第4話 幽霊屋敷での穏やかなる死

ようやくアリーチェが止まったのは、町はずれの大きな洋館の前だった。

「おい、ここ、空き家だぜ?」

「知っていましてよ」

錆の浮いた門扉を開け、すたすたとアリーチェは内側なかへと侵入はいる。躊躇している間にも、敷地内の奥へ彼女が進んでしまうので、仕方なく、僕は人目を忍んで門扉をくぐった。

 洋館は屋敷といってもいいくらいの規模で、大きな門扉の向こうには車寄せがあり、立派な──否、立派だっただろう構えの玄関がある。明るければ、そして、もうすこし手入れされていれば、執事とかいう人種が出てきてもおかしくないほど見事なものだった。いまとなっては、荒れ果てているが。いたるところに雑草が伸び、よく見れば玄関には蜘蛛の巣の残滓が垂れ下がり、不気味なことこの上ない。

 そういえば、小学生のころ、ここへ皆で肝試しに来たことがある。あれは、たくみの言いだしたことだったろうか。それとも、ほかの誰かが? いや、たぶん巧だろう。煕人ひろひといずみも夜の肝試しなど言い出すようなタイプではないし、澪子みおこは既に引っ越していた後だ。僕たち幼馴染みの中で冒険好きなのは巧である。どう考えても発起人は巧だろう。そんなことをつらつらと考えて首筋の冷たさを忘れようとしていると、アリーチェが言った。

「あなたと幽霊屋敷に行けなどと命じられなくて幸いでしたわ。この程度で怯えている軟き殿方のお世話をするなんて、いくら私でも荷が重すぎますもの」

 嫌味というトッピングをたっぷりと掛けた、アイスクリームのように甘ったるい口調。それは冷え冷えと耳介をたたく。あまりの言いように、一瞬、鼻がつんとした。

 薄く開いている玄関扉の隙間が、なおのこと雰囲気を高める。しかし、アリーチェは無造作につま先で扉を開けた。まるで汚いものに指で触れたくない、とでも言うように。なんという神経。

「だって、すげー不気味じゃんか」

 声量は抑えていたが、震えないために、勢いよく発せられた言葉だった。しかし、アリーチェは小憎らしいくらい泰然としている。

またもすたすたと屋内に侵入っていった。

「闇を恐れるのは野生の本能ですかしらね。そこに何もないからこそ、何かあるように思える。何かあったとしても、それを知ればおそるるに足りませんのに。何か不思議な、不可侵なものがあると自ら夢想しておいて恐怖するなんて、本当に人間とは興味深いものですわ」

「なあ、なんでここで、いまなんだよぉ」

 暗闇の中でアリーチェが心底呆れた、という表情をするのが手に取るように判った。その一秒前に響いた空気の震えが、如実に物語っている。

「いま、ここで、臨終を迎えようとしている者がいるからにきまっていますでしょう」

「いや。ここ空き家だから」

「空き家だからですわ」

 アリーチェが静かに言う。

「誰にも見咎められず、注意を払われず、援けも呼べずに」

「……え?」

 そういえば、なかはそれほど埃っぽくない。

 アリーチェが灯りを点けるのを断固として承知しなかったので、持ってきたペンライトすらポケットにしまわれたままだが、大きな窓ガラスは意外にも磨かれているようで、満月の月明かりを燦然と浴びている。その下。階段の踊り場に。

「……! 大丈夫ですかっ」

 何かを考える前に、身体が動いていた。

 二段ぬかしで階段を駆け上がる。

 痩身の老人が、俯せに倒れている。首は横を向いているので、鼻と口はふさがれていないが、問題は嘔吐物などが詰まっていないかだ。ただ、よほどのことでもなければ、横を向いていたので、その恐れはない。

 アリーチェの大きな ため息が聞こえる。

「ですから、私たちの仕事は、救命ではございませんと、何度……」

「この人、いつからここに⁉」

 アリーチェの瞳に月光が直射する。しかし、彼女は眩しそうにすらしない。

「……正午あたりからでしょうね。ですから、もう手遅れですわ」

「知ってて放置したのか⁉」

「救助されるなら、それは私にではありませんわ。もう何度も申していますが、私は救命者ではございませんのよ」

 わかっている。

 アリーチェは死神だ。

 人助けなど、してはくれない。望むほうが間違っている。

 けれど、僕は人間だ。

「それに、昼は貴方と別行動で、べつの仕事もしています」

 何故か、言い訳のようなことを彼女は付け加えた。

「……きみ、たち……」

 ふっと、老人の意識が戻ったようだった。

 薄手のシャツにニットのベスト。身なりのいい人だ。

「はい!」

 思わず大きな声で返事する。

 家族は、どこに住んでいるのか。

 こんな時間まで彼が帰らないことに心配しているはずだ。

 ここにいることに気づかないなんて。

 いろいろなことが一瞬で頭を駆け巡る。

 できるだけ彼が楽な姿勢になるよう、仰向けにして、背中を支えてやった。すると、老人の視線がアリーチェに注がれた。

「ああ……お嬢さん……迎えにいらしてくださいましたか」

 老人がアリーチェに手を伸ばす。しかし、彼女は動かない。

 僕は怪訝に思ったが、亡くなる間際の老人の言葉だ。それほど深く考えなかった。

「……貴方のときは終わりましたわ。心残りもおありでしょうけれど、安らかにこの時をお迎えなさい」

「いえ……わたしには……長すぎた、くらいです」

 老人は薄く微笑んだ。そして、両目を閉じる。僕は唇をかんだ。

「おやすみ、ノンノ《おじいさん》」

 しゃっと煌く刃が閃いて、ふわりと浮かび出た魂の緒を切り裂いた。

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