三題噺「白い糸」
桜枝 巧
「そうであるべきこと」
そのおじさんはテーブルの前で、お父さんが好きなお酒のビンが並ぶ棚を見ていました。大きさはお母さんの人差し指くらい。灰色のスーツに青いネクタイをしていました。背中にはその身長と同じくらいの大きなハサミが輪ゴムでくくりつけてあります。
お父さんもお母さんも眠った頃、私はトイレに行きたくなり起きてきたのでした。視線を感じたのでしょうか、その小人さんはすぐにこちらへと振り向きました。そしてこの春小学校に入学した私に気がつき、驚いた顔をしたのです。
「お嬢ちゃん、私が見えるのかい?」
なかなか言われてことがない「お嬢ちゃん」という呼び方に、おなかがもぞもぞしました。クマのぬいぐるみのチロを抱きしめこくりと頷くと、テーブルに近寄り何をしているのか尋ねます。
日本酒や、なんと書いてあるのかよく分からないラベルの貼られたワインや、大きなウォッカの瓶からは、お酒独特のきついにおいがしました。
「仕事だよ。『白い糸』を切っているのさ」
「『白い糸』?」
私が首をかしげると、おじさんは赤い糸って知ってるかい? と訊きました。それならお母さんから聞いたことがあります。人と人とを結ぶ、目には見えない不思議な糸。一昨日読んでもらった絵本にも出てきました。
知ってる、と私が言うと、おじさんは
「それなら話が早い。いいかい、『白い糸』というのはね、人と物とをつなぐ大切な糸なんだ」
とはにかんで説明してくれました。
人と人とが仲良くなる間に赤い糸があるのと同じように、人と物とのつながりの間にもそれをつなぐ「白い糸」があること。普通人の目には見えないこと。おじさんの仕事は、その「白い糸」を背中の大きなハサミで切ってしまうことだということ。
おじさんは爪楊枝のように細い人差し指で、まだ栓の開けられていない、一本の日本酒を指差しました。赤いリボンが小さく首に結ばれている、茶色の瓶でした。そして、右腕に巻かれている腕時計をちらりと見ます。何が書いてあるのかは当たりが薄暗い上に小さすぎたので見えませんでした。
「あの日本酒とお嬢ちゃんのお父さんを結んでいる、糸を切るんだ」
背中からハサミを手馴れた様子で抜いたおじさんは棚の中に入り込み、あっという間に瓶の前に立ちました。
ハサミをゆっくりと開いたと思ったその瞬間、ぱちんと小さく音を立ててそれを閉じました。何か細く長いものが、空中できらめいて消えてしまったような気がしました。
「切っちゃったの?」
私が尋ねると、おじさんは一仕事終え少しくたびれた、会社から帰ってきたお父さんのような顔で微笑みます。
私は思わず小人さんに向かって言いました。
「ひどい。何でそんなことするの?」
「それがそうであるべきことだからさ。それに、私の仕事でもある」
そうであるべきこと。お父さんが買ってきた大切なお酒とお別れしなければならないことは「そうであるべきこと」なのでしょうか?
私は怖くなってチロをぎゅっと抱きしめました。お母さんが買ってくれた、小さい頃から大切にしている大きなクマのぬいぐるみです。そして、はっとします。
「……チロも?」
おじさんはそのぬいぐるみのことかい? と言って、腕時計を見ました。どうなっているのかは分かりませんが、どうやらそれで確認しているようでした。
おじさんはただ一言、優しく笑ってそうだね、と呟きました。
やっぱり――私は下を向きます。
「人は成長する生き物だから、人とであれ物とであれ、いつかはつながりの糸が切れる。それは、仕方のないこと。そうであるべきこと」
けどね――とおじさんは私のほうを見ました。
「だからこそ、お嬢ちゃんはチロとお別れするその時まで、チロを大切にしなくちゃいけない。大事に思う気持ちが、糸を強くするんだから」
最近「白い糸」はどんどん細くなってきているのだと、小さなおじさんは言いました。私はチロを大切そうに、優しく抱きしめると大きく何度も首をたてに振りました。
「それにお別れってものは、悲しいだけというわけでもないんだぜ、お嬢ちゃん」
くたびれたスーツを身にまとったおじさんの声が、いやに小さく聞こえました。
次の朝、会社に出かけるお父さんの手には大きな紙袋がありました。昨日の不思議な出来事を思い出し、それって、と小さな声で呼びかけます。
お父さんは、ああ、これかい? と袋を持ち上げ、にっこりと笑いました。
「お父さんの会社に新しく人が入ってくるんだ。その人がお酒好きって聞いたから、これはプレゼント」
私は大きく目を見開いて、そうなの、とだけ言いました。
ちらりとお酒の棚の方を見ましたが、誰もいません。
ただ、テーブルから朝ごはんのいい香りが流れてくるだけでした。
三題噺「白い糸」 桜枝 巧 @ouetakumi
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