第2話 初仕事

 アリーチェの手伝いは、今夜が二度目だ。

 一度目は学校帰りだった。突然、電車内にアリーチェが現れたので、僕は息が止まりそうなほど驚いた。吊り革の輪が砕けてしまい、周囲がドン引きしてしまったのは早いところ忘れよう。親切な車掌さんが、「古くなってたんだなぁ。怪我はないかい?」

 ありがたさに涙ぐみそうになった。

「大丈夫です。あの、すみません」

 破片を拾うと、車掌さんは袋を持ってきて、それを入れるように言ってくれた。

「粗忽者ですのね、本当に」

 アリーチェが浅葱色の瞳を向けて微笑わらった。いいさ、好きなだけ笑えよ。

「なにしに来たんだよ」

 入学早々の三週間もの欠席で勉強についていけなくなりかけている僕は不機嫌極まりなかった。

「わざわざ下僕しもべを迎えに来た理由が任務以外にあるのなら、お聞きしたいものですわ」

 楽しげにさえ聞こえる声音に、僕は げんなりする。

「任務って……誰か死ぬのか」

「死なない人間など居りませんのよ」

 深い ため息をつく。

 意図した会話が成り立たない。

 いつも降りる駅より ひとつ前で、アリーチェは僕を促した。

「さあ、降りますわよ」

 そして、平然と改札を飛び越えていく。僕は焦ったが、誰も何も言わないので、思いだした。

 アリーチェは、人間には見えない。死神だから。

 本人は、死神だということを否定も肯定もしなかったが。

 僕は改札に定期をタッチさせた。良かった、定期の範囲内で。でないと、チャージ部分に入金する手間が発生するところだ。それを今、ぐずぐずやっていたら、確実にアリーチェは苛々するだろう。今日の任務とやらが終わったら、幾らかチャージしておこう。

 アリーチェは、ふわふわと歩いた。

 姿は見えないようにできても、すりぬけてぶつからないようにはできないらしく、彼女は歩行者をちゃんと避けている。幽霊との違いだろうか?

「アリーチェ!」

 追いつくと、彼女は口元にだけ微笑を浮かべた。

「今日は初めてですから。あまり難しいことはさせませんわ。安心なさいな」

「あ、そうなの」

 すこし、ほっとする。

「でも、鎌は持っていないので、結局は私がするのを見ていなさいということになりますのね。ああ、煩わしいですわ」

 かなり、不安になる。

 いずれ出てきた魂の緒を僕が切らされることになるのだろうか。

「理論より実践ですわ。いずれ、詳しいことも説明してあげますが、まずは私たちの役目を忘れないこと。死者の惨たらしさに涙するのは任務を終えてから。どんな死者を前にしても、死は死でしかありませんのよ」

「今日の死者は惨たらしいの……?」

 思わず、びくびくしてしまう。

 交通事故で血みどろなんてものだったら、見たくはない。

「どんな死も等しく安らかで、かつ惨たらしいのですわ」

 意味が解らない。

「死はすべての終わりではありませんのよ」

「生まれ変わるとか、天国に行くとか?」

「天国?」

 アリーチェの眉間にしわが寄った。

「どんな場所も、その魂によって天国とも地獄ともなるでしょう。この世界に天国も地獄もありませんわ」

「え、ないの?」

「当然です。死んだ者に試練も苦難も快楽も必要ありませんわ。肉体のないものに、そんなものは無意味です」

「じゃあ、死んだら魂はどこにいくんだ? 導き手がいるってことは、彷徨う者も出るのか?」

 アリーチェの唇から、小さく ため息が放たれる。

「死んだ魂の行くべき場所がどこなのかは、私にも正確に説明はできません。行ったことがないのですもの。さあ、そろそろですわよ。心の準備をなさい」

 道の真ん中で、そんなことを言われても。

 僕は周りを見回した。

 制服を着た学生たち。私服の男女。スーツ姿の男性。着物の老婦人。

 誰だ? 誰が死ぬんだ?

 こんな明るい春の日中に、どうして?

「あっ」

 誰かの叫び声がした。

「え?」

 続く悲鳴。

 倒れる若い女性。

 考える前に体が飛び出した。が、後ろからアリーチェに腕をつかまれてしまう。

「離せよ!」

「懲りない人間ですわね。あなたの為すべきことは救命ではありませんのよ」

 頭のなかが、かっと熱くなった。

「目の前の人を助けようとするのは、あたりまえだろ!」

「あなたが ただの人間ならば、そうかもしれませんわね」

 そう言って、アリーチェはナイフを振り回す若い男を見据える。

 その瞳が深紅に染まったのを見て、僕は唖然とした。

 アリーチェの手が離れたが、僕は動けなかった。彼女の威容を前にして。

 つかつかと男に歩み寄ったアリーチェは、ふわり、と宙に浮いた。そして、ナイフを握った男の手を蹴り下ろす。彼からすれば、空気に手を踏まれたかのようなものだったろう。ナイフを落とした男は、痛みに手を抱えて呻いた。

「ご自分の痛みには敏感ですのね」

 見下すような口調。

 怯えていた周囲の人間のなかで我に返った数人の男性が、勇敢にも犯人に飛びかかった。

 誰が呼んだのか、救急車とパトカーのサイレンが近づいてくる。

「……待って、アリーチェ」

 倒れた女性のもとに歩み寄る彼女に、僕は訊いた。

「助けられないのか?」

 こんなふうに、通り魔に襲われて、不慮の死を遂げるなんて、悲しすぎる。

 アリーチェが魂の回収をしなければ、あるいは……。

「私を」

 振り向いた彼女の瞳は、漆黒色をしていた。

「誰だと思っていますの」

 その指先は、煌く鎌の刃となっていた。

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