四角関係

 花火大会も無事(?)に終わり、8月がやってきた。

 暑い。毎年のことだが、暑い。

 ……が、ウチには平和が訪れていた。


 あの花火大会の夜以来、花絵の様子が少し変わった気がしていた。

 以前のようなギクシャクした空気が丸くなった。これまでは、優くんを「歳下のコ」というふうに軽くあしらうようなところがあったが、今は「一人前の男」として接しているようだ。むしろ俺に対するよりも柔らかく、優しい……なぜだ。


「花絵と優くん、あの時何があったんだろうね?」

「あなたより優くんの方が素敵に見える何かがあったんじゃない?」

 こそこそと話しかけた俺に、ヒロさんがニヤっと笑って言う。

「……えっ……」

 うーん……この平和、喜んでて大丈夫か??


 何はともあれ、角が取れた和やかな空気に俺はほっとしていた。


 この時期は、夜になってもうだるような暑さがまとわりつく。だが、会社内はエアコンが終日かかり、寒いほどだ。うっかりすると自律神経が乱れてくる。仕事から帰りシャワーを浴びてから、俺はバルコニーへ出てビールを開けた。

 外気は蒸しているが、風が少しある。身体のバランスが戻ってくる気がした。


「うーん、眼がチカチカする……」

 目頭を揉みながら優くんもバルコニーへ出てきた。大学は夏休みの最中だ。今日も部屋で一日パソコンに向き合っていたのだろう。

「優くん、ちゃんと外の空気吸ってる?」

「吸ってないので、出てきました。……あ、僕もビール飲もっかな」

「大学はいいなあ、夏休み長くて。俺にも半分分けてくれ」

 そんな他愛ない話をしながら、夜風に吹かれる。

 数ヶ月前、カフェの窓際で孤独な空気を纏っていた男の子が、こんなふうに自然な笑顔で側にいる……それが、なんだか不思議だった。


「そういえば、もうすぐお盆ですね。みなさん帰省するんでしょ?」

 そうか、お盆か……いつもなら神戸の実家へ顔出すけどな……

「んー……今回は帰省パスしよっかな」

「え?」

「いや、正月も帰ったしさ。……たまにはどこにも行かずだらっと休暇過ごすのもいいだろ」

「……あ、僕のことはいいんですよ? 留守番でも全然なんということもないし……」

「そーじゃない。実家帰るのもめんどくさいんだよな実は」


「……そうですか」


 彼の笑顔がこぼれた。

 ちょっと喜んでくれたのだろうか。




 新しく買った最新の宇宙論の本が面白く、部屋で読んでいるうちに夜更かししてしまった。

 そろそろ寝なきゃ……と思っているところへ、ドアをノックする音がする。


「拓海、今いい?」

「どうしたの、花絵? こんな時間に」


 ドアを閉めて、少し真面目な顔で花絵が言う。

「あのさ……上司にお願いして、今年はお盆にお休みもらえそうなんだ。

 だから、もし拓海の都合が良かったら……うちの実家の方を二人で旅行しない?」


 花絵の実家は静岡にある。富士山を臨む、自然の美しい小さな街だ。


「……」

 俺は、思わず返事に詰まった。


「……あ、実家に一緒に来てほしいとかじゃないのよ? 帰省がてら一緒に行ければと思っただけ」

 花絵も、少し慌てて付け加えた。

「……調整できるか、ちょっと時間もらってもいい?」

「うん。夜遅くごめんね。おやすみ」

 花絵はそれだけ言うと、足早に部屋を出て行った。



 予想以上に、困惑している俺がいた。





 それから3日経った夜。

 俺は、自分の気持ちを固め、花絵の部屋をノックした。



「花絵、ごめん。今回は行けなさそうだ」


「そっか……どうして?」

「今年は、ここにいようと思ってる」

「……」

「ヒロさんも帰省する予定らしいんだ。……だから」

「……だから、何?」


 俺は花絵を見つめた。

「——優くんが、ひとりになる。

 ……自分がひとりだという思いを味わわせたくないから」


「……私のことより大事?」

「比較することじゃないだろ? そう思うのは自然じゃない?」


「……自然なの?」


「……俺はそう思う。……ほんとごめん。また別の時に計画しないか?」



「また別の機会にしたら、今度は喜んで一緒に来てくれるの?」

 部屋を出ようとした俺の背に、花絵の声が追ってきた。


「……え?」


 うつむいた顔をゆっくり上げて、花絵は俺を見る。

「——ずっとあなたの側にいるには、どうしたらいいの?」


「……花絵、何を……」

「花火大会の夜、優くんと一緒にいて、分かったの。

 優くんは、周りの人を夢中にさせずにはおかない子だわ。——そして、彼があなたに恋をしていることも。

 彼に本気で求められたら、きっと誰でも彼に応えたくなる」


 心臓が早鐘を打ち始める。

 自分でも触れずにいた心の奥を、深く突き刺された気がした。


「あなたが彼を愛するようになっても——

 それでもいいから、私を今まで通り愛してほしい、って、あなたに頼めば……

そうしたら、あなたを失わずにいられるのかしら?」


「花絵……!?」

「私にとっても、あなたはかけがえのない大切な人なんだから……!!」

 

 半ば取り乱している彼女の手を思わず取り、俺は彼女の眼を見つめた。

 花絵は、混乱と真剣さの入り交じった激しいまなざしで、俺を見た。


「……ひとりにして」

 そして、彼女は小さくそう呟いた。



 彼女の言葉と、自分自身の思いに呆然としながら、俺は彼女の部屋を出た。



 ——そう。俺は、自分の思考に蓋をしていた。


 花絵は、俺を失いたくなくて、この共同生活を提案したはずなのに……

 俺は、その問題を見つめられずにいた。


 あなたの気持ちは、どこにあるの——?

 自分ですら解答を出せずにいるこの問いを、花絵に鋭く突きつけられた気がしていた。




 一晩中眠れなかった翌朝。

 出勤時、リビングでヒロさんと顔を合わせた。

 彼女はいつも通りドリップした香り高いコーヒーを飲んでいる。


「永瀬君も飲む?」

「あ……ありがとう」


 カップを受け取り、うつろな眼でコーヒーを啜る俺に、ヒロさんは静かに言った。

「前にあなたが言ったように……『四角関係』っていう選択肢もあるのよ?

 ——私たち4人が同意できるなら」



「……え」

「4人全員が幸せになる唯一の方法だわ。——じゃ、いってきます」



 俺は、思考のほぼ停止した頭で、ぼんやりとその意味を考えていた。



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