第7話 展覧会の絵
夏、真っ盛り。青空には白い積乱雲がそそり立ち、灼熱の太陽が眩しい光を放っていた。駒沢の公園通りを走ってゆく一台の車。それは幌を付けたエメルスだった。車はカナリアの前で停まり、中からは白いワンピースを着た美穂が出てきた。美穂は麦藁帽子をかぶり、その顔を太陽の陰に覗かせた。この数ヶ月間で彼女の顔は驚くほど変わった。美しく、たくましく、何より自信に満ち溢れていた。美穂は勢いよく車のドアを閉めると、店内へと入っていった。八月中旬、第一弾の対決から約三週間が過ぎた頃だった。
「すみませーん!」
「あ、美穂!」
美穂を出迎えたのは店長の千里だった。千里は赤いエプロンというお馴染みの恰好で、高い位置から溌剌とした笑顔を振りまいていた。残念ながら美穂はこの店を辞めてしまったわけだが、その後もザ・セブンからの注文が続き、さらにアリス・ミュージックからの注文も入るようになった。商売大繁盛である。そのため、千里は美穂のことを心底有り難がっていた。店内には季節の花々が咲き乱れ、特に美穂の目を惹いたのは向日葵だった。小ぶりだが、花びらが長く、鮮やかな黄色に色付いていた。美穂は千里にこう言った。
「来週の演奏会では、あの向日葵を使いたいな」
「それはいいわね! 髪飾り用とステージ用に揃えておくわ。後で神野さんに伝えておくから。それで、今日はどうしたの?」
「はい、これ」
「あ、チケットね!」
「プレゼントです。五枚あるから、みんなで来てください」
「ありがとう。絶対に行くから!」
千里と別れ、美穂が店の外に出た時、お昼休みから戻ってきた友紀と鉢合わせになった。友紀の顔は真っ黒で、この夏に始めたサーフィンのことを自慢げに美穂に語りだした。その瞼や唇はやけにギラギラしており、金色に染まった髪の毛も、極彩色のアロハシャツも、どこかむさ苦しかったが、美穂は平然として楽しそうに話を聞いていた。また、友紀はフラワーアレンジメントの勉強を続けているようで、最近ではぼちぼち仕事が入るようになってきているとのことだった。美穂は「来週の演奏会でも手助けをしてね」と友紀に告げ、車へと戻っていった。エメルスは走りだし、次の目的地であるザ・セブンを目指した。
駒沢公園からオリンピック公園へ、以前は何度も通った道筋を車は走っていった。夏休み中のため、広場や歩道には大勢の家族連れや若者たちの姿があった。美穂はどでかいサングラスをかけており、その奥から周辺の景色を覗き見ていた。というより、彼女の神経は運転に集中しているようだった。美穂の運転テクニックは男勝りで、プロ級と言っても差し支えなかった。車内にはFMラジオの洋楽ポップスが流れていたが、美穂はほとんど聴いていないようだった。車は自由が丘の街中へと入ってゆき、ザ・セブンの前で停まった。
ザ・セブンには五十名程度の客が入り、全体の半分くらいの席が埋まっていた。今は午後一時半で、昼食時を少し過ぎていたため、さほどこんでいなかった。美穂は馴染みの店員たちと挨拶を交わしながら、店の奥へと進んでいった。彼女が向かっている先には藤木慎一郎がいた。彼はバーカウンターの裏で、今日も忙しそうに帳簿に目を通し、パソコンに数字を打っていた。厳しい顔付きで、疲労が溜まっているようだったが、美穂と目が合った途端、嬉しそうに言った。
「美穂ちゃん、相変わらず元気そうだね」
「はい。藤木さんは順調ですか?」
「順調だよ。僕もこの店も。花のピアニストが抜けたのは痛かったけどね」
「すみません。代わりに誰かいないかな?」
「いや、冗談だよ。それに、代わりなんていらないよ」
「また、いつか、ここで弾きたいです」
二人は顔を合わせて笑った。藤木は美穂にアイスレモンティーを出し、彼女の顔付きの変化をつぶさに観察した。ザ・セブンでピアノを弾いていた頃に比べ、表情が明るくなり、太陽のように輝いていた。また、彼は美穂のために練習の場を提供したり、祝勝会を開いたりする自分を不思議に思うのだった。元々、クラシック音楽には興味がなく、店の経営と料理のラインナップしか頭になかった自分が、これほどまでに静井美穂というピアニストのために尽力している事実。自分の手元から羽ばたいてゆき、想像をはるかに超えて活躍する静井美穂という女性を今は眩しく感じるのだった。藤木は美穂からチケットを受け取り、こう言った。
「前回は行けなかったからね。今回は必ず行くよ。僕らだけでなく、店の常連さんにも声を掛けておくよ。美穂ちゃんのピアノを聴きたいって人が多いからね」
「ぜひ、みなさんで来てください」
「うん。それに、あれだろ? 一人でも多く、美穂ちゃんのファンを客席に入れないと。だって、第二弾も投票があるんだろ?」
「私、そういうつもりでチケットを配ってるんじゃありません!」
藤木はしまったという顔をしながらも、うまい言い訳ができずに困っていた。美穂はそんな藤木の表情を楽しそうに見つめ、「冗談ですよ」と言い返した。藤木は少し怒ったふりを見せたが、すぐに機嫌を直して言った。
「そういえば、美穂ちゃんの誕生日って九月だよね?」
「はい。九月十九日です」
「じゃあ、その日は盛大にお祝いしなくちゃね。君の出世祝いも兼ねて。どう? その日、大丈夫そう?」
「はい。練習で忙しいだろうけど、一晩くらいなら。でも、いいんですか?」
「ん? 何が? ああ、店のことなら心配しないで。ちゃんと考えてあるから。それより、西園寺さんや神野さんも呼ばないとね。他にも、橘亜衣さんだっけ? とにかく、音楽家の人たちをたくさん呼ぼう」
「藤木さん、すごいネットワークですね」
「はは。社交の場となりつつあるよ。ここが」
「本当にありがとうございます!」
美穂は元気良くそう言うと、天使のような笑顔を振りまいて店から去っていった。笑うと一本になる目、歪んでさえいる特徴的な唇、輝かしいほど健康的な白い肌……藤木は美穂の幻影を見ていた。『自分はあの娘に恋しているんだろうか? 何故だろう? 胸がドキドキする。話していて思わず赤面しそうだった。それに、あの娘の性格。爽やかで健やかで、微塵の澱みもない。透きとおっている。いや、自分は何を考えているんだ。あの娘がこの店でピアノを弾いていた頃は、そんなこと考えてもみなかったじゃないか。だけど、離れてみて初めてわかるということもあるしな……』藤木はすっかり気もそぞろになり、この日は三回もグラスを落としてしまった。
一週間が経ち、第二弾の対決の日を迎えた。午後六時半、渋谷のコンサートホールの前にできた長蛇の列が先頭から順に会場内へと入っていった。だが、百名以上の人がその場で帰らされることとなった。これは西園寺や東城にとっては嬉しい誤算だった。
客席には紳士・淑女だけでなく、髪型も服装も自由極まりない若者たちの姿もあった。彼らは蒸し暑い夜の外気を持ちこんでいた。ステージには一台のグランドピアノが置かれ、その周辺には花が飾られていた。友紀たちによるものだった。また、ステージの奥には約十メートル四方のスクリーンがあった。客たちは『あのスクリーンは何に使うのだろう?』と首をかしげていたが、今のところはビール会社などのCMが無音で流されているだけだった。ステージ上に美穂と亜衣が揃って登場し、客席は静まり返った。美穂は白いドレスを、亜衣は黒いドレスを着ていた。
「あの、みなさん……」美穂はマイク越しに言った。「これから私たちは、このスクリーンの映像に合わせてピアノを弾きます」美穂は緊張しているようだった。「私はムソルグスキーの『展覧会の絵』を、橘亜衣さんはラフマニノフの『音の絵』を……。どちらも四十分程度の演奏です。はい。あの、スクリーンの映像は曲の途中途中で変わっていきますので、そちらにもご注目ください」
ステージ上で美穂から亜衣にマイクが手渡された。
「こんばんは、皆様」亜衣は余裕たっぷりに微笑んだ。「演奏終了後、皆様にはどちらが良かったかを投票していただきます。私と静井美穂さんのどちらが良かったかを。お手元の投票用紙に『橘亜衣』か『静井美穂』かをはっきりと書いて、近くの係員に渡してください。結果発表は午後九時から、このスクリーンで行います。それまでには、お席にお戻りください。では、静井美穂さんからの演奏です」
客席では拍手が起こり、ステージ上では亜衣と美穂が交差した。幕の裏へと下がる亜衣、ピアノの前に座る美穂。バックのスクリーンの映像が切りかわり、黒地に白字で「9、8、7、6……」とカウントダウンが始まった。それが「0」になった瞬間、スクリーンに巨大な版画が映り、美穂のピアノが鳴り響いた。
展覧会の絵――丁寧に弾かれてゆく右手だけの単音のメロディー。そこに左手が加わり、和音が加わってゆく。この曲ではプロムナードと呼ばれる今の部分が何度も挟みこまれる。作曲家が意図したように一つ一つの曲は絵画のごとく色彩を帯び、まさに美穂の背後で切りかわってゆく版画と共鳴していると言えた。版画は並木道や庭先、城や墓地など、世界の様々な光景を映し出していった。その前でピアノを弾く美穂の姿は幻影のように揺らめいていた。彼女の頭には、あの向日葵があった。その黄色い一点のみが白と黒の世界観の中で、彼女の表情と同じく光を放っていた。美穂はまた青天井の集中力を身に付けているに違いない。彼女は大きく口を開け、鍵盤ではなく、ずっと遠くの方に目を向けていた。曲は終盤で急速に盛り上がり、クライマックスの「キエフの大門」を迎えた。スクリーンに映る巨大な門の前で、美穂は一寸も違わぬ演奏を続けた。白と黒の版画が彼女の色に染まってゆく、そんな感じがあった。大歓声の中、美穂は何度も深くお辞儀をし、ステージから去っていった。
「すごい!」客席の友紀が叫んだ。「美穂、かっこいい!」
「最高ね」隣にいた千里も思わず呟いた。「あれが、あの美穂だなんて未だに信じられない……」
ザ・セブンの人たちも興奮気味に騒いでいた。藤木はステージから目を離さず、一言もしゃべらず、何か特別な感慨に浸っているようだった。他の客たちはもちろん、音楽家たちも「何故、あれほどの才能が今まで埋もれていたのか」「彼女は本当に湘南ピアノコンクール以前に受賞経験がないのか」「彼女がピアノを弾かなかった二年間はブランクだったのか、それともスランプだったのか」などと熱く語り合っていた。その中でも、存在感がないという意味で一際目立っていた青年。新進気鋭の作曲家・佐倉聡介は熱烈な眼差しをステージに向けていた。
音の絵(作品・三十九)――続いて、亜衣の演奏が始まった。バックのスクリーンには幾何学模様のような光彩が溶け合い、美穂の時とは一変してカラフルで活動的な映像が流れた。そこから洩れる光線が亜衣の顔や手、鍵盤に反映した。その姿は影のように浮かび上がり、その表情は無表情であったが、下唇を軽く噛むなど若干の変化が見られた。亜衣は音から音へと指を細かく動かしてゆき、手の平を平行移動させていった。この上ないテクニック。ストイックな音。それが聴衆たちに崇高すぎるイメージを持たせた。亜衣にとって運が悪く、この日の聴衆は半分以上が素人だった。亜衣はどんな絵を表現したかったのだろうか? 彼女の演奏からは美穂の時のような世界観が伝わってこなかった。だが、終盤で亜衣は息を吹き返した。華やかで、ダイナミックで、『美しいものを皆に聴かせたい!』という意志が溢れ出していた。まるで美穂の影響を受けたかのようだった。亜衣は全てを弾き終えた。聴衆たちにも何かが伝わったようで、美穂の時と同じように大きな拍手が鳴り続けた。亜衣はステージの中央で立ち止まり、珍しく戸惑ったような表情で客席を見つめていた。
「さすがは橘亜衣といったところか」談話室で、ある音楽家が呟いた。「もっとも、甲乙をつけがたいわけだが、それでも橘亜衣が勝利するのは間違いない」
「どうでしょうね」佐倉が初めて口を開いた。「わかりませんよ。あの静井美穂さんという方も相当のものでしたから」
「や、佐倉君」別の音楽家が言った。「君は静井美穂を支持するのかい?」
「そういうことになりそうですね。私は今、初めて誰かのために曲を作りたいと思いましたよ……」
午後九時、客席にはほとんど全ての人が戻ってきていた。談話室から戻った佐倉の姿もあった。ステージ上には再び美穂と亜衣が揃って登場していた。スクリーンに投票結果が映し出された。美穂・二百五十票、亜衣・二百五十票。なんと、同点だった。会場中にどよめきが起こった。美穂は口に手を当て、目を見開いていた。亜衣は力なく両腕を下げ、顔面を小刻みに震わせていた。
「馬鹿な客たち! それに、西園寺京子のせいよ。あの女が私のファンをシャットアウトしたのよ。ほんと、馬鹿馬鹿しいんだから!」
閉幕後、亜衣は通路を歩きながらそう言った。彼女の後ろでは、東城と曜子が難しそうな顔をして黙りこんでいた。その直後、亜衣はロビーで美穂を見つけた。美穂の横には西園寺と神野が、他にも何人かの人が周囲にいた。亜衣は美穂と目が合うなり、きつい口調でこう言い放った。
「美穂さん、同点だったからって気を良くしているんでしょう?」
「え?」美穂は表情を凍らせた。「私は、その……亜衣さんと一緒に……」
「私はあなたとは違うの! 誇りを持ってピアノを弾いている。私はいつも冷たい視線と厳しい言葉の中で生きてきた。どうせ、あなたは自由に、楽しくピアノを弾いてきたんでしょう?」
「私は、その……。私も亜衣さんと同じです。みんな、冷たかったし、厳しかった。でも、最後には笑ってくれました」
「勘違いしないで」亜衣は顔を真っ赤にしていた。「私とあなたは別世界の人間なのよ。今までも、これからも」
「亜衣ちゃん」曜子が亜衣の右手を握った。「大事な手だから、ね」
「わかっているわよ」
亜衣は右手を振りほどき、そのまま出口の方へと歩いていった。曜子はすぐにそれを追い、東城は少し遅れて追った。西園寺は溜息をつき、侮蔑混じりの視線を亜衣たちに向けた。神野は言葉を掛けたり、肩をさすったりと、必死になって美穂を慰めた。だが、美穂の目は亜衣の背中だけを見つめていた。その目に涙は浮かんでいなかった。
奇跡の同点劇があった「二人の絵」から二週間が経った頃、美穂は都内のホールでピアノ・コンツェルトの本格的な練習に入っていた。オーケストラに囲まれ、指揮者の蛯原孝蔵とアイコンタクトをとり、美穂はピアノの鍵盤を鳴らし続けた。予定されている中では、第三弾のピアノ・コンツェルト対決が最後の対決だった。美穂がチャイコフスキーの第一番を、亜衣がラフマニノフの第二番を弾くことになっていた。
「ピアノ! もっと、ゆっくり弾いて!」
「はい!」
美穂は蛯原の呼びかけに対し、正確に応えた。彼は三十三歳で、今では一級の指揮者として認められていた。清潔感のあるスーツに身を包み、小太りの体を揺すりながら、個々の楽器をチェックする姿はどこか神経質そうだった。蛯原は美穂のことをほとんど知らなかったのだが、練習を通して次第に彼女を評価するようになっていた。
「クラリネット! そこで深呼吸をして!」蛯原は指揮棒を振りかざした。「速い! やっぱり速いよ、静井さん! もっと、周りの音をよく聴いて!」
「はい!」
練習中、美穂はほとんど「はい」しか言わなかった。彼女はピアノ・コンツェルトを弾いた経験に乏しく、時としてオーケストラの音を聴き逃し、ピアノが独り歩きすることがあった。それでも美穂は抜群のセンス、もしくは運動神経によって合わせてゆき、いつしか阿吽の呼吸が実現するようになった。蛯原は満足そうに指揮棒を振り、体を泳がせていた。『この娘は天才だ。もしかしたら、橘亜衣に勝てるかもしれない……』最初は乗り気でなかった蛯原も今ではすっかり美穂の味方だった。こうして練習の日々が過ぎてゆき、美穂の演奏は日増しに良くなっていった。
九月十九日、自由が丘のザ・セブンで美穂のバースデー・パーティーが開かれた。午後七時、貸し切りの店内には美穂の友人たちや音楽会社の人々、さらには蛯原や佐倉など音楽家たちも集まっていた。その中には橘亜衣の姿もあった。彼女は来る前に『どうして私があの娘の誕生日会になんか行かなきゃならないのよ』とぼやいていたが、曜子たちに説得され、しぶしぶ顔を出したのだった。だが、実際の彼女は楽しそうで、他の音楽家たちと談笑し、その美貌を周囲に振りまいていた。一方、美穂もまた大勢の人々に囲まれ、亜衣からは離れた位置でケーキを食べるなどしていた。そこに蛯原がやって来て、隣に連れた青年を美穂に紹介した。
「静井さん。この人は佐倉聡介君といってね、僕のおすすめの作曲家なんだ。なんでも、この間の君の演奏を聴いたらしくってね、ひどく感銘を受けたそうだよ」
美穂は佐倉を見つめた。
「はじめまして、静井美穂です」
「どうも、佐倉です。先月、『展覧会の絵』を聴きました。かなり特別な演奏でしたね。タッチの強さが普通じゃなかった」
「はあ……。たぶん、私、指使いがマナー違反なんです。薬指で弾く所を中指で弾いたりするから……」
「手を見せてください」佐倉は美穂の手をとった。「たくましい手ですね。ただ大きいだけじゃない。何かスポーツでも?」
「ええと、インラインスケートくらいしか。最近はやってないですけど。あと、少し前まで花屋で働いていたので」
「そうかい。それでかな?」
蛯原はこのやりとりを見て、大いに可笑しがった。彼の目には二人が似たもの同士に映ったのである。佐倉はまだ二十七歳で、作曲家としては無名に近かったが、一部の人々からはすでに高い評価を得ていた。特に蛯原は彼を可愛がり、その楽曲をオーケストラに演奏させることもあった。佐倉の見た目は少々汚らしくて、着すぎた紺のジャケット、くしゃくしゃの白いシャツ、穴の空いたジーンズ、やけに量の多い髪の毛、それに無精ひげと、ここでは別の意味で目立っていた。彼の目線はいつもどこか他の場所を向いており、自分の思考と言動が一致していないような印象を与えた。また、目が切れ長で、どちらかと言うと男前だったが、眠そうな瞼やこけた頬が顔に陰影をもたらし、まるで亡霊のような雰囲気を漂わせていた。その薄い唇はフランスパンを頬張る際に切ったようだった。蛯原は二人が話しこんでいるのを見て、自分はこそこそと亜衣の方へ歩いていった。
「あら、蛯原さん。お久し振りですわ。全然、連絡をくださらないんだもの。でも、仕方ないわよね。今回は敵同士なんですから」
「これは困ったな」蛯原は苦笑した。「橘さんを敵に回すなんて、これっぽっちも考えていませんよ。何分、西園寺さんのお願いですからね。まあ、あなたを退屈させないくらいには育てておきますよ、彼女を」
「彼女を、ね」亜衣は美穂の方を見た。「前回の対決が同点だったことを騒いでいる人もいるようですけど、あれは過剰演出がなした業ですから。そこをお忘れなく。それに、あの西園寺さんの陰謀が絡んでいたみたいですし」
「西園寺さんの陰謀?」
「ええ、確かな陰謀が! あら、本人に聞こえちゃったかしら? 別にいいけど。それより、蛯原さん。どうなさったんですか? そんな顔をして」
「うん。実は」蛯原は言いにくそうにした。「彼が日本に帰ってくるんだよ。越知雅也君が。予定では来週の中頃だったかな。ヨーロッパ各地での演奏会を終えて。つまり、シュトラウセンとの」
「あら、そんなこと? 別に私には関係ないわ。所詮、シュトラウセンなんて時代遅れの指揮者よ。蛯原さん、あなたの方がずっと上だわ」
「うん。そう言ってもらえるのは有り難いけど……」
亜衣の表情は明らかに苛立たしそうなものに変わった。このところ、彼女は美穂との対決で頭がいっぱいになっていたが、心のどこかではシュトラウセンとのことを引きずっていた。また、「ビンタ事件」や「絶望的な素顔」を見せてしまった越知に対しても、どこかやりきれない思いがあった。亜衣はぱったりと話すのをやめ、気の抜けた表情で物思いに沈んだ。ひょっとすると、亜衣は越知のことを気にしていただけでなく、恋焦がれていたのかもしれない。今の彼女の表情からはそんなことも窺い知れた。その後、パーティーが盛り上がり、美穂による軽い演奏が続く中、亜衣はいつの間にか姿を消していた。その一時間後には美穂も帰り支度を始め、去り際に「藤木さん、今日は本当にありがとうございました」とだけ告げ、店を出ていった。藤木はパーティーを切り盛りするのに忙しく、ほとんど美穂と会話できずにいた。
一週間後、都内のコンサートホールで二人の最終対決が行われた。前回の成功を受け、西園寺たちは二千名以上を収容する大ホールを選んでいた。一階席だけでなく、二階席も満席に近い状態にあり、その中には馴染みの顔もあった。ステージ上ではオーケストラの楽員たちがすでに準備を終えていた。間もなく蛯原と美穂が登場した。客席からの拍手が静まった後、指揮者が動き、オーケストラが動き、美穂が動いた。
チャイコフスキーのピアノ・コンツェルト第一番――ダイナミックで、ロシアの広大な草原を彷彿させるメロディー。美穂の髪には珊瑚のような花が揺らめき、豊かな曲線美を描く体には海のように真っ青なドレスが波打っていた。その指は見事にオーケストラの演奏を捉え、まるで音楽を天井へと吊り上げてゆくかのようだった。曲は第二楽章、第三楽章と進んでゆき、美穂のピアノとオーケストラは最高傑作の音色を紡ぎ出していった。美穂の表情は最高潮に輝き、何かに挑戦するような勇ましさがあった。それは間違いなく、橘亜衣。美穂とオーケストラは最後の音を鳴らし、蛯原の合図とともに演奏を終えた。客席からは拍手がわき上がった。蛯原と美穂がステージから去った後、オーケストラは入れ替わりの作業を始めた。その間に美穂は舞台裏の通路で亜衣と出くわした。二人は立ち止まり、まず亜衣から言葉を掛けた。
「美穂さん、結構な演奏でしたわね。チャイコフスキーをあそこまで弾きこなす人はそうそういないわ。あの曲、初めて弾いたんでしょう? とても初めてだとは思えない」
「亜衣さんが『チャイコフスキーを弾けば』と言ってくれたから……」
「あら、『弾けば』とは言ってないはずよ。でも、結果的には良かったみたいね。特に第一楽章の終盤が……私、もう行かなくちゃ」
「頑張ってください、亜衣さん」
美穂のすれ違いざまの言葉に亜衣はこう答えた。
「あなたには、負けないわ」
美穂は思わず振り返った。亜衣は黒いドレスを揺らしながら、その背中だけを美穂に見せていた。亜衣がステージ上に姿を現し、客席からの拍手に迎え入れられた後、指揮棒が振りかざされ、音楽が始まった。
ラフマニノフのピアノ・コンツェルト第二番――ピアノとバイオリンの哀愁漂うメロディーが被さり合うように奏でられた。亜衣は他のどの曲よりも、この曲を愛し、この曲に自信を持っていた。今までの数々の失敗と、美穂との屈辱的な同点劇に対するリベンジ。その瞳は決然たる炎で燃えていた。『絶対に勝つ』という、『静井美穂だけには負けたくない』という決意。亜衣は全ての音を聴き逃さず、その両手で鍵盤を打ち鳴らしていった。氷のような体内から、炎のような音楽が溢れ出してくるのだった。クライマックスでは、誰もが息を呑む演奏が繰り広げられた。その後、亜衣は第二楽章を蠱惑的に、第三楽章を華やかに弾いていった。音色も表情も多種多様で、もはや無表情とは言えなかった。演奏終了後、客席からの拍手が段階的に大きくなってゆく中、亜衣はステージ上で珍しく微笑んでいた。彼女は実に半年振りに納得のいく演奏ができたのである。
「橘さん、失礼します」
「あら、越知さん」
炎のような演奏があった一時間後、亜衣の控え室に越知が入ってきた。この時、亜衣はひとりきりだった。越知は白いジャケットに身を包み、素肌が日焼けのせいで少し赤くなっていた。ヨーロッパ各地でのバカンスを楽しんだのだろう。相変わらず彼は意味のない冷笑を浮かべ、気障な言葉をいくらか吐いた後、こう言った。
「あなたの演奏を客席で聴かせてもらいました。なんと言うか、復活の演奏とでも言おうか、とにかくそんな感じがしましたね。あれなら、シュトラウセンも感心しただろうに。惜しいことをしましたね」
「別に、気にしていませんから」
「しかし、僕のような人間よりも、あなたがシュトラウセンと行くべきだった!」越知は感情を爆発させた。「僕はずっと後悔していたんです。どうして、僕なんかが選ばれたのか。どうして、僕はあのステージに立ってしまったのか。そうなんだ。僕が言いたかったのは……これなんだ」
長い沈黙の後、亜衣はこう答えた。
「越知さん。あなたは素晴らしい演奏家ですわ。私は越知さんのバイオリンが大好きですよ。あなたのように情熱的な演奏をできる人は他にいないわ。だから、越知さんが行って正解だったんですよ。それに、私、本当に気にしていないですから。だって、今の私には他にやりたいことが見つかったんですもの」
「他にやりたいこと? それは、いったい何ですか?」
「静井美穂さんです」亜衣は越知を見つめ返した。「私は今、あの人と戦いたい。あの人の演奏を聴いて、見て、心で感じたい。会うたびに上達し、力強くなってゆく彼女に勝ちたいんです」
「橘さん、あなたは……」
越知は二つの意味で絶句した。一つは亜衣の決然たる表情に対して単純に驚いたからであり、もう一つは亜衣がドロップアウトしてしまうのではないかと危惧したからであった。越知は亜衣と同じくエリートコースを進んできたため、彼女の盲目的な発言が信じられなかったのだ。ただ、亜衣のこの言葉が本心から出たものかどうかは微妙だった。越知は亜衣に別れを告げ、控え室を出ていった。後に残された亜衣はこの間と同様、気の抜けた表情で物思いに沈んでいた。
さて、二人の投票結果が出たのは数日後のことだった。美穂・七百二十二票、亜衣・千四百五十六票。約二倍の大差をつけて亜衣が圧勝した。ピアノ・コンツェルトに関しては、まだまだ二人の差は大きかった。アリス・ミュージックのオフィスでは、神野が口惜しがっていたが、西園寺はまるで意に介していないようだった。まるで何か秘策でもあるかのように。一方、美穂は二人の間で楽しそうに、そして目を輝かせて、亜衣の話をするのだった。
実は、以前から一つの計画が秘密裏に進められていた。音楽業界のみならず、テレビ業界までも巻きこんだビッグプロジェクト。八人の若手ピアニストをテレビに登場させ、その技術と感性を競い合わせ、審査員によって勝敗を決める。この「TVピアノトーナメント」と題された番組は十月の中旬と下旬の二回に分けて収録される予定だった。計画者は西園寺京子であり、この番組には美穂や亜衣も出演することになっていた。全ては「決勝で美穂と亜衣を対決させる」ためであり、「視聴者の面前で美穂を亜衣に勝利させる」ためであった。西園寺の中では二人の対決がまだ終わっていなかったのだ。そう、彼女の言うドラマ性とは、まさにこのことだった。
十月上旬、ピアノ・コンツェルト対決から一週間が経った頃、美穂は藤木と銀座の夜の街を訪れていた。午後八時、二人は映画を観た後で、今は高級フレンチ・レストランで食事をしているところだった。すでに前菜やスープが片付けられ、テーブルの上にはメインディッシュである海鮮料理が並べられていた。二人はムール貝やオマール海老を口に運びながら話をした。
「信じられないよ。あの美穂ちゃんが、こんなに……」
「何ですか?」
「その……活躍するなんて」
「藤木さんのおかげですよ」
「いや。僕はただ……」
テーブルにはデザートが運ばれ、その後、コーヒーが用意された。この日、美穂の耳元には玉虫色のイヤリングが輝き、彼女が表情を変えるたびに揺れ動くのだった。二人が出会った約半年前に比べると、美穂はだいぶおしゃれになり、美しい女性に変わっていた。それは藤木の目にも明らかだった。ただ、藤木にとっては美しいだけでなく、愛しい女性に変わっていた。藤木は静かに口を開いた。
「相変わらず、二人とも恋人募集中のままか」
「藤木さんなら、いい人がすぐに見つかりそうなのに」
「そんな人、いらないよ。僕は……」
「理想が高いんですね」
二人のいるテーブル席は窓際で、五階の高さから銀座の夜の街並を眺められた。藤木は窓の外や店内に目を向けたが、結局は視線が美穂の顔へと戻ってしまうのだった。その美穂は目を伏せ、口を噤み、コーヒーを取ろうとした右手をそのままにしていた。藤木はナプキンで口を拭い、その目を微笑ませた。美穂は目線だけを動かし、藤木にこう言った。
「どうしたんですか? 今日の藤木さん、ちょっと変ですよ」
「そうだよね。飲みすぎたかな?」
「まだ二杯目のくせに」
「弱くなったな。じゃあ、僕は先に行くよ」
「藤木さん……ありがとうございました」
藤木は無言で頷き、ひとりで店を出ていった。後に残された美穂は窓の外に目を移し、じっと涙をこらえていた。美穂と藤木。この後、二人の関係が変わることはなかったと言えば嘘になるが、藤木は美穂を応援し続けた。ただ、彼はどこか距離を置いていて、美穂のことに話が及ぶと決まって口数が少なくなるのだった。開店前のザ・セブンでは、藤木がグランドピアノのそばに座り、ぼんやりと口笛を吹く姿を時々見られた。きっと、彼は美穂のピアノを思い出していたのだろう。とにかく、彼の恋は終わり、再び仕事人間として働く毎日が始まったのだった。
それから一週間後、美穂は他のピアニストたちとともに都内のスタジオに呼び集められていた。例の「TVピアノトーナメント」の収録である。スタジオにはセットが組まれ、大きな円形のステージの上には一台のグランドピアノが置いてあった。カメラや照明がスタンバイされ、スタッフや進行役の男女、それに十一名の審査員も所定の位置で待機していた。セットから少し離れた場所には西園寺や東城など関係者たちの姿があった。美穂たち八人のピアニストはセットと関係者席の間でスタッフから説明を受けていた。
「本日は一回戦の四試合を行います。このトーナメント表の一番下の所ですね」スタッフは表を指差した。「時間は一人当たり五分程度を予定していますが、それをオーバーした場合はこちらで編集させていただきますので。それでは、早速ですが、第一試合のお二人からお願いします」
二人のピアニストがカメラの前に呼ばれ、それぞれコメントをさせられていた。なんと、そのうちの一人は三浦梨恵であった。彼女は湘南ピアノコンクールで美穂に敗北した後、別のコンクールで優勝しており、すっかり自信を取り戻しているようだった。亜衣は第二試合、美穂は第四試合。二人が順当に勝ち進めば、決勝でぶつかることになる。だが、その前の準決勝で美穂は一人の難敵と戦わなければならなかった。それは渡部俊彦という、若手では国内最高クラスのピアニストだった。第一試合の二人の演奏が終わり、十一名の審査員による審査結果が出た。各々の審査員はピアニストの氏名が書かれた赤と青の札を持っており、それを順番に上げていった。勝者は三浦梨恵。これで亜衣の準決勝の相手が決まったわけだ。
「第二試合のお二方、よろしくお願いします」
亜衣はコメントの別撮りを済ませ、ステージへと上がっていった。亜衣の最初の相手はピアニストというよりも、ピアノがうまい女性アイドルだった。内心、亜衣はいらついていた。『なんで、あんなのが相手なのよ。しかも、あんな曲を弾くなんて。人を馬鹿にしているのかしら? まあ、いいわ。美穂さんの手前だし、景気良く叩き潰してやるわ』亜衣はピアノを弾き始めた。
リストの超絶技巧練習曲「鬼火」――五分程度という規定の中で、亜衣はこの四分弱の曲を選んだ。その名のとおり超絶の技巧を要す曲で、まさに鬼のように速く、鍵盤の上で動く指が二重にも三重にも分身して動いていた。『アイドルのあなたにこの曲が弾けるかしら?』亜衣の高慢そうな表情からはそんなことも窺えた。亜衣の短い演奏の後、例のアイドルが「エリーゼのために」を弾いたわけだが、これに関しては何も言う必要がなかった。無様だったのである。審査員たちは一人ずつ手持ちの札を上げていった。結果は十一枚全てが亜衣を示す赤色だった。
「静井さん、頑張って!」
「美穂ちゃん、ファイトだよ!」
第三試合が渡部俊彦の勝利で終わり、美穂がコメントを撮り終えた後、背後から西園寺と神野がそう声を掛けてきた。美穂の相手はショパン弾きの女性で、スケルツォか何かを弾いていたが、美穂の耳にはまるで入っていなかった。それだけでなく、美穂の目には渡部の姿も、西園寺と神野の姿も、対戦相手の姿さえも入っていなかった。美穂の目には亜衣だけが映っていた。だが、すでに亜衣の姿はスタジオになかった。亜衣にしてみれば、美穂の初戦など確認するまでもなかったのだろう。亜衣は美穂の勝利を確信していたのだから。対戦相手の演奏がやみ、美穂は浮かぬ顔のままステージに上がった。
ショパンの幻想即興曲――異常なまでの速さだった。美穂の脳裏には「鬼火」が焼きついていた。美穂は小指を直角に立てて鍵盤を鋭く叩き、曲全体にメリハリをつけた。周囲の人々は唖然とするばかりだった。西園寺と神野は苦笑していた。美穂の心中が痛いほどわかったのだ。また、美穂は演奏の間中、一度たりとも鍵盤を見ることがなかった。彼女は最初から最後まで曲を完全に記憶しており、さらには指で鍵盤の位置を正確に把握していた。美穂の表情は何かに憑かれたかのようで、その指は自動的に動き続け、まるで十本の指が脳を持っているかのようだった。美穂の演奏が終わり、審査員たちが順々に札を上げていった。赤四枚、青七枚。美穂の勝ちだった。十一名の審査員のうち、四名が音楽家、四名が音楽関係者、三名が普通の芸能人で、見事に音楽家四名が美穂の対戦相手に札を上げた形となった。それだけ彼らの耳はシビアなのである。この結果に美穂は反省したようだった。
「静井さん、お久し振りですね」
ステージから関係者席へと歩いてゆく途中、美穂は梨恵から声を掛けられた。梨恵は小さな口を尖らせ、つぶらな目で美穂を眺め回した。梨恵は二十二歳という年齢の割に化粧が濃く、特に眉毛は細工しすぎて逆に太くなっていた。髪の毛をクルクルに巻き、体が小さいのに豪華なドレスを着るなど、本人の意図に反して不恰好に見えるばかりだった。何故、梨恵がこのトーナメントに選ばれたのか? その最大の理由は「湘南ピアノコンクールで美穂に負けた」からだった。その彼女が準決勝で亜衣と戦うことに意味があったのだ。美穂は驚いた表情を見せ、梨恵に挨拶をした。
「こんにちは」
「ものすごい幻想即興曲でしたね」梨恵は皮肉たっぷりに言った。「まるで、早く演奏を終わらせようとするかのように弾いていましたね。あんな対戦相手は適当に済ませてしまおうという考えだったんですか?」
「違います。あの、気を悪くしないでください。私、少し疲れているだけですから。はい。準決勝も頑張ってください。亜衣さんとですよね? お互いに速くならないように、気を付けて、それでは……」
美穂は会話の途中で梨恵の前から去っていった。梨恵はこの態度と「速くならないように」という言葉に憤慨したようだった。湘南ピアノコンクールの本選で、実際に梨恵は速く弾きすぎてしまったのだから。当の美穂は何の悪気もなく、さっきからずっとぼんやりしていた。美穂にとって物珍しいテレビ局の内部を歩いている時も、それは変わらなかった。神野はそんな美穂を心配して声を掛けた。
「美穂ちゃん、大丈夫? なんだかおかしいよ。風邪でもひいた?」
「いえ。ただ、少し……」
「ただ、少し?」
「ただ、少し……亜衣さんが……いえ、少し疲れているだけです」
それ以来、美穂は完全に黙ってしまった。彼女の頭の中では、亜衣の冷たい態度、藤木の寂しそうな顔、先程の梨恵の言葉などがごちゃまぜになっていた。美穂はふと出口脇にある鏡を見た。そこには、やけに疲れきった自分の顔が映っていた。
翌日の早朝、美穂は駒沢公園の内周道路をひとりで走っていた。太陽がまだ顔を出しておらず、辺りは薄ら青い空気に染まり、人影は十分間に一人くらいしか見られなかった。美穂は上下ジャージという恰好で、以前より少し長くなった髪の毛を後ろで結び、白い息を吐きながら走っていた。半年前までは同じ道をインラインスケートでよく滑っていたのだが、ここ最近は怪我をする危険性から自分に禁じていたのだった。美穂は途中で脇道に逸れ、階段を上がっていった。
高台の広場からは、太陽が昇ってくるのを見晴らすことができた。太陽は雲を薄紫色に染め、広場全体を眩しく照らしていった。周囲に誰もいないことをいいことに、美穂は広場の中央でゆったりと両腕を伸ばして踊り始めた。片足を上げたり、ターンをしたり、右手を太陽に向けたりと、フィギュアスケートの選手のような動きを見せた。彼女は今、頭の中でインラインスケートを滑っているのだ。次の瞬間、美穂は転んだ。お尻から落ちたため、指は何ともなかった。
その日の午後、美穂は青山にあるアリス・ミュージックのオフィスを訪れていた。通路の壁には金色と銀色のきらびやかなデザインで「静井美穂、待望のCDデビュー」というポスターが何枚も貼ってあった。ピアノの小作品やコンツェルトのライブ録音を収めたCDで、発売日は十一月十一日、あのTVピアノトーナメントの放送翌日だった。CDの録音作業はもちろんすでに終わっており、今は十日後に控えたトーナメントのことで美穂たちの頭はいっぱいになっていた。美穂が三階の会議室へと入っていった時、西園寺と神野もそのことでもちっきりの様子だった。二人は話をやめ、西園寺が美穂にこう言った。
「静井さん。準決勝と決勝で弾く曲だけど、本当にあの曲でいいのね?」
「はい。準決勝はドビュッシーのベルガマスク組曲で、決勝はショパンのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズでいきます」
「いいんじゃないですか?」神野が口を挟んだ。「ドビュッシーとショパンは美穂ちゃんの得意分野ですし、決勝と準決勝は十分間から十五分間の時間が与えられているわけですから。何か問題でもあるんですか?」
「問題はないけれど」西園寺は静かに言った。「準決勝の相手は渡部俊彦よ。彼のブラームスは脅威だわ。ベルガマスク組曲で勝てるかしら?」
「大丈夫ですよ」神野は根拠のない自信を見せた。「前回の演奏で音楽家以外のハートをがっちりと掴んだみたいでしたし、音楽家たちも美穂ちゃんの月の光やパスピエを聴けば納得するでしょうよ」
「まあねえ。静井さんはどう思う?」
「はい」美穂は立ったまま答えた。「準決勝では絶対に負けません。必ず決勝に行きます。亜衣さんにも勝ってみせます」
「ふふ。素晴らしい意気込みだわ」
西園寺は含みのある笑い方をした。彼女は美穂や神野が言ったことだけでなく、自分が言ったことでさえ、まるでどうでもいいような素振りを見せた。西園寺は「練習、頑張ってね」とだけ美穂に告げると、東城に電話をするために会議室を出ていった。神野は「あれで結構、西園寺さんは美穂ちゃんのことを気にしているんだよ」などと美穂に言い、彼自身の結婚式へと話題を移すのだった。
新宿のスター・ミュージックでは、東城が西園寺から連絡を受けた後、こちらも同じく会議室に亜衣と曜子を呼び寄せていた。時刻はすでに午後五時だった。東城が自分の黒い髪をなでながら部屋に入った時、亜衣は椅子に腰掛けたまま不機嫌そうな顔をしており、曜子はその横で立ったまま困惑した顔をしていた。亜衣はアイドルと対戦させられたことが今でも不服なのだ。東城は一枚の紙を亜衣に手渡し、こう言った。
「決勝で静井美穂は華麗なる大ポロネーズを弾くそうだ。橘君、君は準決勝も決勝もリストのままでいいかね?」
「リストのままで……」亜衣は考えこんだ。「いえ、やめます。決勝はリストでなくショパンでいきます」
「ショパンで!」思わず曜子が叫んだ。「亜衣ちゃん、どうしてなの?」
「あら、曜子さん。私、ショパンは得意よ。それに、あの娘がショパンでいくって言うんだから、こっちも合わせた方がいいでしょ? そうねえ、幻想ポロネーズでも弾こうかしら?」
「で、でも」曜子は動揺していた。「やっぱり、リストの方が……」
「いいじゃないか、本間君」東城がにこやかに言った。「決勝はそれでいこう。私は橘君の意見に大賛成だよ。ところで、準決勝はどうするんだい? 三浦梨恵とかいう音大生だが」
「その人、確か」曜子が口を挟んだ。「湘南ピアノコンクールで二位になった人ですよ。静井さんが優勝した時の」
「あら、そうなの?」亜衣が引き取った。「その人は何が得意なの?」
「シューマンよ」曜子は答えた。「湘南ピアノコンクールの本選でもシューマンを弾いたらしいけど、静井さんのトッカータとフーガに負けたとか」
「なら決まりね」亜衣は立ち上がった。「準決勝ではバッハを弾くわ。そうね、何がいいかしら? シャコンヌでも弾きましょうか? あら、いいのよ、曜子さん。ちょっと静かにしてもらえる?」亜衣は唇に指を当てた。「美穂さんはその梨恵って娘にバッハで勝ったんでしょ? だったら、私もバッハでその娘を倒さなきゃ意味がないじゃない。トッカータとフーガは久しく弾いてないからあれだけど、シャコンヌだったら少し前に演奏会で弾いたわ。そんな音大生、蹴散らしてやるわよ」
「素晴らしい意気込みだね。橘君……」
東城は最後にぽつりとそう呟いた。期せずしてアリス・ミュージックでの西園寺の言葉と同じだったが、こちらは心底感激したようだった。亜衣は高笑いをしながら部屋を出てゆき、曜子はその後を追った。東城は亜衣の自信に満ちた様子を見て、自分が考えた「亜衣を復活させる計画」が成功したことを確信した。また、その協力者である西園寺のことを高く評価し、深く感謝までするのだった。ともあれ、美穂と亜衣、それから渡部や梨恵といったピアニストたちの練習の日々が過ぎてゆき、あっという間に十日後の本番当日を迎えた。
十月下旬。都内のスタジオには例のセットが再び組まれ、この日はさらなる演出がほどこされていた。結果発表用のスポットライト、水と水泡を通したチューブ、約百名の若い男女が集められた客席、スペシャルゲストの有名人たちが座る特別席などがあった。撮影は順調に進んでゆき、ピアニストたちの別撮りが終わった後、最初の試合が行われた。司会者は三十代後半の男性だった。彼はマイク越しに言った。
「準決勝の第一試合は三浦梨恵さんVS橘亜衣さんです。三浦梨恵さんは現役音大生。先月の浦安ピアノコンクールでは見事に優勝を果たしています。趣味はケーキ作り。寝る時には犬のぬいぐるみが手放せないそうです。一方、橘亜衣さんは言わずと知れたスーパーピアニスト。国内外での優勝経験は数えきれないほどで、このトーナメントの優勝最有力候補であります。趣味は……ピアノだそうです。当然ですよね。それでは、最初の演奏者は三浦梨恵さんです!」
客席から拍手が鳴り響き、ステージ上に梨恵が現れた。彼女はフリルの付いたレモン色のドレスを着ており、どうやら、お姫様を意識しているようだった。シューマンが得意な梨恵は子供の情景からトロイメライなどを弾いた。穏やかなメロディーが奏でられ、彼女特有のやわらかいタッチが存分に活かされていた。速く弾きすぎることもなかった。審査員たちは朗らかな笑みを浮かべ、誰もが納得した様子だった。梨恵はピアノを弾き終えると、愛嬌たっぷりの笑顔を会場中に振りまいた。彼女は亜衣だけでなく、美穂にも自分の実力を見せつけたかったのだ。
続いて亜衣がステージ上に登場した。この日も亜衣は鴉のようなドレスを着ていた。客席から拍手が鳴り響き、亜衣はシャコンヌを弾き始めた。規則正しく、非常に速く、曲全体に一本の線が通ったような演奏だった。寸分の狂いもなかった。亜衣の表情は極めて無表情で、まるで『美穂さんと同じくバッハであなたを潰してやるわ』とでも主張しているかのようであった。亜衣は終盤の激しい部分も完璧に弾きこなし、演奏を終えた。客席も審査員席も静まり返っていた。戯言を口にしていた司会者も圧倒された様子だった。ステージ上の亜衣は直立し、その顔にスポットライトを当てられていた。氷塊のような表情だった。結果は十対一で亜衣が圧勝した。
「決勝進出の一人目は橘亜衣さんです! 彼女に勝てる人はいるのでしょうか? 準決勝の第二試合は渡部俊彦さんVS静井美穂さんです。渡部俊彦さんは学生コンクールで優勝し、その後も数々のコンクールで入賞を果たしています。彼のブラームスは世界的にも高い評価を得ているとか。見た目は少々オジサンくさいですが、これでも二十六歳なんですよ。一方、静井美穂さんは今年になってデビューしたばかりの超・新人。巷の演奏会では橘亜衣さんと何度か競い合ったことがあるそうで、今回のダークホース的な存在と言えるかもしれません。見た目は可愛らしい感じですが、演奏はダイナミックで力強いとのことです。さあ、まずは渡部俊彦さんの演奏です!」
客席から拍手が鳴り響き、渡部の演奏が始まった。曲はラプソディーなど。渡部は難解な曲を高度に表現していた。表情も豊かで、苦渋の顔や自己陶酔の顔をしてみせ、かなりカメラを意識しているようだった。彼は新人の美穂に負けるなど、これっぽっちも考えていなかった。決勝で有名人の橘亜衣と勝負し、美しく敗れ去る。そんなことまで思い描いていた。審査員たちが思わず嘆息を洩らす中、彼の演奏が終わった。
いよいよ美穂の出番になった。彼女の見た目のせいか、客席からはいっそう大きな拍手が鳴り響いた。この日、美穂はコスモスの髪飾りを付けており、薄紫色の上品なドレスを身に纏っていた。花のピアニストということを強烈にアピールしているようだった。美穂はピアノの前に座り、ベルガマスク組曲を弾き始めた。彼女のピアノは以前にも増して多彩で華やかだった。その場に居合わせた全ての人を魅了し、感動させた。曲はプレリュード、メヌエットと続き、月の光の演奏に入った。夜空から注がれる月の光、その前で揺れ動く一人の女性。聴衆たちにそんな姿を想像させた。続いて美穂はパスピエに入り、不協和音を押さえつけるように弾き、左手のスタッカートを軽快に奏でていった。美穂の演奏は万人の予想をはるかに超えた素晴らしい出来だった。その表情からは何かふっきれたものが窺えた。審査結果は渡部・三票、美穂・八票。前回、酷評を下した四名の音楽家たちは全員が美穂に札を上げていた。
「ついに決勝です! エリートの橘亜衣か、それとも雑草組の静井美穂か。容姿も美人系と可愛い系で対照的です。しかし、二人とも情熱的な目をしていますね。そして、曲は二人ともショパン。審査員長、いかがですか?」一連の振りが終わった後、司会者はこう言った。「それでは、お聴きください。まずは橘亜衣さんの演奏です!」
亜衣の幻想ポロネーズ――最初の和音からして何かが違った。これまでになく、美穂を意識した曲。彼女にとって弾きなれない曲だったが、その卓越した技術の前ではいかなる難曲も無意味に等しかった。何がここまで彼女を評価し、賞を与え続けたのか。それがわかる一瞬が演奏の至る所にちりばめられていた。優美なものは優美なものとして、激情的なものは激情的なものとして、亜衣はストイックなまでに洗練された表現力でピアノを奏でるのだった。絡み合ってゆく音と音。その中から生まれてくる爆発力。彼女の口元がわずかにゆるんでいた。『美穂さん、私はあなたがいる所まで走ってきたのよ。あなたと対決がしたいがために、あなたと同じショパンで戦いたいがために、私はここまで走ってきたのよ……』亜衣は心の中でそう呟き、演奏を終えた。客席からは割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
「頑張りなさいよ」
亜衣はセットの外で美穂とすれ違い、その際にそう言葉を掛けた。美穂は一瞬足を止めたが、そのままステージへと上がっていった。
美穂のアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ――美穂は序奏部分のアンダンテ・スピアナートを軽快に弾きこなし、華麗なる大ポロネーズへと入っていった。明るく澄んだ音、華麗で美しいメロディー。特に高音のトリルは美穂のイメージにぴったりだった。彼女が円を描くように頭を動かし、白い肘を高く上げながらピアノを弾くたびに頭の上のコスモスが大きく揺れた。『私は今、亜衣さんに勝ちたい。もう一度だけ勝ちたい。そうすれば、きっと亜衣さんは私を思い出してくれるはず……』美穂はそう思い、まるで眩しいものを見ているかのような表情をした。次の瞬間、美穂の目が輝いた。それはピアノにも連動し、次々と驚異的な音色を生み出していった。彼女は何か巨大なものを見たようだった。美穂は最後の音を鳴らした。客席からは歓声と拍手がわき上がり、会場中の熱い視線が美穂に集まった。その中心で立ちすくむ美穂の目には涙が浮かんでいるようだった。彼女は今、完全に燃え尽きていた。
ステージ上に美穂と亜衣が並んで立った。決勝戦の結果は亜衣・五票、美穂・六票。スポットライトが美穂にだけ当たり、亜衣の姿は暗闇の中に消えた。
「おめでとう! 静井美穂さん!」
司会者の叫びも、審査員やゲストの言葉も美穂の耳には入っていなかった。彼女はピアノを弾き終えた時と同じ場所に立ち続け、真っ白な表情のまま、「はい」と「いえ」だけを言った。あれだけ勝ちたがっていたのに、今の美穂には勝敗がどうでもよいものに変わっていた。会場中の人々は静井美穂という新しいスターの到来を感じた。そして、約二週間後には日本中の視聴者たちがこの様子を観ることになり、その翌日に発売されるCDはそこそこ売れる。こういったことは、この時点でも目に見えていた。
「すごいよ、美穂ちゃん!」
「よくやったわね、静井さん」
収録後、控え室で神野や西園寺がそう言ったが、美穂はほとんど反応しなかった。司会者から手渡されたトロフィーは部屋の隅に転がっていた。美穂の頭の中には二つの考えがあった。一つは『これは何かがおかしい。私が勝てたはずがない。亜衣さんの演奏は完璧だった』ということ。もう一つは『私がやりたかったことは本当にこんなことだったのだろうか?』ということだった。美穂にしては珍しく考えこんだ表情になり、しばらく周囲の者を寄せつけなかった。
一方、亜衣は眉一つ動かさず、ひとりで夜景を見ていた。そこはビルの屋上だった。亜衣は何を感じていたのか? 口惜しさか、腹立たしさか、仕方ないという諦めか? そのいずれとも異なる不思議な感情が彼女の中で芽生えていた。それは美穂のことを何故か懐かしく思う気持ち、美穂のことを何故か思いやる気持ちだった。『あの娘は私によって才能を開花させた。私も同じかもしれない。でも、私たちはやっぱり違う。違う道を歩んでいく気がする。あの娘のピアノと、私のピアノは根本的に何かが違う。私にとってピアノは自分との闘い。あの娘もそういうものを見つけなければならない……』亜衣は遠くを見つめ、そう考えるのだった。
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