ダブル・カンパネラ

時永(トキ・ハルカ)

第1話 ラ・カンパネラ

 摩天楼に鳴り響く鐘の音――オクターブを越えて奏でられるピアノの音が新宿の街中を駆け抜けてゆく。静井美穂は足を止め、その音に耳を傾けた。

「ラ・カンパネラだ……」

 四月下旬。入学式や入社式も終わり、人々の生活が落ち着き始める頃である。日曜日の昼下がりともあって、大通りにはたくさんの買い物客が行き交っていた。春の暖かな陽気、どこか幸福そうで余裕のある人々の顔、声、足音。その中で美穂はピアノの音だけに耳を澄ませていた。『なんて正確なラ・カンパネラだろう……』美穂は友人の制止を振り切って、その音の方へと走りだした。

 高層ビルの陰から突如現れ、都会のオアシスのように開けた空間。四方を白い石造りの階段で囲まれ、正方形に掘り下げられた広場には何重もの人垣ができていた。その中心にある特設ステージの上でグランドピアノを弾く一人の美しい女性。それが橘亜衣だった。大きな目、細い線で描いたような鼻と唇。まるで病人のような白い肌。手足が長く、恐ろしく華奢な体。腰まで伸びた黒髪は同じく黒く輝くドレスの上で波打ち、彼女の動きと連動していた。亜衣はどちらかというと古風な顔立ちだったが、それを払拭するほど大きな目が魅力的だった。彼女が織り成す心地良い音色は聴衆たちと、いつしかその一団に加わっていた美穂を静まり返らせていた。

 ラ・カンパネラ――鳴り響く音は静かに、時に激しく美穂の心を揺さぶる。亜衣がクライマックスのメロディーを刻み始めると、その気持ちはさらに高まった。『なんて演奏なの。私にはとても真似できない。でも、どうしてあんなに悲しそうな顔をしているんだろう……』事実、亜衣は悲哀に満ちた顔をしていた。いや、むしろ無表情と言った方が正しいかもしれない。類稀な美貌、技術、感性、その全てを押し殺すかのように彼女はピアノを弾いていた。

「橘亜衣さんの演奏でした! 皆様、今一度、盛大な拍手をお願いします!」

 司会者の言葉によって再びわき起こる拍手。それに合わせ、美穂もゆっくりと手を叩いた。『橘亜衣……私と同じ二十四歳。私と同じ音大を出て、数々のコンクールで優勝している。今では若手ナンバーワンのピアニストとしてテレビや雑誌でも活躍している。彼女のピアノは昔から群を抜いていた……』美穂の耳にも亜衣に関する情報は日常生活の中で自然と入ってきていた。音大を卒業後、普通の社会人として働いている美穂からすれば、亜衣は憧れの存在。ただ、この偶然の再会がもたらしたものは決して憧れや羨望だけではなかった。ステージ上の亜衣はふわりと立ち上がり、機械的にお辞儀をし、作られた微笑を浮かべ、冷たい視線を聴衆に投げかけていた。

「橘さん、素晴らしい演奏でした! 来る七月には、フョードル・シュトラウセンの指揮のもと、ピアノ・コンツェルトを弾かれるのですね?」

「はい。シュトラウセンとの共演は長年の夢でしたので」

「皆様もご存知のとおり、橘さんはテレビの仕事も数多く抱えていらっしゃいます。隔週木曜日の夜十一時からはミッドナイト・ミュージックが。五月中旬に放送予定のスペシャル・セレブリティ・オーケストラも見逃せませんね!」

「ええ。現在、私たち若手が中心となってメディアでの活動を推進しておりますので」

「それから次回のイベントですが……」

 亜衣はほとんど面倒臭そうに受け答えしていた。あらかじめ決められたフレーズを口にしているという感じだった。それでも聴衆たちは大いに喜び、彼女の美しい姿を写真に撮る者も多かった。当の本人はどこか上の空で、細長い指を太腿のあたりでしきりに動かしていた。美穂はこの様子を見て、亜衣がさっき弾いたばかりのラ・カンパネラを頭の中で再度演奏しているのだと気付いた。そして、次の瞬間だった。

 ――あなた、誰?――

 亜衣と美穂の目が合ったのだ。二人の距離は十メートル以上あり、美穂の顔はポプラの一本木の陰に半分隠れていた。それでも互いの目は強烈に引かれ合った。特に美穂の目は熱く輝いていた。亜衣の目は相変わらず冷たい水を湛えていたが、どこか輝きを取り戻す瞬間があり、美穂に対して「あなたは誰なの?」と問いかけているようでもあった。

「美穂! ここにいたの?」

「あ、友紀。私のこと、探した?」

「当たり前でしょ!」

「ごめん!」

 美穂の友人がようやく追いついたのだ。一緒に買い物に来ていたのに、美穂が突然走りだしたことに彼女はいたく驚いているようだった。松島友紀は美穂より一つ年上で、駒沢のフラワーショップ・カナリアの仕事仲間である。友紀はあれこれ美穂に問いただし、普段の生活態度を含めて注意した。

「美穂はぼうっとしているかと思ったら、急に何かをしだすことがあるよね」

「え? そうかな?」

「そうだよ。この前も、お店で流すCDを何枚も買ってきたことがあったでしょ? しかも自分のお金で。お金がなくて困っていたはずなのに」

「あ、そうだったね」

「もう、しっかりしてよ」友紀はステージに目を向けた。「綺麗な人。橘亜衣さんでしょ? 私たちとは大違い」

 美穂の目はステージ上の亜衣にしっかりと向けられていた。だが、その目はもっと先の方、いや、過去を見ているようだった。

五年前、二人は後にも先にも一度だけ勝負をしたことがあった。同じ音大に通い、同じピアノ科に所属していた時、学園祭の催しの一環として学生たちによるミニ・コンクールが行われた。選出された学生たちは何でも好きな曲を一曲だけ演奏し、たまたま来ていた聴衆たちに「一番良かったピアニスト」に一票入れてもらうという趣旨だった。当時から周囲に期待されていた亜衣は最初の演奏。曲はラ・カンパネラだった。その後、数人の学生がピアノを弾いたが、誰一人として亜衣にかなう者はいなかった。ただ一人を例外として。そう、美穂のラ・カンパネラは会場中の人々を魅了し、大盛況に終わったのだ。投票結果は「美穂が一位、亜衣が二位」だった。これには音大の関係者は誰もが驚いた。いかに聴衆たちが素人だったとはいえ、専門家が判断すれば逆の結果になっていたとはいえ、二人の実力差や知名度の差は天と地ほど開いていたからだった。閉幕後、亜衣は美穂に詰め寄り、こう言い放った。

『あなた、静井さんでしたっけ? どうして、私と同じ曲を弾いたのよ?』

『私は、ただ……ラ・カンパネラを弾きたかったから』

『違う曲ならまだしも、あの曲を弾くなんて……』

『でも、橘さん。きっと、お客さんはその場の雰囲気で私に投票しただけですよ。そんなに気にしないでください』

『気にする? あなた、何か勘違いしていない? なんで私がこんなことを気にしなくちゃならないのよ!』

 あの時、亜衣は大きな目を険しく顰め、薄い唇を醜く歪め、珍しく闘争心をあらわにしていた。一方、美穂は謙虚な態度を見せてはいたが、心の中では何かが複雑に蠢いているようだった。この一件は周囲にいた人々をさらに驚かせたが、時が経つとともに忘れ去られてゆき、特に亜衣が国内外のコンクールで優勝するようになってからは口に出す者もいなくなった。ただ、美穂と亜衣の心の奥底には小さいながらも明確に刻まれていた。もっとも、今の亜衣は美穂の存在すら忘れてしまったようだったが。「あなた、誰?」あの時の亜衣の険しい目と、先程の冷たい目はこの一言に集約されていた。

そして今、二人の目がまた合った。ステージ上で太陽のように輝く亜衣と、ポプラの一本木から影を受ける美穂。二人の立場はかけ離れているけれども、何か共通する大きなものがあった。その何か大きなものをこの二人が求めてやまない、つまり、失われた情熱を求めているということで一致していたのだ。美穂は亜衣に目を向けたまま、そばにいる友紀にこう言った。

「友紀。私ね、あの人に一度だけ勝ったことがあるんだよ」

「勝ったことがある? 橘亜衣さんに?」

「そう。五年前、音大時代に学園祭のコンクールであの人に一度だけ勝つことができたの。曲は二人ともラ・カンパネラだった……」

 友紀は気付いた。美穂の目がいつもと異なり、春の陽射しを浴びて鮮やかに輝いていることに。自分を主張することがあまりない、謙虚過ぎる一面もある美穂が今は食い入るようにステージ上の女性を見つめている。友紀は少し溜息をついてから冗談半分にこう言った。

「それじゃ、もしも美穂がピアノを弾き続けていたら、橘亜衣さんよりも有名になっていたかもしれないね」

 美穂はこの問いかけに対してYESと答えただろうか? いや、美穂はまっすぐにステージの方を見ているだけだった。その可愛らしい顔はたくましく、何か大きな決意をしたようでもあった。亜衣や司会者、さらに聴衆たちが次々と広場から去ってゆく中、美穂は木彫りの人形のようにその場に立ち尽くし、撤収され始めたステージよりも遠くの方を見つめているようだった。広場が普段と同じ状態に戻り、そこを普段と変わらぬ人々が行き交うようになってはじめて、美穂は再三にわたる友紀からの催促にようやく応じた。

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