第2話 四季より冬

 翌日の月曜日、美穂はいつものようにカナリアで仕事をしていた。カナリアは赤レンガをベースとした店構えで、どことなく大きな暖炉といった感じの外観だった。敷地四十平米ほどの店内には色とりどりの花々が所狭しと並べられ、蛍光ペンで手書きされたポップがそれぞれに飾られていた。今は午後二時で、お客さんは主婦が中心だったが、若い女性の姿もちらほらあった。美穂の働きぶりは概して一生懸命で、笑顔や親切な対応がお客さんに受けが良く、店長や他の店員にも認められていた。確かに美穂の笑顔は周囲の人々を安心させるものだった。黒目がちの目は愛くるしく、唇はぽってりしており、現代風の可愛らしい顔と言えた。こげ茶色の髪は肩の下まで伸び、軽いウェーブがかかっており、仕事中はたいてい後ろで一つに結わえていた。腕まくりした長袖シャツにジーンズ、その上から赤いエプロンという恰好だった。

 花屋とは正面が美しく、通行人に小さな幸福を与えてくれるものである。だが、実際は花の入荷や手入れ、それに水を入れたり捨てたり掃除をしたりと意外に力仕事で、また地味なのだ。こういう所で働く人々は花に対して思い入れがあるのか、ただ純朴な性格なだけなのか、そのいずれかなのだろうが、友紀は前者で美穂は後者であると言えた。友紀はフラワーアレンジメントの勉強をする傍ら花屋で働いており、いずれはその道のプロとしてやっていくつもりだった。美穂は友紀からそんな話を聞かされるたびに『友紀には目標があっていいな。私はお金のために働いているようなものだから』と考えこむのだった。

「美穂! 配達に行ってくれる?」

「あ、はい!」

 美穂は花から手を放し、店長である岩谷千里の元へと駆けていった。千里は非常に背が高く、なかなかの美人であったが、三十代半ばにして未だ独身であった。かつて彼女は店をチェーン展開しようと考えたことがあったそうだが、今ではすっかり諦めてしまっているようだった。ただ、店の評判は良く、時には噂を聞きつけて都心の方から注文が来ることもあった。千里は高い目線から美穂にこう言った。

「自由が丘のザ・セブンという店に花を届けてほしいの。そこの籠に入っているガーベラね。住所はこの紙にメモしておいたから」

「何のお店なんですか?」

「カフェ・レストランみたいよ。かなり大きな。なんでも今夜オープンするらしくて。美穂、頑張ってセールストークしてきてよ。気に入ってもらえたら大事なお客さんになるかもしれないんだから」

「はい! 行ってきます!」

 赤と黄色のガーベラが入った特大の籠をバックシートに置き、美穂はエメラルドグリーンのミニ・オープンカーに乗りこんだ。通称、エメルス。全体的に丸みがかり、蝸牛のようなフォルム。彼女が「仕事用に」と購入し、なおかつ私用でも乗っている車である。その代わりと言ってはなんだが、カナリアの駐車場を無料で使わせてもらっていた。美穂は手際良くエンジンをかけ、出発した。

 すぐ近くにある駒沢公園の前を通り過ぎ、途中でオリンピック公園の方へと曲がってゆく。美穂はこの一帯の雰囲気が好きだった。雑然としている246周辺とは異なり、カナリアのある駒沢公園付近も、オリンピック公園付近もどこか長閑で、東欧の小都市のような雰囲気があった。オープンカフェやチョコレートショップ、木のにおいがしてきそうなアウトドアショップ、小犬を連れた若奥さん、広場でバスケットボールをする少年たち。都会でありながらも時間がゆっくりと流れている感じがあった。天気が良くて、最高のドライブ日和だった。青空の奥にある太陽が眩しく、ぽかぽかしていて、気持ち良い風が吹いていた。美穂はCDデッキのスイッチを入れた。曲はヴィヴァルディの「冬」第二楽章。曲名に似合わず春のようにのんびりとしたメロディーで、バイオリンの弦をはじく音が心地良く、美穂のお気に入りの曲だった。美穂は曲に合わせて自然と歌い始めた。

「もしも、春に雨が降らないとしたら、私もお花も悲しむことでしょう。だけど、必ず雨が私たちの街に楽しい嬉しい雨を恵んでくれる。だからね、くじけず、夢を……」

 ご覧のとおり彼女は素直で元気な性格で、とにかく音楽が大好きなんだということがわかる。そんな彼女がどうして音楽の道を諦め、花屋で働いているのか。それは現実によくあるように「篩にかけられた」からであった。音大を卒業するだけではピアノの先生か、カフェやホテルのピアノ弾きにしかなれない現実。よほどの才能がない限り、ピアニストとして生計を立ててゆくのは難しい。ましてや活躍するとなると、才能だけでなく運や人脈も必要となってくる。二年半前、美穂が音大の卒業を間近に控えていた頃、彼女もまた音楽かそれ以外の道かで悩んだ。コンクールでの受賞経験がなく、海外留学や国内活動のつてもなく、何より自問自答の結果、『自分には才能がない。やっていけない』と結論したのであった。こうして美穂は自宅のマンションからほど近い、たまたま前を通りかかっただけの花屋で働き始め、早くも二年以上の歳月が流れていったわけだった。

「あれ? この辺なんだけどな……」

 ミニ・オープンカーから頭を覗かせ、左右を見渡す美穂の顔は可愛らしく、どことなく小動物のような印象があった。白い肌は健康的で、頬はふっくらしており、全体的にやわらかい感じで、化粧が薄いのに目鼻立ちがはっきりした顔立ちだった。美穂はようやく目的地であるザ・セブンを見つけ、その手前に車を横付けした。

「すみませーん! カナリアの者ですけど……」

「あ、はい。お待ちしていました。どうぞ、こちらに。花はそこに。支払いですね。ちょっと待ってください。君、彼女に何か飲み物を出してあげて」

 美穂の応対をしたのは店長の藤木慎一郎だった。年齢は二十九歳。背が高く、彫りの深い顔で、黒い短髪をきれいに上げていた。黒いベストにスラックスという恰好で、他の店員と違うのは下に着ているシャツが白ではなくグレーであるということくらいだった。美穂は言われたまま近くの椅子に座り、出されたアイスティーを飲みながら店内を見回した。白い石灰岩の床の上に木製のテーブルや椅子が並べられ、アンティーク調の電燈や天井扇が備えられてあった。全体的に見通しが良く、視界を遮る壁や柱がいっさいなかった。フロアは約百平米とかなり広く、客がゆうに百名は入りそうだった。テーブル席の他にカウンター席があり、その奥にはバーテンのセット、さらに奥には厨房があった。フロアの片隅には一段高くなったスペースがあり――実は美穂は最初からこれが気になっていたのだが――一台の白いグランドピアノが置かれていた。

「ごめん。お待たせしました、かな?」

「いえ」

 藤木はお金と領収書を持ったまま、テーブルを挟んで美穂の前に座った。今、フロアには二人以外に店員が八人、厨房にも数人いるようだった。店員たちはみな忙しそうに動き回り、オープンの準備をしていた。美穂の前に座っている藤木も忙しい最中のようで、焦っているのか手元が定まらない感じだった。美穂はふとした思いつきから次のようなことを口にした。

「あそこにある白いグランドピアノ……」

「ああ、あれね。オブジェにいいかなと思ったんだけど、意外と場所をとるんだよね。あれ、五十円玉がないな」

「誰かピアノを弾くんですか?」

「いや、誰も。カナリア様でいいよね?」

「はい。あの、ピアニストを雇ったりするんですか?」

「ううん、それはまだ考えていないな。ピアニストって二時間で一万円とか、それくらいするらしいからね。はい、ご苦労さん」

「私なら、その半分の金額でやりますよ!」

 藤木は改めて美穂の顔を見た。『何を急に言いだしているんだ、この娘』と彼は思い、少々不機嫌にもなったが、美穂の熱い目を見ているうちに考えが変わった。『なんだろう……もしかすると、すごくいい娘なのかもしれない』と思い直し、また美穂の豊かな胸とキスがしたくなるような唇にも惹かれていた。藤木は腕を組んで考えるふりをしてから、こう言った。

「君はピアノが弾けるの?」

「はい。音大のピアノ科を出ていますから」

「へえ。それはすごいね。じゃあ、少し弾いてみてよ。時間ある?」

「はい!」

 美穂はすぐさま立ち上がり、ステージの方へと歩いていった。白いグランドピアノの大屋根を開き、さらに鍵盤の蓋も開くと、静かに椅子に座った。布で軽く鍵盤を拭き、三つか四つ音を確かめ終えると、急に表情が変わった。可愛らしい顔が凛々しくなり、顔全体が大人っぽく、何より目が強い光を発していた。変わったのは表情だけではなかった。美穂のピアノを弾く体勢。両手から両肩まで一本の針金が入ったかのように硬直し、背筋もぴんと伸びていたが、それでいて草木のようにしなる感じも持ち合わせていた。美穂はピアノを弾き始めた。曲は先程まで彼女が車の中で聴いていた「冬」第二楽章。

 本来はピアノ曲ではないこの曲を美穂は即興でアレンジしていた。曲調もどこかオリジナルで、勝手に一つのフレーズを繰り返したり、普通では考えられないような強弱を付けたりした。藤木をはじめ、忙しく歩き回っていた店員たちまでもが動きを止め、耳を傾け始めた。ピアノを弾いている当の本人は恍惚とした表情になり、腕と上半身をゆらゆらと海中の珊瑚のように揺らめかせていた。美穂は最後の音を鳴らし、ペダルから足を外した。

「すごい、すごいよ、君!」

 藤木は勢いよく立ち上がり、両手を打ち鳴らした。店員たちもいっせいに拍手をし、幸せそうに微笑んでいた。美穂は座ったまま、照れくさそうに頭を掻いた。藤木は美穂に近付きながらこう言った。

「君……名前をまだ聞いていなかったね」

 美穂は立ち上がった。

「静井美穂です」

「僕は藤木慎一郎。この店の店長でオーナーだ。美穂ちゃん、もしよかったらピアノを時々弾きに来てくれないか? もちろん仕事として」

「はい! ぜひ!」

「週に一度、週末に来てくれればいいよ。とりあえず一時間で五千円ってところかな。詳しいことは明日にでも連絡するよ」

「ありがとうございます!」

 美穂は携帯電話の番号を藤木に伝え、意気揚々と店から出ていった。エメルスに乗りこみ、エンジンをかけて出発すると、運転の最中ずっと鼻歌を歌っていた。それはさっき弾いたばかりの「冬」第二楽章だった。オリンピック公園の前を通り過ぎ、そろそろカナリアに着く頃、美穂の表情は変わり、鼻歌を歌うのをやめていた。ハンドルを持つ両手の指を細かく動かし、「冬」ではない別の曲をイマジネーションで弾いているようだった。彼女は何を弾いていたのか。それは間違いなくラ・カンパネラだった。

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