18 一人ぼっちでも
「湛石さん、もういいみたいよ」
鈴香はそう声をかけると墨を置き、いったん立ち上がってから腰をかがめ、用心深く硯を手に取った。
「はいはい、ご苦労さんどした」
背中を丸めて大きな虫眼鏡で辞書を調べていた湛石さんは、ゆっくりとこちらを向き、鈴香の手から硯を受け取ろうとした。そんなことをして墨がこぼれたら大変なので、歩いて行って、そっと机の上に置く。すると湛石さんはまた「ほんにすまんこってす」とお礼を言って、懐紙に包んだ五百円玉を差し出した。鈴香は「ありがとう」とそれを受け取り、ジーンズのポケットに入れた。
「すんませんなあ、ちょうど今、金平糖を切らしておりまして。他になんぞあったと思うんやけど」
そう言いながら、湛石さんはよっこらしょと立ち上がり、いつものお菓子入れの空き缶をとろうとした。
「お菓子は別にいいよ」と鈴香が言うのも聞かず、棚をごそごそやっていると、そこに入れてあった紙の束が音をたてて畳の上に落ちた。
「あれまあ」
湛石さんがびっくりしているので、鈴香が代わりに散らばったものを拾い集めた。封筒に入った手紙や葉書がほとんどで、薄い雑誌みたいなものも何冊かある。そのまま腰をおろした湛石さんの前に、鈴香は集めたものを揃えていった。
「またそのうち整理しようと突っ込んでおるうちに、どんどん増えてしまいまして、みっともない事ですな」
「とりあえず、種類ごとにわけとくよ」
封筒と葉書と雑誌、それぞれにまとめて、仲間に入らない新聞の切り抜きやチラシみたいなものは別にしておく。湛石さんは「はあ、もう適当にしておくれやす」と言っていたけれど、ふいに手を伸ばすと、新聞の切り抜きを一枚つまみ上げた。
「そやそや、これは面白いさかいに、鈴ちゃんに見てもらお、思てたんですわ」
そう言って差し出された小さな切抜きには、赤いサインペンで「八月二十七日夕刊」と日付が入れてあった。
「何の記事?」
ふだん新聞はテレビ欄ぐらいしか見ないし、何か知らない事件でもあったのかと思って、鈴香はそれを読んでみた。
八月二十六日深夜、H市のN病院より警察に「病棟内に狸がいる」との通報があり、かけつけた署員によってオスの狸一頭が捕獲された。狸は病棟の五階廊下で発見されたとの事だが、侵入の経緯は全く不明。同市の山林に狸が生息することは知られているが、市街地にある同病院からは十キロメートル以上離れており、何故突然現れたのかと関係者も首をひねっている。狸は本日午前、H市郊外の山中に放された。
「うっわ…」
思わず声をあげてしまってから、鈴香はそれをごまかすように「へーえ、狸だって」と、大げさに驚いてみせた。
「面白いでっしゃろ?病院にいきなり狸がおったら、そら驚きますわな。せやけど狸もなんぞ用事があって行かはったんやないかと、そんな気もいたします」
「狸は病院に用事なんかないよ。迷っただけじゃない?」
鈴香はそれだけ言うと、切抜きを他のものとまとめ、封筒や葉書のそばに置いた。本当のことを言えば、何だか胸がどきどきして、指先が震えそうな感じだった。湛石さんはのんびりと封筒の束を手にして、「そういえば仁類さんは、あんじょう帰らはりましたんか?」と尋ねてきた。
「うん。ちゃんと帰ったよ」
実際はこんな新聞沙汰になっていたけれど、そう言っておくしかない。
「そりゃよろしゅうございました。鈴ちゃんが見送ってくれはったおかげやな」
「別にどうって事ないよ。じゃあ私、ちょっと用事があるからもう行くね」
それだけ言って、鈴香は離れを後にした。まだ少しだけ胸がどきどきして、警察に一晩つかまっていた仁類の事を想像すると、とても可哀相になった。あれだけ大丈夫って言ってたくせに。檻に入れられて、困って自分のこと何度もガプガプ噛んで、血なんか出たんじゃないだろうか。
ぼんやり廊下を歩いていると、民代おばさんが台所から出てきた。
「鈴ちゃん、お友達そろそろ来るんじゃない?」
「うん、十五分のバスで着くから、迎えに行ってくる」
「じゃあおばさん庭にいるから、戻ったら声かけてね」
「わかった」
鈴香は玄関から外に出て前庭を抜け、山門に続く緩やかな坂道を下り始めた。太陽は空の高い場所にあるけれど、もう真夏ほどの勢いはない。それでも林の中のツクツクボウシたちは、まだこれからが出番だという賑やかさで、木漏れ日の下を歩く鈴香に向かって鳴き続けていた。
九月になって学校がまた始まり、鈴香は行こうかどうしようか、とても迷った。保健室なら多分行ける。でも、やっぱり教室で授業を受けた方がいいに決まってる。それはつまり、一人ぼっちでも我慢しなければいけないという事だった。
広い教室で、他のみんなが「夏休みどうしてた?」と楽しそうにしていても、気にしないでずっとそこにいる。もちろん、自分から何か話かけられたらいいだろうけれど、そんなの無理なのも判っている。でも、とにかく最初だけは教室に入ってみよう。仁類に向かって、お父さんやお母さんがいなくても大丈夫だし、学校にも行くと宣言した以上、やってみなければいけない。何故だか強くそう思って、始業式の前夜、寝る前にそれだけは心に決めた。
朝、学校に着くと、鈴香は教室に入り、窓際の一番後ろに決まっていた自分の席に座った。どうせすぐ始業式で体育館に行くんだけど、そうしたら私、誰の後ろに並ぶんだっけ。
席についた途端に色々な事が不安になってきて、鈴香は早くも保健室に行くタイミングを計り始めていた。教室にはもうほとんどみんなが来ていて、はしゃぎ合う声があちこちに響いて、それが更に鈴香の気持ちを苦しくさせた。
もう駄目。やっぱり無理。
そう思って拳を握り、鞄を持って立ち上がろうとしたその時、誰かが「小梶さん」と声をかけてきた。
「小梶さん、夏休みに太陽館でバイトしてたよね?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、前に駅でばったり会ったことのある、水沢さんだった。鈴香はどう返事していいか判らず、ただ小さくうなずいていた。
「お盆の少し前に、プラスキップってバンドのライブがあったでしょ?あそこのベースの人が、うちのお姉ちゃんの友達でさ、一緒に見にいったの。そしたら小梶さんがチケット切ってたからびっくりしちゃった。忙しそうにしてたから、後で声かけようと思ってたら、もう帰っちゃってたみたいで」
「私、いつも早番だったから」
「そっかあ。私、オレンジの髪した男の人にチケット切ってもらったんだよ。あの人かっこいいね。まだバイトしてるかな」
「ううん、もう辞めちゃった。私と同じで夏休みだけのバイトだったから」
「なんだ、残念。ねえ、小梶さんってライブハウスでバイトしてたり、お寺に住んでたり、面白いね。お寺ってどんな感じ?毎日お経読んだりしてるの?」
一瞬、からかってるのかと思ったけれど、水沢さんはどうも本気で質問しているらしかった。
「別に普通にしてるよ。よかったら、遊びに来てみる?」
気がついた時には、その言葉は鈴香の口から勝手にこぼれていた。私なんでこんな事言っちゃったんだろう。慌ててごまかそうと思ったのに、水沢さんはとても嬉しそうに「いいの?」と笑顔になった。
「特に面白いとこでもないけど」
「面白いよ。本当に行っていい?こんどの日曜日とかどう?」
そんなこんなで、水沢さんはお寺に遊びに来ることになって、成り行きで、彼女と仲のいい山内さんも誘った。南斗おじさんたちに無断で人を呼んでしまったのに気付いたのはそれからだったけれど、おじさんは「お寺ってのは誰でも歓迎する場所だ。狸でもな」と言って笑った。
時たまふわふわと降りてくる、赤とんぼを追いかけるように坂道を歩いていると、その辺の繁みから仁類がひょっこり顔を出すような気がする。オレンジの髪に枯草をくっつけたままで、ちょっと考え事してるような、それでいてなーんにも考えてないような顔で、「鈴ちゃん」と呼びかけてくる。
でもそれはもう終わったこと。
いつの間にか足が止まり、何故だか痛みを感じたような気がして、鈴香は長い息を吐いた。
「ご機嫌なんだか、そうでないんだか」
頭の上から突然聞こえてきた声に、鈴香は慌ててその主を探した。見上げた先にある木の枝には、一羽の大きなカラスがとまっていた。その面倒くさそうな低い声は、忘れようがない。
「や、夜久野さん?」
カラスはちらりと鈴香の方を見ると、軽く翼を広げて身体の向きを変えた。それに合わせて木の枝がわさわさと揺れる。
「ごあいさつぐらいしなさいよ」
相変わらずの駄目出しに、鈴香はやっとの思いで「こんにちは」と言ったものの、心の中では「でもカラスじゃん」と呟いた。
「全く、好き勝手にやってくれちゃって、こっちは本当に迷惑したわよ」
「朱音さんのことですか?」
「他に何があるっていうのよ。ま、最終的にはどうにかなったけど。でも、だからって何もお礼なんか出ないわよ。あなたがこちらの申し出を蹴って、自分でやった事なんだから」
カラスはそして、真っ黒いビーズのような目で鈴香を睨んだ。
「まあ、あのバカ狸にはちょっと仕返ししてやったけど」
「もしかして、仁類が警察につかまったのって…」
「うるさいわね!あんなのどうってことないでしょうよ。お弁当の残りをもらって嬉しそうに食べてたんだし、全然こたえてないわよ」
その剣幕に一瞬怯んだものの、鈴香は心のどこかが少しだけほっとしたのを感じて、もう少し勇気を出してみた。
「あの…朱音さんはちゃんと目を覚ましたんですか?」
「まあね」と短く答えてカラスは首をかしげ、鋭い嘴で背中をかいた。
「それで、渚さんとは?」
「まーったく、相変わらず質問の多い子ね。男女の仲なんて一筋縄ではいかないものよ。あんただって自分で少しは判ったんじゃないの?」
「わ、私?」
「まあどうだっていいわ、下らない。とにかくね、私が言っておきたいのは、今後一切、お互いに関わらないって事。いい?一言でも私のことを誰かにしゃべったりしたら、あのバカ狸がどうなるか知らないわよ。いくら面倒くさくても、それ位の事はするからね。そのためにわざわざ、あいつを生かしておいたんだから。」
「わかりました」
渚さんと朱音さんの事は確かにとても気になるけれど、仁類の方がやっぱり大事なので、鈴香はもうそれ以上は質問せず、素直に頷いた。カラスはそれをちらりと見て、それから勢いよく羽ばたくと、あっという間に飛び去ってしまった。
鈴香はぽかんとして、黒い影が消えていった青空を見上げていた。その目の前にまた、赤とんぼがふわふわ舞い降りてきて、はっと我に返る。
「いけない、バスが来ちゃう」
そして山門に続く緩やかな坂道を、鈴香は勢いよく駆け下りていった。
夜行性仁類 双峰祥子 @nyanpokorin
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