他の何にもかえがたいものだった。何より美穂は佐倉を愛していたのだから。心から愛していたのだから。曲はフルートを主体とした静かな演奏になった。美穂は「静謐」と呼ぶに相応しいピアノを弾き続けた。蛯原の指揮棒。それに応える美穂。震える右足。それを踏ん張る美穂。美穂は佐倉が作曲する姿を思い浮かべていた。その時、佐倉が何を見たのか、何を思ったのか、それを美穂は考えていた。そして、第三楽章へ。

 曲は再び華麗だが影のあるメロディーに。ここでは、怪我を克服してゆく美穂の姿が描かれていた。入院生活の中で必死に指を動かす美穂。その横で彼女を見守る佐倉。「明日へ」という言葉。美穂は今、何かのためにというのなら、明日のためにピアノを弾いていた。鍵盤の上で交差する右手と左手。曲から影が消え、華麗そのもののメロディーとなっていった。ここでは、自分の翼で飛び立ってゆく美穂の姿が描かれていた。オーケストラの音をバックに、美穂のピアノが眩しく光り輝いた。彼女は再び、何か巨大なものを見たようだった。以前とは違う、何か巨大なものを。最後の音が鳴り終わった時、美穂はピアノの前で上半身を反り返らせ、目から一筋の涙を流していた。美穂は佐倉の顔を見たのだ。美穂はこの曲を通じて、佐倉の存在を全身で感じたのだ。客席からは大きな拍手と歓声が鳴り響き、いつまでも絶えることがなかった。美穂は立ち上がり、お辞儀をした後、蛯原のそばに寄った。

「蛯原さん。あと一曲だけ弾かせてください。ピアノの独奏です。曲は……蛯原さんもご存知の曲です。佐倉さんのために……いえ、誰のためにでもありません。ごめんなさい。私のわがままです。よろしいですか?」

「わかったよ」蛯原は深く頷いた。「僕らはこのまま待っていよう。君の演奏をここで聴かせてもらうよ。大丈夫。何のアナウンスもいらないよ。静井さん、君がピアノの前に座れば、お客さんたちは自然と耳を傾けるはずだよ」

「ありがとうございます……」

 美穂は再びグランドピアノの前に座った。事情を知らない聴衆たち、一部のオーケストラの楽員たち、舞台裏の西園寺たちは戸惑っていたが、美穂が最初の音を鳴らした瞬間、全ての人が静まり返った。

 それはラ・カンパネラ、いや、ダブル・カンパネラだった。オクターブを越えた鐘のような音、絡み合う高音のトリル、高音と低音からの和音の連続。その全てを美穂はひとりで弾いていった。二人分の両手のパートを自分の両手だけで、そのために犠牲になった部分も多かったが、ダブル・カンパネラはかなり忠実に再現されていた。ひとりで二倍の音色を、二倍の美しさを。会場にいた全ての人が度肝を抜かれ、美穂の驚異的な動きに目を奪われているようだった。『ひとりで弾いてみては?』という佐倉の言葉を思い出し、美穂は自分の頭の中だけでピアノ独奏バージョンを仕上げていた。彼女の本来の能力であるアレンジ力と即興性、そして作曲家としての資質。創造性と多様性に富んだ、これまでに見たことのないタイプのピアニスト。曲が中盤に入る頃、オーケストラが探り探りに音を重ねていった。蛯原がとっさに指揮棒を振ったのだ。いつしか、ダブル・カンパネラはピアノ・コンツェルトへと変貌していた。蛯原やオーケストラの楽員たちの努力もあって、ダブル・カンパネラは高い完成度のまま終焉を迎えた。客席からは再度大きな拍手喝采がわき上がり、スタンディング・オベーションが始まった。美穂は立ち上がり、全身でそれを受けていた。

「終わった……。全てが終わった……。でも、本当はこれからなんだ。これから私は……」

 ステージ上で蛯原たちと握手を交わす美穂。客席の誰もが美穂の復活を、偉大なピアニストの誕生を信じてやまなかった。カナリアの千里と友紀、ザ・セブンの藤木、東城や越知、そして誰よりも美穂に対して眩しい視線を向けていた一人の女性。その女性はつばの長い帽子をかぶり、喪服のような恰好をし、まるで身をひそめるかのように客席の片隅にひとりで座っていた。その大きな目は潤み、薄い唇は震えるのをやめなかった。『美穂さん……。私は、あなたのファンよ。今でも、あなたの一番のファンなのよ。あなたはピアニストとしてだけでなく、作曲家としても活躍してゆくはずだわ。きっと素晴らしい曲を作ってゆくはずだわ。その時は、私に弾かせてほしい。それまでは、さようなら……』彼女は誰にも気付かれずに席を立ち、会場から姿を消した。ステージ上では引き続き美穂への祝福が行われていた。美穂の目は時々泳ぎ、客席の中に亜衣の姿を探しているようでもあった。

 四月初旬。真昼の公園に美穂は訪れていた。美しが丘にある、以前は佐倉がよく来ていた場所。美穂は右足を引きずりながら並木道を歩いていった。平日なので人の数が少なかった。天気が良く、両脇の桜は満開の花を咲かせ、風に吹かれて静かに散っていた。美穂は立ち止まり、白いワンピースに桜の花びらを受けるままにした。

「佐倉さん……。私、自分の翼で飛び立ったよ。佐倉さんがいなくても、亜衣さんがいなくても……。でも、二人のおかげなんだよ。私が二度もピアニストとして復活できたのは……」

 桜は無言で散っていた。桜は何も答えてくれなかった。ただ散りゆくだけ、全ては記憶から薄れゆくだけ。だが、美穂はこの悲しみの中で一つのことに気付き始めていた。それは、ピアニストとしてだけでなく作曲家としても生きてゆこうという気持ち、ダブル・カンパネラの独奏バージョンを紙に書き留めておこうという気持ち。それこそが自分のやるべきことだと気付いたのだ。美穂の記憶の中では佐倉の存在が薄れてゆくかもしれないが、曲の中では永遠に生き続けてゆくだろう。美穂は目を輝かせ、ずっと遠くの方を見つめた。そこには桜が散り舞い、明日へと続く道が示されていた。

「佐倉さん! 私、佐倉さんのことなんか忘れちゃいますから!」美穂は笑顔で涙を流していた。「私は生きたい。ピアノを弾きたい。曲を作りたい。できれば、亜衣さんと再会したい。私は、私は……静井美穂だから」

 美穂は再び歩き始めた。桜が舞い散る中を。右足を引きずりながら。その時、彼女の耳に誰かの声が聞こえてきた。懐かしい、あの人の……佐倉の声だった。

 美穂は振り返った。十メートルほど先に、佐倉が微笑みながら立っていた。変な紺のジャケット、色褪せたジーンズ……いつもの恰好、いつもの彼だった。美穂は溢れる涙をそのままに、一歩、また一歩と、佐倉に近付いていった。佐倉は恥ずかしそうにしていたが、髪を掻きむしり、諦めたかのように両腕を広げた。佐倉の体の中に、美穂の体が吸いこまれていった。二人は強く、固く抱き合った。言葉はいらなかった。その時、彼女の耳に鐘の音が聞こえてきた。荘厳な、レクイエムのような、はるか遠くから聞こえてくるような……北海道の大地や東北の辺境の湖、あるいは未来から、つまり明日から聞こえてくるように美穂には感じられるのだった。桜が舞い散る中には、いつまでも抱き合う二人の姿だけがあった。

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ダブル・カンパネラ 時永(トキ・ハルカ) @tokiharuka

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