第3話 英雄ポロネーズ

 ――あなた、誰?――

 ――私、勝ったことがある――

 亜衣の演奏を聴いて以来、何故か美穂はこの二つの言葉を結び付けていた。そして、黒いグランドピアノを弾く亜衣と、白いグランドピアノを弾く自分を対比させ、何度も頭の中で交差させるのだった。

 三日後の木曜日の夜、この日も美穂はカナリアで仕事をしていた。時刻は午後九時で、これから店じまいをするところだった。バケツで水をはけ、モップで床を一生懸命に磨く。美穂の顔は心ここにあらずといった感じで、その様子は数日間続いていた。そう、ザ・セブンでピアノを弾いて以来。美穂は決して憂鬱なわけではなかった。むしろ気分が高揚し、眠れない夜もあったくらいなのだ。だが、その高揚した気持ちをぶつけるすべがない。自宅にあった電子ピアノは二年前に売ってしまっていた。ザ・セブンともあれきりだった。藤木の『明日にでも連絡をする』という言葉を真に受け、この三日間、美穂は連絡を待ち続けていた。美穂はバケツを横に倒したまま、その場にしゃがみこんでしまった。今、彼女は立ち上がりたいのに立ち上がれないのだ。

「美穂、どうしたの?」

「ん、友紀」

 友紀は美穂の横に座った。友紀は小麦色の肌をしていて、それは一年中変わらなかった。彼女に言わせれば地黒ということだったが、ちょくちょく日焼けサロンに通っているようだった。顔はどちらかというと地味な方で、目や鼻が目立たなく、美穂と対照的と言えた。ただ、化粧がうまいせいか、初対面の人にはわりと美人に見えた。友紀の性格は見かけによらず親切で、特に美穂に対しては少々お節介なくらいだった。それが美穂には合うようだったが。

「美穂、なんだか元気ないよ」

「うん。亜衣さんのことが気になって」

「亜衣さん? ああ、新宿のパレス・ガーデンでピアノを弾いていた……」

「そう。あの日から頭の中で亜衣さんの姿がちらちらするの」

「そっか……」

 沈黙が訪れた。美穂はどこか彼方を見ていた。夜空には無数の星々が輝き、背後からは花のにおいが漂ってきた。ガーベラの香りだった。美穂は溜息をついた。友紀は無言で美穂の横顔を見つめていたが、ふと思いついたようにこう言った。

「ピアノ、弾きなよ」

「うん。でも……」

「美穂にはやっぱりピアノが必要なんだよ」

「友紀……ありがとう」

 閉店後、美穂はインラインスケートに履きかえ、静かな夜の住宅街を走り抜けていった。これが美穂の第二の交通手段である。エメルスはカナリアの駐車場に置いたままにするのだ。美穂は抜群に運動神経が良かった。ステップ、ジャンプ、ターンと道の途中途中で決めてゆき、フィギュアスケートの選手のような動きまで見せた。彼女の頭の中では仔犬のワルツが流れていた。軽快なリズムに合わせて踊る美穂。闇を抜け、街灯に照らされ、満面の笑みを浮かべながらポーズを決める美穂。その姿は人間の生命力に満ち溢れたものだった。そのまま美穂は自宅のマンションの中へと入ってゆき、一階の101号室の前でぴたりと止まった。

 美穂の住まいはフローリングの1DKで、独り暮らしにしては広めだった。かつて電子ピアノが置いてあった居間にはソファベッドとテレビ、それ以外にはマッサージチェアがあるくらいで、二十代の女性にしては物が少なく、キャラクターの類も見当たらなかった。ただ、押入れの中には大量の楽譜など音大時代の遺産、それから通信販売で買った奇妙な電子機器などが詰まっていた。ダイニングには大きな木製のテーブルが一つ置いてあり、かつてはここで音大の仲間たちとよくおしゃべりしたものだった。だが、今では滅多に集まることがない。彼女たちはスーツに身を包み、忙しそうに働いているのだ。

『美穂のピアノはすごくいいよね』

『うまいだけじゃなく、何か他にある』

『聴いている人が幸せな気持ちになる』

『将来、美穂はきっと活躍するよ』

 友人たちは美穂を評価してくれた。音大時代、美穂は数えきれないくらいの時間をピアノの練習に費やした。五年前、亜衣に勝利した日、その日から二ヶ月後に美穂は国内最大級の学生ピアノコンクールに出場した。周囲に期待された中、結果は一次予選敗退に終わった。優勝者は亜衣だった。美穂は木製テーブルの上に手を置いた。そこには「絶対、本選出場」と彫られていた。五年前の学生コンクール直前、友人たちに促され、美穂自身で彫ったものだった。美穂はその字を指でなぞりながら不意に涙を流した。亜衣と再戦し、今度は公の場で勝利してやろうという野望。夢も希望もはちきれんばかりだった頃を思い出していたのだ。

「私はどうして勝てなかったんだろう? 亜衣さんに、そして自分に……」

 シャワーを浴びた後、美穂はパジャマに着替え、オニギリを頬張りながらテレビのスイッチを入れた。時刻は午後十一時を回ったところだった。テレビの青い光が美穂の顔に当たり、その微動だにせぬ目や口を照らし出した。美穂は咀嚼することもやめ、テレビから流れる音にじっと耳を傾けていた。正確な音だった。一音も外すことなく、リズムも強弱も完璧、極めて繊細な音色が奏でられていた。手の平が羽ばたくように駆け巡り、自然な流れから編み出されてゆく和音の連続。テレビの中で、あの亜衣がピアノを弾いていた。曲はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。ミッドナイト・ミュージックが放送されていたのだ。黒いグランドピアノの前に同じく黒いドレスを着た亜衣が座っている。その中で白い二本の腕が際立ち、さらに際立つはずの顔が曇っている。『あの時と同じ悲しそうな顔だ』美穂は画面に釘付けになっていた。

 演奏終了後、亜衣は司会者や他の出演者たちに囲まれ、トークに参加した。出演者の中にはおよそ音楽を知らぬ者も交じっていた。世辞を言うお笑い芸人、哄笑する女性タレント、知った風な物言いをするベテラン俳優。亜衣は相手と目を合わさずに受け答えしたり、眉間にそっと皺を寄せたり、急に語気を強めたりしていた。この亜衣の微妙な「仕打ち」に他の出演者たちは気付いているようだったが、誰一人として作り笑顔を絶やすことがなかった。視聴者も亜衣の不遜な態度にいくらか気付いてはいたが、これがまた「橘亜衣は物怖じせず、かっこよい」という評判に繋がるのだった。仕事において身近な人々には好感を持たれていなかったわけだが、画面の向こうの視聴者には好かれていたわけだ。ある意味、彼女は無敵だった。

「さて」司会者は言った。「ここで番組から視聴者の皆様にお知らせがあります。五月十五日午後七時、ご覧のチャンネルでスペシャル・セレブリティ・オーケストラを放送します。橘亜衣さんをはじめ、若手の女性音楽家たちが一堂に集い、生放送で演奏します。橘さん、意気込みをお願いします」

「そうですね。私はラフマニノフのピアノ・コンツェルト第一番を弾きますので。どうぞご期待ください」

「フィギュアスケートでよく使われる曲ですね」ベテラン俳優が口を挟んだ。

「違います。それは第二番です」

「橘さんはきっと最高の演奏をされるのでしょうね」お笑い芸人が言った。

「……そうでしょうね」

 女性タレントが意味もなく大笑いした。亜衣はこの女性を睨み、何も言わずに視線を前に戻した。これには女性タレントも背筋が凍る思いをしたようで、その後、明らかに口数が減り、二度と笑わなくなっていた。司会者は平静を装い、淡々と先の告知の続きをした。終始、亜衣は番組が終わるのを今か今かと待っている感じだった。美穂はテレビのスイッチを消し、ソファベッドの上で仰向けになった。美穂はくすくす笑っていた。亜衣の言動に振り回される人々が妙に滑稽だったからだ。『亜衣さんはあんなに悲しそうな顔をしてピアノを弾いているけど、気が強くて挑戦的なのは健在なんだ』その時、携帯電話のベルが鳴った。

「はい。静井です」

「美穂ちゃん? 僕です。ザ・セブンの藤木です」

「藤木さん!」

「ごめんね、こんな夜遅くに。今、仕事が終わったところなんだ」

「いえ。それより、あのことですか?」

「そう、あのこと。明後日、店に来てほしいんだ。夜の八時に」

「土曜日の夜八時。ピアノが弾けるんですね?」

「そうだよ。演奏は八時半頃からかな。好きな曲を弾いてくれればいい。この間みたいに。三十分を二回。二回目は九時半頃からといったところかな」

「わかりました! ありがとうございます!」

「ははは。相変わらず元気がいいね。それじゃあ、明後日、よろしくね」

「はい! よろしくお願いします!」

 美穂は両手で携帯電話を握りしめ、しばらく歓喜に浸っていた。顔全体が崩れ、頬が火照るのをやめなかった。だが、その目はしっかりと彼方を見据えていた。そこには自分がピアノを弾く姿があった。それはさっきテレビで見た橘亜衣と同様、たくましく力強いピアニストとしての姿だった。


 二日後の土曜日、美穂は約束どおりザ・セブンに向かった。愛車のエメルスを近くのコイン・パーキングに停め、自由が丘の夜の街をひとりで歩いていった。美穂はこの日のために購入した白いワンピースと、その上から桃色のカーディガンという恰好だった。彼女なりにステージを意識したわけだったが、客観的には「お昼時のナース」に見えないこともなかった。時刻は午後七時。約束の時刻までまだ一時間あった。美穂はザ・セブンへの道から逸れ、楽器屋へと入っていった。

 店内で美穂は楽譜を何冊か手にとり、半透明の電子ピアノの前に座った。鍵盤は白と黒だが、他の部分は透けていて、骨格が浮き彫りになった感じである。以前から美穂が目を付けていたものだったが、特に今は亜衣に刺激されており、なおかつザ・セブンでの仕事も決まり始め、どうしても家にピアノが必要だった。値段は五十万円以上したが、美穂はローンを組んでも欲しかった。美穂が楽譜を開き、ピアノを弾き始めた時、背後から女性店員が注意してきた。

「申し訳ございません。お客様、売り物の楽譜をお使いになることは……」

「それなら、これ全部買います」

「え? はあ、ありがとうございます」

「それから、この電子ピアノも買います」

 ただの冷やかし客が一瞬にして上客に変わったことで、その女性店員は気分を良くしたようだった。あれこれ親切に商品の説明をし、美穂の機嫌をしきりに窺ってきた。美穂はこうした楽器屋の店員が一見客には冷たいということを知っていたので、先のような返答を思わずしてしまったのだった。お金に余裕があるわけはなかった。クレジットカードを持っていたからよかったものの、かなりのスパンでローンを組むことになった。浪費癖とまではいかなくても、美穂にはやや金遣いが荒い一面があった。だが、これによって美穂はまた一歩前進したわけだ。美穂は支払いを済ませ、楽器屋を出ていった。その足取りは軽かった。ちなみに、彼女は今回の演奏のための練習をいっさいしていなかった。自宅にあった楽譜を眺め、心の中で歌っただけだった。

 ザ・セブンの店内は賑やかだった。フロアには百名以上の客が入り、その間を店員たちが忙しそうに動き回っていた。客たちは若者から年配まで多種多様だったが、総じて行儀が良く、悪酔いしている客は一人もいなかった。照明は抑えられ、夕闇のようなトーンで店内を統一していた。美穂はその中を通り抜け、バーテンをしている藤木の元へと歩いていった。

「藤木さん、こんばんは」

「美穂ちゃん、待っていたよ。早かったね」

「ついつい早く来ちゃいました」

「はは。どう? 一杯、やっていく?」

「いえ。演奏前なので」

「冗談だよ。ほら、そこに座って。ウーロン茶でいい?」

「はい。ありがとうございます」

 美穂はバーカウンターの一席に座り、ウーロン茶を口にした。藤木の背後にある鏡には店内の様子が映っていた。『これからこの人たちの前でピアノを弾くんだ』美穂はそう思うと少し緊張した。大勢の人々の前でピアノを弾くのは彼女にとって久し振りのことだった。藤木はこの間とは別人のように働いていた。カクテルを作るのも、店員たちに指示を出すのも極めて的確だった。藤木は顔をやわらげ、美穂にこう言った。

「今、八時過ぎだね。予定より早いけど、弾く?」

「はい……」

 美穂は立ち上がり、カーディガンを脱ごうとした。その顔は震えていた。藤木は何を思ったのか美穂を制し、笑顔で言い直した。

「やっぱり少し話をしよう。そうだな、美穂ちゃんはどこに住んでいるの?」

「駒沢です」美穂は座った。「駒沢公園の近くで独り暮らしをしています」

「へえ。実家はどこなの?」

「北海道です。すごく田舎の方なんですけど……」

「北海道か! いいなあ。僕は生まれてからずっとこっちだから……」

「あの」美穂は演奏前で緊張しているせいか、突飛な質問をした。「藤木さんは結婚されているんですか?」

「え? いや、してないよ。今年で三十になるんだけどね、なかなか。二十代後半は仕事で忙しくて恋愛すらできなかったよ」

「藤木さん、恋人募集中ですか?」

「まあ、そうかな。美穂ちゃんは?」

「私も恋人募集中です!」

 二人は雑談をしているだけだったが、周囲の店員たちは「藤木さんが仕事もそっちのけで話しこんでいるなんて珍しいな。しかも笑顔だぞ」と囁き合っていた。藤木は常にクールな仕事人間だったのだ。いつの間にか八時半となった。美穂はカーディガンを脱ぎ、ステージへと歩いていった。白いワンピースからは彼女の肩や腕があらわになっていた。身長は約百六十五センチ。肩幅が広く、手首が男性のように太かった。客たちの視線が美穂に集まり始めた。美穂は軽くお辞儀をし、白いグランドピアノの前に座った。すぐに美穂は例の硬直した体勢になり、最初の一音を鳴らした。

 ショパンの英雄ポロネーズ――美穂はいたって軽妙に、なおかつ音を抑えて序盤のメイン・メロディーを弾いていった。中盤のオクターブ和音が鳴り響く箇所では、ほとんど何も聞こえないくらいだった。美穂はフォルテもフォルテシモも無視していた。だが、これが場の雰囲気に合った演奏となった。客たちは次第に美穂の演奏に引きこまれていった。亜衣のピアノが「正確・鋭敏」だとすれば、美穂のピアノは「軽快・柔軟」という感じだった。圧巻だったのは終盤の手前。右手が単音を奏で、左手が二三の和音を奏でる静かな箇所では、ピアノの音色も美穂の姿も情けないほどやわらかく変化した。これが聴く者に強いシンパシーを感じさせたようだった。美穂は曲の最後の箇所も流れるように弾ききった。

「ねえ。今の、聴いた?」

「ああ、聴いたよ。すごくいいね」

 各々のテーブルでは客たちがそんな風に語り合っていた。小さく拍手する客もいた。店員たちも肩の力が抜けたようだった。藤木はバーカウンターの上で両手を組み、満足げに頷いていた。ステージ上の美穂は続いてショパンやドビュッシーの名曲を弾いていった。彼女はこれらの曲を全て暗譜しているのだ。リズムや強弱にわずかなズレがあったものの、一音たりとも間違えることがなかった。九時半からの演奏でも同様だった。美穂はさらにジャズをとっさのアレンジで弾いてみせた。彼女は即興やアレンジに長け、非常に創造的な頭脳を持っているのだ。

「神野君。あのピアニスト、誰?」

「さあ? 誰でしょう?」

 フロアの片隅のテーブル席に座っていた一組の男女。エリートの雰囲気が漂い、知的で音楽的な顔付きをし、何か周囲の客たちとは一線を画していた。物静かで、ひそひそと先程から仕事の話ばかりをしていたが、美穂の演奏が始まるなり、その音色に少しずつ耳を傾けてゆき、今ではすっかり気になってしようがない様子であった。特に手前の四十代前半の女性、西園寺京子はその縁なし眼鏡の奥から涼しげだが鋭い目を覗かせていた。隣にいた二十代後半の男性、神野琢己は少し笑いながら言った。

「気になりますか?」

「気になるわ。あの娘、他の人とは違うものを持っているわ」

「西園寺さんが言うなら間違いないでしょうね。何せ、『新時代を担う音楽プロデューサー』なんですから。この間の音楽雑誌で見ましたよ。おもしろいインタビュー記事でしたね。あの東城重光に対抗しうる唯一の人とか何とか……」

「神野君。そう言う君はどうなの? 若い女性ピアニストに『逃げられた』ばかりで、今はフリーなんでしょう?」

「ああ、そうですね。やれやれ、あの娘でも担当しようかな……なんちゃって」

「それはありかもね。そうなったら私がプロデュースするわ。ちょうど今、新しいピアニストを探しているところだし」

「本当ですか! だったら、早速、声を掛けてきますよ!」

「冗談よ。いえ、あながち冗談でもないかもね。だけど、そんなに焦って行動しては駄目よ。ちゃんと見極めないと……それにしても、拾い物だわ」

 音楽プロデューサーの西園寺京子と、音楽マネージャーの神野琢己。この二人が偶然にも自由が丘のザ・セブンに来店し、なおかつ美穂の「初演」を聴いたのは運命的と言ってよかった。結局、この日は二人とも美穂に声を掛けなかったが、後に神野が何度もザ・セブンに通うきっかけとなった。そんなことは露知らず、当の美穂は相変わらず気持ち良さそうにピアノを弾き続けていた。だが、美穂の周りでは音楽業界全体をも包みこむ大きな潮流が胎動し始めていたのだった。そして、それは亜衣へと続く道でもあった。

「美穂ちゃん、お疲れ様!」

「あ、はい……」

 演奏を終えた美穂は藤木の言葉にも少し頷くだけだった。藤木に褒められても、お金のことを話されても、次回の演奏のことをお願いされても、ほとんど反応しなかった。ふらふらと店から出てゆく美穂を見て、藤木は俄かに心配をしたが、むしろこれからの期待感の方が彼の中では大きかった。その後、店は午後十一時半まで営業を続けたわけだが、客たちの間では美穂のことで持ちっきりだったことは言うまでもない。

 さて、その美穂だが、彼女は決して疲れきってしまったわけでも、ましてや燃え尽きてしまったわけでもなかった。むしろ心に火が点いたのだった。確かに美穂は大きな一歩を踏み出した。しかも、それを成功に収めた。だが、彼女は納得がいってなかった。約一週間前に聴いた亜衣の演奏と今さっきの自分の演奏を比べ合わせ、二人の間にある実力の差とスケールの差を痛感していたのだった。『亜衣さんに負けないくらいのピアノが弾きたい……』美穂は夜道を歩きながら、そんなことを考えた。贅沢すぎる欲求とも言えるが、これは彼女の心の内に向上心が芽生え始めていることを意味していた。美穂は今、まさに羽ばたこうとしているのだ!

 その後、美穂は定期的にザ・セブンでピアノを弾くようになった。たいていは土曜の夜だったが、週によっては何日も登場することがあった。彼女の評判は日を追うごとに広まってゆき、少しずつファンなるものが形成されていった。その中には神野もいたが、無論、彼はビジネスとして美穂を見に来ていたのである。カナリアに関してだが、美穂はこちらの仕事も真面目に続けた。電子ピアノのローンを返すためにお金をたくさん稼がなくてはならないという理由もあったが、それよりも花のことが好きだったからのようであった。千里や友紀は美穂を応援してくれた。千里は「これで大切なお得意様が一つ増えたわね」と冗談まで言うのだった。

「あ、静井美穂だ!」

「花のピアニストだ!」

 美穂はザ・セブンでいつしかそう呼ばれるようになった。彼女はザ・セブンに注文された花を時々持っており、その花を髪に挿すようになったからだった。また、時には「白いピアニスト」と呼ばれることもあった。これは彼女がたいてい白い衣装を身に付けていたからだった。こうして美穂のザ・セブン時代が幕開けていった。

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