針の上のバランス

 花絵とヒロさんが、一週間ぶりにウチに帰ってきた。

「ただいまー。疲れたねーヒロ! 拓海ー、ビールある?」

「おかえり。花絵、少し日焼けした?」

「えっ嘘!? 日焼け止めで完全防御したはずなのに!?」

「花絵は日傘なんて鬱陶しいって全然ささないんだから、仕方ないんじゃない?」

「花絵さん、気にするほどじゃないですよ? それに夏くらい日焼けいいじゃないですか」

「そういう優くんは相変わらず美肌ねー」

 ウチの中は、一気に賑やかさがもどってきた。花絵も休暇を存分に満喫してきた笑顔で、俺はほっとしていた。


「永瀬君、少し話したいから、今夜ちょっと起きててくれる?」

 明るい空気に紛れて、ヒロさんがこそっと俺に囁いた。



  深夜、ヒロさんがビールを持参して俺の部屋を訪れた。

「ごめんね、こんな遅く」

「いや、明日も休みだし……あ、車ありがとう。海行ってきたよ、気持ちよかった」


 二人でとりあえずビールを開ける。


「……優くんと、なんかした?」

「いや」

 ヒロさんの単刀直入さはいつものことだが、俺ももう驚くような感覚はない。


「私たちも、そういうことはしてないわ。

 ——ただ、あの子は……花絵はあなたのことが好きなのよ、ほんとに」


「……優くんに、四角関係の話したよ。——彼はそれでもいいって」

 ヒロさんは、ぐっと悩むような顔をした。俺と同じ思いがあるのだろう。


「彼も、あなたと離れたくないのね——初めて心から信頼できる男に会えたんだから」

「………」


 しばらく、ふたり無言でビールを呷る。


「私、本気で花絵を抱くわよ?」

 ヒロさんの唐突なこの言葉に、俺は一瞬固まった。

「花絵を本気で愛しているのは、私なんだから。

 あの子が悲しんだら、その分だけ——それ以上に、私があの子を愛する」

 彼女の冷静な瞳の奥に、たぎるような強い光が見える。

「どうなるかはわからないけど——あなたも、真剣に考えて。あなたのことを愛してる人の思いに、どうやって応えるのか」


 強い語気でそう言ってから、ヒロさんはいつもの笑顔に戻った。

「ほら、せっかく開けたんだし、飲もうよ。モテる男はつらいってことよ」


 そういうライトなコメントで流せる状況でもないと思うのだが……

 とりあえず、俺はやたらに苦いビールをロボットのように呷るだけだった。



 


 翌日、夏季休暇最後の日曜の朝。

 遅めに起きてきた俺は、リビングで自分のトーストを準備している花絵と顔を合わせた。

「花絵、おはよう」

「おはよ。……って、もう11時だけどね?」

「あれ、他の二人は?」

「ヒロが、優くんにかわいい服買ってあげるってさっき一緒に出かけたわ。優くんがめちゃめちゃかわいいのよねヒロは」

 そう言って花絵は笑う。


「楽しかったみたいだね、休暇」

「うん。すごく。お盆に実家帰ったのも久しぶりだったし……ヒロともいっぱい楽しんだし。こっちはどうだった?」

「優くんと海見てきたよ。あんなに海を満喫したの、久しぶりだったな……気持ちよかった」

「……それから?」

「……それから? んー、あとはDVD借りたり、それぞれ本読んだりパソコンに向かったり……かな」

「……すごい普通ね」

「あはは、普通じゃないと思った?」

 何気なく返して、はっとした。

 ——今のマズかった……か?


「……気にしないことにしたわ。あなたが何をしてても。

 ——あなたがすることなら間違っていないって、信じられるもの」

 花絵は、落ち着いた顔で俺を見つめた。

「あなたが何をしてても、私はあなたが好きだわ」


 ……俺のどこがそんなにいいんだ。

 心底、そう言いたかった。

「……花絵にそんなこと言ってもらえるようなヤツじゃないよ、俺」

 実際にはそんなことをモゴモゴと口ごもるくらいしかできない。


「……優くんのことも。

 ——あなたが優くんを好きになっても、私は少しも構わない」


 ずっと心に刺さって疼いている矢に触れられたような感覚だった。



 窓を開けて、外気を吸い込んだ。

 俺も……大切なことを確認しなければならない。

「……昨夜、ヒロさんが言ってたよ。花絵を本気で抱くって……」

「うん。……4人全員が幸せになるって、そういうことよね……?

 ——ヒロは、私の大切な人。怯えていた高校時代の私を救ってくれた、命の恩人。

 ヒロが私を抱きたいって言うのなら、私は嬉しい」


「……そうか……」


  

 全員が、幸せになる方法……


 俺たちは、全員が満たされるための方法を選んだんだ。

 やっと、そのことが実感となった。



 お前には、待たせている人がいるだろう?

 ——俺の中で、もうひとりの俺の声がしていた。





 その夜、俺は優くんの部屋を訪れた。

「今、大丈夫?」

「どうしたんですか?……あ、宇宙論の本なら今間に合ってますよ?」

「いや、そうじゃなくてさ……」


 いろいろ考えてきたはずなんだが……どれもNGな気がしてきた。

「……何かあったんですか?」

 優くんは、不思議そうな顔で俺を見ている。


 ——やっぱりあれしかないのか。


 ……アレは、つまり苦肉の策なんだ。結局他にいい方法を思いつかないからやるわけで……その完成形がこれなわけだ……

 と、やや混乱気味の思考を展開しつつ、俺は彼を壁際まで追いつめた。

 ガシッと、両腕の間に彼を閉じ込める。——哀しいかな、今流行りのヤツだ。

 彼がリアクションできないでいる隙に……という流れは甘かった。


「どういうつもりですか」

 ぐっと睨まれてしまった。

 引き続き混乱気味で思考停止中の俺に、彼は鋭く言った。

「急にどういう展開ですか?

……どうせ、僕を待たせたままじゃ申し訳ない……とか、そういうヤツじゃないですか?」


 ……鋭いんだよなあ、この子……


「そんな義務感でキスしてもらって、嬉しいと思いますか? 永瀬さん、そういうのニブいんですね」

 彼は、少しおかしそうに笑って、そう言った。

「あなたが、本当に僕を必要だと思った時にしてください」


「義務感……だけじゃないとおもうんだが……」

 俺は、必死に自分の気持ちを分析しながら答えた。


「……え?」

 俺の解答に、優くんは急にドギマギし始めた。


「……そうなんですか?」

「……うん」

「……本当に?」

「うん……海行った帰り道も、そう思ってた……本当は」

「……え、じゃ、あの………」

 今までに見たことのない恥ずかしそうな顔で、言いよどんでいる。


「……なら……ほんのちょっとだけ……?」

「……うん」


「あの……ライト、消してください。……明るいの、なんか恥ずかしいし」  

 

 彼の言う通り、手許の照明スイッチをOFFにする。

 窓からの月明かりだけになった。


 壁に片肘をつき、壁際の彼の顎をそおっと指で支える。

 華奢な顎は、淡い月明かりに本当に壊れそうだ。


 そおっと、唇を重ねる。

 体温が行き交う。


 ——そっと離れる。


 目が合った……その瞬間、彼は真っ赤に頬を染めた。

 月明かりの中でも分かるほどに。


「………あ、えーー……以上! おしまい!! じゃっおやすみなさい!!」

 ばたん!!と部屋から出されてしまった。


 うーーん、なんで、あんなに柔らかくて、すべすべなんだ……?


 などと棒立ちになっている俺に、横からいきなり声がした。

「カオがやらしい」

「うわっ! なんだよヒロさん!! ちょっ、ちょっとだけキスしただけだしっ……」

「いやー全然いいのよ。あのキレイな唇、私もしたいし……いいなあ」

「ヒロさんだって言い方がエロいよ!」


「彼、嬉しいでしょうね……今頃、ベッドの上で女子高生みたいに足ばたばたして喜んでるわよ、きっと」

「そ……そうなの?」

「だって、大好きな人とのファーストキスだもん、当たり前でしょ」


 ……喜んでる……のかな?


 前途多難な状況は間違いないのだが……少なくとも、彼を喜ばせることができたのは、俺にとって特別な事だった。……というか、俺史上とんでもなく大きな出来事だった。



 4人が繋がる。

 これがどれだけ難しい関係なのか、まだ誰にもわからないまま……この前途多難な状況は一層複雑に激しさを増していくことになる。



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