第9話 ソナタ熱情

 十二月二十四日。午後三時、美穂は都内の公園でテレビ番組の撮影をしていた。五分間のミニコーナーで「今、輝いている人」を取り上げる内容だった。美穂は私服姿で、首にはあの白いマフラーが巻かれていた。この日はさほど寒くなかった。雲間から太陽が射し、木洩れ日となって美穂の顔をまだらに照らしていた。三十分後、美穂は全ての撮影を終え、スタッフたちと別れた。公園の出口には神野の姿があった。

「美穂ちゃん。まだ三時半だけど、どうする?」

「一度、アリスに寄ります。少し休みたいので……」

「そう」神野は車のドアを開いた。「それなら僕は先に会場に行くよ。衣装は向こうにあるから早めに来てね。じゃあ、行こうか」

「はい……」

 美穂は後部座席に座り、神野はハンドルを握って車を走らせた。今日は午後五時からパレス・ガーデンに複数のアーティストが出演し、デート中の恋人たちに音楽をプレゼントする日だった。美穂の出番は午後七時からの三十分間で、大とりを務めることになっていた。神野はバックミラーに目を向け、その話を美穂にしようとした。だが、彼女はいつの間にか眠っていた。

「また後で。美穂ちゃん、時間厳守だよ」

「はい。わかりました……」

 美穂の背中はアリス・ミュージックの中へと消えていった。神野は少し首をかしげたが、すぐに気を取り直して西園寺に電話をかけ、美穂のことをお願いした。彼には彼で、様々な準備が残っていた。神野は車を出した。

 日が沈み、午後六時、亜衣と越知は新宿の街中を歩いていた。亜衣の首元にはあの黒いマフラーが巻いてあった。亜衣は愉快そうに越知の肩を叩き、彼の冗談に対してわざと冷たく当たった。亜衣は上機嫌である一方で、しきりに天気のことを気にしていた。

「ねえ、越知さん。暗いからわかりにくいけど、空が曇っているわ」

「そうだね。白い雲か、黒い雲か」

「やだわ。こんな時に冗談なんか言って。私の気持ち、わかっているでしょ? 私がどれだけ美穂さんのことを心配しているか」

「この時期、雨なんてそうそう降らないよ。ホワイト・クリスマスなら聞いたことがあるけど、雨のクリスマスなんて聞いたことがない」

「そうよね!」亜衣は再び上機嫌になった。「それにしても、こんな時期に屋外でピアノを弾くなんて、美穂さんも無茶するわ。防寒用の衣装にしてあるはずだけど……あ、あそこだわ!」

 パレス・ガーデンにはすでに大勢の人々が集まり、クリスマス・イブの雰囲気を楽しんでいた。高層ビルに囲まれ、夜の遊園地のように賑やかな空間。亜衣と越知は軽い足取りで白い石造りの階段を下りていった。広場の木々は裸になった枝に白い電球を巻きつけ、冷たい闇夜を明るく照らしていた。行き交う人々はどこか幸せそうだった。それぞれの手に温かい飲み物を持ち、白い息を吐いていた。特設ステージの上では、室内楽のメンバーによるヴィヴァルディの「冬」第二楽章が演奏されているところだった。いつの日か、美穂がピアノ独奏で弾いた曲である。

 亜衣と越知は最前列に用意されていたパイプ椅子に腰掛けた。神野の配慮である。時刻は六時二十分。美穂の登場まで時間があるため、越知は飲み物を買いに席を外した。ひとりになった亜衣はステージの横に目を向けた。そこには一台のクリスタル・グランドピアノが置いてあった。美穂が初めてアリス・ミュージックを訪れた際に目を奪われたグランドピアノである。しばらくして、越知が戻ってきた。

 その頃、アリス・ミュージックの三階では、美穂と西園寺が出発の準備をしていた。タクシーに乗れば、出演十五分前には会場に到着し、衣装を着替え、指を温めることもできるはずだった。だが、二人は面と向かい、激しく言い争っていた。どうやら、その話題はTVピアノトーナメントの第二弾に関することのようだった。

「静井さん。以前にも言ったけど、有頂天になっては駄目よ。あなたはまだ新人ピアニストに過ぎないんだから。それでも私はあなたの意見を尊重してきたつもりだわ。ダブル・カンパネラの公演にしても、今回の屋外演奏にしても」

「私は自分の心のままにやりたいんです。二度と自分を見失いたくないんです。自分が本当にやりたいことを、自分が目指しているものを。だから、亜衣さんのいないTVピアノトーナメントになんか出たくありません。私、テレビになんか出たくないんです」美穂は時計を見た。「もう時間です。私、ひとりで行きますから」

「大丈夫よ、静井さん」西園寺はぽつりと呟いた。「そんなに心配しなくても。どうせ、また優勝できるんだから……」

 その場を立ち去ろうとした美穂の体が止まった。美穂はゆっくりと振り返り、西園寺の顔を見ながら言った。

「……どういう意味ですか?」

「あの決勝戦。審査員の一人は私と通じていたのよ」

 美穂は体の向きを戻し、無言で走りだした。その両目には大粒の涙が輝いていた。西園寺に裏切られたこと、あの優勝が嘘だったこと、亜衣に申し訳ないこと。そういったことが彼女の頭の中でいっぺんに持ち上がり、激しく混乱した状態だった。美穂はどこに向かって走っていたのか? 次の瞬間、非常階段から大きな物音がした。

「静井さん?」西園寺はその物音の方へ駆けだした。「どうしたの? 今のは何? 何の音なの?」西園寺は非常階段に辿り着いた。「ああ! 静井さん! 誰か、誰か! 誰かいないの? 静井さん、しっかりして!」

 非常階段の踊り場で美穂は気を失って倒れていた。彼女は階段を踏み外したのだ。階段の段数は十五段ほどだったが、不運にも頭や足など数箇所を大きく切ってしまったようだった。辺りには血が飛び散り、美穂の首元の白いマフラーを赤く染めていた。西園寺は応急手当をしながら、携帯電話で救急車を呼んだ。周囲には人が集まり始め、その誰もが美穂の無惨な姿に騒然としていた。数分後、救急隊員たちがやって来た。アリス・ミュージックの前から救急車で美穂が運ばれていったのは午後七時ちょうどだった。その車内で西園寺は神野に連絡を入れた。

 一方、パレス・ガーデンでは人々がざわつき始めていた。美穂が来ない。午後七時五分、ステージにはクリスタル・グランドピアノが用意され、司会者から「もう少々、お待ちください」というアナウンスがあったばかりだった。ステージ横では神野が真っ青な顔で電話をしていた。午後七時十分、ついに亜衣が立ち上がり、神野の元へと歩み寄っていった。神野はすでに電話を終えていた。

「神野さん。どういうことなの? 美穂さんに何かあったの?」

「それが……美穂ちゃんが階段から……いや、どうしても来られなくなって」

「何よ、それ! 神野さん、はっきり言いなさい。早く!」

「美穂ちゃんが階段から落ちて大怪我をしたんです。つい先程です。今、救急車で病院に運ばれています。詳しいことはわかりませんが、意識不明の重体とか……。橘さん! お客さんには言わないでください。混乱が起こるとまずいです」

「わかっているわ……」亜衣は何かを覚悟していた。「答えは一つよ。私が代わりに弾くわ。衣装はどこなの?」

 神野は呆気にとられていた。亜衣はその横を通り抜け、ステージ脇のテント内へと入っていった。そこには美穂が着るはずだった白いドレスが吊るされてあった。ふわっとした大きなドレスで、まるでウェディングドレスのようだった。亜衣は黒いコートやスラックスを脱いでゆき、白いドレスに体を通していった。

「待ってください!」神野がようやく口を開いた。「それはまずいです。非常にまずいです。橘さんが勝手に出演なんかしたら、スター・ミュージックの方々に何とお詫びをしたらいいか。後々、トラブルの火種になりかねません。あなたは世界の橘亜衣なんですよ。橘さん、やめてください!」

「何を言っているの?」亜衣は着替えながら呟いた。「これは私の判断でするのよ。神野さん、あなたにはいっさい迷惑を掛けないわ」

 テントの中に越知が走りこんできた。

「亜衣ちゃん、やめるんだ! 君はブリュッセル国際コンクールを控えている身なんだぞ。静井さんだって、こんなことは望んでいないはずだ!」

「相変わらず、越知さんって馬鹿ね。だからこそ、代わりに弾くんじゃない。それに、美穂さんが望んでいるかどうかは私が一番よく知っているわ」

 亜衣は着替え終えた。サイズが少し大きいため、どことなく不恰好だった。亜衣は余分な袖を手首までまくった。越知はそれを見ながら言った。

「亜衣ちゃん、何を弾くつもりなんだ?」

「そうねえ。神野さん、美穂さんは何を弾く予定だったの?」

「は、はい。ソナタ・熱情とラ・カンパネラです」

「それを弾くわ!」

 午後七時二十分、ステージ上に姿を現したのは美穂ではなく亜衣だった。聴衆たちはどよめいたが、司会者からの説明があった後はおとなしく亜衣を見守った。何も知らない聴衆たちにしてみれば、美穂以上のプレゼントだったのだ。亜衣は白い大きなドレスの裾を引きずりながらステージの中央に立った。ライトが下から何本も当たり、その姿を神々しいまでに照らし出した。亜衣はお辞儀をした後、クリスタル・グランドピアノの前に座った。約五秒間、亜衣は目をつぶり、目を開くと同時にピアノを弾き始めた。

 ソナタ・熱情――寒い冬の夜に、激しくもあれば物静かでもあるピアノの音が鳴り響いた。氷のような鍵盤。亜衣は歯を食いしばって低い連打音を叩き続けた。何も知らない聴衆たちは幸せそうだった。あまりにも孤独な、ガラスケースに囲まれたようなステージの上にいる亜衣。曲は第二楽章、第三楽章と進んでいった。亜衣の美穂への想い、それを抑えようとする気持ち。せめぎ合う二つの感情が曲に乗り移っていた。そこには自分のことさえなかった。その時、空から雨が降ってきた。雨は次第に強くなり、亜衣が演奏を終える頃、傘を差さずにはいられない状況になった。聴衆たちは建物の中へと避難していった。ステージの前には、運良く傘を持っていた人が数名いるだけだった。神野は傘を差し、ステージに上がろうとした。演奏の中止を告げるために。彼はクリスタル・グランドピアノのことより、亜衣の体の方が心配だった。だが、隣にいる越知に腕を掴まれた。越知はステージ上の亜衣に目を向けたまま言った。

「このまま見守りましょう。あと五分です。今の橘亜衣は誰にも止められない。止めるのは酷です。彼女の顔を見てください。こんなに美しい人が、こんなに素晴らしいピアノが他に存在するでしょうか?」

 亜衣はすでにラ・カンパネラを弾き始めていた。オクターブを越える音、高音の速いトリル、低音の力強い音。そのどれもが雨の音に掻き消されていった。雨はいっそう激しくなり、パレス・ガーデンに、特設ステージに、クリスタル・グランドピアノに、そして亜衣の体に降り落ちた。数名の聴衆たちがその場に残って、亜衣の演奏を見守っていた。越知は傘も差さずに顔面を水びたしにし、まるで泣いているかのようだった。神野はいつしか傘を捨てていた。ステージ上の亜衣は髪の毛から白いドレスまで、全身をずぶ濡れにしてピアノを弾き続けていた。亜衣は何度も指を滑らせた。鍵盤は水に濡れ、ドレスの袖は水を含んで重くなっていた。音が途切れ、違う音が鳴った。豪雨の中から聴こえてくるクライマックスのメロディー。最後の音が鳴った直後、亜衣は崩れ落ちた。

「亜衣ちゃん!」

 越知はステージに駆け上がり、亜衣の体を抱き起こした。だが、すでに彼女の意識はなかった。数分後、救急車が到着し、亜衣の冷えきった体を運んでいった。誰もいなくなったパレス・ガーデンに余韻のように残るラ・カンパネラの音。雨はまるで全ての音を奪うかのように激しく降り続けた。

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