第2話 ジャポンイスⅠー織田信長について
ギフはもと信長の妻の姻戚が治めていた土地であるが、身内同士の些細な争いに乗じて信長が奪い、自国の新たな首都として作り直し、命名した人口一万人ほどの街である。
岐阜城はその町を見下ろす高い山の上に建てられており、その中心となる天守と呼ばれる城は我々ヨーロッパの装飾を取り入れた四層の巨大な建築であり、木造でありながらその壮麗さは、ローマの教会やイスパニアの王侯貴族の城にひけを取らないことは認めざるを得ない。
予め、信長公がヨーロッパや異国の話を聞くことを非常に好む、という情報を同行のフロイスや日本人のロレンソ了斎から聞いていた私は、彼を楽しませようと千一夜物語のシェヘラザードの如く多くの物語を胸にしまい、長い坂道を登り彼の待つ天守の大広間に辿り着いた。
ロレンソを通訳にフロイスとともに日本式の窮屈な姿勢でタタミの上で待っていると彼が現れた。
信長の脇に控えていた美少年がロレンソに何かを囁くと、初めて我々は頭を上げて彼を直接見ることを許された。
信長公は真直ぐに私を見ていた。
不本意ながら、恐怖に似た思いに駆られ、ほんの数秒で私の方から視線をそらしてしまった。
急に脇や額から汗が吹き出てきた。
これまで世界中で多くの高位な聖職者や貴族と出会ってきた私だが、あのような瞳をもった為政者に出会ったのは初めてであった。
いや、為政者では無いが、軍人時代に一度だけインドのゴアで出会った老人、確か若い頃に新大陸で何万人ものインディオを虐殺し、黄金を略奪して財産を築いたという噂の男が似たような瞳を持っていた。
それは、月の無い夜の凪いだ海のように、どこまでも果てしなく暗く静かな瞳だ。
「あなたは、やはり牛や馬の肉を食べるのか」と訊かれております。
ロレンソの通訳で我に返った私は、とっさに声も出ずただ頷いた。
その拍子に汗で塗れていたせいか、眼鏡が鼻先まで滑り落ちた。
それを見ていた信長公は、軽蔑したように薄く赤い唇を歪ませて笑った。
「まるで目が四つあるようだ、と信長公が言っておられます」
ロレンソの言葉に私は、聖職者としては失格なほど狼狽してしまった。
その後、信長公からいくつかの質問があったが、シェヘラザードを気取るなどとんでもない。私はどの問いにも、何一つ気の利いた答えをすることが出来ず、時には、あまりの狼狽ぶりを見かねたフロイスやロレンソが助け舟を出さねばならないほどであった。
明らかに信長公は私への興味を急速に失っているのがわかった。
しかし、この未開国で我がキリシタンの教えを普及させるには、愚かな民衆を相手にしていたのでは、百年待っても埒はあかないだろう。私の日本教区長としての職責を果すには、一人でも多くの有力な為政者にキリシタンの洗礼を授け、その権力をもって強制的に民衆を改宗させねばならないと私は信じていた。
そこで少し落ち着きを取り戻した私は、何とか信長公に我がキリスト教について興味を持ってもらおうと、きっかけを待っていた。
信長公はルイス・フロイスが進呈した地球儀を常に傍らに置いていた。聞けば、彼は「この世は実は丸い」ということに対してほんの僅かな説明を聞いただけで「それは理にかなっている」と納得したと言う。
その地球儀を見ながら甲高い声で尋ねた。
「パードレ・カブラルよ。かつてフロイスは私にこの世は球体で、太陽を含むすべての星はその周りを回っていると教えてくれた。しかし、一方でキリシタンの中にはこの世の中心は太陽であって、我々の世界は太陽の周りを回っているという主張をする者たちもいると聞くが、そなたの考えは如何に」
ロレンソの通訳を聞いて、私はここぞとばかりにローマカトリックの主張を並べた。
即ち、聖書の記述において、神がこの世を安定させたとあり、さらにヨシュア記においては神の意思で太陽を動かしたり止めたりするとの記述がある。これは神が創りたもうたこの大地が宇宙の中心である証拠であると。
私は再び汗だくになりながら説いた。
太陽はこの世に光を創った神の姿であり、球体であるこの世の周りを常に回っているからこそ、世の半分が昼であればその反対側は夜になる。だから、悪魔たちは、神の姿の消える夜になるとこの世を跋扈し、神の姿が顕になる朝になると消えていくのだと。
私は日本語が理解できない。だからロレンソが私の聖書を引用した長い話をどう訳したのかわからない。
しかし信長公がロレンソの通訳を僅か数分で遮ったことで私は私の目論見が達成出来なかったことを理解した。
信長公が短く言った日本語が聞き取れた。
「で、あるか」
そして信長公は黙って立ち上がると奥の部屋に消えていった。
私は深い敗北感を覚えた。
その後ギフの町には「異人の眼は四つあるらしい」との噂が立ったという。
それは多分私がギフの街と信長公の脳裏に残したたった一つの印象だったのだろう。
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