第6話 ソナタ悲愴
さて、亜衣の耳に美穂の名は届いていたのだろうか? ザ・セブンで見かけただけで、意外にも東城や曜子が絶賛したピアニスト、少なくとも亜衣はそう思っていたわけだが、その可愛らしい女性が湘南ピアノコンクールで優勝したという事実は確かに亜衣の耳にも届いていた。
「だから、なんなのよ」亜衣は音楽雑誌をめくりながら呟いた。「まあ、二年間のブランクがあったのに優勝できたってことは褒めてあげるけど、所詮、国内中規模のコンクールで優勝したってだけの話じゃない。そんなこと、私は音大時代に何度も経験したわ。そうよ。あの娘はやっとスタートラインに立てただけなのよ。私がもうゴール付近まで走ってきているという時に。やっと、四五年も遅れて……」
七月上旬の夜、フョードル・シュトラウセンとの共演の直前、控え室の鏡の前に亜衣はひとりで座っていた。メイクや髪型は普段以上に念入りに仕上げられ、まるで彼女の意気込みを表しているかのようだった。その大きな目、細いラインの鼻と唇、青白い肌、ストレートの長い黒髪と、全てが美しく輝いていた。亜衣は音楽雑誌をメイク台の上に放り投げ、すっと立ち上がった。身長は約百六十センチ。鏡には彼女の細い体と、その胸元から足元へストンと落ちた黒いドレスが映っていた。一方、現物の彼女はどこか疲れきった様子だった。控え室には曜子や東城の姿もあったが、誰一人として亜衣に話しかけようとする者はいなかった。バイオリン・コンツェルトでシュトラウセンとの見事な共演を果たしたばかりの越知も同じだった。すでに二ヶ月以上が過ぎていたが、あの「ビンタ事件」がみなの脳裏に焼きついていたからかもしれない。間もなく亜衣を呼ぶ声が掛かり、彼女は控え室を後にした。ステージでは眩しいライトと客席からの大きな拍手、そしてシュトラウセンが彼女を迎え入れた。
「ミス・タチバナ、あなたとの共演を心待ちにしていましたよ」
「サンキュー」亜衣は英語で答えた。「ミスター・シュトラウセン、私もこの共演を楽しみにしていましたわ」
会場中の熱い視線がステージ上の亜衣とシュトラウセンに集まった。聴衆たちは耳の肥えた者ばかりで、オーケストラの楽員たちは超一流の演奏家ばかりだった。何の申し分もない、極めて光栄なステージであった。だが、これが亜衣を言い訳のできない状況へと追いこんでゆくことになる。シュトラウセンの合図とともにオーケストラの演奏が始まった。曲はリストのピアノ・コンツェルト第一番。
シュトラウセンの天才的なまでの指揮、完璧に彼の音楽を再現してゆくオーケストラの演奏、主役であるはずの亜衣も練習どおり忠実にピアノを弾いていった。彼女は練習の時からシュトラウセンに褒められ続けた。うまくいけば、シュトラウセンの海外遠征に同行できるはずだった。今回の演奏にはそれがかかっていた。亜衣は心の中で『シュトラウセンに誘われるのはこの私。越知さんには悪いけど、それに値するのは私しかいないわ』と呟き、細心の注意をもってピアノを弾き続けた。だが、会場全体の雰囲気が何故か次第に重くなっていった。
――どうして? まただわ! あの時と同じ――
すなわち、オーケストラのあちこちから微妙な誤差が生まれ始めたのだ。ただし、今回は誰かが何かを間違えたという訳ではなかった。バイオリンもコントラバスもオーボエも寸分違わぬ演奏をしていた。ところが、何を理由にしてか曲全体において乗り切れない感じがあったのだ。亜衣に始まり、指揮者のシュトラウセン、オーケストラの楽員たち、客席の聴衆たち、舞台裏の関係者たちへと、その奇妙な感触はどんどん広がっていった。曲は第四楽章まで続いたが、亜衣の密かな努力も報われず、この調子が変わることはなかった。
演奏終了後、すっかり意気消沈した亜衣の耳には客席からの拍手の音も、シュトラウセンからのねぎらいの言葉も全く入らなかった。彼女の目には誰の姿も、希望すら見えなくなっていた。『私の中で何かが変わったのね。越知さんの言ったとおりだわ。あの時もコントラバスの娘がミスしたからじゃなくて、私自身に問題があったのよ。そうなのよ。私の中で何かが止まった。ゴールのすぐそばまで全力で走ってきたのに、その寸前で何かが急に止まったのよ……』控え室に戻った亜衣は先程と同じように鏡の前に座ると、両手で頭を抱え、じっと動かなくなった。その様子を心配した曜子が恐る恐る亜衣に声を掛けた。
「亜衣ちゃん、大丈夫? 気分が悪いの?」
「違うの。曜子さん」亜衣は俯いたまま答えた。「お願いだから、ほっておいて……」
「橘さん」越知が近付いてきた。「ちょっといいかな? 僕がこんなことを言うのもなんだけど、弾き手の心情は楽器に乗り移ってゆくものだよ。今のあなたは混乱しているというか、何かを気にしているというか、とにかくすごく無理をしてピアノを弾いているみたいだ。いつもの正確さと鋭敏さが全くと言っていいほど伝わってこなかった。いったい、あなたは何を……」
その時、不意に亜衣が顔を上げた。その表情を見て、周囲にいた誰もが言葉を失った。病的なまでに白い肌が青褪め、まるで死人のような顔をしていたのである。彼女はとことんまで自分を追い詰め、このコンサートに臨んだ。その一方で、彼女としては不本意なテレビ番組やイベントなどに参加した。自分が何をしたいのか、どこへ向かっているのか、亜衣にはわからなくなっていた。国内外のコンクールで優勝し、その技術と才能を広く認められ、メディアへの露出によって人気を勝ち得た。だが、亜衣は死の一歩手前まで苦しみ抜いていた。周囲の人々はそんなことを想像すらしなかった。彼女の高慢な態度も、自信過剰な発言も、全てそのままに受け止めていた。本当の亜衣は心から頼る人がいなくて、ずっと寂しい、孤独な思いをしていたのである。
「東城さん」曜子は亜衣から離れ、東城の元に駆け寄っていった。「亜衣ちゃんの様子がおかしいんです。急に具合が悪くなったみたいで……」
「急に?」東城は真面目な顔で言った。「本間君、君は本当に彼女が急に変わったと思っているのかね? 彼女の身の回りのことは全て君に任せてきたが、それではマネージャー失格だな。私は前から気になっていたんだ」
「前から、ですか?」曜子は動揺していた。「東城さんは亜衣ちゃんの何を見て、そう思っていたんですか?」
「彼女の顔だよ」東城は亜衣に目を向けた。「誰が見ても美しい、そのへんの女優にも決して劣らない彼女の顔だが、時おり不安そうな表情が浮かぶのを私は何度も見てきた。ただ、これほどまでとは……」
「亜衣ちゃんの状態は深刻なんでしょうか?」
「そうだな。何より、それが演奏に響いているということが彼女にとっても我々にとっても大問題だな。だが、打つ手はあるんだ」
「教えてください。東城さん」
「先日、私はあるコンクールで一人の女性を見てきたんだ。彼女は素晴らしい演奏をし、見事に優勝したよ。その演奏を象徴するかのように、見た目が可愛らしく、衣装がカラフルで映えていた。聴衆たちの心を鷲掴みにしたようだったよ。君も知っている女性だ。あの例の『花のピアニスト』、静井美穂だよ。君も噂で聞いているかもしれないが、ここ最近の彼女の活躍は目を見張るばかりだ。今後はさらに活躍してゆくだろう。彼女の背後には西園寺京子がいることだしね」
「それが亜衣ちゃんと何の関係があるんですか?」
「実はね」東城は声をひそめた。「私はこれから西園寺京子とコンタクトをとろうと思っている。前々から、そんな話が向こうから出ていたんだよ。それで、二人を共演させるとまではいかなくても、同じ舞台に立たせようとは考えているんだ。何せ、二人は実に対照的だからね。静と動、いや、黒と白、うむ、月と花といったところか。もちろん、得をするのは向こうの方だ。超一流で人気絶大の橘亜衣と比較されることになるんだからね。だが、これによって橘君が立ち直れる気がするんだ。今の橘君にはこういった刺激が必要なんだよ。私はすでに計画してあったんだ。ただ黙って橘君の急降下を見てきたわけではない。もともと質の高い人材なんだ。ほんのわずかな刺激で復活するはずだよ」
「さすがは世界の東城さん!」
この曜子の無責任な発言に対し、東城は一瞬むっとしたが、その温和そうな眼差しで遠くの亜衣を見守っていた。曜子は亜衣の元に戻り、心配とは裏腹に嬉しそうな表情で亜衣を慰めようとした。当の亜衣は微動だにせず、その場に視線を落とすだけだった。越知は何をすればいいのかわからないようで、無意味に辺りを歩き回り、いつの間にか控え室から消えていた。
結局、シュトラウセンの海外遠征に同行することになったのは越知だった。亜衣には一言も声が掛からなかった。シュトラウセンは亜衣に失望したらしく、『みなが騒ぐほどではない。あれはアイドルだ』と言ったそうだ。これが亜衣にとって良かったのか、それとも悪かったのかは簡単に判断を下せそうにもない。とにかく、いよいよ美穂と亜衣が対決する日が来る。その第一弾とでも呼ぶべきものが七月下旬に予定されていた。
七月中旬。眩しい太陽の下、美穂は新宿の街中を歩いていた。そこはいわゆる繁華街ではなく、駅周辺でもなく、約三ヶ月前に亜衣がラ・カンパネラを弾いたパレス・ガーデンにほど近い、未来的な都市空間であった。平日の昼下がりのため、辺りには人影がまばらにしかなかった。気温も湿度もまだあまり高くなかったが、そろそろ夏本番、学生ならばもうすぐ夏休みを迎える頃である。
「あ! あのビルだ!」
美穂が目指している建物。それは光の加減によって黒にも白にも銀色にも変わる、全面ガラス張りの三十階以上はある巨大なビルだった。このビルの十階から十五階までが亜衣の所属するスター・ミュージックのオフィスである。美穂は入り口を抜け、壁にあるオフィス一覧表を確認すると、エレベーターで十階まで上がっていった。
「美穂ちゃん、時間ぴったりだね!」
十階のエントランス・ホールには、すでに神野と西園寺の姿があった。西園寺はこの日も腰に花柄のスカーフを巻いていた。一方、美穂は花柄の腰巻スカートを穿くなど、少しだけ西園寺を意識しているようだった。以前、美穂は西園寺に『もっと落ち着いた恰好をしなさい』と言われ、何度か普段着に関するアドバイスを受けたことがあった。西園寺は縁なし眼鏡の奥から涼しげな目を覗かせて言った。
「静井さん、今日はだいぶいいじゃない。良かったわ。キャミソールじゃなくて」
「はい。このスカート、西園寺さんをちょっぴり真似したんです」
「あら、そうなの? よく似合っているわよ」
「ありがとうございます!」
照れ笑いする美穂と、淡々としながらも笑顔を浮かべる西園寺。二人は親子とまではいかなくても、歳の離れた姉妹くらいには見えたかもしれない。神野は受付で連絡を済ませ、二人の元に戻ってきた時、そんな二人の様子を見て思わず笑いをこぼした。その彼はというと、女性二人の夏らしい恰好とは異なり、いつもと変わらぬスーツ姿で、ネクタイもシャツも業界人らしからぬほど地味だった。そこへ曜子がやって来た。
「お待たせしました。西園寺さん、お久し振りです。神野さんも、どうも」曜子は美穂に体を向けた。「はじめまして、本間と申します。ご活躍は聞いておりますよ。さあ、みなさん、どうぞこちらに」
曜子に連れられ、三人は長い廊下を歩いていった。美穂はこの廊下の先に亜衣がいると思いこみ、胸を高鳴らせていた。亜衣に会ったら何を話すか、亜衣が自分のことを覚えているかなどと考え、思いもよらず夢が早く実現したため、シンデレラになった気分でいるようだった。三人は部屋の中に通され、一人ずつ席に着いた。曜子は一度部屋を出て、東城だけを連れて戻ってきた。
「西園寺さん」東城は席に着くなり言った。「例の話、そう、静井美穂さんと、うちの橘亜衣、この二人の共演に関する話ですが、我々としてもぜひお願いしたい、というのは、この間の電話で話しましたな。ふん、それで、具体的には七月下旬の定例コンサートに二人を急遽出演させるわけですが、曲はあの、西園寺さんがおっしゃっていた例の曲で構わないと思っているんですが……」
「つまり」西園寺が口を挟んだ。「何をおっしゃりたいんですか?」
「つまり?」東城は額を押さえた。「つまり……そうですな……あの『対決』というのは、どうかと思いましてね」
西園寺は「なるほど、おっしゃりたいことはよくわかります」といった感じで頷いたり両手を合わせたりしてから、こう言った。
「二人の演奏は定例コンサートの序盤に入れこむ形になるわけですが、次回からは独立して演奏会を開くべきでしょう。この二人の共演が多くのファンを獲得してゆくことは間違いないと思います。今回はそのための、いわばCMになるわけです。これでコケてしまったら、本も子もありません。二人が共演するという魅力を最大限に引き出すためにも、対決、つまり聴衆の皆様にどちらが良かったかを投票してもらう必要があります」
「それです!」東城は声を張り上げた。「橘亜衣はいいですよ。結局、勝利するのは彼女の方ですからな。ただ、静井美穂さんの方はねえ」東城は横目で美穂を見た。「せっかく華々しくデビューしたというのに、いきなりイメージを傷付けることになるんじゃないかと思いましてな」
「その心配はありません」西園寺はきっぱりと答えた。「この娘には失うものなんか何もないですから。まして、傷付けられる相手があの橘亜衣さんということであれば、こちらとしても願ったり叶ったりです。それに、万が一ということもありますし」
「いいでしょう!」東城はむきになって言った。「そういうことなら、私も受けて立つ、いや、納得しましょう。本間君、君もそれでいいね?」
「は、はい」曜子は左右を見回してから言った。「私もそれでいいと思います。それは、その、相乗効果というやつですよね?」
この質問が誰に対して発せられたものだったのか、はっきりとしなかったので、答える人がいないままに終わった。唯一、神野だけが「そうそう、そういうことですよ」といった感じで目配せしたため、曜子はすっかり機嫌を損ねたようだった。一方、美穂は大人たちの会話についてゆけず、というより最初からほとんど聞いておらず、ずっと一つのことばかり考えていた。美穂はさっと手を挙げた。
「あの、すみません。亜衣さん、じゃなくて、橘さんはどちらにいらっしゃるんでしょうか?」
大人たち四人はぴたりと動きを止め、急に熱が下がったのか、誰もがふきだしそうになった。美穂は落ち着きなく体を動かし、しきりに髪をいじり、今にも立ち上がりそうだった。それを見た曜子がやわらかい口調でこう言った。
「そうでしたね。ごめんなさい、気が付かなくて。橘なら一つ上の階にあるFスタジオにいるはずです。どうぞ、私がご案内しますから」
「あ、いえ」美穂は立ち上がった。「ひとりで行きます。みなさんはお話を続けていてください。それでは、失礼します」
美穂は部屋を出た。彼女の背後にある部屋では大人たちの笑い声が響いていた。それは決して嘲笑などではなく、思わず楽しい気持ちにさせられた時に自然と出る軽快な笑い声だった。美穂は階段を上がり、Fスタジオへと入っていった。
正確な音が聴こえてきた。間違いなく亜衣の演奏によるものだった。曲はかの有名なベートーヴェンの「月光」第一楽章。沈むように暗く、それでいて感情が溢れ出してくるようなメロディー。美穂は音につられて部屋の奥へと進んでいった。亜衣は黙々と鍵盤を打ち続け、美穂の存在に全く気付いていないようだった。その黒い袖なしのワンピースからは白い腕があらわになっていた。グランドピアノに映る亜衣の顔は無表情で、悲しそうだった。美穂はしばらくその場に立ち止まり、亜衣の演奏に耳を傾けていた。なんと、美穂の幸せそうな顔! ピアノを弾いている亜衣とは正反対だった。美穂は目をつぶり、口元をゆるめ、耳に全神経を集中させていた。ところが、不意に音楽が止んだ。
「誰?」
亜衣は振り返りながら言った。その顔は激しく歪んでいた。だが、美穂の顔を認めると、すぐに表情を戻して言い直した。
「あら、ごめんなさい。また、あの人たちかと思って。ううん、なんでもないわ。あなたには関係のないことよ」
「私こそ、ごめんなさい。演奏の邪魔をしちゃったみたいで……」
「いいのよ、そんなこと」亜衣は立ち上がった。「あなたが静井美穂さんね。こんにちは、橘亜衣です。これが今度弾く曲なのよね? 美穂さんが『悲愴』を、私が『月光』を弾くのでしょう?」
「え、はい。そうみたいです。あの……」
「あら、本当にごめんなさい。いきなり『美穂さん』なんて呼んでしまって。でも、『美穂さん』でいいわよね?」亜衣は無機質な笑顔を浮かべた。「私たち、同じ音大だったのよね? だけど、ほとんど『はじめまして』ですものね? 私のことは『亜衣』でも『亜衣さん』でもいいわ。どうぞ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
美穂はがっかりしていた。亜衣は美穂のことを知っているようだが、それは「最近になって知った」という感じで、決して「あの時」のことを覚えているわけではない様子だったからだ。美穂としては、五年前の学園祭のことを亜衣に覚えておいてもらいたかった。それは何も「勝った」からではなく、共通の思い出として大切にしてほしかったからだ。美穂はパレス・ガーデンのことをはじめ、様々なことを亜衣に話そうと思っていたが、急に頭が空っぽになり、全ての質問がどこかへ行ってしまった。
「美穂さん、何か弾いてくださらない?」
美穂ははっとして、ピアノの前に座った。亜衣は近くの椅子に腰掛け、美穂の横顔を見つめた。亜衣の視線はやさしくもあり、冷たくもあった。美穂はそれに気付いたが、そのままピアノを弾き始めた。
我々の誰もが聴き覚えのある曲が奏でられた。美穂の指はオクターブを越え、鐘のような音を鳴らしていった。ラ・カンパネラ。あの時は亜衣が弾き、美穂が遠くから見ていた。あの時の二人の距離は絶望的なまでに遠かった。だが、今ではほんの数十センチの距離だ。美穂は亜衣ほどではなかったが、最後まで正確に弾いていった。亜衣の顔が少しずつ曇っていったが、彼女が思い出しているのはザ・セブンでのことだけだった。
「素晴らしいわ、美穂さん」
「ありがとうございます。あの……」
二人は立ち上がり、数秒間、無言で向かい合っていた。こうして二人が向かい合って立つと、美穂の方が亜衣よりも少し背が高いことがわかる。また、その体付きも美穂の方が豊かで、凹凸がはっきりしていた。亜衣は努めて親しみのある口調で言った。
「美穂さんのことは、いろんな人から話を聞いているのよ。湘南ピアノコンクールで優勝したんですって? すごいわ。二年間もブランクがあったんでしょう?」
「はい……あの……」美穂は亜衣の目をまともに見ることができなかった。
「私たち同じ音大で、しかも同じ学年だったのよね? もしかしたら、何度か廊下ですれ違っていたかもね」亜衣は肩をすくめた。「私、あの頃から忙しくて、どんな人が周りにいたかとか、誰と仲が良かったかとか、全然、覚えていないのよ。でも、先生のことは覚えているわ。私は上村先生に教わっていたんだけど、美穂さんは?」
「草刈先生です」
「草刈? そんな人、いたっけ? まあ、いいわ。ねえ、それで、美穂さんは誰の曲が好きなの? 得意な曲とか、ある?」
「ショパンとドビュッシーが好きです。得意な曲は……特にありません」
「あ、そう。私はリストとラフマニノフよ。得意な曲はあなたが今弾いたラ・カンパネラね。あと、『月光』もね……」
そう言って亜衣は鍵盤に目を落とした。そして、右手だけで月光のメロディーを途切れ途切れに弾いていった。亜衣の瞼は半分閉じ、長い睫毛の隙間からは今にも涙がこぼれそうだった。その横顔は悲愴と呼ぶに相応しく、美穂の心に『亜衣さんのためにも悲愴を弾こう』という気持ちを芽生えさせた。
「亜衣さん」美穂は力強く言った。「私、亜衣さんのラ・カンパネラを聴いたことがあるんです。三ヶ月くらい前にパレス・ガーデンで。あの時、亜衣さんは黒いドレスを着ていて、それから、すごく素敵な演奏でした!」
「そうだったの」亜衣は手を止め、美穂の顔を見上げた。「四月の下旬だったかしら。確かに私はラ・カンパネラをあそこで弾いたわ。もしかして、それでラ・カンパネラを弾いてくれたの?」
「はい、そうです!」美穂は顔を赤らめた。「私、ずっと亜衣さんに憧れていましたから!」
亜衣の顔が少しゆるんだ。亜衣は美穂の屈託のない笑顔を不思議そうに、それでも愉快そうに見つめていた。その時、美穂の携帯電話が鳴った。神野から「そろそろ帰るよ」というメールが入っていた。美穂は亜衣に視線を戻して言った。
「私、そろそろ戻らなくちゃ。亜衣さん、また今度……」
「そうね」亜衣は機械的に微笑んだ。「また会いましょう。次は十日後、定例コンサートの時ね。悲愴と月光、お互いに頑張りましょう」
「はい。あの、また今度……」
「え?」亜衣はほとんど背を向けていた。「そうね。その次はピアノ・コンツェルトで競い合いたいわね。美穂さんなら、チャイコフスキーかしら? それじゃ、さようなら」
「さようなら……」
亜衣が一方的にしゃべるので、美穂は最後まで「また今度、ゆっくり話しませんか?」という言葉を言い出せなかった。美穂がFスタジオから出ていく時、その背中には亜衣の鋭い視線が注がれていた。一方、何も知らない美穂は幸せそうだった。
十日後、この二人が五年振りの対決をする日が来た。都内のコンサートホールには、客席全体の約七割に当たる千名以上の聴衆が入っていた。彼らは二人の対決を見に来たのではなく、定例コンサートのために足を運んだのである。この人たちは開演直前に『どうやら、橘亜衣と無名のピアニストが対決し、我々は良かった方に投票するようだ』と知った。聴衆たちは最初戸惑っていたが、ステージ上に亜衣が現れた瞬間、歓喜の渦に巻かれた。午後六時、亜衣の演奏が始まった。
亜衣の月光――静かな三連符が延々と奏でられ、オクターブの和音や三連符そのものでメロディーが刻まれる。無表情で、悲しそうな今の亜衣を象徴しているかのような曲だった。亜衣の衣装は黒をベースとしたものだったが、金色の刺繍が所々に入っており、まるで彼女の中で起こった変化を表しているかのようでもあった。曲は第二楽章で明るく転じ、第三楽章では一変して激しくなった。亜衣の演奏はやはり素晴らしく、その姿はこの世のものとは思えないほど美しかった。演奏終了後、客席には拍手が鳴り響き、中には早くも亜衣に一票投じようとする者までいた。だが、ステージ上に美穂が登場したことで、彼らはどうにか思いとどまったようだった。
美穂の悲愴――ずっしりとした出だしの後、軽快な音と重厚感のある音が何度も繰り返される。美穂はその気まぐれな感じをよく表現していた。『亜衣さん、元気を出して』とでも美穂は伝えたかったのだろうか? 聴衆たちは厳しい視線で美穂を見つめていたが、中には彼女の可愛らしい容姿や衣装に目を奪われている者もいるようだった。美穂は草木のようなライトグリーンのドレスを身に纏い、髪には一輪の百合を挿していた。曲は第二楽章へと移り、安らぎのメロディーが奏でられていった。美穂はほとんど目を閉じており、眠っているような、子守唄を口ずさんでいるような顔をしていた。彼女は思い出していたのだ。この曲を小学生の頃に弾き、先生や家族から褒められたことを。美穂には余裕があった。もはや緊張をしなくなっていた。彼女は今、嬉しくてしかたがないのだ。憧れの亜衣と同じ舞台に立つことができて。美穂は第三楽章も軽快に弾きこなし、演奏を終えた。お辞儀をする美穂の頭からは今にも百合の花が落ちそうだった。聴衆たちは拍手をしながら、次のように囁き合っていた。
「ねえ。今の人、誰なの?」
「静井美穂さんっていうらしいよ」
「橘亜衣はさすがという感じだったけど、静井美穂という人もなかなかのものだったね」
「今後の二人の対決が楽しみね」
「次回もあるらしいよ。ぜひ行こうよ」
「まあまあ、とりあえずは今回の投票だよ。どっちに入れようかな? どっちも良かったけど、やっぱり橘亜衣の方が格上だったかな?」
そして、投票結果。亜衣・七百八十八票、美穂・二百九十四票。亜衣の圧勝だった。定例コンサートの演奏が終わった後、ロビーの片隅に一枚の小さな紙が貼り出され、その結果と次回の予告が記されていた。帰路に着く聴衆たちは足早に会場を後にし、その紙の前で足を止めたのはごく一部の人々だけだった。だが、聴衆のほとんど全ての人が投票に応じたことから、この二人の対決がいかに注目されているかがわかった。人々が通り過ぎる中、美穂は立ち止まり、その小さな紙にじっと目を留めていた。『五百票くらい差がついた。私と亜衣さんとでは、こんなに差が開いているんだ……』約十分間、美穂は同じ体勢のままだった。その間に聴衆たちから「良かったよ」「また聴きに行くからね」と言われても、少しも応じる素振りを見せなかった。そこに神野がやって来た。
「美穂ちゃん、惜しかったね」
「はい。いえ、完敗です」
「ま、仕方ないよ。相手が相手だし」
「仕方なくないです!」
美穂が語気を荒げたのに対し、神野はきょとんとした。彼は『あの美穂ちゃんが口惜しがっているのか?』と思い、その後は黙って突っ立っていた。西園寺と東城、さらに亜衣と曜子が掲示板の前に集まってきた。西園寺と東城は次回の打ち合わせをしているようだった。曜子は神野と視線が合うなり、そっぽを向いた。亜衣は一直線に美穂の前に立ち、穏やかな口調でこう言った。
「美穂さんの演奏、素晴らしかったわ。お客さんたちにも受けていたみたいじゃない。三百票くらい入ったんでしょう?」
「はい」美穂は俯いていた。「でも、亜衣さんには歯が立ちませんでした……」
「そうね」亜衣は微笑んだ。「きっと、今回はお客さんが悪かったのよ。あの人たちは定例コンサートを聴きに来ていたわけだし、普段から有名な人の演奏しか聴いていないだろうから。無名の美穂さんには分が悪かったのよ」
「そうなんですか?」美穂は顔を上げた。「私、てっきり自分の演奏が全然駄目だったからだと思っていて。そっか。もしも、お客さんが違ったら、私にも勝てるチャンスがあるかもしれないんだ」
「え?」亜衣は真顔になった。「そ、そうね。きっと、次回からは私たちの対決を目当てにお客さんが集まるだろうし、それに日を追うごとに美穂さんのファンも増えるはずだわ。お客さんの心変わりなんて早いものだから」
「良かった! 私、嬉しいです! 亜衣さんと同じ舞台に立てるだけでなく、対決することもできて、しかも勝つチャンスがあるなんて!」
「そ、そうね。まあ、頑張ってね。さようなら、私、急ぐから」
亜衣は非常な早足でその場から去っていった。曜子は亜衣に追いつこうと必死だった。時刻はすでに九時を回り、ロビーには人影がほとんどなかった。清掃員が掃除を始め、楽器を持った音楽家たちが続々と帰っていった。東城は周囲の状況に目もくれず、西園寺と話を続けた。
「ふん、なるほど。ということは、次は渋谷のあのホールですか。確かに、あそこなら客席も五百程度ですし、周辺の若者と今回のお客さんに声を掛ければ、なんとでもなりそうですな」
「ええ。そのためにも投票用紙に連絡先を書いてもらったんですから。当日、渋谷で配るチラシもこちらで準備しておきますので」
「それは結構! さすがは西園寺さんだ。実に用意周到ですな。次回の企画はアイデアに満ち溢れていますし。その、『二人の絵』でしたかな?」
「そうです」西園寺は目を逸らした。「あら、橘さんと本間さんが帰っていきますよ。大丈夫ですか?」
「おや、これは失礼!」
東城は不恰好に走っていった。亜衣と曜子はすでに外に出ていた。西園寺はその様子を眺めながら嘲るように笑った。神野が彼女の耳元で「美穂ちゃん、相当口惜しがっているみたいですよ」と囁いたが、西園寺は逆の印象を持った。『口惜しがっている? むしろ、嬉しそうじゃない』西園寺は不審に思い、美穂に声を掛けた。
「静井さん、何をそんなにニコニコしているの? あなたは負けたのよ? 敗者がそんな顔をしていちゃ駄目じゃない」
「すみません」美穂は真面目な表情に戻った。「でも、私、勝てそうなんです。次は……いえ、もう少し後になるかもしれませんけど」
「あら、すごい自信ね。何か根拠でもあるの?」
「はい。私、あの人に一度だけ勝ったことがあるんです」
西園寺と神野は黙りこんだ。二人は美穂のこの「一度だけ勝ったことがある」という言葉にも興味を持ったが、それ以上に彼女の自信に満ち溢れた表情に心を奪われていた。美穂の顔は頼もしかった。その頬は赤く染まり、黒目がちの目はずっと先を見据え、ぽってりした唇は固く結ばれていた。美穂の目には何が映っていたのだろうか? 二人の今後の対決か、それとも誰も思いつかないほど先のことだろうか? 美穂は矢庭に歩きだし、西園寺と神野は慌ててそれに続いた。
その頃、亜衣は車に乗ってテレビ局を目指していた。これからミッドナイト・ミュージックの収録があるのだ。運転席に東城が座り、後部座席に亜衣と曜子が並んで座る形だった。亜衣の美しい顔が車の窓ガラスに映り、その瞳は夜の繁華街へと向けられていた。彼女が今、考えていること。『静井美穂。彼女のピアノは完璧だった。あのタッチ、あの表現力。私と彼女の差は五百票もなかったわ。馬鹿な客たちが私の名前に投票しただけ。五分五分とまではいかなくても、彼女の言うとおり、客の層が変われば何が起こるかわからない。彼女、恐ろしいわ。わざと、あんなことを言ったのかしら? 私に勝てるチャンスがあるだなんて……』亜衣はついさっき東城から聞いた「二人の絵」やその他のことを思い出し、外を向いたまま曜子に言った。
「曜子さん。私、テレビの仕事を控えるわ。ううん。ぴたりとやめるわけじゃないの。とりあえず、今の半分にしてもらえない?」
「今の半分?」
「そう。月一回くらいで。だって、ほら、これからはあの娘との対決で忙しくなるんでしょう? そのための練習もしなくちゃならないし」
「でも、いくらなんでも、半分は……」
「いいじゃないか、本間君」運転中の東城が口を挟んだ。「この対決には橘君が集中するだけの価値があるよ。西園寺さんの企画力は相当のものだからね。それに、あの静井美穂という娘の魅力も本物じゃないか」
曜子は不満そうに手帳を開き、スケジュールをチェックし始めた。その横にいる亜衣の表情は晴れやかなものだった。目が活き活きとし、口角が高く上がっていた。こうして二人の臨戦態勢が整ったわけだが、亜衣はまだ「五年前のラ・カンパネラ」を思い出していなかった。美穂はこの時のことを思い出し、『勝てるかもしれない』と言ったのに……。
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