死神のお仕事

第1話 蘇生と覚醒

 他人様ひとさまのお宅の屋根から屋根へ、高く、低く跳躍する。

 死ぬ前の身体だったら、とうに息が切れていただろう。だが、甦ってからは運動で呼吸が乱れたことはない。

「間に合わなくってよ、有巣ありす!」

 不機嫌な声が叫んだので、僕は駆ける速度を上げた。

 目測を誤り、とあるお宅の垣根に突っ込みそうになる。慌てて門柱に手をつき、身体を反転させて路上に降り立った。ふう、と息をついて体勢を整える。手のひらに、かすり傷が出来てしまった。

「ああ、注意散漫ですこと!」

 上品な口調に辛辣な内容。

「ごめん、アリーチェ。先に行っていいよ」

 夜風に金髪をなびかせ、彼女は言った。

「主人についてこられない下僕しもべに価値などあって?」

「は、スミマセン。面目ない」

 人形もこれほど精緻には造れまいというほど整った美貌が、冷たく僕のほうを向く。

「まあ、今夜は満月。真に邪まなものが徘徊する夜ではありませんから、焦らなくても宜しいでしょうけれど」

 綺麗な横顔が、空に浮かぶ白い円盤を見上げた。

 碧の瞳に、艶やかな金髪。透けるように白い肌と、薄桃色の頬。

 慣れるまでは、ぼうっと見蕩れてしまうほどの美しさだ。だが、それも、いまの彼女の外見年齢でこそである。

 10代後半から20代前半。世の紳士諸兄も でれっとしてしまうであろう、美しい妙齢の女性。しかしてその実態は、驚いたことに人間ではない。

「いつも、こうしてノンビリ迎えに参上していましたら、大切な魂を邪悪なるものに屠られてしまいますわよ」

「うん。それはいけないよね」

「お分かりでしたら、急いでくださらないこと? もう間もなく臨終の刻限ですわ」

 腰の鎖から手繰り寄せた懐中時計を開き、アリーチェが言う。

「指令書の場所まで、あと5分で参りますわよ」

言うなり彼女は跳んだ。背中から白い光が破れて、黒い翼がはばたく。

「いいよなあ」

 ぼやいた後、僕も跳んだ。翼は生えてこないけれど、生身の普通の人間ではありえない高さの跳躍力はある。先ほどのように着地地点を間違えないかぎり、アリーチェに後れをとることもない。この力は、死んだからこそのものだという。

 そう。

 1か月前。僕は死んだ。

 乗っていた電車が人身事故で急停止し、その勢いで額を窓ガラスに強打してしまったのだ。なんとも間抜けな死にざまだったが、僕は生き返った。

 入院病棟で目を覚ましたとき、傍にいたアリーチェが説明してくれた。一時は、心臓も脳波も停止状態だったという。しかし、魂を肉体に戻され、ゆっくりと身体を事故前の状態に戻されたのだ。彼女──アリーチェに。

 つまりはアリーチェは、命の恩人なのだという。

 とはいえ、事故に遭う原因となったのも彼女だ。

 僕は本来なら、椅子に座っていた。だから、額を打つような目に遭うはずがなかったのである。しかし、幼女の姿をしていたアリーチェに席を譲ったために、自分の身をかばう余裕すらなく、額を激しく打ちつけてしまった。

 そう言ったとき、彼女は涼しい表情をして、こう答えた。

「あら。私は断りましたのに、あなたが強引に私を座らせたのじゃありませんの。あの愚かなる行為で運命が捻じれ、死ぬべきでない あなたが死んでしまったのでしてよ」

 僕は呆気にとられた。

 満員電車で、目の前に幼女が ぽつんと立っていたら、そりゃあ、まともな人間なら席に座らせるだろう。ところが、その反論にも彼女は揺るがなかった。

「手違いですわ。本来、あのときの私は、人間の誰にも姿が見えていないはずでしたのに、何故か、あなたには見られていたんですわ。どうしてでしょう。あなた、『光とおすもの』が視えるんですの?」

 彼女の言う『光とおすもの』が何かすら知らない僕に、答えようもない。

 彼女は、あからさまな ため息とともに、こう言った。

「これからさき、あなたはもう、普通の人間の暮らしはできません。少なくとも私にも責任のあることですから、しばらく助手をなさい」

「へえっ?」

 思いだすと恥ずかしい声を出してしまった。

「あなたには人間にない力が宿ってしまったのです。ですから、修行なさい」

「ちょ、ちょっと待った。なんで、そんな」

 慌てた僕に、アリーチェは無感情な瞳を向けた。

「べつに、私は構いませんのよ。飛び跳ねたら天井を突き抜けたり、転んだら地面に穴が開いたり、友達の肩を叩いたら腕がもげたりして怪物扱いされる人生を歩みたいというのなら、強いて止めたりなどいたしませんわ」

「……冗談だろ」

 青ざめた僕に、アリーチェが にっこり微笑わらう。その瞳の色が青みを増した。

「信じられないのなら、そのベッドの柵を指ではじいてごらんなさい」

 半信半疑で、ぴん、と鋼鉄の柵をはじく。ぎいん、と音がして、大きく柵が捻じ曲がった。

「ひえっ、ど、どうしよう」

 欠伸をしながらアリーチェが言う。

「反対側に おはじきなさいな」

「そ、そうか」

 言われた通り、さっきとは逆側から同じくらいの力になるように はじく。ぎいいん、という音とともに柵が動いて、ほぼ元通りに戻った。なんだか変な折れ跡はついたけれども。

「つまり、そういうことですわ。あなたには超人的な力が宿ってしまいましたの。もう、普通の人間ではありませんのよ。今までと同じようにしていたら、簡単に、身近な誰かの首でも へし折ってしまいかねないのですわ」

 正直、泣きそうだった。

「そんなぁ」

「ですから、私の手伝いをなさいと申しています。そうして修行していくなかで、力の使いどころや加減を学んでいけるでしょう。まあ、あなた次第ではあるでしょうけれど」

 立ち直れない気分でベッドに突っ伏した僕は、顔を半分あげた。

「その手伝いって、なんなんだよ」

 アリーチェの笑みに、はじめて真剣さが満ちた。誇りという名の。

 彼女は右手の人差指と薬指を伸ばし、すっと眼前に動かした。指先が伸びていき、銀色に光って尖る。まるで小さな鎌のように。

 僕は絶句して、その指先を見つめた。

アリーチェが厳かな声を発する。

「臨終に寄り添い、死者の魂を回収します。そして、あるべき場所に導くのですわ」

 三秒間、僕は固まった。

「死神じゃねーかあーっ」

 本当に泣き出したかった。

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