第8話 白と黒で

 十一月十一日。平日の午後四時、亜衣は荻窪の街中をひとりで歩いていた。彼女は黒いニットとスラックスにベージュのトレンチコートという恰好だった。大通りの街路樹は色付き始め、秋の気配を漂わせていた。ここは亜衣が幼い頃に幾度となく通った場所だった。途中のレコード屋の店頭には美穂のCDが何枚も飾られ、その横には美穂が微笑むポスターが貼られていた。昨夜のテレビの効果もあって、よく売れているようだった。亜衣は無表情にそのポスターを眺め、長い黒髪が風に吹かれて顔や襟にかかるのをそのままにしていた。

 亜衣はこの二週間余りのことを思い返していた。TVピアノトーナメントの決勝で美穂に負けてから、様々な人が亜衣に慰めの言葉を掛けた。昨夜の放送の直後には知人から旧友に至るまで何十件もの電話が入った。その誰もが『美穂が勝ったことは偶然だ。実力では亜衣の方がずっと上だ。そもそも、あれは余興にすぎない。本来の亜衣の演奏活動には何の影響もない』といったことを口にしたのだった。だが、亜衣は自分でよくわかっていた。自分が美穂に完敗したことを。そして、自分がそこから逃げ出そうとしていることを。昨夜、亜衣はその放送を観ず、友人たちと遅くまで外で飲んでいた。亜衣は二日酔いの頭を押さえ、再び歩きだした。

 約束の時刻まで三十分程度あったので、亜衣は近くの公園に寄り道した。そこには小さな噴水があり、そのそばには緑色のベンチがあった。亜衣はベンチに座り、持っていた四角いカバンを膝の上に乗せた。亜衣の目には噴水の水しぶきが映っていた。そして、耳には音が。彼女の耳は抜群に良く、神経を集中させれば水しぶきの音だけを聞くことができた。音の大小や音階だけでなく、波長まで。それ故に彼女は雑音をひどく嫌っていたのだが。また、亜衣の目には子供たちの姿が映っていた。小学校から塾やお稽古事に向かうのか、まっすぐ家に帰るのか、楽しそうに走り回っている子供たち。あの敗北の日から、亜衣の頭の中にはこれと似た光景が広がっていた。亜衣は立ち上がり、目的地へと歩き始めた。まだ十分以上あった。

「ごめんください、橘です」

「あ、亜衣ちゃん。ちょっと待ってね」

 亜衣は呼び鈴を押し、インターホンで話した後、扉の前でじっと立っていた。家の外観は荻窪の古い街並を象徴するものだった。重厚感がある木製の扉の脇にはステンドグラス風の小窓が二つ、壁にはひび割れと蔦が交差し、前庭にはイラクサと正体不明の花が無数に生えていた。もう何年と放っておかれているようだった。扉が開き、中から瀬川香織が顔を覗かせた。彼女は丈の長い薄手のセーターを着ており、その両方の袖を肘までまくり上げていた。年齢は二十七歳、亜衣より二つ年上で、すでに結婚をし、今は妊娠五ヶ月目だった。また、彼女は亜衣の幼い時分からの知り合いであり、同じ音大の先輩でもあった。香織は化粧っけのない顔で微笑み、亜衣を家の中へと招き入れた。亜衣は玄関で靴とトレンチコートを脱いだ。

「あのね、亜衣ちゃん」香織は廊下を歩きながら言った。「まだ、レッスンが終わってないのよ。あと十分くらいなんだけど」

「それなら、私はここで待っているわ」

「いや、いいのよ。せっかくだからレッスンを見てちょうだいよ。たぶん、あの子たちは亜衣ちゃんのことを知らないだろうけど、きっと喜んでくれるはずだわ」

「それなら、見学させてもらうわ」

 香織と亜衣が入った部屋には、幼稚園から小学校低学年くらいの子供が三人いた。その中で一番年長の女の子がピアノの前に座り、仔犬のワルツを弾いている最中だった。香織はその子の横に立ち、亜衣は他の二人と並んでソファに座った。どの子も行儀が良かった。レッスンを受けている八歳くらいの女の子は香織の言うことをよく聞き、一生懸命に楽しそうにピアノを弾いていた。発表会用の曲なのか、小学校低学年にしては上手な方だった。一方、その弟らしき六歳くらいの男の子と、その妹らしき四歳くらいの女の子はお姉ちゃんがピアノを弾く様子を熱心に眺めていた。亜衣はこの光景を見て、幼い頃に自分がここでレッスンを受けていたことを思い出すのだった。

『亜衣ちゃんは本当にピアノが上手ね』

『すごくいいわ。よく弾けたわね』

『頑張ったわね。たくさん練習したでしょ?』

『亜衣ちゃんはピアノが大好きなのね』

 どれも水沢先生の言葉だった。亜衣が三歳から九歳の時までここで教わり、目の前にいる香織の祖母であり、四年前に七十六歳でこの世を去った人。水沢先生は亜衣に初めてピアノを弾かせ、その楽しさを覚えさせた。当時、水沢先生は六十歳前後で、亜衣のことを自分の孫娘と同じように可愛がった。また、亜衣の才能に関しては早い段階から周囲に言い聞かせ、その後、亜衣が有名なピアノ教師に師事するきっかけをつくってくれたのだった。ただ、亜衣は他の先生とのレッスンにおいては、水沢先生の時のような楽しさを見出すことができなかった。確かに、小学校高学年から中学校にかけ、亜衣の技術は飛躍的に伸び、ジュニアコンクールで優勝することもできた。だが、楽譜で頭を思いきり叩かれるなど厳しいレッスンを受けたせいか、亜衣は心からピアノを楽しむことができなくなっていったのだった。亜衣はそんなことを思い出していた。仔犬のワルツが終わり、香織が亜衣に声を掛けた。

「亜衣ちゃん、どうだった? もしよかったら、この子にアドバイスしてあげてよ」

「え? そうね……。終盤の駆け上がる所で、もっと体の重心を入れかえた方がいいんじゃないかしら?」亜衣ははっとして言い直した。「ううん、違うの。ごめんね。あなたの名前は? そう、奈央ちゃんっていうのね」亜衣は立ち上がり、奈央の背後から両手を伸ばし、ピアノを弾いた。「どうかしら? こんな風に弾いてみるのは? この方がきっと楽しいでしょ? 仔犬が駆け抜けていくみたいで……」

「はい! 弾いてみます!」

 奈央の元気な返事に対し、亜衣は無言で頷いた。奈央の演奏は明らかに変わり、その顔は一段と楽しそうなものに変わっていた。ソファに座っている二人の子供は顔を見合わせ、何とも嬉しそうだった。それでも亜衣は表情一つ変えずに、再び過去のことへと没入していった。亜衣は美穂のことを思い出していた。奈央の演奏が終わると、亜衣は少しだけ目をやわらげ、音もなく拍手をした。

 子供たちが帰った後、亜衣と香織はその部屋でクッキーと紅茶を口にし、思い出話を語り合い、何度も声を上げて大笑いした。珍しく亜衣は愉快そうだった。香織は結婚生活のこと、妊娠のこと、自分の両親のこと、それからレッスンのことを話した。彼女は別の場所に新居を構え、ここにはレッスンをするためだけに戻ってきているのだった。それも出産が近付けば、お休みすることになるわけだが。今日、亜衣が彼女の元を訪れた理由は楽譜を渡すためであったが、それに加えて気分転換がしたいためでもあった。二人は時々こうして会う仲だった。またピアノを通じた友人であり、音大の先輩後輩という関係でもあった。ただ、亜衣はピアニストの道を歩み、香織はピアノの先生として生きる道を選んだのだ。香織は背伸びをしてから亜衣にこう言った。

「覚えている? 亜衣ちゃんが六歳の時、ここでノクターンを弾いたことを」

「ショパンのノクターン二番ね。覚えているわよ」

「あの時、おばあちゃんがすごく感動して、『この子は絶対に世界を代表するピアニストになるわ!』って叫んだのよね」

「そうだったわね」亜衣はぽつりと笑った。「水沢先生は私のことを過大評価していたから。でも、あの時、私は……」

「ん? どうしたの?」

「ううん、何でもない。忘れちゃったわ」

 香織は心配そうに亜衣の顔を覗きこんだ。亜衣の顔がぼんやりしていたからだ。あの敗北の日から二週間余り、亜衣は自分の過去を振り返っていた。少女時代、音大時代、ピアニスト時代……。美穂に敗北して初めて見えてきたもの、遠くにあるように見えてきたもの、それは何故か「心からピアノを楽しんでいた頃の自分」だった。亜衣の顔がぱっと明るくなった。彼女は今、何かに気付いたようだ。それでも亜衣は自分の感情を抑え、静かにこう言った。

「香織さん。昨日のテレビ、見た?」

「あれでしょ?」香織はためらった。「見たわよ。その、惜しかったわね」

「それはいいの。それより、静井美穂さん。そう、決勝で私に勝った人。あの人、私たちと同じ音大だったのよ。彼女のこと、何か知らない?」

「静井美穂……知らないわ。ちょっと待って。もしかして、あの人かしら?」

「何か知っているの?」

「確か、学園祭で。亜衣ちゃんが二年生の時の。ほら、同じ曲を弾いた……」

「ラ・カンパネラだわ!」

 それ以上は何も言う必要がなかった。亜衣はついに思い出したのだから。五年前の学園祭で自分に勝った女性。それが美穂であることを。絶対的に自信のあったラ・カンパネラで負けた。あの時のショック、口惜しさ。だが、今の亜衣にはむしろ爽快感のようなものが蘇ってきていた。美穂はあの時と同じく、心からピアノを弾くことを思い出させてくれたのだから! それでも亜衣は自分の感情を抑える必要があった。『二人の歩む道が違う』ということを思い返して。亜衣は香織に別れの言葉を告げた。

 亜衣はトレンチコートを再び身に纏い、荻窪の駅へと歩いていった。日が暮れ始め、遠くの空は鮮やかな橙色に染まっていた。『だから美穂さんはスター・ミュージックのスタジオでラ・カンパネラを弾いたの? 彼女は新宿のパレス・ガーデンで私の演奏を聴いたからだと言っていたけど。本当は五年前のことを……』亜衣はそんなことを考えながら、美穂の顔を思い返すのだった。何かを言い出せずにモジモジしている顔、あどけなく子供のように笑う顔、ピアノを弾いている時の別人のように勇ましくなる顔。そして、亜衣は急に水沢先生の言葉を思い出した。『確かに水沢先生は私のことを買いかぶりすぎていたのかもしれない。だけど、私はあの日以来、本気で世界を代表するピアニストになりたいと思うようになったのよ……』亜衣の顔には橙色の光が当たり、その美しい表情を照らし出していた。

 さて、この日、美穂は何をしていたのだろうか? ご想像のとおり、彼女はCDの発売活動に追われていた。大型レコード店での生演奏、ラジオ番組への出演、音楽雑誌などの取材。美穂は緊張しないように、できるだけ愛想良く振る舞うように努めた。彼女はピアノ以外のことになると、従来のあがり症が出てしまうのだ。この活動は二週間前に始まり、日を追うごとに忙しくなっていった。それに加えて、五日前には神野の結婚式でピアノを弾くという「大役」まで任された。その後、神野は非常識にも新婚旅行へと出かけてしまった。とにかく、美穂の多忙を極める仕事はこの後も続くわけだったが、それとは別の考えが彼女の頭の中を占め始めていた。落ちこんでいるであろう亜衣のために、自分のできることをしようという考えが。


 数日後、アリス・ミュージックのスタジオには美穂と佐倉の姿があった。時刻は午後十一時。二人がここに籠り始めてから四時間以上が過ぎていた。美穂はグランドピアノの前でうなだれ、身動き一つしなかった。佐倉は電子ピアノの前で腕を組み、目を閉じながら独り言を呟いていた。元々、彼はみすぼらしく、疲れている感じだったので、何が変わったのか客観的にはわからなかった。突然、美穂が顔を上げた。彼女の顔はいつになく険しく、目の下に隈ができ、前髪が額にへばりついていた。美穂は佐倉を見て、こう叫んだ。

「佐倉さん! 起きていますか? この終盤の箇所は本当にリタルダンドでいいんでしょうか?」美穂はその箇所を弾いてみせた。「やっぱり違うような気がします。クレッシェンドで駆け抜けてゆく方が……」

「そうだね」佐倉は目をつぶったまま答えた。「ダ、ダダダダーン。それでいこうか。今、直すよ」

 佐倉は電子ピアノやその横にあるパソコンをいじり、画面にアウトプットされている楽譜を修正していった。そう、二人は曲作りをしていたのだ。来月、十二月上旬に予定されている、ある特別なコンサートのために。それは美穂と亜衣が初めて「二台のピアノで」共演するコンサートだった。美穂自らが提案し、すでに東城や西園寺の了承を得ていた。現時点で知らないのは亜衣だけだった。美穂は亜衣を驚かせたかった。元気付けたかった。断られてもよかった。ただ、亜衣を納得させるだけの曲を作りたかった。先日、美穂は佐倉に頼み、曲作りを開始した。練習の日数を考えると、どうしても今日中に仕上げたかった。美穂は興奮しているのか、両手を目の前で広げながら言った。

「あとは出だしです。出だしはこれでいいんでしょうか? もっと静かに、だけど熱く、燃え上がるようになりませんか?」

「静かに、熱く」佐倉は再び目を閉じ、独り言を呟いた。「何を、どう変える? 原曲を崩しすぎずに、なおかつ二人で弾くことに意味があるように。静井美穂と橘亜衣が」佐倉はパソコンをいじり、電子音を出した。「静井さん、どうだろう? こんな感じかな?」

「……違います」

「そうかい。次、これは?」

「違います!」美穂は絶叫した。「違うんです。そうじゃないんです。もっと、もっと……。ああ、やっぱり電子音ではイメージがわきませんよ! 佐倉さん、ラ・カンパネラは弾けないんですよね?」

「申し訳ないが」佐倉は思わずたじろいだ。「僕には弾けない。ピアノはあまり得意ではないから。静井さん、ひとりで弾いてみては? 肝心なのは右手だろ? 君の右手のパートを右手で、橘さんの右手のパートを左手で」

 実際に美穂はやってみた。

「無理ですよ! 左手が右手になりません! しかも、がっちり両手が重なってしまいますよ! 第一、同じ音はどうやって……」

「無理ではないよ。君ならできる。橘さんの右手のパートは元から左手だと考えるんだ。右手を水平に、左手を垂直にして。同じ音が重なる部分は二段階くらい音量を上げて。ピアニシモはメゾピアノに。メゾフォルテはフォルテシモに。完璧でなくていい。イメージを掴むんだ」

 美穂は二台分のピアノの右手部分を両手で弾き、頭の中で二人が弾くイメージを統一していった。『亜衣さんなら、こう弾くはず。私はあの人のピアノを誰よりも知っている。一番身近で感じてきた。今度は戦うんじゃなくて共演するんだ。共演する時の亜衣さんはどんな演奏をするんだろう? 私のピアノにどう被せてくるんだろう? どんな風にリードするんだろう?』美穂は迷いながらも完璧に弾きこなした。そして、何度も弾いてゆくうちに新しい曲調と音色が創り上げられていった。作曲しているのは美穂だった。美穂がようやく鍵盤から手を離した時、いつの間にか佐倉が立ち上がり、両手を打ち鳴らしていた。

「完成だ!」

 二人の声が一致し、互いの顔が向き合った。二人とも笑顔だった。

「さあ、メシだ」佐倉は言った。「腹が減ったよ。晩飯を食べてないからだな。静井さん、君もだろ?」

「はい。急にお腹がすいてきました」

「外へ出よう。もう随分遅いけど。いい店を知っているんだ。この近くさ。それにしても、君には驚かされたよ。いろんな意味で……」

 二人は外に出た。時刻は午前零時。当然のことながら真っ暗だった。平日のせいか人通りがまばらで、青山通りを走る車の数も少なかった。佐倉は裏路地へと進んでゆき、一直線に屋台を目指した。それはおでん屋だった。二人は屋台の席に並んで座り、それぞれ好きな物を注文した。美穂は体を震わせた。彼女はVネックのセーターにスカートという恰好だった。秋の夜はすっかり寒くなっていた。佐倉は横目で美穂を見た。

「寒い?」

「はい」

「おでんを食べれば、あったかくなるよ」

 彼なりのやさしさなのか、ただ無関心なだけなのか、それとも冗談なのか、佐倉のぶっきらぼうな態度からはその意図を判断しかねた。普段は無口で、他人のことなどどうでもいい、自分のことさえどうでもいい、そんな感じだった。服装はシャツとジーンズと変な紺のジャケットで固定されていた。また、彼は美穂にではなく美穂のピアノに、そして常に芸術に目が向いているようであった。量の多い髪を触り、無精ひげをさすり、切れ長の目でおでんを見ているようで見ていない。いつも他のことを考え、食べることを「咀嚼」とでも片付けているかのようだった。つまりは無人格な男であった。それ故に存在感が薄く、亡霊のようにさえ感じられるわけだった。こんなタイプの人間に会ったのは、美穂にとって初めてのことであった。美穂は少し苛立ちながら佐倉に質問した。

「佐倉さん。私のこと、嫌いなんですか?」

「そんなことはないよ」

「佐倉さんは他人に興味がないんですよ。いつも音楽のことばっかり」

「興味がある人には興味があるよ。芸術的な人には。それ以外はどうでもいいかな」

「さっきから何もしゃべらないで食べてばかりいて」美穂は何故か怒っていた。「だいたい、『いい店を知っている』って屋台じゃないですか。あ、いえ、ごめんなさい。佐倉さん、もっと楽しそうにしてくださいよ。あんなにいい曲が書けるのに……」

「そうかい。あれはいい曲かい」

 佐倉は美穂に問うのではなく、自分に言い聞かせるように呟いた。彼は今、何かを考えていた。そして、何かを聞いていた。それは足音だった。二人の背後を誰かが通り過ぎ、革靴がアスファルトを踏む音が響いていた。佐倉は口の中のおでんを同じリズムで噛み、眼球を微動させ、人差し指を横に振り、口が空になると言った。

「例えば、あの足音のリズム。一、二、三、四……。四分の四拍子だ。ハ短調だとすると、ララ、ラーラー、ララララ、ラーラー。どう?」

「どうって」美穂は呆れた。「音楽馬鹿にも程がありますよ! さっきまで、散々、曲作りをしていたのに。でも、いいメロディーでした。今のは即興ですか? 他に何か作曲しているんですか?」

「そうなんだ。ピアノ・コンツェルトさ」

「え! 私に弾かせてください!」

「そのつもりだよ」

 今度は冗談ではないようだった。美穂は疑いの目で佐倉を見つめた後、すぐに表情をほころばせた。佐倉の言葉がよほど嬉しかったのだろう。一方、佐倉はもう一言だけ付け加えたかったのか、何かを言おうとしてやめてしまった。この後、二人はたいした会話もせず、延々とおでんを食べ、酒を飲んだ。そして、夜が明けていった。


 翌日の午後三時、寝不足の美穂が仕事で走り回っている頃、亜衣は越知に呼び出されて赤坂のスカイ・タワーに来ていた。その名のとおり、細く鋭利に天空へと伸びた二十階建てのビルだった。各階には高級ブランド店や飲食店、有名企業のオフィスなどがあり、屋上には庭園があった。

 亜衣は屋上でエレベーターを降り、越知の姿を探した。天気が良く、秋晴れの薄い青空が周囲に広がっていた。風が強く、都会の喧騒がまるで聞こえてこなかった。亜衣は一歩二歩と歩いていった。辺り一面には色とりどりの花々が咲き乱れていた。不思議なことに彼女以外に誰もいないようだった。亜衣はさらに歩いてゆき、ちょうど屋上庭園の中心で立ち止まった。

「こんにちは、橘亜衣さん」

 越知は白いスーツに身を包み、バイオリン・ケースを手に持っていた。彼は笑顔だった。その横にはグランドピアノがあった。亜衣は動揺を隠しきれず、越知を睨みつけながら言った。

「越知さん、これはどういうことですか?」

「あなたと僕の、二人の天才音楽家によるミニ・コンサートです。といっても、お客さんは一人もいないけどね。ここは貸し切りだから」

 越知は亜衣をピアノの前に座らせた。亜衣は立ち上がろうとしたが、すぐに越知に肩を押さえられた。

「あら、乱暴だわ。大嫌い。本当に嫌な人。無理矢理、私にピアノを弾かせようとするのね。いいわ。その代わり、キスをして」

 言われるまでもなく、越知は亜衣にキスをした。越知は右手を亜衣の肩に乗せ、亜衣は座ったまま両腕を下げていた。一陣の強い風が亜衣の長い黒髪をなびかせ、透きとおるような陽射しが二人の影を映し出した。越知は唇を離し、亜衣の大きな目を見つめた。亜衣は堂々としていた。越知は無言で軽く笑い、ケースからバイオリンを取り出した。亜衣も黙ってピアノの前で座り直した。越知はバイオリンを肩に乗せ、右手で弦を構えると、こう言った。

「エルガーの『愛の挨拶』を弾こう。伴奏をお願いします」

「伴奏を?」

「さあ、弾いて」

「……わかったわ」

 亜衣は聴覚の記憶だけを頼りに、手探りでピアノを弾き始めた。亜衣の伴奏に合わせ、越知がバイオリンで主旋律を奏でていった。明るく、やさしく包みこむようなメロディー。曲が盛り上がる所では二人が同時に力を入れ、バイオリンが一つの音を伸ばす所では亜衣のピアノが前に出てくる。亜衣はピアノを弾きながら越知の顔を見上げ、彼の本心を探ろうとした。『越知さんは私のことをちゃんと愛してくれているのかしら……それにしても、素敵なバイオリン……』最後にもう一度だけ盛り上がり、二人の演奏が終わった。越知は亜衣に目を戻して言った。

「次はフォーレの『夢のあとに』を」

「……いいわ」

 亜衣は静かに和音を連ねた。その上に越知の主旋律が乗り、先程とは一変して物静かで悲哀に満ちたメロディーが流れた。越知は完全に自分に酔い、伸びやかにバイオリンを弾いていた。亜衣は次第に越知の存在を忘れ、曲の中に埋没していった。『夢……そう、私の人生は夢のようだった。数々のコンクールで優勝し、最高の舞台でピアノを弾いてきた。周囲から期待され、恐れられ、それでも私は自分のためにピアノを弾いてきた。他の人たちはみな、私にとって飾りのようなものだった。越知さんでさえ……』演奏終了後、亜衣は再び最初の和音を奏で始め、越知もそれに従った。『でも、あの人だけは違った。あの人は私にないものを持っている。私には絶対にできないピアノを弾くことができる。彼女の何が私の心をここまで打ち震わすの? ピアノだけではない何か。あの人の気持ちなの? あの人の私に対する気持ちなの? 美穂さん、あなたは今、どこにいるの?』突然、演奏がやんだ。亜衣の手と越知の手が同時に止まった。二人の目は一つの方向、花々の中で風に吹かれて立っている美穂の姿に向いていた。亜衣は思わず立ち上がった。

「美穂さん! どうして、ここにいるの?」

 美穂は何も言わなかった。

「僕が呼んだんだ」越知が代わりに答えた。「彼女をここに来させるよう、西園寺さんを通して頼んだんだ」

「何故?」亜衣は越知に向いた。

「それは……。橘さん、あなたには彼女が必要だ。君を輝かせるのは彼女だけだ。もう、僕は何も言うことがないよ。さあ、静井さん。あのことを話してあげて」

 美穂は亜衣に近付き、数枚の紙を手渡した。

「亜衣さん。これ、見てください。私と佐倉さんで作ったんです。どうですか? イメージできそうですか? 二台のピアノのための……」

「待って、美穂さん」亜衣は楽譜から目を離した。「きちんと説明して。これは、何のための曲なの?」

「二人の……私と亜衣さんが共演するための曲です」

 亜衣は楽譜を持った手を震わせ、美穂の顔を食い入るように見つめていた。まるで「共演」という言葉を理解できずにいるかのようだった。亜衣はやっとのことで楽譜に目を戻し、なんとか音符を目で辿っていった。美穂は憔悴しきっているのか、意識朦朧の様子で、自分のしていることがわかっていないかのようだった。亜衣は全ての楽譜を読み終わり、美穂にこう言った。

「これはラ・カンパネラ。二台のピアノのためのラ・カンパネラ。そうね? そういうことなのね?」

「はい、そうです。上が亜衣さんのパートで、下が私のパートです。亜衣さん、十二月四日です。私と一緒に弾いてもらえますか?」

 数秒間、無言の時が流れた。

「弾くわ」亜衣は力強く答えた。「まだ二週間以上ある。これだけなら何とでもなる。だけど、あと何曲か他にも弾くんでしょ?」

「そうなんです。あと何曲か……」

「それなら、あれを弾きましょう。『白と黒で』を。あなたの好きなドビュッシーよ。知っている?」

「はい。なんとか知っています」

「おそらく二曲が限界ね。あとは個々のソロで埋めましょう。それで、練習はいつ始めるの? いえ、いますぐ始めましょう!」

「私もそのつもりです」

「当たり前よ。ほら、早く行くわよ」

「はい!」

 花々の中を二人の美しい女性が、美しいピアニストが歩いていった。風が強く、秋空が澄み渡り、まるで二人の世界がどこまでも広がってゆくかのようだった。亜衣は美穂にこう質問した。

「ところで、この曲のタイトルは何というの?」

「ダブル・カンパネラ。共鳴し合う二つの鐘です」

 美穂の顔にようやく笑顔が戻った。


 本番まで残り一週間。スター・ミュージックのスタジオで、美穂と亜衣は二台のグランドピアノを横に並べて練習していた。美穂と亜衣が交互に、あるいは同時に顔を上げ、鍵盤を打ち鳴らす。途中で何度も躓き、曲の解釈の違いを修正してゆく。少しずつ、だが、全体的に見れば革新的に音色は変化し、共鳴していった。

「美穂さん、そこはもっと強く弾いていいわ」

「わかりました。こうですか?」

「そうよ。次は歌って。私は息をひそめるわ」

「はい……。亜衣さん、少しずれています!」

「あら、ごめんなさい」

「フォルテシモ、いきます!」

 二人は前を向いたまま、超人的なスピードでやりとりしていた。練習中のピアニストの視界は上八割が楽譜、下二割が鍵盤。顔をほとんど動かさず、目線だけで確認する。この二人も、横にいる相手の顔を見る暇などなかった。美穂は亜衣に対して積極的に発言し、亜衣は美穂に何を言われても平然としていた。今、二人が弾いている「白と黒で」の第二楽章の終盤には一つの盛り上がりがある。二人はこの箇所を最大の見せ場と考え、実際に意見が一致していた。第二楽章を弾き終え、亜衣がいったん手を止めて言った。

「この曲は目安が付いたわね。なんとか本番までに仕上げられるでしょう。美穂さん、何か問題ある?」

「いえ、大丈夫です。次はあの曲ですね」

「そう、あの曲よ」

 二人はダブル・カンパネラを弾き始めた。この曲は佐倉と美穂のみに終わらず、亜衣の意見も加えて変化していった。変化するたびにダイナミックになり、まるで演奏者の生命を反映しているかのようになった。佐倉は時々、このスタジオを訪れ、美穂と亜衣にアドバイスをした。彼は二人と同じくらいこの曲を愛し、誰よりも二人を応援していた。ある日、佐倉はこう言った。『この曲は進化している。ダブル・カンパネラは生きている。ありがとう。二人のおかげだ……』彼の表情は明るく、その両目には涙が浮かんでさえいた。曲の長さは約十分間で、ラ・カンパネラの約二倍だった。二人はいくつかのフレーズを弾き終え、同時に手を止めた。

「亜衣さん。やっぱり、最初がうまく合いませんね」

「この長い序奏部分ね。ラ・カンパネラにはないメロディーだわ。でも、平気よ。お互いの音をよく聴いて、百分の一秒まで合わせていきましょう」

「はい。亜衣さん、なんだか積極的ですね」

「あら、美穂さんは積極的じゃないの?」

「積極的ですよ。ただ、私、亜衣さんがこんなに積極的な人だとは思わなかったから。いつも冷たくて、何でも簡単にやってのける人だと思っていたから」美穂は慌てて亜衣の顔を見た。「いえ、違うんです。本当は逆に思っていました。きっと、亜衣さんは情熱的で、頑張り屋さんなんだと」

「正直ね」亜衣は微笑んだ。「あなたのそういう所、好きよ。そうね、あなたの言ったこと、どっちも正解よ。私は冷たくもあれば熱くもある。でも、今は熱いわ」

 あなたのこと、好きよ――美穂の頭の中では亜衣の言葉が集約され、このような形となって繰り返し響いていた。

「美穂さん?」亜衣は美穂の肩に触れた。「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫です。ただ、頭が痛くて……」

「きっと疲れているのよ。忙しいんでしょう? 今日の練習はもう終わりにした方がいいわ。ほら、立って」

 二人は立ち上がった。明日は午後二時から、アリス・ミュージックで練習することになっていた。亜衣は美穂にこう言った。

「明日の練習だけど、前半は外で遊ばない?」

「え? 駄目ですよ!」

「いいのよ!」亜衣は妙に上機嫌だった。「この十日間、練習ばかりしてきたのよ。ずっとスタジオに閉じこもって。私、あなたのこと、もっと知りたいの」

「わかりました……」

「それじゃ、アリスのロビーで二時に待ち合わせね」

「はい……」

 練習のことしか頭になかった美穂は不服そうな顔をした。だが、スタジオから去ってゆく亜衣の背中を見ているうちに、美穂の顔は次第にやわらいでいった。亜衣からの思いがけない誘い。『あなたのこと、もっと知りたいの』という言葉。美穂は鈍感ながらも敏感に反応し、浮かれていたのだ。

 翌日の午後二時、美穂はアリス・ミュージックのロビーにある円形のソファに腰掛け、ブーツを履いた両足をぶらぶらさせていた。膝上のデニムスカート、フォークロア調のシャツ、その上からPコートという恰好だった。化粧はナチュラルで、髪には軽いウェーブがかかっていた。顔見知りの社員が近くを通るたびに美穂は頭だけを縦に動かし、「デートなの?」と聞かれると「はい、そうです」と答えた。数分後、亜衣が自動ドアの奥から姿を現し、美穂の目の前に立った。亜衣は黒いコートに身を包み、その下に同系色のシャツとロングスカートという恰好だった。亜衣は美穂を立ち上がらせ、こう言葉を掛けた。

「さあ、行きましょう。大切な余暇よ」

「はい、エンジョイしましょう!」

「何よ、すっかり元気になって」

「なんだか元気になっちゃいました」

 亜衣は声を抑えて笑った。美穂は常に笑っているような顔立ちだったが、その黒目がちな目がいっそう細くなっていた。周囲を行き交うアリス・ミュージックの社員たちは思わず足を止めた。何せ、「あの橘亜衣」と「我が社期待の静井美穂」が友達のように語り合っていたのだから。

 二人は外に出て、青山から表参道方面へと歩いていった。暖かい陽射し、それとは反対に随分冷たくなった風。平日なのに人通りが多く、並んで歩くのも一困難だった。二人は店のウィンドウからウィンドウへと立ち寄っていった。途中、美穂は大きな花屋の前で立ち止まり、何か考えているようだった。花屋の軒先には様々の色のバラが並べられていた。亜衣は美穂の真横に立ち、バラを見ながら呟いた。

「きれいなバラ……。私、花の中ではバラが一番好きだわ。ねえ、買いましょうよ」

「駄目ですよ!」美穂は亜衣に顔を向けた。「花はカナリアで買うって決めているんです。カナリアにもバラくらい置いてありますから。ここでは見るだけです」

「そうなの?」亜衣は笑った。「じゃあ、ここにはもう用がないわね」

「はい。次、行きましょう」

 二人はさらに歩いてゆき、表参道が見える場所まで辿り着いた。亜衣は一軒の高級ブランド店を指し示し、美穂の腕を引っ張っていった。

 店内には冬物のコートなどが並べられ、どれも値段の高そうなものばかりだった。美穂は気が引けているのか、若い女性店員から何か言われても曖昧な返答しかできなかった。一方、亜衣はその店員を何度もフロアの端から端まで走らせ、手元に届いた洋服を自分や美穂の体にあてがい、台の上に次々と積み重ねていった。しまいには、亜衣は美穂を連れて別のコーナーへと移動してしまった。戻ってきた店員はあっけにとられていた。

「美穂さん。このマフラー、いいわね」

「はい。すごく可愛いです」

「あら、可愛くはないわよ。どちらかというと、シャープなのよ」

「確かに、シャープです」

「ふふふ。二色あるわね。私が黒……」

「私が白ですね」

「そうよ。一つずつ買いましょう」

 亜衣はレジの前に立ち、カードで支払いを済ませた。二人はその場でマフラーを首に巻き、店を出ていった。

「あの、お金……」

「いいのよ。私からのプレゼント」

「あの、ありがとう……ございます」

「大切にしてよね! あ、そうだ。記念に写真を撮りましょ」

 青空と交差点に背を向け、二人は体を寄せ合い、亜衣がカメラを掲げた。鮮やかに映える白と黒のマフラー。二人とも笑顔だった。

 青山方面へと戻る途中、二人は大通りから少し外れた広場へと入っていった。そこはお伽の国のような異質の空間だった。二人は一軒のオープンカフェに入り、テラスの一角にあるテーブル席に向かい合って座った。そして、コーヒーとケーキを口にしながら会話を楽しんだ。

「美穂さん。仕事、忙しいの?」

「はい。でも、楽しいです。今度、パレス・ガーデンでピアノを弾くんですよ」

「いつ?」

「十二月二十四日。クリスマス・イブです」

「まあ、そんな寒い時に? まさか、夜?」

「そうなんです。夜の七時から」

「大変ねえ。私も、行くかも……」

「ぜひ、来てください。その、越知さんと」

「ちょっと!」

 周囲の人たちが振り向くほど、二人は大笑いをした。このお伽噺のような空間で、その住人のような美穂としゃべっている。それだけで亜衣は満足していたのだ。亜衣はひとしきり笑った後、ぽつりとこう言った。

「美穂さん。私、ピアノが好きなの」

「私も好きですよ」

「子供の頃から?」

「子供の頃から」

「いろいろあったけど?」

「いろいろあったけど」

「つらいことも?」

「くじけそうなことも」そう言って、美穂は慌てて付け加えた。「私、一度、くじけたんですけどね。音大を卒業する時に。でも、亜衣さんのピアノを聴いたから。パレス・ガーデンでラ・カンパネラを聴いたから……」

 長い沈黙の後、亜衣が口を開いた。

「美穂さん。五年前の学園祭で、あなたは私に勝ったのよね?」

「はい……。あの日は今でも私の宝物です。勝てたからとかじゃなくて、亜衣さんに近付くことができた一瞬だから」

「美穂さん。あなたは今、私にすごく近いわ。今のあなたは私にとって……」

「亜衣さん?」

「ごめんなさい。私ったら興奮して。さあ、帰りましょう」

「亜衣さん?」

「行くわよ、美穂!」

 アリス・ミュージックに戻った二人は早速練習を開始した。その後も日を追うごとにダブル・カンパネラの精度は上がってゆき、ついには完成の日を迎えることになる。本番前日には関係者たちが一堂に会し、二人の演奏を見守った。演奏が終わり、スタジオから出てきた人々の顔はまるで魂を抜き取られたかのようだった。


 そして、本番当日。都内最大級のコンサートホールには、満席に近い五千名以上の人々が集まっていた。一階席から三階席まで、海潮音のようにさざめき、波のようにこだまする客席の声。午後六時二十分。開演まであと十分間。ステージ上には、二台のグランドピアノが組み合わさるように向かい合って置かれ、正面から左側の少し奥にある方だけが大屋根を残したままになっていた。

 舞台裏の控え室では、美穂や亜衣、西園寺や佐倉たちが円形になって立ち並び、静寂に身を任せていた。時計の分針が刻一刻と進み、いよいよ二人の出番という時、美穂が亜衣に駆け寄り、赤いバラの髪飾りを手渡した。

「亜衣さん。これ、あのタイミングで付けてください」

「これは……。私なら黒いバラじゃないの?」

「私は赤いバラが亜衣さんに似合うと思ったから」

 二人はステージからの光が射す通路を歩いていった。

「美穂さん、ありがとうね。赤いバラ、嬉しいわ。ところで、あなた、緊張していない?」

「大丈夫です。全く緊張していません」

「よかったわ。さあ、行きましょう!」

 ステージ上に美穂と亜衣が揃って姿を現した。美穂は純白のドレス、亜衣は漆黒のドレス。両方とも肩紐がなく胸元から足元へストンと落ちた形状だった。まだバラの髪飾りを付けていなかった。会場全体を震動させる拍手と歓声が鳴り響いた。美穂と亜衣は並んでステージの中央に立ち、同時にお辞儀をした後、それぞれグランドピアノの前に座った。美穂が左手後方に、亜衣が右手前方に。まずはソロ曲の演奏。スポットライトが交互に当たり、二人は順番にピアノを弾いていった。ソロ曲が全て終わると、二人はいったん手を止めた。照明が落ちた。

「いよいよですね」客席にいた越知が呟いた。

「白と黒で。ダブル・カンパネラ」隣の蛯原が答えた。「佐倉君が作曲したそうだね。あの佐倉君が誰かのために曲を作り、しかも自由に直させるとは……」

「僕にはわかる気がします。佐倉さんがその気になったのが」

「橘亜衣に静井美穂。越知君は橘さんに、佐倉君は静井さんに期待しているといったところかな? おや、ステージに光が……」

「光が灯りましたね。もう、黙っていましょう」

 照明が少しずつ明るくなり、最後は二人の姿を眩しいまでに照らし出した。美穂の髪に白いバラ、亜衣の髪に赤いバラ。二人は同時に鍵盤の上で両手を構えた。

 白と黒で――音と音が絡み合う光のメロディー。音の中から新しい音が、さらなる音が溢れ出してゆく。ピアノはリトル・オーケストラ。その言葉のとおり、四本の手は無限のメロディーを繰り広げていった。二台のグランドピアノ越しに合う二人の視線。美穂と亜衣は無言で何か会話しているようだった。一糸乱れぬ二人の呼吸。美穂は体を前後にしならせ、全体をカバーする和音を鳴らす。亜衣はかがみ気味で細かいトリルや連続音を鳴らす。美穂の右側頭部で揺れる白いバラ、亜衣の左側頭部で揺れる赤いバラ。美穂も亜衣も、勇ましく、楽しそうに弾いていた。二台のピアノ分の特大音、単音だけの緩慢な音色、控えめな連続する和音。そして、注目の第二楽章・終盤。階段を上がってゆくような音が積み重なり、美穂と亜衣が同時に顔を上げた直後、極めて明瞭な、何とも言えぬ勇敢な音が鳴り響いた。二人は全てを弾き終え、長い拍手の後、再び鍵盤の上で両手を構えた。

 ――美穂さん、いいわね?――

 ――はい、お願いします!――

 ダブル・カンパネラ――美穂は鍵盤の一番左から、亜衣は鍵盤の一番右から、つまり客席から見れば二人とも奥から両手を動かしてゆき、低音と高音のオクターブ和音を鳴らしていった。その二つが鍵盤の中央でぶつかり合い、ラ・カンパネラのメロディーが奏でられ始めた。まるで一人で弾いているかのようだったが、一人では絶対に不可能な演奏だった。美穂の恍惚とした表情、亜衣の悲哀に満ちた表情。絶妙のタイミングで呼応するように、二人の目が輝き、肩が上がり、手首がしなり、両手が振り下ろされた。さらに、美穂と亜衣の視線が強烈に合った。ラ・カンパネラのクライマックスと同様、激しい和音が鳴り響いた。共鳴し合う二つの鐘。姿は違えど、立場は違えど、今の二人が見ているものは全く同じだった。失われた情熱を求めて二人は邂逅した。あらゆる情熱を結集させて二人は対決した。そして、信頼と友情。今の二人が見ているもの、それは情熱という名の巨大なもの、一つの真実へと向かってゆこうとする人間の生命力だった。美穂と亜衣は同時に最後の音を鳴らし、演奏を終えた。客席からは怒涛のような拍手喝采がわき上がった。舞台裏では誰もが喜びを分かち合い、神野と曜子でさえも抱き合っていた。その中で、佐倉はひとり涙を流し、何故か悲しい微笑を浮かべていた。一方、ステージ上では亜衣が美穂に近付き、こう言葉を掛けた。

「美穂さん、ありがとう」

「亜衣さん……」

「美穂さん。私にとって、あなたはかけがえのない存在よ」

「亜衣さん……ありがとう」

 亜衣は美穂の手を握り、そのまま体を引き寄せて抱きしめた。聴衆たちはさらなる拍手を送り、いっせいにスタンディング・オベーションを始めた。美穂の目にも、亜衣の目にも涙が浮かんでいた。

 総勢百名に及ぶ打ち上げパーティーが終わった後、美穂と亜衣は一軒の静かなバーに立ち寄った。二人の他に佐倉と越知がいた。四人ともカジュアルな恰好で、酒が入っているせいか陽気だった。特に越知は何度も佐倉に握手を求め、「僕らは運命共同体だ」などと軽口を叩いては勝手に笑っていた。佐倉は越知の言葉にいちいち頷き、「私はあなたのバイオリンを高く評価しています」などと大真面目に答えるのだった。そんな二人のやりとりを見て、美穂と亜衣は可笑しそうに手を叩き、何か二人の間で秘密の会話をしていた。二人の表情はやわらかかった。壮絶な練習や責任重大の本番から解放され、二人ともようやく一息付けていたのだ。午後十一時半、四人が店を出た時、越知が美穂にこう言った。

「十二月二十四日、僕、必ず行きますから。ねえ、亜衣ちゃん?」

「やだわ、この人」亜衣は苦笑した。「そういう乗りは美穂さんには合わないのよ。ちゃんと真面目に接しなさい」

「これは失礼! だけど、あの演奏を聴かされた後だからね。ねえ、佐倉さんも行きますよね?」

「残念ながら、私は仕事が……」

「なんだよ! あんな曲を書いておいて、仕事だの何だの、君はそれでも英雄のつもりですか?」

「私は英雄ではありません。そうなるつもりはありますが……曲の上では」

「さあ、帰りましょう!」亜衣が間に入った。「もう随分寒いわね。越知さんの頭は沸騰しているみたいだけど。美穂さん、それじゃ、頑張ってね。佐倉さん、本当にありがとうございました。ほら、越知さん、行くわよ」

「さようなら!」美穂は手を振った。

 亜衣と越知の腕を組む姿が路地の闇の中に消えた。佐倉と美穂はタクシーを拾うため、大通りに向かって歩いていった。美穂は黙って佐倉の背中を見つめていた。佐倉はいつものように別のことを考え、どこか遠くの方、おそらく夜空の星を眺めているようだった。大通りに差しかかり、タクシーの列が見えた頃、佐倉は唐突に振り返った。

「静井さん、僕はどちらかというと心配している」

「え? 何をですか?」

「つまり、君が頑張りすぎじゃないかと」

 二人は無言で見つめ合った。

「佐倉さん」美穂はにっこりして言った。「私、もっと頑張りたい。もっとピアノが弾きたい。亜衣さんと……」

「君の気持ちはわかる」消え入りそうな声だった。「だけど、あまり無理をしない方がいい。結局は君のためにならない。僕は知っている。燃え尽きてしまった人を。ともかく、あれだけの演奏をした後なんだ。少しは休んだ方がいい。僕が言いたいのはそれだけだから。では、さようなら」

 美穂は佐倉を呼び止めた。

「佐倉さん! ピアノ・コンツェルトが完成したら教えてください! 絶対に、私が最初に弾きますからね! 約束してください……」

 佐倉は無言で頷き、そのまま背中を向けて去っていった。美穂は酔いや疲れ、演奏後の興奮や解放感などが入り混じって、自分でも訳のわからない状態にいた。十二月上旬の夜は寒かった。果てしなく寒かった。美穂はついさっきまで『佐倉に誘われるかもしれない』と思っていた自分を苛み、諦めに似た照れ笑いを浮かべながら帰路に着いた。

 佐倉が自宅のマンションに着いたのは午前零時を回った頃だった。薄いカーテンから洩れる青い月の光だけが部屋を照らしていた。大量の書物で埋められた本棚が四方の壁にあり、他には電子ピアノ、作曲用のパソコン、病人用のそれを彷彿させるベッド、大きなガラステーブルなどがあった。そのテーブルの上には自筆の楽譜が何百枚も積み上げられ、様々な種類の錠剤が散らばっていた。佐倉は窓際にあるベッドの上に腰掛けると、両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。

「ピアノ・コンツェルトを……最初に弾かせてくださいか……」

 佐倉は独り言を呟くと、ふらふらと立ち上がった。決して酔っているわけではないようだった。彼は部屋の中を何十周も歩き回った。絶えず表情を変え、指を動かし、何かをイメージしているようだった。そうして一時間以上、歩き回っていた。やがて疲れたのか、床の上に仰向けになった。彼の顔は生気を失っていたが、その目だけは輝いていた。彼は何かを見ているようだった。数時間前のダブル・カンパネラか、今作曲しているピアノ・コンツェルトか、それとも……。佐倉はいつしか眠っていた。

 十二月中旬、ダブル・カンパネラから一週間後、亜衣はスター・ミュージックの廊下を早足で歩いていた。その横には、曜子がいた。曜子は恐る恐る言った。

「亜衣ちゃん。穏便にね」

「何が?」

「あの、その」曜子は人とぶつかり、頭を下げた。「ただでさえ、反対が多かったわけだから。静井さんとの共演は。TVピアノトーナメントのこともあるわけだし……」

 亜衣は足を止め、精一杯の微笑を湛えた。

「わかっているわよ。曜子さん、私も馬鹿じゃないわ」

 曜子は頷き、扉を押し開けた。そこは大会議室だった。コの字形のテーブルがあり、約二十名の音楽関係者たちの姿があった。亜衣はちょうど彼らに囲まれるようにして、その中央に立った。一番奥に座っていた東城が口を開いた。

「橘君。ここに呼ばれた理由はわかっているかな?」

「はい。二月にあるブリュッセル国際コンクールのことですよね?」

「そうだ。世界三大コンクールの一つ、ブリュッセル国際コンクール。君はこのコンクールにおいて日本人初の優勝者となるべく、その練習に集中しなくてはならない。他のことはいっさい……」

「静井美穂さんとのことは、もう終わりましたから」

 東城たちは静まり返った。彼らは亜衣が少しは抵抗すると思っていたのだ。だが、実際の亜衣は清々としていて、「もはや美穂のことなど、私にはどうでもいい」といった感じでさえあった。亜衣は席に座り、東城たちと国際コンクールに関する話をした。終始、彼女は落ち着いていた。

 その翌日の昼過ぎ、亜衣は楠葉音大の多摩キャンパスに来ていた。塔の頂の鐘が鳴り、芝生が広がり、遠くに白い校舎が見える。彼女はつばの長い帽子を深くかぶり、喪服のような恰好をしていたため、周囲の人に橘亜衣だとほとんど気付かれなかった。亜衣は聖堂のようなホールの中へと入っていった。

 中には誰もいなかった。亜衣は両側に並ぶ椅子の間を通り抜け、大窓から射す光の方へと歩いていった。それからステージへと上がり、グランドピアノの前で立ち止まった。グランドピアノは埃をかぶっていた。亜衣は静かに鍵盤の蓋を開き、白と黒の鍵盤を見つめた。五年前に美穂と対決した時のグランドピアノ。亜衣は立ったまま両手を鍵盤の上で構え、何かを弾こうとしてやめた。鍵盤に触れず、その上で両手を動かしただけで。それはラ・カンパネラの動きだった。

「私は決意したのよ。私には、わかったのよ。美穂さん、私は……」

 亜衣は俯いたまま、グランドピアノの前で動かなくなった。両肩を小刻みに震わせ、今にも崩れ落ちそうだった。鍵盤には涙が落ちていた。

 その頃、美穂は自宅のソファベッドの上に横たわっていた。仕事があまりにも忙しく、疲れが溜まった状態だった。美穂はぽかんとした顔で壁を見つめ、時おり嬉しそうに顔をほころばせていた。亜衣と共演できたこと、亜衣と友情を深められたことが何よりも嬉しく、輝かしい未来に想いを馳せていたのだ。

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