08 ツリフネフォール


 十一月。文化祭は終わり、学校は平常授業に戻っていた。

 笹賀谷は新聞部に顔を出さず、ほとんど誰とも口を聞いていなかったが、その中で唯一、那須原とだけはすれ違ったときに会釈くらいはしていた。

 秋の風が吹き抜けるさびれたホーム。

 笹賀谷はその日、吊舟駅のホームで偶然那須原と会った。

 笹賀谷は最近、授業が終わると誰よりも早く学校を出て、早足で駅に向かうようになっていた。新聞部員は全員が吊舟駅の利用者。運行本数は少ないし、ホームも小さい。顔を合わせないためにはこうするしかなかった。

「お久しぶりです」

 改札から一番離れた場所。紫の小さな花の咲く花壇の縁。その石段で電車を待っていた笹賀谷に那須原が話しかけた。

 本当は久しぶりではなかった。でも、確かに言葉を交わすのは久しぶりだ。

「駅で見かけないと思ったら、早いのに乗っていたんですね」

 那須原は笹賀谷の隣に少し空間をあけて座った。

「私、今日は用事があって急いで来たんですよ。普段より早いのに乗らないと間に合わないので」

 線路向こう、バラストの隙間から伸びる雑草が秋風に靡く。

 物凄く穏やかな世界だった。身体がすっと軽くなりそうだった。

「俺、みんなとちゃんとに話をしないといけないと思うんだ……」

「そうですね」

 二人は、正面のまばらな木立を眺めている。

「他の三人、じきに来ると思いますよ」

 那須原がそう言うと、減速しながら軋む列車の音が聞こえてきた。それは、ここ数日、笹賀谷が乗っていたものだ。

 那須原は立ち上がった。

「俺は、ここでみんなを待つよ」

「分かりました」

 那須原は電車に向かって二、三歩進んでから振り返った。

「くれぐれも、無理はしないでくださいね」

 そう言って微笑むと、那須原は電車に乗り込んだ。扉はすぐに閉まり、また軋みながら加速して去っていった。

 再び穏やかな風が流れ出す。

 笹賀谷は待った。


 10分くらい経過した頃、改札に学生服の二人が現れた。嵩間と葵だった。

 二人はすぐに笹賀谷に気付いた。

 二人はペースを変えず歩いて来た。笹賀谷はそれをただ静かに見ていた。

 二人が花壇の所に辿り着くと、笹賀谷は立ち上がった。

「よう、久しぶりだな」

 まず葵が言った。

「浩ちゃん、久しぶり」

 続いて嵩間も言う。

「久しぶり」

 最後に笹賀谷が言った。

 そのあと、しばらくは沈黙が続いた。腹の探り合いというわけではない。

 ただ、風を待っていた。航海士のように風を待っていた。

 やがて、心の波の上に一陣の風が抜けるのを感じた。それが待っていたものなのかは分からないが、笹賀谷は口を開いた。

「新聞部はどうなった? 校内新聞は?」

「ナッちゃんが頑張ったよ。友達を集めて、印刷かけて配布してさ」

「悪い」

「俺たちも何もできてない。礼なら本人に直接言ってやれ」

「田万川は?」

「たぶん、もうすぐ来るんじゃないか? ナッちゃんは……」

「那須原はさっき会った。一つ前の電車に乗ったよ」

「そうか……」

 会話が途切れると、本当に草木が擦れる音と遠くで鳥がさえずる音しかしない。

「まだ、付き合っているのか?」

 笹賀谷は前置きなく尋ねた。

「どうだろうな」

 葵は言いながら嵩間を見た。嵩間は、自分に話を振られたことに気付く。

「すべてなかったことにして、また楽しくできたら……」

 それはほとんど答えと言えるものではなかった。叶う見込みのない願望だ。

「ヒロ、そんなことはできない」

 嵩間も重々承知だということは分かっていたが、笹賀谷はわざわざ口に出して言う。

 それを見ていた葵が、鞄を地面においた。

「広海、ちょっと離れていてくれないか」

 突然、葵は嵩間を遠ざけた。笹賀谷と葵が一メートルくらいの間隔をあけて立つ。

 笹賀谷は、葵の様子をうかがった。葵の目は何かを語りかけていた。笹賀谷にはそれが何となく分かった。

 笹賀谷は、鞄を少し離れたところに放ると、その場でただ直立した。

 葵の身体は前方に傾きだし、次の瞬間、足を一歩踏み込みながら、その重い拳が笹賀谷の下腹部にめり込んでいた。

 笹賀谷は、何もせず、ただその場に立ち続けることに集中した。受けた衝撃が消化器官を駆けあがり口に抜けていくのを感じた。

「フミ君!?」

「来るな!!」

 笹賀谷は吠えた。嵩間はその場で金縛りのように固まった。

 葵はもう一発、さらに強い力を込めて打ち込んだ。

 胃の中のものが先程より高い所に到達する。目玉が弾け飛びそうになり、涙腺がピリピリして壊れそうになる。

「もうやめて!」

 嵩間は、笹賀谷のもとに駆けよった。

「どくんだ、広海」

「ダメだ!」

 嵩間は、笹賀谷の前で両手を広げ立ちはだかる。しかし、葵とはかなりの身長差があり弱々しい印象は拭えない。

「どけよ」

 笹賀谷は嵩間を背後から突き飛ばす。嵩間は硬い地面に打ち付けられる。その腕に血が滲んでいる。

「笹賀谷!!」

 葵は、今度は笹賀谷の顔を殴りつけ、よろめき前屈みになったところで下腹部に打ち上げるような一撃を入れた。笹賀谷は身体が一瞬浮き上がったように感じた。

「ダメだ!」

 嵩間は、再び二人の間に立つ。それから、笹賀谷の身体に触れようとする。

「俺に……触れるな!!」

 笹賀谷は、嵩間の腹を足の裏で蹴り飛ばした。

 嵩間は小さな呻き声をあげるが、すぐに起き上がろうとする。その掌には、血の筋が伸びてきていた。

 葵は笹賀谷に飛びかかる。何度も何度も殴りつける。殴る拳が衝撃で痛くなってくる。血が滲んで腫れ上がってきた。

「何をやっているの!?」

 それは田万川の声だった。

「来るな!」

 笹賀谷は、声を張り上げた。そして、その自分の声が何だか変な声だなと思った。

 葵は潮時だと思ったのか、拳を下ろした。そして、笹賀谷だけに聞こえるような声で言った。

「俺には、広海がお前に執着する気持ちが分からない。どうすれば、これほど人に執着できるのか分からない」

 葵は笹賀谷から離れた。笹賀谷も立ち上がろうとする。

 そこに、嵩間が駆け寄ろうとした。

 笹賀谷はそれを反射的に避けようとした。身体が何かから逃げようとする。統制を失った身体は、そのままバランスを失ってしまう。

「あ……」

 体勢を立て直そうとついた足の下に地面はなかった。

 自分の身体が落下していくのを感じた。

 この落ち方だと、横受け身? それとも、後ろ受け身?

 頭だけが妙に速く動いて、それはかえって自分のものではないように感じられた。

 気付いたときには、頬に鉄の感触があった。冷たかった。ものの数分で、自分の全体温が奪われてしまうのではないかと思えた。

「ダセェ……」

 笹賀谷は呟いた。

「おい、大丈夫か!?」

 葵がホームから下りようとする。

 笹賀谷は腕をあげてそれを制止する。

「大丈夫大丈夫」

「そうか。なら良かった。早く来いよ」

 葵は手を伸ばした。

 そのとき、ホームにけたたましい音が鳴り響く。通過列車を知らせるブザー音だ。

 笹賀谷は上半身を起こす。そして、そのまま立ち上がるような動作に移る。

 吊舟駅のブザー音は、かなりの余裕をもって鳴り始め、鳴り続ける。

 ホームの上の三人は、心配しながらも何一つ疑わず笹賀谷を呼び続けた。

 笹賀谷は立ち上がれないことに気がついた。身体が、立ちあがるという動作を忘れてしまったように、うまく動いてくれない。痛むところはあっても、動けないような怪我はしていない。しかし、身体の動作が見えざる何かに阻まれている。

 笹賀谷はすぐに立ち上がることをやめた。両脚を放り出したまま座って、自分のところから続く線路の先を見た。鉄の道が近づく振動を伝えていた。

 責め立てるような五月蝿うるさいブザー音は鳴り続け、三人は名を呼び続けた。

 本当に何もかもが五月蠅過ぎて、すべてがドロドロに混ざり合いながらカサカサの表面が擦り合わされ、擦り切れそうで滲みそうで、頭が芯から痺れていく感覚。

 不意にホームから人が一人飛び降りてきた。

 嵩間だった。

 その背後で、葵も飛び降りようとするが、田万川が死に物狂いで押さえ付けていた。力の差があるので、30秒と持ちこたえられないだろうが、田万川は髪を乱しながら葵の首を絞めるようにしていた。

 嵩間が笹賀谷のもとに駆け寄る。笹賀谷はもう嵩間を突き飛ばさなかった。

 重なりあい増幅するブザー音で声が聞こえにくい。嵩間は笹賀谷の声を聞きとるため、顔を近づけた。嵩間の色白の顔には、細かい傷が滲んでいた。

 嵩間は笹賀谷の身体を無理やり動かそうとする。

 しかし、笹賀谷は頑として動かない。

 笹賀谷は、嵩間の身体を抱きすくめ、その耳元に直接語りかけた。

「お前は、誰が好きなんだ?」

 嵩間は顔を少し引き離し、笹賀谷の目を見つめる。

「僕は、浩が好きだよ」

 笹賀谷は、その言葉を噛みしめ、そして改めて答える。

「そうか。悪いけど、やっぱり俺はお前を好きにはなれない」

 笹賀谷はその言葉を言い終え、嵩間の表情が変わらないのを確認すると、その薄い唇に自分の唇を重ねた。嵩間はそれでもまったく動揺する様子はなかった。

 笹賀谷は顔を離すと、嵩間に微笑みかける。嵩間はその微笑みを見て、急に取り乱す。

 笹賀谷は身体を後ろに倒しながら、暴れる嵩間を力の限り蹴り飛ばした。

 嵩間の身体は、ホームとは反対側に投げ出され、緩やかに転がり落ち、雑草が生い茂るバラストの上に辿り着いた。

 直後、嵩間の視界は横切る巨大な塊に遮られた。

 世界が張り裂けるような音を出しながら、その塊は止まった。最後尾は嵩間の目の前を通過した位置だった。

 ホームの上に人が二人いるのが見えた。葵と田万川だった。

 二人とも、怖くなるほど白い顔をしていた。田万川は口元を押さえると、その指の隙間からドロドロの液体が湧きだしてきた。人間の身体の中はこんなに大量の液体が詰まっているのかと思った。

 二人のシャツはまだら模様だった。不思議だと思ったが、よく見ると肌も斑だった。

 それは、完全な黒ではなく、実は赤い色だと気付いた。

 嵩間は、自分の顔に手をあてた。油のようにぬるっとした。手には真っ赤なものがついていた。それは、笹賀谷の命のしぶきだった。

 嵩間は、ようやく目の前で起きたことを理解した。










(おわり)






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ディスタンス 須々木正(Random Walk) @rw_suzusho

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