第5話 トッカータとフーガ

 運命的な対立――荒々しい波しぶきが上がる岩場で、美穂と亜衣が向かい合って立っている。二人の間には荒涼とした海原が広がっている。その距離は約十メートル。曇天の空、吹きすさぶ潮風、波と風の轟音。それらをバックに二人は対峙しているのだ。美穂の可愛らしい顔が力強く変わり、決意に燃えた表情になっている。亜衣の美しい顔は厳しく、同じように決意に燃えている。「あなただけには負けたくない」という決意。それ以外の何物をも受け付けないという気迫。

 美穂はそんなことを想像しながら青山通りを歩いていた。平日の午後二時で、お昼休みが終わったせいか、街中に人の姿はあまり見当たらなかった。彼女は色褪せた青のジージャンに白いロングスカートという恰好で、腰にはゴツい鰐皮のベルトを締めていた。美穂は手を突っこんでいたポケットから一枚の名刺を取り出し、オフィスビルの反射光にかざした。つい先日、美穂はザ・セブンで西園寺と神野に声を掛けられ、数分間の立ち話をした後、『気が向いたら、ここに来るように』と言われていた。美穂は前日に連絡を入れ、今日はこうしてアリス・ミュージックのオフィスへと向かっているところだった。五月下旬、亜衣のスペシャル・セレブリティ・オーケストラから一週間以上が過ぎていた。

 アリス・ミュージックは大通りを少し外れた所、なだらかな下り坂の途中にあった。コンクリート打ちっ放しの壁に一階から五階まで円形の小窓が並んでおり、入り口にはあの物語のアリス少女をあしらった銅像が置かれていた。美穂は軽くジャンプをして、自動ドアを抜けた。ロビーでは、シューベルトの「軍隊行進曲」が流れていた。そのせいか、美穂の目には警備員たちが兵隊さんのようにも映るのだった。美穂は受付で用件を告げ、電話口から「三階まで来るように」と指示された後、エレベーターに乗って三階まで上がっていった。その途中途中では、首から社員証をぶらさげた業界人っぽい人々や、アーティストらしき奇抜な恰好をした女性など、美穂にとって物珍しい光景を見ることができた。特に三階のホールに置いてあったクリスタルのグランドピアノには目を奪われ、十数秒間、思わず立ち止まってしまったほどだった。美穂は慌てて歩きだし、数ある応接室の中の一つへと入っていった。

「失礼します! あ、こんにちは!」

「やあ、よく来たね!」

 美穂の目にはまず神野の姿が映った。彼は人の良さそうな顔をしており、髪型も服装もいたって平凡な感じだった。おそらく、彼には何度か会わないと顔を覚えることができないだろう。年齢は二十八歳で、年内に結婚する予定だった。彼の奥に座っている西園寺は四十二歳で既婚、中学生と小学生の息子がいた。家庭と仕事の両立に頭を悩ませていたが、売れないバックミュージシャンの夫に助けられていた。彼女の外見はぱっと見ただけでセンスの良いことがわかり、年齢に比して若々しく、化粧も髪型も服装も落ち着いているのに華やかな印象だった。特に彼女が腰に巻いている花柄のスカーフが美穂の関心を惹いた。西園寺は美穂に座るよう促し、自分は頬杖をついたまま言った。

「いろいろと話したいことがあるんだけど、まずこれだけは言っておくわ。私はあなたのピアノに興味を持っている。それから、あなた自身にも。あなたが音大を卒業した後、約二年間、ほとんどピアノを弾いていなかったことはザ・セブンで聞かせてもらったけど、何も私はあなたの過去に興味があるわけじゃないの。私はあなたの将来性に賭けているわ。どう? 私たちと一緒にやってみない?」

「西園寺さん」神野が口を挟んだ。「話が急すぎますよ。ほら、彼女も困っているじゃないですか」

「いいのよ。こういうことは何よりスピードが肝心なんだから」西園寺は美穂に目を戻した。「静井さん。あなたも知っているかもしれないけど、ここにいる神野君が何度もあの店を訪れて、あなたのピアノを聴いていたのよ。私も三度、あなたのピアノを聴きに行ったわ。それでもう、私としては充分なの。あなたに対しては誰よりも自信を持っているつもりだわ」

 美穂はようやく息継ぎができたかのように答えた。

「はい、ええ、はい。ありがとうございます。私は、ぜひやりたいです。ずっと前から……特にここ最近は、もっと大勢の人たちの前でピアノを弾きたいと思っていました。でも、私、何をやればいいのかわからなくて……」

「それなら契約成立ね」西園寺はやっと顔をやわらげた。「あなたがこれから何をすればいいのかは、ちゃんと私たちで考えてあるわ。この数週間はあなたのことばかり考えていたと言ってもいいくらいよ。大丈夫。あなたには素晴らしいピアノの技術と感性があるんだし、それに加えて……まあ、そうね、ドラマ性があるとでもいったところかしら。それは後々わかっていくことだから、とりあえずは私たちと一緒に地道な活動をしていきましょう。そんなに急に忙しくなることなんてないから平気よ」

「はい……頑張ります!」

 神野は二人のやりとりを楽しそうに眺めていたが、西園寺に目を向けられると、さっと立ち上がって何かのパンフレットをとってきた。西園寺は神野からそれを受け取り、美穂の前で広げると、こう説明した。

「いろいろ手続きがあるんだけど、そういうのは全部後回しね。まずはこれを見てちょうだい。『湘南ピアノコンクール』とあるわね。知っているかしら? さほど有名でもないんだけど。それでもスポンサーがちゃんと付いているし、優勝者は新聞や雑誌で紹介されることになっているわ。何より、これでハクがつくわよね。音楽関係者の耳にも入るだろうし……」

「あの、これがどうかしたんですか?」

「あなたに出てもらいたいのよ」西園寺はすかさず答えた。「二年間のブランクがあるからとか、最近は本格的に練習していなかったからとか、そういう言い訳はなしね。それに、このコンクールはそこまで堅苦しいものでもないから。審査員には協賛企業の重役が入っているくらいなのよ。私が思うに、あなたなら優勝できるわ。もちろん、これから一ヶ月間は猛練習してもらうことになるだろうけど」

「一ヶ月後に予選があるんですね?」

「いいえ。予選は二週間後よ。本選が一ヶ月後。かなりタイトなスケジュールなんだけど、あなたなら何とかなるわ、きっと」

 美穂は思わず考えこんでしまった。二週間後に予選、さらに二週間後に本選、その間にも予選が一度入っている。つまり、約一ヶ月間で三回の演奏を行わなければならないのだ。余興やアルバイトでピアノを弾くのとは訳が違う。いくら堅苦しくないといっても、コンクールである以上、かなり本格的に弾きこまなくてはならない。自宅にある電子ピアノと、このオフィスにあるグランドピアノの両方を使うことになるため、自宅とオフィスを頻繁に往復する必要が出てくるだろう。グランドピアノで弾きこまないと感覚が掴めないからだ。ザ・セブンでも空き時間に使わせてもらえるかもしれない。とにかく、並々ならぬ練習をしなければならないのだ。美穂はパンフレットを注意深く読み始めた。一回の審査ごとに課題曲と自由曲を一曲ずつ弾いていく形式である。課題曲は曲が決められ、自由曲は指定された作曲家の中から好きな曲を選択する。自由曲はなんとかなるにしても、課題曲の方は……中には美穂が一度も弾いたことのない曲まで交じっていた。

「あの……」美穂は顔を上げて言った。「エントリーとかは大丈夫なんでしょうか? 普通、このタイミングでは間に合わないような気がするんですけど……」

「そんなことは心配いらないわ。特別に私から主催者に頼んで、あなたを紹介させてもらったから。そう、実はもうエントリーしてあるのよ。ごめんなさいね」

 しばらく美穂は固まっていた。彼女はどこか彼方を見ているようだった。西園寺と神野は心配そうに美穂のことを見つめていたが、次の瞬間には安堵の表情に変わった。美穂が決意に燃えた目でしっかりとこう答えたからだ。

「西園寺さん、神野さん。私、やります。絶対に、優勝してみせます」

「そう。ありがとう。嬉しいわ」西園寺は初めて微笑んだ。「はい。これ、楽譜ね。課題曲の三つと、それから自由曲も候補になりそうなものをいくつか用意しておいたから」

「ありがとうございます。頑張って練習します」

 とにかく、これで美穂はまた大きく前進したのだ。彼女の本格的なデビューが決まったわけだから。美穂が最初にやるべきこと、亜衣に一歩でも近付くためにやるべきことが見つかったのだから。ザ・セブンでピアノをいくら弾いていても、亜衣に近付くことはできない。二人の間にはいつまでも「荒涼とした海原」が広がっている。だが、西園寺と神野の二人とともに音楽の道を歩いてゆけば、いつか必ず亜衣に辿り着くことができる。亜衣との邂逅、亜衣との対決。美穂はこのことに心を燃やしていた。

 その後、西園寺と神野から細かい話があった。アリス・ミュージックとの契約や、コンクール後にどういう活動をしていくかなど。ザ・セブンはともかく、カナリアはいずれ辞めることになりそうだった。美穂はカナリアに対して未練があったが、今は自分を信じるしかなかった。千里も友紀も彼女を応援してくれるだろう。ただ、当面は小さな演奏会に出演することがメインになるようだった。美穂は西園寺が時おり口にする「ドラマ性」という言葉に引っかかっていた。西園寺はどんなドラマ性を美穂に期待しているのだろうか? 美穂は一通り話を終えると、神野ひとりに連れられ、応接室を出ていった。今日はもう帰れるようだった。エレベーターに乗りこみ、下の階へと降りてゆく途中、神野は美穂にこう言った。

「実はね、静井さん。これは言うか言わないか迷っていたんだけど、まあ、僕は君のマネージャーになるわけだから隠し事はしたくないという意味で言うんだけど、ザ・セブンに橘亜衣が来たことがあったんだよ。君がピアノを弾いている時に」

「え? 本当ですか?」

「うん。いつだったかな? 三週間くらい前かな? 彼女はマネージャーの本間さんと、プロデューサーの東城さんと一緒に店に来ていたよ。この目で確かに見たからね。なんだろう……よくわからなかったけど、橘亜衣は君に興味を持っていたようだったよ。というより、動揺していたのかな?」

 亜衣が自分のピアノを聴いていた! 美穂はこの事実に驚愕したが、それよりも嬉しさの方が大きかった。『亜衣さんは私のピアノを聴いて、どう思ったのだろう?』と美穂は考えていた。神野と美穂は一階のロビーで立ち止まり、さらに話をした。神野はこんなことを言った。

「静井さんは橘亜衣と同じ音大の出身だそうだね。学年も同じだったみたいだし、二人の間には面識があったの?」

「いえ……いえ、一度だけ話したことがあるくらいです」

 美穂は学園祭のコンクールのことを何故か黙っていた。彼女としては、あの思い出を他の誰にも邪魔されたくなかったのだ。神野は美穂が何か隠しているようだと直感したが、それ以上は突っこむのをやめてこう言った。

「静井さんは彼女のこと、どう思う?」

「素晴らしい人だと思います。私の手にはとても届かないような。でも、正直に言うと、私はあの人のことをずっと意識してきました。音大の時も、音大を卒業してからも。あの人は私にはできなかったことを何でもやってのけています。第一線で活躍して、素敵な衣装を着て、最高のパフォーマンスをしています。あの人のピアノには、あの人のピアノには……」

「そうか。うん。もういいよ」神野はやさしく言った。「今の言葉で君の気持ちがわかった気がするよ。君は橘亜衣をライバル視しているんだ。それはたぶん尊敬や憧れの気持ちよりも大きいよ。今まではただの妄想でしかなかったのかもしれない。だけど、これからは本当の意味で彼女とライバルになるかもしれないよ」

「いくらなんでも、私と彼女では立場も経歴も違いすぎます」

「そんなことは関係ないよ。西園寺さんも言っていたけど、過去は関係ないんだ。関係がないと言うより、興味がないと言った方が正しいのかな? それに、何も君は国際コンクールで彼女とライバルになるわけじゃないんだし……いや、つまり、その……まあ、また改めて話をしよう。まずは、湘南ピアノコンクールだからね。この件に関しては何でも相談してね。僕からも連絡するけど」

「はい。ありがとうございます」

 美穂は神野と別れ、アリス・ミュージックの建物を出ていった。美穂の足取りは決して軽くなかった。むしろ一歩一歩が重たそうだった。美穂の目には青山通りの都会的な街並ではなく、あの「彼方」が見えていた。それは亜衣へと続く道、荒涼とした海原の上に延びた一本の細い道の先にあった。そこでは美穂と亜衣がしのぎを削り、ピアノの技術と感性を競い合わせている。それが以前から彼女が見続けたものだった。美穂はほとんど夢遊病患者のように道を歩き、電車に乗って家へと帰っていった。自宅に戻った美穂は早速練習を開始した。


 こうして一週間が過ぎていった。美穂はたったの五日間で予選の一次と二次の四曲を弾きこなし、すでに西園寺と神野の前で披露していた。これには二人も驚き、『この調子で本選の二曲もいける』などと言ったのだが、それこそが問題だった。美穂は本選で弾く二曲で躓いていた。自由曲は未だに何を弾くか決まらず、課題曲は文字通り弾きこなすことができずにいた。もちろん、予選を通過しなければ本選も何もないのだが、期間が短いこともあって、今のうちから本選で弾く曲を練習しておかなければならなかった。

 美穂は今、自宅の電子ピアノの前に座っていた。時刻は午後六時。外は雨が降り、時おり雷が轟き、カーテンの隙間から洩れる閃光が美穂の顔を照らし出した。美穂は時間が止まったかのように身動き一つしなかった。『この部分がどうしてもうまく弾けない……』美穂は壁にぶつかっていた。本選の課題曲であるラヴェルの「道化師の朝の歌」。複雑な和音が連鎖する箇所において、美穂はリズム感というか構成感を掴めないでいた。背筋をまっすぐにしてみたり、肘を直角にしてみたり、手の甲を水平に保ってみたり、美穂は安定して速く弾くコツをいくつも試してみたが駄目だった。

「う、まただ……」

 美穂は楽譜を睨みつけた。白い紙に五本の線がいくつも並び、その至る所に黒い点々や記号が散らばっている、この楽譜というやつ。美穂は瞬時に黒い点々の分散を一つの絵として掴むことができた。そのイマジネーションを十本の指へと伝達し、リズムも強弱も的確に表現し、さらには足元にあるペダルを小刻みに踏むこともできた。どんなに難しい曲でも大抵はいきなり両手で弾くことができた。何度か弾いているうちに楽譜を見ずとも頭の中で再現でき、指を「自動的に」動かすこともできた。彼女は何より初見や暗譜という能力において秀でていた。だからこそ、先の四曲を五日間で弾きこなすという離れ業ができたわけだが、この「道化師」に関しては話が別だった。美穂は何度も何度も、百度くらい同じ箇所を連続で弾いて、それでも納得がいかなかったのか、ついに両手を放り出してしまった。

「指が動かない。イマジネーションがわかない。どうしてだろう? 小指から人差し指、人差し指から薬指……あ、もう夜だ!」

 あっという間に何時間も経っていた。美穂は慌てて風呂に入り、風呂の中でも頬を膨らませていろいろ考え、風呂を出てからも指を動かし続けた。食パンを焼きもせず、バターやジャムを塗りもせず、そのまま口にくわえて咀嚼した。ほとんど習慣になっていたテレビも、ここ数日間は一度も点けたことがなかった。カナリアもザ・セブンもコンクールのために犠牲となり、丸一ヶ月間も休むことになっていた。美穂は歯を磨き、寝る前のお手入れをし終えると、さっさとソファベッドの布団の中に入った。電気を消し、目をつぶり、雨音を聞きながら彼女は何か瞑想するように呟いていた。

「今日はもう駄目だ。明日だ。明日になれば、きっと、なんとかなる。あの人なら、草刈先生なら、きっと……」

 次の日の朝、といっても午前九時を回っていたが、美穂は急いで支度をして家を出ていった。雨はとうに止んでいた。美穂はまず最寄りの駅まで歩いてゆき、その後、何本か電車を乗り継いで一つの駅で降りた。一時間近く電車に乗り、辿り着いたのは多摩地区のある鄙びた街だった。そこから美穂はさらにバスに乗り、窓の外の田園風景に目を遣りながら十五分ほど揺られていった。バスの扉が開き、美穂が降り立ったのは楠葉音楽大学の正門前だった。遠くに白い校舎が見え、牧場のような緑の芝生の中に一本の蛇行した道が延びている。ここは美穂が一二年生の時に通っていたキャンパスである。一昨日、美穂はある人に電話を入れ、今日の午前十時半から会う約束をしていた。

 かつては何度通り過ぎたか知れない正門の間を抜けてゆき、美穂はゆるやかな上り坂を歩いていった。この日は平日だったので、学生の姿が多かった。それぞれに楽器を抱え、楽しそうにおしゃべりをしていた。その大半は女性だった。彼女たちはまだあどけなさが残る顔立ちをしており、中には美穂のように地方から出てきたのではないかと思われる少々野暮ったい娘もいた。美穂はそんな「かつての自分」を見て、懐かしそうに、そしてどこか寂しそうに微笑むのだった。

高く聳える塔の頂には鐘があり、その横の聖堂のようなホールには亜衣と戦った思い出がある。そして、今まさに美穂が目の前に立っている白い校舎には数えきれないくらいの授業とレッスンを受けた記憶が詰まっている。美穂は開きっ放しになったガラス扉の間を抜けてゆき、五階まで階段で上がった。廊下の両側にはたくさんの小部屋があり、中からはピアノやバイオリンの音色が聞こえてきた。美穂はその中の一室へと入っていった。

「草刈先生!」

「美穂さん!」

 二人は互いに駆け寄ると、感極まったかのように抱き合った。

「久し振りね、美穂さん!」

「はい。お久し振りです!」

 草刈道代は美穂が一二年生の時の担当で、穏やかな性格と尊敬すべき技術の持ち主であり、美穂にとっては四年間の音大時代の中で最も記憶に残っている先生であった。二人が会うのは美穂が音大を卒業して以来なので、実に二年以上振りになるわけだが、それでも再会した瞬間に心が打ち解け合ったような様子だった。年齢は五十五歳、やわらかな眼差しとパーマで膨れ上がった髪が印象的で、当時から古臭いモノトーンの衣服を好んで着ていた。時には「魔女先生」と呼ばれたこともあったが、心の方は魔女と正反対だった。彼女はいつも美穂を励まし、なおかつ美穂の才能を認めていた数少ない一人でもあったのだ。草刈先生は美穂を体から引き離すと、非常な早口でこう言った。

「ラヴェルの『道化師』ね。いいでしょう。早速、聴かせなさい」

「はい!」

 美穂はグランドピアノの前に座り、楽譜を譜面台の上に広げると、顔を豹変させて鍵盤を打ち鳴らし始めた。だが、問題の箇所になると途端に表情が元に戻り、またもや例の行ったり来たりを繰り返すのだった。草刈先生は背後から激しく手を叩き、「満足がいかなくても最後まで弾いてみる!」と催促した。美穂は腰をよじったり、腕を引っくり返したりと、体が変形しそうになりながらピアノを弾き続けた。「アン、ドゥ、トワレ!」と草刈先生はバレエか何かの真似をして手を叩き続けた。要はリズムをとっているのである。美穂は問題の箇所をこれまでのどの時よりも上手に弾いていった。美穂は何かを掴みかけているようだった。その表情は次第に自信に満ち溢れてきた。

「手首を上げて!」

「はい!」

「もっと流れるように!」

「はい!」

「しなやかに、そう、そのタッチよ!」

 草刈先生もまたピアノとなると別人格を持つタイプの人であった。髪を振り乱しながら手を叩いては大声を上げる魔女のような熟年の女性と、同じく髪を振り乱しながら顔を真っ赤にしてピアノを弾く若い女性。傍から見れば奇怪極まりなかった。ただ、そのピアノは素晴らしかった。美穂のピアノは自宅に籠って電子ピアノで弾いていた時とは比べものにならないくらい上達しており、弾き手のオーラがひしひしと伝わってくるような感じがあった。たまたま教室の前を通りかかった音大生たちが思わず足を止め、扉の向こう側から美穂のことを見守り始めていた。いったい美穂のピアノの何が素晴らしかったのか? 技術か? 感性か? その両方が素晴らしいのは間違いなかったが、その中でも特にタッチが並外れて良かった。

 タッチ。指と鍵盤が触れ合う感覚。この良し悪しによって、ピアノの音が驚くほど変わる。雰囲気だけでなく、むしろ機械的に、同じ「ド」や「レ」がはっきりと異なった音を出す。全く同じ曲でも弾く人によって全く違って聞こえるのは、その正確さや構成力のみならず、タッチという音そのものを変化させる能力にもあるのだ。まさに弾き手の情念を音によって具現化する能力と言える。手の平の形によるものなのか、指の入射角によるものなのか、あるいは究極のタイミング、究極の力加減、それともその全てが融和したものなのか、とにかく複雑で説明しきれない原理があるようだ。そして、この能力こそがピアニストと素人を、さらには第一級のピアニストとそれ以下を分けるものであり、天分によるところが大きいため、「自分には才能がない」と諦めてしまう人の言い訳ともなっていた。美穂のタッチはやわらかくもあれば硬くもあり、やさしくもあれば力強くもあり、軽快でもあれば重厚でもあった。つまり、多彩だった。数々の美しい花が咲き乱れ、散りゆくかのように多彩であった。

「あの人、誰?」

「さあ? でも、すごいピアノだね」

「うん。あんな華やかなピアノ、今までに聴いたことがないよ」

「華やかだけど、純粋な感じもしない?」

「そうだね。見た目もそんな感じだね」

「すごい……きっと有名な人なんだよ」

 教室の外では先程の学生たちがそう呟き合っていた。華やかだけど、純粋。当の本人は例の恍惚とした表情で、今や「道化師」を完璧に弾きこなすまでになっていた。この短時間で! 美穂の背後にいる草刈先生はすでに手を叩くのをやめ、腕を組んで黙りこんでいた。そうして静かな時間が流れてゆき、お昼が近くなった頃、草刈先生は美穂がピアノを弾き終えるのと同時にこう言った。

「美穂さん、そろそろやめにしましょう。先生、疲れたわ」草刈先生はむしろ元気が良くなっていた。「お昼をごちそうするわ。おいしいサンドイッチを買ってあるの。たくさんあるから一緒に食べましょう。あっちで」

「はい。あ、あそこのテラスですね」

「懐かしいでしょう?」草刈先生は大きな紙袋を持ってきた。「これ、あっちに持っていってね。私はお紅茶を入れてくるから」

「はい! ありがとうございます!」

 美穂は教室からテラスへと出た。雲間から青空が覗き、外は心地良い暖かさになっていた。美穂はテーブルの上に紙袋を置くと、テラスの端まで走っていった。十坪ほどのテラスには大小様々な植木鉢が並び、紫陽花などが咲き乱れ、その花びらには昨夜の雨粒が残っていた。美穂はテラスを囲む柵から身を乗り出した。塔の頂上の鐘は相変わらず遠くにあったが、今は目線が近くなっていた。美穂は鐘に何を見ていたのだろうか? 亜衣との思い出だろうか? それとも、亜衣とのこれからだろうか? やがて、鐘が鳴った。ラ・カンパネラ――鳴り響く鐘の音は静かに、時に激しく美穂の心を揺り動かす。美穂は四月下旬の、今から一ヶ月以上前の、パレス・ガーデンでの亜衣の演奏を思い出していたのだ。鐘が鳴り止むと、美穂は柵から両手を放し、テーブルへと戻っていった。

「お待たせ。美穂さん、いただきましょう」

「はい。いただきます!」

 サンドイッチを頬張りながら、二人は昔話を懐かしそうに語り合った。美穂が入学して間もない頃の話、大事な試験を控えて無我夢中でレッスンをした時の話、特に美穂が二年生の時に「惜しくも」予選敗退した学生コンクールのことは共通の大きな思い出だった。草刈先生は熱をこめ、当時の二人の会話をひとりで再現してみせ、眉をひそめたり口を尖らせたりした。その後、美穂はザ・セブンのことやアリス・ミュージックのことを事細かに話して聞かせた。湘南ピアノコンクールの本選で弾く自由曲がまだ決まっていないことも告白した。

「そうねえ、何がいいかしら?」草刈先生は空を見上げた。「美穂さんならショパンかドビュッシーがいいのだろうけど……」

「本選では別の人の曲が弾きたいです」

「もう、わがままねえ。それとも、これを貪欲と言うのかしら? それなら、あの曲はどう? あの曲よ!」

「え? どの曲ですか?」

「バッハのトッカータとフーガよ! 美穂さんが学生コンクールで弾いたトッカータとフーガでリベンジするのよ!」

「トッカータとフーガ……」

 五年前、学生コンクールの一次予選で弾き、「見事に」惨敗した曲。練習では完璧に弾きこなしていたのに、本番では何度もミスをし、全体的にも乗ることができなかった。美穂は一瞬戸惑ったが、すぐに決心した。

「私、そうします。トッカータとフーガを弾きます」

「そう」草刈先生は微笑んだ。「頑張ってね。美穂さんならできるわ」

「あ、それと……」

「何? まだ何かあるの?」

「はい。あの、もしよかったら、もし本選まで行けたら、その前にもう一度だけ私のピアノを聴いてもらえませんか? 時間があったらでいいんですけど……」

 草刈先生は大笑いした。顔を真っ赤にしてお願いする美穂のことが可愛くてしかたがなかったのだ。そのうち美穂もつられて笑いだした。二人の笑い声は青空へと吸いこまれていった。「もちろん、いいわよ」という感じで草刈先生は美穂にウインクし、紅茶に口を付けた。美穂は嬉しそうにはっと息を呑み、感謝の言葉を何度も言ってから、深く頭を下げて別れを告げた。

 その帰り道、美穂は意気揚々と歩いていた。鼓笛隊のように足を高く上げ、背筋をまっすぐにして。だが、頭の中は極めて冷静だった。早くもトッカータとフーガをどう弾くか、どのようにして本選まで持っていくか、それを考えていた。『楽譜は家にあるはずだ。帰ったら早速練習して、アリス・ミュージックには三日後に行こう』美穂は運動神経だけでなく、頭も結構良かった。それはいいとして、これから美穂はさらなる練習に励み、一週間後には一次予選を迎えることになる。そして、その日が来た!


 湘南の海岸沿いを走ってゆく一台の赤いセダン。昼過ぎの太陽が青空の中で輝き、海面をきらきらと照らしていた。車は海と反対側、すなわち山手にある白い大きな建物を目指しているようだった。現代風の構造でありながらも、まるで神殿のような外観。建物の前面には巨大なアーチがかかっており、車はその下を抜けていった。ここが湘南ピアノコンクールの会場なのだ。

 車は建物の玄関口に停まり、中からはサングラスをかけた神野と、白いドレスに身を包んだ美穂が出てきた。美穂は髪を左右にしっかりと流し、ナチュラルではあったが品の良いメイクをしていた。普段の彼女からは想像できないほどの変貌ぶりだった。彼女は美しい女性に変わっていた。もっとも、それは美穂がすましている間だけで、少しでも笑うと例の可愛らしい表情を目にすることができた。神野はサングラスを外し、美穂をエスコートするようにして建物の中へと入っていった。

「美穂ちゃん、緊張している?」

「いえ、ええ、少しだけ」

 神野はいつしか「美穂ちゃん」と呼ぶようになっていた。彼にとって美穂は大切な、そして貴重な「商品」ではあったが、それと同時に妹のような存在でもあったようだ。一方、ここにはいないが、西園寺は相変わらず「静井さん」と呼んでいた。今日もアリス・ミュージックを出る際に『静井さん。私は行けないけど、あなたなら予選くらい何とでもなるわ』と自信たっぷりに言った。その直前、まるで演奏と同じくらい重要であるかのように、西園寺は美穂のメイクや衣装を念入りにチェックしていた。神野と美穂は広いロビーを突っ切ってゆき、「湘南ピアノコンクール関係者控え室」と書かれた看板が掲げられている部屋の中へと入っていった。

 三十畳ほどの控え室には十数名の参加者と、それとほぼ同数の付添い人や関係者が所狭しとひしめき合い、ものすごい熱気だった。一次予選は初日と二日目、さらに午前と午後の部に分かれており、合計で約五十名が挑戦する。二日目の本日、午後の部の参加者たちはドレスか燕尾服に身を固め、その約八割が女性だった。年齢は二十代前半が中心のようだったが、中には十代後半とおぼしき人の姿もあった。美穂は控え室の片隅に座り、神野はそのすぐ横に立ったままでいた。「まあ、別に緊張する必要のないようなメンツばかりだろうから……」と神野が言いかけた時、控え室に進行役の男性が入ってきた。

「みなさん、これから一人ずつステージに上がってもらい、審査員の方々の前で課題曲と自由曲を一曲ずつ弾いてもらいます。ステージへはこの裏口から通って行けます。演奏終了後は速やかに控え室に戻ってきてください。何分、後がつかえていますので。それでは、早速ですが、エントリーナンバー四十番の方からお願いします」

 番号を呼ばれた女性はすっと立ち上がり、何食わぬ顔をして裏口から出ていった。美穂は四十八番。長い時間、美穂は自分からは何もしゃべらず、目をうつろにして座ったままでいた。神野が時々話しかけたが、「はい」とか「いえ」とか短いフレーズでしか答えなかった。神野は『随分、落ち着いているな』と思ったが、実はその真逆だった。美穂は緊張していた。なんと、彼女は極度のあがり症だったのだ! 控え室には高笑いする女性や独り言を呟く男性など様々な人種がいたが、美穂の目にはいっさい入っていないようだった。美穂は「ハッ、ハッ」と短い息継ぎをしたり、指や足を小刻みに震わせたりしていた。彼女の頭の中では一次予選の課題曲と自由曲が交互に回っていたが、何をどうすればいいのか、何が一番大切なのかが全くわからない状態だった。そんな最悪の状態の中、ついに美穂の出番がやって来た。進行役の男性に呼ばれ、さらに神野にも声を掛けられ、美穂はようやく立ち上がり、慌しく裏口から出ていった。

 広い客席の中程に審査員十二名だけが横に並んで座り、その手前と奥の数十列の座席には誰もおらず、照明さえ点いていなかった。ただ、美穂の目にはグランドピアノだけが入っていた。ステージ上でライトアップされ、彼女のことを待ち受けるかのように大屋根を開いているグランドピアノだけが。美穂はせかされてもいないのにステージの中央へと早足で歩いてゆき、審査員たちに向かってお辞儀をすると、椅子の高さを調節することも忘れ、ピアノの前に急いで座った。そして、何度か首を横に振ると、すぐにピアノを弾き始めた。

 課題曲のモーツァルト、自由曲のショパン。一応、美穂はノーミスで弾いていった。ある意味、彼女の演奏は完璧だった。だが、何かが足りなかった。それは技術的な問題ではなく、表現における問題と言えた。審査員たちは物足りなさそうに顔を顰めたり、目を伏せたりした。舞台袖で美穂の演奏を聴いていた神野は首をかしげ、『どうしたんだろう、彼女。いつものようなダイナミック感がまるでない。何かを気にして細々と弾いているような……なんだか全体的にせこい感じがするぞ』と考えていた。

「どうしたんだい? 美穂ちゃん、さっきの演奏は……」

「すみません。緊張をしてしまって……」

 控え室で迎えた神野の言葉に対し、美穂は矢継ぎ早にそう答えた。美穂の顔は真っ青で、額にじんわり冷や汗までかいていた。神野は美穂を責めるのではなく、むしろ自分を責めた。『彼女はあがるタイプなんだ。何故、自分はこのことに気付かなかったんだろう?』と。あれほど楽観していた一次予選が「落選するかもしれない」という事態に変わった。二人は会場を後にし、車に乗って帰っていった。一次予選の結果は後日、封書によって通知されることになっていた。

 二日後、美穂の元に結果が来た。美穂は恐る恐る封筒から手紙を取り出し、それをゆっくりと開いていった。「合格……二次予選の詳細については……」美穂はすぐさま神野に連絡を入れ、歓喜を分かち合うよりも次回の対策について話し合った。何より、あがり症を克服しなければならない。とにかく美穂は練習に明け暮れることにした。自信をつけるためには練習するしかないと彼女は判断したのだ。一次予選の通過者は全部で十三名。美穂はその中で最下位だった。

 その五日後、美穂と神野は前回と同じように会場に赴き、控え室で順番を待った。美穂の出番になると、神野は美穂に「頑張れ!」と大きな声を掛けた。美穂は非常に恥ずかしがったが、この恥ずかしさがいくらか緊張をほぐしたようだった。この日、美穂はスカイブルーのドレスを身に付けていた。美穂の気分を変えようと、西園寺が「緊張対策」に授けたものだった。ステージに上がった美穂は課題曲のベートーヴェン、自由曲のドビュッシーと弾いていった。完璧な演奏に近かった。前回よりも表現が豊かになっていて、舞台袖の神野もだいぶ納得したようだった。審査員たちは相変わらず顔を顰めていたが、結果的に美穂はこの二次予選も突破した。美穂は最後の五人に残ったのである。

「いよいよね。静井さん、いよいよだわ」

 本選二日前の夜、西園寺はザ・セブンのカウンター席で美穂にそう言った。反対側には神野がいて、彼もまた「いよいよだ! 美穂ちゃん、頑張れ!」と発破をかけた。藤木は美穂のために勝利のカクテルを作り、三人の会話に黙って耳を傾けていた。神野は酔いも影響してか、かなり興奮している様子だった。一方、西園寺はあくまで冷静で、「本選の他の四人はなかなかのものよ。特にシューマン弾きの三浦梨恵が強敵ね。千葉音大の四年生で、昨年の学生コンクールでは入賞を果たしているわ。でも、大丈夫。あなたの方が何枚も上よ」と呟いた。二人に挟まれた美穂はぼんやりしていて、たまに首を勢いよく縦に振るだけだった。だが、その瞳は熱く燃え始めていた。美穂としては一次予選も二次予選も到底納得のいく出来ではなかった。特に一次予選ではミスを恐れるあまり慎重に弾きすぎてしまった。美穂の心の中では『今度こそ、亜衣さんに近付く演奏をしてみせる!』という情熱が燃えたぎっていた。昨日、美穂は本選の曲を草刈先生にチェックしてもらい、自信をつけることができた。道化師の朝の歌、トッカータとフーガ、この二曲を弾く時が刻一刻と迫っていた。

 そして、本選当日。この日はいつもと違い、客席に大勢の聴衆たちが座っていた。その中には音楽会社の面々、雑誌記者や番組プロデューサー、さらには音楽家たちの姿もあった。ただし、亜衣は来ていなかった。亜衣は七月上旬のシュトラウセンとの共演に向け、最高の演奏をすべく必死になって練習していたのだ。こんな所に来る暇などなかった。曜子の姿もなかったが、東城の姿はあった。彼はザ・セブンで美穂を見かけて以来、彼女に関心を持つようになっていた。美穂がアリス・ミュージックと契約を交わしたという話を聞いた時も、『やはり、そうだったのか』と思わず舌打ちをしたほどだった。当然、客席には西園寺と神野の姿もあった。その他にカナリアの千里と友紀、ザ・セブンの藤木などもいた。美穂はこれらの人々の前でピアノを弾くことになるのだ。

 一人目は二十五歳の男性の演奏。彼の演奏は精緻を極めていたが、一次予選での美穂の演奏のようにどこか物足りなかった。二人目は美穂と同じ二十四歳の女性の演奏。自由曲のプロコフィエフは良かったが、課題曲が弾きこなせていない感じだった。三人目はあの三浦梨恵の演奏。前評判どおり素晴らしい技巧と展開力だったが、全体的に速く弾きすぎている印象があった。そして四人目の演奏も終わり、ついに美穂に出番が回ってきた。控え室で美穂は進行役の男性に声を掛けられた。

「静井さん。よろしくお願いします」

 今、美穂は完全にピアニストの扱いだった。一次予選と二次予選ではぞんざいに扱われていたが、今は丁重に、そして敬意をもって待遇されていた。お茶やお菓子がというだけでなく、控え室からステージへと通路を歩いてゆく途中、美穂に向けられた視線が興味と期待を併せ持ったものに変わっていたということからもわかった。美穂は何度か深呼吸をしてからステージへと上がっていった。

 ステージの中央で美穂がお辞儀をすると、客席から控えめの拍手が起こった。聴衆たちの大半は美穂が何者なのか、どんな演奏をするのか全く知らない。ステージから見える客席はほとんど闇で、人の姿らしきものが点々と白く浮かぶだけである。美穂はスポットライトの下にあるグランドピアノの前に座り、すっと右手と左手を順番に上げた。途端に彼女の視界には様々なものが入り始めた。そのいずれもが明確ではなかった。美穂は緊張している人間特有の目をしていた。眼球が微動し、まばたきが容易にできない状態。スポットライトに目を奪われ、なかなか鍵盤に集中できない状態。だが、次の瞬間、奇蹟が起こることになる。それは美穂がピアノを弾き始めた、まさにその瞬間だった。

 課題曲・道化師の朝の歌――静かに鳴り響く和音、空気を切り裂くような高音のトリル。あの構成感を掴めないでいた箇所も、美穂は完璧に弾いていった。完璧なだけでなく、情念がこめられ、ダイナミックな演奏でもあった。他の誰よりも華々しく、聴いていて楽しくなる音色で、いわばストーリー性に満ち溢れていた。美穂は最後の箇所もきれいに仕上げ、この曲を弾き終えた。

「いけるわ」客席の西園寺が呟いた。「神野君。彼女、いけるわよ」

「西園寺さん?」神野は西園寺の顔を窺った。「珍しいなあ。西園寺さんが興奮しているなんて。ちょっと、落ち着いてくださいよ。まだ自由曲があるんですから……」

 いったい美穂に何が起こったのか? ステージ上の美穂は今までに見たことがないくらい自信満々で、可愛らしいだけでなく美しくもあった。誰が見ても「美しい」と断言できるほど彼女は輝いていた。そのドレスはカラフルで、今の彼女にぴったりだった。ただ、この変化は彼女の外見よりも内面において如実に現れていた。彼女は今、真っ白なのだ。それは「何をすればいいのかわからない」からではなく、「何も考える必要がないくらい集中している」からだった。ピアニストが緊張感を掻き消す瞬間、目の前が真っ白になり、鍵盤など重要な部分だけが明瞭に見えてくる。その時、本人には青天井の集中力が身に付くのである。美穂は今、まさにこの状態にいた。これまで緊張感に苛まれ続け、あと一歩を踏み出せずにいた彼女が新たに発見した新境地とも言えた。美穂は再び鍵盤の上で両手を構えた。

 自由曲・トッカータとフーガ――印象的な導入部から、水滴が落ち、むらが広がってゆくような展開。低音と高音が会話するように連続し、旋律を運命的なまでに響かせる。そして、トッカータからフーガへ。バッハ特有の小気味の良い音色が美穂によって深みと広がりをもたらされている。中盤の激しい部分では、止まることを知らない、次々と織り成されてゆく旋律が鳴り渡る。終盤近くでは、何故か聴衆たちが勇気を与えられる気分にまでなっていた。美穂にしかできない最高のタッチ。最後の音の余韻が完全に消えた時、客席からは爆発するような拍手がわき起こった。ステージ上の美穂は立ち上がり、いつもの可愛らしい表情でにこりとし、王女のようにお辞儀をした後、幕の裏へと去っていった。

「私は確信しているわ」

 客席から控え室へと移動する最中、西園寺は神野に向かってそう言った。

「え? 美穂ちゃんの優勝をですか?」

「優勝だけじゃないわ。彼女のこれからもよ」

「これからの彼女?」

「もう!」西園寺はじれったそうに声を張り上げた。「鈍感ねえ! あなたはさっきの演奏を聴いて、何とも思わなかったの? 私はこう感じたわ。あの娘は、いえ、静井美穂というピアニストは間違いなく偉大なピアニストになるわ。そうね、橘亜衣に匹敵するくらいの。少なくとも、私はそうなるように全力で支援するつもりよ」

「これは本物だ!」神野はびっくりしたように言った。「西園寺さんにそこまで言わせるなんて、彼女が本物だっていう証拠だ。あ、いや、すみません。もちろん、僕も美穂ちゃんのことを大物だと前々から思っていました。だけど、こんなに早く芽を出す、いや、開花するなんて。これが『花のピアニスト』って呼ばれていた所以ですかね?」

「馬鹿ねえ。まあ、そのニックネームはあながち悪くなさそうだけど。彼女の見た目や演奏に合っているし……」

「さあ、我々の『花のピアニスト』を迎えに行きましょうよ!」

 数時間後、外が暗くなり、関係者や一部の客たちが夕食を終えて会場に戻ってきた頃、そのロビーにて結果発表が行われた。進行役の男性が一枚の大きな紙を壁に貼り出し、高らかな声で周囲の人々の注意を喚起した。参加者の五人を筆頭に、大勢の人々がそこに集まった。「一位・静井美穂、二位・三浦梨恵、三位……」歓喜の渦が巻き起こった。聴衆賞も美穂だった。西園寺は確信に満ちた表情をし、神野はただもう大喜びしていた。藤木や友紀たちも美穂を祝福した。その大勢の人々に囲まれた美穂はというと、意外にも静かに微笑んでいるだけであった。『こんなことは当然だ』と思っているのではなく、現実をしっかりと受け止め、その先のことに目を向けているようだった。一方、涙に暮れている者もあった。梨恵はその場に崩れ、周囲の目を気にせず大声で泣いていた。だが、その泣き声も美穂への祝福の言葉で掻き消されていった。美穂は梨恵のことが気になったのか、その方へ近付こうとしたが、すぐに西園寺に呼び止められた。

「やめなさい。静井さん、あなたはもうプロなんだから。あなたは湘南ピアノコンクールの優勝者なのよ。誰もが認める、そしてこれからはさらに認められてゆくはずのピアニストなんだから。勝者の陰に敗者は必ず出るわ。それが本式のコンクールであろうと、何かのイベントであろうとね。それに、今行けば殴られるだけだわ」

「はい。そうですよね……」

「静井さん」西園寺はやさしく言った。「よく頑張ったわね。この一ヶ月間のあなたの努力には凄まじいものがあったわ。よほどの体力と精神力がない限り、こんなことは実現しなかったでしょうね。それに、あなたの才能はやっぱり本物だわ。でも、有頂天になっては駄目よ。もっとも、あなたはそんな性格ではないようだけど。とにかく、これからは忙しくなるわ。あなたが私との約束を果たしてくれた以上、私もあなたを全力で支援していかなければならないものね。あなたの持つドラマ性を最大限に引き出してゆくわ」

「私の持つドラマ性……」

 その後、静井美穂の名は音楽雑誌など一部のメディアで取り上げられ、そこそこの評価を得られた。また、湘南ピアノコンクールの優勝者演奏披露会、それに付随する各種イベント、さらには西園寺が仕組んだ新たな仕事などが舞いこんだ。カナリアやザ・セブンは自然消滅していった。もちろん、それは仕事の面だけで、交友関係は続いていたが。ちなみに、美穂の優勝祝勝会はザ・セブンで行われた。そこには美穂の友人たちや音楽関係者、他にも草刈先生の姿などがあった。藤木は遠くから美穂のことを見守り、時おり苦笑しているだけだった。

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