危うい渦

 俺は、朝の光の射すリビングでひとりでコーヒーを飲んでいた。


 仕事もない。いつもなら自由気ままな開放感を満喫する夏季休暇だ。


 窓を開けると、陽射しに輝く緑が眩しい。朝の風はまだ僅かにさわやかだ。


「おはようございます……」

 優くんが起きてきた。いつもはきちんとしている彼も、寝起きは弱いらしい。大学が夏休みなこともあり、最近はますます溶けている。

「優くん、だいぶ溶けてるね。コーヒー飲む?」

「……眠いー……はい、いただきます」

 まだぼーっとしている優くんと、ふたりコーヒーを啜る。


「……無理をしてしまったんでしょ」

 寝ぼけていたはずの彼から、鋭い質問が飛んできた。


「……」

「僕は留守番くらいなんでもないって、言ったのに」

「俺がこうしたかったんだ」

 俺のきっぱりとした言い方に、彼は少し驚いたような顔をしたが……ちょっと笑顔になった。

「嬉しいです」

 うん。そう言ってもらいたかった。


 花絵とヒロさんは、お盆の帰省で不在だ。日にちを合わせて二人で観光する、といって出かけていった。


「……海とか、行ってみる?」

「あ、いいですね。……何となく海を眺めるくらいがいいな」

「そうだな。海を見に行こう」


 帰省の前に、ヒロさんが自分のコンパクトカーを俺に貸してくれた。

「ぶつけたりしないでよね?……あと、まあ……せっかくの休みなんだから、楽しく過ごすべきよ」

 ヒロさんは、自分自身にも言い聞かせるように、そんなことを言った。


 せっかく行くのだから、ちょっと遠出することにした。

 首都高速に乗り、東へ。成田から少し寂れた街を通り過ぎるうちに、次第に海の気配が近づいてきた。

 海沿いの道に出た。すぐ横は海だ。白い波しぶきと輝く青い海が突然視界に入ってくる。

「永瀬さん! 海、見えますよ! すごい!」

 窓を開け、優くんは子どものようにはしゃぐ。潮風が車内に流れ込んだ。

 どこまでも明るい夏のにおい。


 人ごみの予想される海水浴場付近を避け、少し道をそれた広い公園で車を停めた。

 目の前に広がる海。潮風を全身で浴びる。この開放感は本当に久しぶりだ。


 海に面したベンチで、海の広さと波音と潮風を満喫する。視界の遥か彼方まで断崖が続いて、海の広さを全身で感じられた。


「来てよかったですね! 気持ちいいな……こんなふうにどっぷり海に向き合ったの、初めてです」

 少し強い風を受け、海から視線をそらさないまま優くんが呟く。

「うん……俺も久しぶりだ」



 まだ少年の面影を残す横顔を見ながら、俺は考えていた。

 ヒロさんの言った、「四角関係」のことについて。


 まだ恋も実らせたことのない彼を、危うい関係に引き込むつもりなのだろうか、俺は——?

 俺自身も想像のつかない、危うい関係へ。



「……あのさ」

「なんですか?」

 優くんが笑顔で振り返る。


「……俺たち4人が、バラバラにならずにいられる方法を考えてるんだ。

 ——でも、その方法は、ひとつしかなくて……」


「………」


 彼は、俺の眼を見つめる。

 明るい陽射しの中で、その瞳は一層複雑な色に輝く。


「君が、それに同意できるか——聞きたいんだ」


 彼は、海へ顔を向けると、しばらくの間口をつぐんだ。

 ——どんなことを考えたのだろうか。


 そして振り返ると、言った。

「いいですよ。

 ……それであなたの側にいられるなら」


 彼は、さらりとした笑顔になって続けた。

「それに……第一、あなたが僕に応えられるのかだって、わからないでしょう?——あなたの気持ちが僕に向かない限り、僕の生活は今まで通りだ」


 彼の反応は、俺の想像より遥かに冷静で的確だった。



 陽射しに疲れて、喉も乾いてきた。

 公園の小高い丘の上に見つけた小さなカフェの窓際から、海が一望できた。

「今日は、海青いなー。室内から見る海はまた違う良さがあるよな」

「このガトーショコラ、美味しいです! やっぱりこれにしてよかったー」

 アイスコーヒーと、迷いに迷って選んだケーキに優くんはご満悦だ。

 さっきの超絶ヘビーな話は、果たしてちゃんと通じたのだろうか……?


「……で、今永瀬さんが好きな人って、誰なんですか?」

 甘いチョコレートケーキにおよそそぐわない剣のような質問に、俺は思わずコーヒーを吹きそうになった。


「永瀬さんが決めないと、はっきりしないんじゃないかと思います。僕たち4人は」

 俺をまっすぐ見つめて、彼は言った。


「あなたが僕を好きだというなら——僕も加わります」


 一番決められずにいるのは、やっぱり俺なのだった。





 帰り道の首都高速は、光の海だ。タワーや橋の両脇に並ぶランプが、さまざまな線を描いて光り輝く。


 優くんは、黙って窓の外を見ている。

 こんなふうに二人で黙り込む空気を、今俺はかなり意識していた。



「永瀬さんが決めなきゃ、はっきりしない」……彼は、俺にそう指摘した。


「僕を好きだというなら、関係に加わる」……さっき彼が真剣な眼差しで言った言葉の意味も、リアルに脳に突き刺さっている。


「きれいですね」

 優くんが、俺を見て静かに言う。

 夜の車内で、前の車のテールランプに照らされた表情は、昼間とは違う艶やかな美しさで……俺は不自然にドギマギした。

「……うん、きれいだよね……」


『——そう思うなら、彼に触れたらいいんじゃない?』

 まるで男子中学生のような囁きが、脳内に飛び込んできた。


 今まで封印していた思考。


『——やっぱり最初は、キスだろ?』

 別の男子が勝手に喋り出す。


『好きなら、キスしろよーー!』

『キスしないってことは、キライなんじゃないか?』

 ガキ共が口々に耳元で騒ぐ。

 混乱するから勝手に喋るな!!



 脳内のガキ共に散々騒ぎ立てられながらも——俺の身体は、結局何の行動にも移らなかった。

 そして帰宅した時には、その緊張感にただひたすら疲れ果てていたのだった。



 数日すれば、花絵とヒロさんも帰ってくる。

 抗い難い渦に呑まれることになるのだけは、間違いなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る