第12話 寂しき死
「あなた、どちらへ?」
旅行鞄を手にした妻が、私に尋ねてきた。
今日から一泊旅行に彼女は出かける。なんでも、高校時代の友人二人と一緒に、いちご狩りを楽しみに行くのだそうだ。彼女が友人と旅行など、数年ぶりのことだ。私は心安く承知して、二日間の気儘を楽しむことにした。
だが、家にいても暇である。
私は10年前まで家令としてお世話になっていた お屋敷の様子を見に行こうと思った。ここ二週間ほど行っていないので、そろそろ掃除をしておきたい。
「お屋敷の手入れをしてくる」
そう言うと、妻は微笑んだ。
「山城さまのお屋敷ですね。わかりました。気をつけていらしてください」
「きみも気をつけてな」
「はい、あなた」
私は妻よりも先に家を出た。
出かける人を見送るのは嫌いだ。もう戻ってこないのではないかと思ってしまう。あの日のように。そして、あれから お屋敷を去ってしまった ご一家のことが胸に迫る。
私は3本の鍵だけをズボンのポケットに携えて出かけた。
お屋敷は町の南。高台の上にある。林に囲まれた、静かな場所だ。
私は散歩がてら高台への坂道を上り、お屋敷へと向かう。
高台には家が何軒か建っているが、一番大きくて立派なのは、山城さまのお屋敷だ。煉瓦と鋼鉄の柵で囲まれた敷地は広く、車寄せを備えた大きな玄関に、威風漂う石造りの正面。本棟の横には3台の乗用車を駐車できる車庫が建ち、ご一家がお住まいだった当時は運転手も待機していた。
懐かしい、職場であり、家。
幼いご姉妹は私を慕ってくれ、本当に あたたかい ご一家だった。
現在では引退なさっているご当主と奥様も、若夫婦も心の優しい方々で、毎日が幸せだった。
あんなことがあってから、ご一家の皆さまは思い出がある お屋敷に住むのが辛く、揃って出ていかれてしまった。私にお屋敷の後を任せ、経営する会社に近い高級マンションに引っ越しなさっていかれたのだ。先祖代々の土地であるために売ることはなさらなかったが、毎日を過ごすのは、やはり耐えられなかったのだろう。
私は門扉の鍵を開けた。
しっかりと閉じ、やや考えてから、鍵は閉めずに本棟へ向かう。
草木が生い茂っていた。
そろそろ庭師を呼んで、綺麗にしなくてはなるまい。しかし、ご当主は敷地内の草木を整えることにはお気が進まないようでいらっしゃる。どうせ見に来ることはないので気に病むこともないかと思えるのだが、なにか理由がおありなのだろうか。
家の中も放っておいてよい。ただ、侵入者などがいないか偶に見に行ってくれとだけ頼まれている。しかし、私は残された室礼を出来るだけ保ち、塵や埃などを清めるように努めた。時間はあるのだ。なんとか少しでも、あの輝かしい日々の証跡を留めておきたかった。
私は玄関の鍵を開けた。そして、風を通すために扉を開け放しておき、窓もすべて開けた。そして、ご一家が去られて最初に訪れた日に揃えた掃除用具を取り出しに、納戸へと向かった。
お屋敷には、既に電気もガスも通っていない。しかし、水道だけは使えるようにしていただいてある。従って掃除機は使えないが、雑巾がけは出来る。私はバケツに水を汲み、まずは はたきかけから始めた。電灯、壁の上部を はたきで清め、落ちた埃を箒で集める。それから雑巾で壁と床を磨く。電灯の笠も取り外して磨いた。
部屋数が多いので、1日ではとても終わらない。
私は焦らずに、ゆっくりと丁寧に掃除をしていく。
一部屋が終わるたびに、窓を閉めて施錠していった。
やがて昼が近づき、私は持ち込んであるインスタントラーメンでも食べようかと思案した。まだ2階のほうは手つかずであるし、帰宅しても誰もいない。鍋料理などのときに使う小型のガスコンロを備えておいたので、湯は沸かすことができるのだ。だから、こうしたときのために、いくつか食料と食器は置いてあるのだ。
私はキッチンへ向かう前に、2階の窓を開け放しておこうと思い、階段へ向かった。
そのときだった。
耳鳴りのような音がし、呼吸が苦しくなった。
なんだろう、疲れたのだろうかと思いながら階段をのぼる。
やがて胸に鋭い痛みが走った。
あまりの痛みに、うずくまる。
これは……!
危険を感じる前に、私は気を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます