第4話 喜びの島

 五月上旬、都内の某スタジオには約七十名の音楽家たちが集結していた。その全てが二十代の女性で、その中には亜衣の姿もあった。五月十五日にテレビで生放送されるスペシャル・セレブリティ・オーケストラの最終練習が行われていたのだ。練習が開始されたのは午後一時だったが、すでに時刻は午後八時を回っていた。度重なる演奏と意見の衝突により、スタジオ内には緊張感が張りつめ、加えて何か険悪な雰囲気まで漂っていた。指揮者も若い女性で、彼女がオーケストラを仕切っていたわけだが、何分、高慢で自信過剰な者が多かったため、一つにまとめるのは至難の業であるようだった。ただし、亜衣の時は話が違った。亜衣はピアノ・コンツェルトの時だけオーケストラに参加したわけだが、この時ばかりは誰もがおとなしく演奏をした。演奏する楽器が違っても、同じ音楽家として彼女に一目置く者は少なくなかったようである。

 亜衣は今、オーケストラから離れ、壁に寄りかかって退屈そうにしていた。その横には彼女のマネージャーである本間曜子がいた。曜子は亜衣より二つ年上で、黒のスーツに身を固め、薄い紫色のシャツの襟を外に出し、胸元には金のネックレスが輝いているという典型的なキャリアウーマン風の恰好をしていた。細身の体で、顔がいまいちぱっとしないことを除けば、二人が並んで歩く姿は「ちょっとした姉妹」のような印象があった。亜衣は黒系のカジュアルな恰好をしていたが、それでも洗練された美しさと上品さを醸し出していた。曜子は亜衣の肩を軽く叩き、遠くを指差しながら言った。

「亜衣ちゃん!」

「何? 曜子さん」

「ほら、東城さんがお見えになっているわよ」

「あら、本当。東城さん!」

 東城重光は日本を代表する音楽プロデューサーで、橘亜衣を有名にした張本人でもある。亜衣の才能と美貌をいち早く発見し、彼女が音大に在学していた時にすでにスカウトしていた。濃い黒髪に浅黒い肌、口元にひげをたくわえ、一見温和そうな顔立ちをしている。背丈は中くらいで少し太っており、高級そうなスーツを身に纏い、派手だがセンスの良いネクタイを締めている。年齢は四十六歳で、ぱっと見は「人の良い紳士」という感じだった。ただ、この男は非常なやり手で、今までに何人もの有名音楽家を育成し、なおかつ数々の修羅場をくぐってきていた。東城は亜衣が手を振る姿を見てニヤリとし、その方へと歩み寄っていった。

「相変わらず仲の良い姉妹といった感じだね」

「もう! 東城さんったら!」亜衣の顔はやわらいでいた。「今日はわざわざ練習を見に来てくださったんですか?」

「そうだよ。練習はどう? うまくいっているかな?」

「はい。私はいつものとおり順調です。他の人たちは大変そうで、もめてばかりいるようですけど。私はピアノ・コンツェルトだけですし」

「ラフマニノフの一番だったね?」

「そうです。音大時代から何度も弾いてきた曲ですから、他の人たちがちゃんとやってくれさえすれば何の問題もありません」

「そうだろうね」

 亜衣の強気な発言に対し、東城は不快に思うどころか愉快にさえ思っていた。彼は亜衣のこういった態度に魅力を感じていたのだ。東城は亜衣の数少ない良き理解者で、今までに一度も亜衣に注意をしたことがなかったし、亜衣が少しでも「嫌だ」と言えば即座にやめさせてくれた。寛容というよりも、これが彼のビジネススタイルのようであった。曜子は亜衣の背後で相槌ばかり打っていたが、ふと思い出したようにこう言った。

「そういえば、東城さん。七月の公演に、ええ、フョードル・シュトラウセンの、バイオリニストの越知雅也さんも出演されるとか」

「さすがは本間君だね。情報が早い。確かに越知君も出演するよ。彼の出演には賛否両論あったが、とにかく、素晴らしい男には違いないからね」

「まあ!」亜衣は少し驚いたように言った。「越知さんが出演されるとなると、この私が霞んでしまいそうですわ」

「そんなことはあるまい」東城はニヤリとした。「橘君のことは第一に考えているよ。いずれにせよ、シュトラウセン次第といったところだろうが」

「その点は大丈夫ですわ」亜衣は嬉々として言った。「私、何故かわからないけど、シュトラウセンとは馬が合いそうな気がするんですの。何故かしら?」

「なんたって、世界の橘亜衣ですものね!」

 この曜子の最後の言葉は何か尻切れトンボのようで後味が悪かった。東城でさえ、思わず眉をひそめたほどだった。亜衣は気分を害したようで、心の中で曜子のことを悪し様にしているのは間違いなかった。もっとも、亜衣は例の無機質で機械的な表情に一瞬変わっただけだったが。東城は、最初からこのために来たわけだったが、亜衣と曜子を食事に誘った。

「自由が丘におもしろい店があるんだ。ここからそう遠くないよね。外に私の車が停めてあるから。何がおもしろいかって? それは行ってのお楽しみということで。ところで、橘君、練習はもう大丈夫なのかい?」

「もちろんですわ。東城さん、すぐに行きましょう。でも、少し待ってください。今、話をしてきますから」

 そう言うと亜衣はオーケストラの方へと駆けていった。指揮者の女性は演奏を中断し、コンマスの女性と二言三言話し合ってから亜衣の方を振り向いた。亜衣が事情を話すと、指揮者の女性は困惑した表情でこう答えた。

「困ります。橘さん、もう一度だけ合わせておきたいんですが……」

「合わせる? 何を?」亜衣の方が年下だった。「練習は充分やったはずよ。午後一時から七時間、私は何度も待たされたわけだし。すっかり腰が痛くなったわ。ねえ、どうして私との練習を最優先しようと思わなかったの?」

「それは……」指揮者の女性は東城の方をちらりと見た。「いろいろと段取りがありますから、仕方がないことなんです」

「そうよね。でも、私も仕方がないことなの。これから私は東城さんと食事に行かなくちゃならないから。ねえ、どうせ本番前にリハーサルがあるんでしょう?」

「ええ、あります」

「だったら、その時にまたお会いしましょう。それで充分よ。こんなオーケストラなんて。どうせ、余興なんだし。それでは、みなさん、さようなら」

 この会話の一部始終を少なくともオーケストラの最前列の人々は聞いていた。ある者は顔を顰め、ある者は口をぽっかり開けた。指揮者の女性は忌々しそうに亜衣の背中を睨み、コンマスの女性はここぞとばかり深い溜息をついた。彼女たち若い音楽家たちの間では確かに亜衣の評判は高かった。ただし、それは亜衣の才能と技術におけるもので、メディアでの活躍に対しては半ば嫉妬心から嘲笑が称賛に混じりこみ、性格や態度に関しては皆一様に否定的であった。この時も最悪の雰囲気がオーケストラの間に流れ、『やっぱり橘亜衣はああいう人間なんだ』という一種の誤解が生じたのは疑いえなかった。一方、亜衣は何事もなかったかのように東城たちの元へと戻っていった。東城に何か聞かれても「オーケストラのみなさんは私に対してとても協力的なんですよ」などと事実に反することを言って高笑いした。スタジオから去ってゆく三人の背後では、オーケストラの演奏が静かに再開された。

 東城の頭髪と顔面のように黒光りする高級車に乗りこみ、一堂は自由が丘を目指した。助手席の亜衣は上機嫌にしゃべり続け、運転席の東城は言葉少なく頷いていた。後部座席の曜子は乗車中ずっと携帯電話で仕事の話をしていたが、時おり前の二人の会話に割りこんでは意味もなく大笑いするのだった。この女性は二人に対して媚びへつらっているつもりのようだが、これでは単に無神経なだけである。車はやがて目的の店の前に着いた。その店とはなんとザ・セブンだった。三人は車を降り、店の中へと入っていった。

「橘君」東城はテーブル席に着くなり言った。「ここのカルパッチョは最高だよ」

「あら、何のカルパッチョですの?」

「子羊だよ……」

 それから彼は肉料理やパスタを店員に注文した。亜衣と曜子の意見も一応聞いているようだったが、ほとんど自分の裁量で全て注文してしまった。これはいつものことだった。東城は美食家で、食事のことになると他人の意見を聞かないことが多かった。ただ、彼は食事に限らず、何事においても自分の意見を最良とする傾向があった。温和で寛容な反面、この男は確固たる独裁的気質を持っていたのだ。亜衣はそんなことには慣れっこで、テーブルにイナゴの佃煮が運ばれてきた時もたいして驚かずにこう言った。

「珍しい! この店にはイナゴの佃煮なんて置いてあるんですね」

「そうなんだ」東城は嬉しそうに答えた。「これを食べたくて、わざわざ自由が丘まで来ているようなものだよ」

「もしかして、これが例のおもしろいものですか?」

「まさか! もっとも、イナゴの佃煮は私がこの店に通うきっかけにはなったがね。これよりもっとおもしろいものだよ」東城は自分の高級腕時計を見た。「時間ぴったりだ。そろそろだな」

 時刻は九時半だった。亜衣は東城のもったいぶった態度が気になりながらも、それ以上の質問を避けた。東城はワインを片手にイナゴの佃煮をうまそうに頬張っていた。曜子は次々と運ばれてくる料理を他の二人に取り分け、その都度、自分の皿には少し多めによそった。そんな二人の様子を亜衣は物憂げに眺めるのだった。

「さあ、ショーの始まりだ!」

 食事をする手をはたと止め、東城はそう言った。亜衣は何事かと東城の視線を追った。十メートル先に白いグランドピアノがあり、その前にどこから現れたのか一人の女性が座っていた。それは美穂だった。彼女はいつもの白いワンピースを身に纏い、髪にはダークピンクの石楠花を挿していた。美穂はピアノを弾き始めるなり恍惚の表情に変わり、周囲の様子など全く気にしていない様子であった。亜衣はこの可愛らしい、どこか純朴そうな女性を見て、不審そうに東城にたずねた。

「東城さん。おもしろいものって、あれですか?」

「そのとおりだよ。橘君、君にぜひとも聴いてもらいたくてね。どうだい? なかなかのものだろう?」

「え? ああ、はい」

 東城はすっかり美穂の演奏に聴き入っているようだった。腕を組んで上体を後ろに反らし、時おり目をつぶって何かを呟くか口ずさむかしていた。これは東城にとって珍しいことだった。彼は何事にも滅多に興味を持たない。特にピアニストのことになると、本当に可能性のある人にしか興味を持つことがない。亜衣は東城のこの態度に驚くとともに一種の嫉妬心を抱いた。今の彼女にとって美穂の演奏などどうでもよかった。実際、亜衣は美穂の演奏をほとんど聴いていなかった。店内には美穂が創り出す穏やかなメロディーが流れ、客たちが楽しそうに耳を傾け、店員たちも嬉しそうに仕事をしていた。亜衣はこの雰囲気の変化に再び驚き、隣にいた曜子に耳打ちをした。

「ねえ、曜子さん。あの娘、誰なの? 有名な人なの?」

「私も知らないわ。少なくとも有名ではないと思うけど」

「そうよね」亜衣は途端に自信を取り戻した。「場末のレストランで軽々しく演奏をして、安い給料をもらっているだけのピアニストなんて、たかが知れているわ」

「でも、彼女、うまいわ……」

 あの曜子でさえ、美穂の演奏に聴き入り、携帯電話が鳴るのも、料理が運ばれてくるのも無視していた。彼女のビジネス・センスが閃いたわけだが、それ以上に音楽を愛する一人の人間として心を動かされたようだった。亜衣はだんだん焦りだし、「あなたたちがそこまで言うなら」という感じで美穂の演奏に耳を傾けた。今、美穂が演奏しているのはドビュッシーのある名曲。ついこの間、亜衣がスポンサー向けのパーティーで弾いたばかりの曲だった。その時、亜衣は面倒臭そうに、どうでもいいようにピアノを弾いていた。だが、今、目の前にいる美穂は……!

 ドビュッシーの喜びの島――トリル、不協和音、ペダルの絶妙な組み合わせから生まれる幻惑的な音色。美穂は幸せそうにピアノを弾いていた。非常に速い単音の連続。低音の余韻が掻き消えぬうちに高音のトリルへ。イメージされるのは、立ちこめる霧、海上で揺れる船。そこへ突然、明瞭な和音がやって来る。霧が晴れ、一つの島が見えてくるかのように、クライマックスの華々しいメロディーが鳴り響く。この短期間で美穂の演奏技術は飛躍的に上がっており、その爆発的な感性は目を見張るばかりだった。

 曲が終わると、店にいた客たちがいっせいに拍手をし、立ち上がる者まで現れた。もはや美穂のピアノはバックグラウンド・ミュージックの域をはるかに越え、一つのコンサートホールのように場の雰囲気を圧倒していた。その中で東城は確信したように深く頷き、亜衣に語りかけた。

「どうだい? さすがの君も驚いただろう?」

 亜衣は顔を硬直させ、じっと目を据えていた。

「東城さん。あの娘、いったい誰なんですか?」

「静井美穂さんというらしいよ。ここでは白いピアニストだの、花のピアニストだのと呼ばれているようだが。少し調べたんだがね、どうやら君と同じ音大を卒業したそうだ。しかも君と同学年だったとか。面識はないかい? 君が彼女のことを知っていてもおかしくないんだが。もっとも、彼女は最近になって活動を始めたようだがね」

「私と、同じ、音大……」

 亜衣は必死になって自分の記憶を辿っていた。『確かに、どこかで会ったことがあるような気がする。私は彼女のことを見たことがある。静井美穂という名も、どこかで見るか聞くかしたことがある。それよりも、あのピアノ。私はあのピアノを聴いて感情を揺り動かされたことが……』亜衣はそう考えたが、やはり強気にこう答えた。

「ひょっとしたら、どこかで会ったことがあるかもしれません。大学の廊下でとか。その、静井美穂さんでしたっけ? でも、きっとたいした娘ではなかったんでしょう。だって、私、あの娘のこと、全然覚えていないんですもの」

 ここで曜子が口を挟んだ。

「まさか、東城さんはあの娘をスカウトされるおつもりなんですか?」

「いや、そのつもりはないよ」東城は目を逸らした。「あそこを見たまえ。本間君、それに橘君も。あれは神野君じゃなかったかね?」

「ええ」曜子が答えた。「アリス・ミュージックの神野琢己です」

「神野君がいるということは、その背後に西園寺京子がいるということになるな。我々より一足早く、あの連中が動き始めていたようだ。神野君はこの店にちょくちょく来ているようだからね。そうなると、もはや私には手の出しようがない。まあ、無理してまで静井美穂を獲得しようとは思わないがね」

「私たちには世界の橘亜衣がいますからね!」

 またもや尻切れトンボのような発言をし、曜子はその場に沈黙をもたらした。東城はそんなことにいっさい気を留めず、不敵な笑顔を浮かべて美穂と神野を交互に眺めていた。亜衣は戸惑いながらも少しずつ落ち着いてゆき、『なんだ。あの娘、まだデビューもしてないのね。ま、別にいいわ。アリス・ミュージックにでも何にでも行けばいいじゃない。どうせ私には関係ないことなんだし』と思い巡らすのだった。

午後十時に全ての演奏が終了し、控えめな拍手の中、客席の間を美穂が歩いていった。途中で亜衣と運命的なすれ違いをしたが、美穂の目には亜衣の姿が全く入っていないようだった。亜衣は思わず立ち上がろうとしたが、すぐに曜子に制された。

 ――あなた、誰なの?――

 亜衣は店から出てゆく美穂の背中に焦点を合わせ、心の中で強くそう呟いた。この一連の出来事を神野が遠くから眺めていた。彼は何かおもしろいことでも思いついたかのような顔をし、時間を置いて席を立つと、三人に向かって軽く会釈をしただけで去っていった。亜衣は奇妙な敗北感を味わうことになった。


 五月十五日。都内のコンサートホールでは、スペシャル・セレブリティ・オーケストラの番組収録が公開生放送で行われていた。時刻は午後七時半。放送開始からすでに三十分が経過し、亜衣の出番まであと十数分だった。控え室で亜衣は落ち着きなく歩き回り、極端に苛立たしそうな表情を浮かべていた。その様子を見て心配した番組スタッフが亜衣に声を掛けた。

「橘さん、大丈夫ですか?」

「大丈夫?」亜衣は鳥のように立ち止まった。「何が、ですか?」

「はあ、珍しく緊張されているご様子なので……」

「私が緊張? あなた……」亜衣は急に顔を背けた。「いえ、なんでもありません。気を遣ってくださって、ありがとうございます。でも、私、緊張なんかしていませんから」

 実際、亜衣は緊張していなかった。元々、緊張するタイプの人間ではなかった。テレビの生放送というのは彼女にとって初めての経験だったが、特に普段と違う心象を持つこともないようだった。リハーサルでの演奏は完璧だったし、指揮者やオーケストラの楽員たちとも概して良好な関係を保っていた。ただ、彼女の中で何かが掛け違い、その理由が自分でもわからなく、それ故に不自然な焦りを感じるのだった。

 その時、控え室に一人の若い男が入ってきた。グリーン系の濃い茶髪、色の白い肌、二重瞼の凛々しい目、両端が切れ上がった唇と、かなりの男前だった。やや中性的で、体が華奢な感じだったが、背が高く、二の腕も太かった。これが、あの越知雅也だった。年齢二十七歳。彼は白いジャケットを着ていたので、周囲の人々には「白馬の王子様」くらいに映っていたかもしれない。だが、王子様などというやわなものではなく、その情熱的な目と、それとは対照的に冷笑を湛える口元は彼が苦悩の人であることを強く表していた。亜衣は越知に気付き、ゆっくりと彼の方に歩み寄っていった。

「越知さん! お久し振りです。今日はいったいどうされたんですか? わざわざ、ご挨拶に来てくださったんですか?」

「ちょっとね」越知ははにかんだ。「たまたま前を通りかかってね。それに、ほら、あなたも僕もシュトラウセンと共演することですし」

「私も聞いていますよ。越知さんはショスタコーヴィッチを弾かれるんでしょう?」

「まあね。ところで、もうすぐ橘さんの出番でしょう? 期待してここで聴いていますよ」

「客席で聴いてくださればいいのに」

「まあ、たまたま通りかかっただけだからね。橘さん、その衣装、とても似合っていますよ」

「ありがとうございます」

 珍しく上機嫌な亜衣。彼女は黒いフレアードレスを身に纏い、髪を妙に長いリボンで結んでいた。亜衣がいつも黒い恰好をしているのは彼女自身の趣味もあるようだが、むしろ東城による演出の部分が大きいようだった。亜衣はさらに近寄り、その美しい瞳で越知を見上げながら言った。

「越知さん。この間の国際コンクール、本当に残念でしたわね。それでかしら? なんだか最近の越知さんの演奏、どこか物足りない感じがするんですの。以前の越知さんのような『広がり』がない気がしますわ」

「ははは。手厳しいですね」越知は苦笑した。「あなたがどの部分を言っているのか、僕にはよくわかりますよ。確かに少し『広がり』が足りないのかもね。それにしても、あなたの耳は、いや、目はいつも正確だね」

 越知雅也は橘亜衣ほどではなかったが、知名度も人気もかなりある方だった。彼もまた数々のコンクールで優勝し、バイオリニストとしては若手ナンバーワンの呼び声が高かった。普段は礼儀正しく社交的な男で、仕事や練習に対しても真面目で熱心だった。バイオリンの腕は非の打ちどころがなく、ビジュアルも申し分なかった。だが、伸び悩んでいるのは確かで、三ヶ月前に行われた国際コンクールで優勝を逃し、音楽雑誌で酷評されたのは記憶に新しかった。亜衣はそういったことを全て踏まえて、先程のようなアドバイスを彼にしたのだった。二人は共演したことこそなかったが、知り合いを通じて何度か会ったことがあり、わりと仲の良い間柄と言えた。

「橘さん! そろそろ、お願いします!」

 番組スタッフに呼ばれ、亜衣は控え室を出ていった。後に残された越知は何とも言えぬ複雑な笑顔を浮かべ、モニター近くの席に他の人々とともに座った。終始、彼は落ち着きなく、周囲の人々に気障な言葉で話しかけていた。そのくせ、自分から勝手に話を折り、相手が不快そうな顔をするのも気にしないのだった。まもなく亜衣による最高級の演奏が始まる。越知はそこに自分との違いを見出そうと考えていた。『橘さん、本番前だというのに落ち着いていたな。あれが大物ということなのか……』越知はそう思ったが、これは事実に反することだった。七時四十五分、ついに亜衣がステージに姿を現した。亜衣はまず客席に向かって深々とお辞儀をし、ステージの一番前でなおかつ中央にあるグランドピアノの前に座った。亜衣によるラフマニノフのピアノ・コンツェルト第一番、放送時間の都合上、第一楽章だけの演奏が始まった。

 ホルンなど管楽器によるファンファーレが鳴り響いた後、亜衣の繊細だが力強いピアノが駆け抜けてゆき、バイオリンなど弦楽器によるメイン・メロディーが続いた。転げ回るような非常に速い単音も、オーケストラとの絶妙な呼応も、亜衣にはお手のもので、まさに絶好調の出だしだった。オーケストラの楽員たちは全て若い女性で、客席にもお茶の間にも物珍しく、また華やかに映っていた。何せ、これだけの人数の若い女性が似たような恰好で、それぞれの楽器を奏でているのだ。インパクトが非常に強く、ある意味、異様とも言えた。中には音大生も交じっていたが、オーケストラの質は総じて高かった。周囲の人々は成功を確信し、指揮者の女性も、オーケストラの楽員たちも一曲ごとに自信をつけていた。今、ピアノを弾いている主役の亜衣もそう感じていたが、何かが少しずつ狂い始めているようだった。それは曲が進むうちに次第に明らかになっていった。

 ――何? どういうことなの?――

 亜衣はオーケストラの方を一瞬見た。誰かが、何かを、間違えた。素人の耳では聞き分けられないくらいの小さなミスだったが、プロならば思わず首をかしげる類のものだった。しかも、それは二三度続けて繰り返された。異変に気付いた亜衣は中盤の訴えかけるような箇所を戸惑いながらも確実に弾いたが、徐々に落ち着きを失っていった。

 ――まただわ! コントラバス! あの娘ね!――

 それはコントラバスを弾いている女性によるものだった。わざとではないかと思えるくらい巧妙に、しかし大胆にミスを繰り返していた。亜衣は鬼のような視線をその女性に向けた。亜衣の特徴でもある無表情で悲しそうな顔が崩れた瞬間だった。『これには悪意がある。間違いない。あの娘はわざとミスしている!』亜衣は集中力を切らさないようにピアノの鍵盤を注意深く見つめた。曲は間もなくクライマックスへと入ってゆく。亜衣はここまで完璧に弾いていた。無論、ミスなど一つもしていなかった。『こんなことで私の演奏を邪魔されてなるものですか! 見てらっしゃい。より精度を高く、より完璧に弾いてみせるわ。私にはシュトラウセンとの共演が待っているのよ!』だが、次の瞬間だった。亜衣はそのクライマックスで致命的なミスをした。左手の中指が隣の音をわずかにかすってしまったのだ。場内には、そしてお茶の間には一瞬だが耳障りな不協和音が鳴り響いた。正確無比で知られる亜衣が本番中にミスをするなど、誰にも信じられないことだった。聴衆たちは何事もなかったかのように演奏の最後まで聴き入り、演奏終了後には大きな拍手までしたのだが、一部の関係者の間ではちょっとしたざわつきが起こっていた。亜衣は客席に向かって何度かお辞儀をすると、目をまっすぐに向け、足早にステージから去っていった。

「お疲れ様です!」

「素晴らしい演奏でしたよ!」

 番組スタッフたちの言葉を無視して、亜衣は廊下を荒々しく歩いていった。彼らは事態を把握していなかった。亜衣のこの態度を見ても『また、いつもの癇癪だろう』くらいに思っていた。亜衣は控え室に入り、その片隅にある椅子に腰掛けると、憤然と腕を組んだ。彼女は何かを待っているようだった。そう、指揮者やオーケストラの楽員たちが残りの演奏を終えて、ここに戻ってくるのを待っていたのだ。その間に誰かから声を掛けられても、聞こえないふりをしていた。越知はあえて声を掛けようとしなかった。数十分が経ち、まず指揮者の女性が控え室に戻ってきた。亜衣はすぐさま立ち上がり、彼女に詰め寄りながら言った。

「まず、あなたの感想を聞かせてもらえない?」

「え……何の……ですか?」

「私のピアノ・コンツェルトよ!」

「その……私はうまくいったと思っていますが……橘さんは何かご不満な点でもあるんですか?」

「ご不満な点ですって!」亜衣は周囲を見回した。「みなさん! 彼女の今の言葉、聞きました? あんな演奏でうまくいったなんて、この人は言っているんですよ!」

 曜子が亜衣に近付き、言葉を掛けた。

「亜衣ちゃん、やめときなさいよ。ほら、越知さんもいらっしゃることだし……」

「越知さん?」亜衣は越知に顔を向けた。「そう、越知さん、あなたのご意見を聞かせくださらない?」

 越知は少し離れた場所に立っていた。その表情は、どこか嬉しそうでもあった。彼と亜衣の間には何人もの番組スタッフや関係者がいたが、誰も言葉を発しようとはしなかった。曜子は気が気でない様子だった。指揮者の女性は明らかに怯えていた。越知は首を横に振り、努めて真面目な表情でこう言った。

「橘さん。さっきの演奏は決して悪くなかったよ。終盤の君のミスもさほど気にならなかった。オーケストラの演奏は少々雑な部分もあったけど、即席にしてはよくやった方だよ。ただ、僕が気になったのは……」

「何?」亜衣は越知の言葉を待った。

「つまり、ちょっとだけ……そう、ちょっとだけだけど、君の演奏に本来の緻密さが欠けていた気がするんだ。全体的に、なんというか、ふわっとしていた」

 再び沈黙が訪れた。亜衣は先程の自分の演奏を振り返ったが、すぐに『越知さんは自分がうまくいっていないからって、あんなことを言っているんだわ。私の演奏はいつもと変わらなかった。いつもと同じように完璧だった。それなのに、この指揮者たちが私の邪魔をしたのよ。私が練習に対して非協力的だったからって、その仕打ちを本番でしたのよ。私が有名だからって、他の人より少し恵まれているからって、この人たちは嫉妬しているのよ』と思い巡らした。亜衣は越知に何か言い返そうとしたが、ちょうどその時、控え室にオーケストラの楽員たちが戻ってきたため、そちらへ向かって急に走りだした。

「コントラバス! そう、あなたよ!」

 激しい音が控え室に鳴り響いた。そこにいた誰もが自分の目を疑った。なんと、亜衣がコントラバスの女性の頬を平手打ちしたのだ。彼女はまだ音大生で、他の人々に比べれば技術面で劣っていたが、それでも自分なりに一生懸命の演奏をしたはずだった。しかも彼女は亜衣のファンでもあった。その亜衣から平手打ちをされ、「痛くて口惜しい」というよりも「何が起こったのかわからない」というような表情を浮かべた。亜衣は後に反省することになるのだが、この時は興奮のあまり気がどうかしてしまっていた。すぐさま曜子が駆けつけ、コントラバスの女性にお詫びをすると、亜衣の肩を抱いてどこかへ連れていった。曜子はこの一件がスキャンダルになることを何より恐れていたが、運が良かったのか、そうなることはなかった。東城が裏工作をしたとの噂がだいぶ後になって流れた。

 さて、この日、美穂は何をしていたのだろうか? スペシャル・セレブリティ・オーケストラの生放送を家のテレビで観ていたのだろうか? いや、違う。彼女はいつものとおりザ・セブンでピアノを弾いていた。ただ、普段と違い、そこには神野だけでなく西園寺の姿もあった。

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