オルフェウスの竪琴

Sayaki

オルフェウスの竪琴


アポロンから受け取った竪琴

オルフェウスがそれを弾くと

動物たちや木々や岩までもが

彼の周りに集まり耳を傾けた




「いやぁ……本当に美しい場所ですね」

 眼下に立ち並ぶ石を呆然と眺めていた女性へ、一人の男がそう言って話しかけた。女性は興味も無さそうに彼を一瞥し、再び視線を目の前に広がる石の塊へ向ける。

 ゆるやかな斜面に点在する木々を、そよ風が揺らす。草原の海に沈み行くかのような石たちが、それでも所々で必死に顔を覗かせて己の存在を誇示している。彼は彼女が向けた視線の先、寂れた遺跡群を眺めながら穏やかな声で話を続けた。

「ここはブルガリアでも特別な場所ですね。旧ギリシア時代、トラキアゆかりの遺跡です」 

 彼のその言葉へ、彼女は静かに冷たく応じた。

「……知っているわ。私はこの近くに住んでいたから」

 彼は少し驚いた後、うなずきながら彼女へ言葉を続けた。

「なるほど……それで貴女は、真っ直ぐこの場所まで来たのですね」

 彼女は再び彼に視線を向けた。先ほどと違って、その目には猜疑の光が宿っている。

「貴方はただ観光に来た、というわけではなさそうね。何者なのかしら?」

 彼は不思議と憎めない愛嬌のある顔でにっこりと笑って、その問いに答える。が、その瞳は雑然と並ぶ石に向けられたままだった。彼の声は、なおも静謐な水面の如く穏やかである。

「私……ですか。貴女を追っている者です……と言ったら、貴女はどうしますか?」




オルフェウスの最愛の妻

エウリュディケーは

ある日毒蛇にかまれ

幸せの中突然の死を迎えた


絶望に悲しむオルフェウスは

やがて妻を取り戻す決心をし

死者の住む冥府へ入っていった




 彼女は全く驚いた様子を見せず、美しい顔に軽く侮蔑の感情を浮かべながら低く落ち着いた声で言った。

「ふふ、別にどうもしないわ。いずれこうなると知ってたから。貴方、私を捕まえに来たのでしょう? そうよ。あの男を殺したのは……私よ」




オルフェウスの竪琴の音色に

冥界の人々は魅了され

みな涙を流して聴き入った


ついにオルフェウスは

冥界の王ハデスに会い

その竪琴を奏でて最愛の妻

エウリュディケーの返還を求めた




 彼女は淡々と、まるで他人事の様に無感情な声で話し続けた。

「ここは私が好きだった場所。子供の頃は、この石っころの集まりがどれだけ価値があるのかも知らず……よく乗っかって遊んでいたものだわ」

 心地良い乾いた風が吹きぬける小高い丘。彼女は乱れたブロンドの髪を左手でかき上げながら、それまでとは違って口調に微量の苦味を加えてさらに言葉を続ける。

「あの男は奥さんと別れて、私と一緒になると誓ったの。もう奥さんとは絶対に会わないと誓ったのよ」

 そこで彼女は、自嘲の笑みを浮かべながら遺跡に向けていた視線を地に落とした。男は穏やかな表情と無言を保ちながら、そんな彼女の横顔を見詰めている。

「……だけど私、見てしまったの。あの男が……奥さんと会っているところを」




オルフェウスの哀しい琴の音

心酔し涙を流す妻ペルセポネに

強く説得された冥界の王ハデスは


「冥界から抜け出すまで

決して後ろを振り返って

妻の姿を見てはならぬ」


その条件を申し付けて

彼の妻エウリュディケーを

オルフェウスの後ろに従わせて送った




 その言葉に彼の表情から笑顔は消え、漆黒の夜に似た沈痛な面持ちで彼女に言った。

「そうでしたか……昨日の朝にそんなことが……」

 彼女は視線を石の群れへと戻した。目の前の遺跡は、何事も無かったかのように数千年の歳月で朽ち果てたその姿を彼らに見せている。その先には、哀しいまでに澄み切った青い空が広がっていた。形を変えながら流れゆく雲を、その遺跡は途方も無い年月の間、その姿を今にとどめながらただずっと静かに眺め続けていたのだ。

 見慣れた景色。幼い頃の暖かな記憶。彼女は少しだけ落ち着きを取り戻し、優しく目を細めながら彼に応じた。

「だから私、いそいで列車に乗ってここへ来たの。最後にこの景色を見ておきたかったから……」




暗い世界の奥に光が見え 

暗き冥界からあと少しで 

抜け出すというところで 


不安に駆られたオルフェウスは 

愛するがゆえに耐え切れず 

ついに後ろを振り向き 

妻の姿を見てしまった 


妻の悲しそうな顔 

聞き取れなかった細い声 

冥界の王との約束を 

守れなかったが為に 


愛しい妻の姿は 

再び冥界の闇の中へ 

連れ戻されて消えていった 




 彼は彼女と同じ景色を眺めながら、つぶやくように話した。 

「地中海はもともと古い時代、女性の神様が信仰された土地なのですよ。地母神信仰ですね。先インドヨーロッパの母系社会が起源です。いつの時代も女性は強い」

 彼女は再び感情を露にし、その声に棘を含ませた。

「茶化しているの? それとも私を哀れんでいるの?」

 彼は屈託無く笑いながらその言葉に応じた。

「いえ、すみません。気分を害されたなら謝ります。そんなつもりで言ったわけではないのです」

 強い風が吹いた。暴れようとする髪を手で押さえつけながら、彼女は彼へと目を向ける。

 彼も彼女へ視線を移した。その目には、悪意の暗き影など微塵にも感じられなかった。

 風がやみ、あたりは静けさを取り戻した。不思議な男だ、と彼女は思った。何を考えているのかわからない、とも思った。暫くの間、彼女は何を言えば良いか迷っていたようだった。が、その静寂を破ったのは彼の方であった。

「ご存知ですか? ギリシャ神話で有名なオルフェウスの父は、ここトラキアの王だったのです」




以後オルフェウスは

全ての女性をさけていた


トラキアの乙女たちは

彼を虜にしようとしたが

彼は一切見向きもしなかった




 彼女は息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「……それも知っているわ。皮肉ね。私はまるでオルフェウスのようだわ」

「オルフェウスに? 貴女が?」

「あの男は言ったの。見るなって言ったの。でも私は、つい見てしまった。見なければ、たとえ虚像だったとしても……幸せな未来があったかもしれない。知らずに過ごす……という偽りの幸せが、ね」

 そう言い終えて彼女はそっと目を閉じた。冷たい現実から逃れ、虚無の闇に沈みたいと彼女は望んだのかもしれない。

 だが現実はそれを許さないだろう。「貴女を追ってきた」と言う存在が今、彼女の目の前にいるのだから。

 彼は口を挟まず、真摯な顔で彼女の横顔を見詰め続けていた。

「ただ、オルフェウスと私が決定的に違うのは……私があの人を殺したこと。私自身がこの手で。そうね。私はむしろ、オルフェウスを殺した女の方だったかもしれない」

 彼女はゆっくりと目を開いた。目に飛び込んできた強い日差し。幼い頃から少しも変わっていない、思い出の景色。怖れも穢れも知らなかったあの頃と、同じ景色。

 あれからずいぶんと時間が経ち、私だけが変わってしまった。まるで流れゆく雲が、その形をとどめておけないように。

 罪と罰。時に愛は人を慈しみ、時に愛は人を壊す。それでも人は、愛する事をやめはしない。それがどれだけ愚かな結末を産むか、をたとえ知っていたとしても。時は無慈悲に、目の前を通り過ぎていく。過去はいつだって取り戻せない。

 そう考えた彼女は、もう一度自嘲の笑みを浮かべながら彼の方へと振り返った。

「……犯人は私よ。貴方が探していたのは、間違いなく私よ。覚悟は出来ているわ」




ディオニュソスの儀式の時


どうしても彼を虜に

できなかった女達は興奮し

「私達を馬鹿にする人がいる」

……などと口々に叫びながら狂乱し


オルフェウスは彼女達に手足を裂かれ

頭と竪琴はヘブルス川へ投げ込まれた


そして捨てられた竪琴は

彼を哀れに思ったゼウスが

天の中に琴座として掲げた




 彼女のその言葉に、苦笑しながら男は話した。

「すみません、説明が足りていませんでした。貴女は何か勘違いしておられるみたいですね」

「勘違い?」

「残念ながら、私は警察ではありません。しがない探偵です。ああ、そんなかっこいいものではなくて……何でも屋、と言った方が正しいかもしれません。私は、貴女が殺そうとした方から依頼を受けたのです」

 彼女は驚愕のあまり、その場に凍りついたように動けなくなってしまった。まず自分の耳を疑い、次の瞬間に彼を疑った。

 そんな彼女に眩しい日差しの中、柔らかな笑みで彼は言葉を続けた。

「あの方は輸血で一命を取り留めましたよ。そして警察に被害届は来ず、そのかわり私に依頼が来ました。あの方は妻と完全に切れるよう、別れ話をしていたに過ぎません。だが……運悪くそこを貴女が見てしまったようですね」

 彼女は震える声で彼に確認した。

「た、確かに私は、あの時怖くなってすぐその場を逃げたけど……生きて……生きているんですかあの人?」

 彼は再びにっこりと笑って答えた。

「生きています。そして……今でも貴女を愛している、と」

 その言葉に彼女の瞳は大粒の涙であふれ、そのままその場に泣き崩れた。信じていたものの愛おしさに、そして自らの救い難い愚かさに彼女は涙した。

 暫く泣き続けていた彼女は、やがて泣きはらした目を彼に向けてこう聞いたのだった。

「私は……私は、あの人のところに戻ってもいいのかしら……」

 彼はその問いにうなずきながら応えた。

「オルフェウス……話の結末はご存知ですか? オルフェウスはその後……」

「その後?」

 不安に表情を曇らせる彼女の目の前で、彼は崩れた礎石のひとつに腰掛けて遺跡群へと目を向けた。そして出会った時と変わらない穏やかな声で、彼女にこう言ったのだった。


「死後の世界で……愛する人に再び逢えたのですよ」




ー了ー

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