17 なかなかキツいよね

 翌朝、鈴香がずいぶん寝坊して起きて行くと、民代おばさんが「お客様よ」と座敷の方を指さした。もしや祐泉さんか眞子さん?と思って覗きに行くと、そこには布団が敷いてあって、お父さんが大の字で眠っていた。

「朝の五時ごろにいきなり来たのよ。鈴ちゃんとドライブの約束したからって」

 民代おばさんも座敷に入ってくると、笑いをこらえきれない様子でそう言った。

「たしかに言ったけど、こんなにすぐ来るなんて思わなかった」

「槙夫さんらしいわよね。鈴ちゃんが起きたら起こしてって言われたけど、どうする?」

「うるさいからまだ寝かせといて」

「わかったわ。じゃあ先に朝ご飯にしましょうね」

 民代おばさんは台所へ行き、鈴香はその場にしゃがんで、お父さんの寝姿をじっくりと眺めた。この前より少し日焼けしていて、また痩せた感じだ。髪は黒いままで、ピアスも相変わらず。ひげがうっすら伸びてて、鼻と額は脂でテカってて、唇はちょっと荒れてる。寝息はとても深く、朱音さんに比べると同じ眠るというのでも随分と違うというか、生きてるっていう感じを発散させて眠っている。

 そういえば仁類の寝てる感じも、なんだか朱音さんに近いな、と思いながら、鈴香はくしゃくしゃになっているタオルケットを広げてお父さんのお腹にかけた。相変わらずのTシャツと破れたジーンズ。首にはシルバーのネックレスが二本。そしてお母さんとの結婚指輪はちゃんと左の薬指に光っていた。

 

「お父さんとどこに出かけるの?」

 葱と油揚げのお味噌汁をお膳において、民代おばさんはそう尋ねた。

「どこってわけじゃないけど、仁類を送っていく」

「仁類を?」

「そう。いつまでも人間に化けてちゃいけないから、もう山に送っていくの」

「あらそうなの。湛石さんは知ってるのかしら」

「私からちゃんと言うよ」

 昨日、お父さんとの電話を切ってから、鈴香は祐泉さんに電話をして、朱音さんの新しい入院先を教えてもらった。けっこう遠いみたいだけれど、カーナビさえあればきっと大丈夫だろう。

 白いごはんと熱いお味噌汁。トマトときゅうりのサラダに、ほぐした鮭の入った卵焼き。今朝はいつになくおいしいような気がして、鈴香は味わって食べた。仁類は山に戻ったら、もうこんなごはんを食べることはできないのだ。猫舌だから熱々かどうかは関係ないけれど、やっぱりちょっとかわいそうだな、という気がしてきた。

「おばさん、後でお弁当作っていい?」

「ああ、ドライブに持っていくのね。でもおかずになるようなもの、あんまりないんだけど、ちょっと買いに行こうか」

「ううん、おにぎりと卵焼きぐらいで大丈夫」

「そう?冷凍のひき肉があるから、肉団子も作れるわよ」

「じゃあそれも入れる」

 そして鈴香は朝ご飯の残りを平らげた。外は昨日の雨の名残なんか感じさせないほどにからっと晴れていて、絶え間なく響く風鈴の音が風の強さを知らせてくれた。


 結局、お父さんが目を覚ましたのはほとんどお昼だった。それはちょうど鈴香がお弁当を作り終わった頃で、シャワーを浴びてから台所にのっそり現れたお父さんは、ラップに包んだおにぎりを見つけるなり「おにぎりじゃーん、食べていい?」と聞いた。

「その前に、お互いご挨拶しなさいよ」

 民代おばさんは呆れ顔だったけれど、鈴香も何だか照れるので、挨拶もせずに「これ持って行って、後で食べるんだよ」と言った。

「じゃあ槙夫さん、冷麦でも作りましょうか」と民代おばさんが言ってくれたのに、お父さんは「いやいや、コーヒー一杯あればそれで」とだけ言って、台所を出ていった。

「お父さんてさ、基本、朝は何も食べないんだよ」と鈴香は説明した。

「そうね、鈴ちゃんが作ったものは別としてね」と笑うと、民代おばさんはコーヒーメーカーをセットした。この調子だと、お父さんはコーヒーを飲み終わったらすぐ出発するに違いない。鈴香は台所を出て、湛石さんの離れに向かった。

「湛石さん、仁類いる?」

 声をかけると、湛石さんは机に向かって何かを書いている最中だった。

「はあ、何でっしゃろ」

 呼ばれてから三つぐらい数えた後に、ようやく返事がある。その時にはもう、鈴香は押し入れを開けていた。仁類は丸くなって昼寝の真っ最中だったけれど、くるりと一回転して顔を出した。

「今から出かけるよ」と声をかけると、仁類は「朝、お父さんの来た」と答えた。

「なんで判ったの?」

「鈴ちゃんで同じ匂い」

「マジで?」

 とっさにお父さんの寝姿が頭に浮かんで、あれと同じ匂い、と言われたことにショックを受けた。子狸とかお父さんとか、一緒にされたくないものばかりだ。まあ多分人間に判るレベルの話じゃないだろうけれど、やっぱりちょっと落ち込む。

「匂いで判った、って言い方にしてくれる?」とお願いしてから、鈴香は湛石さんの方に向き直った。

「湛石さん、仁類はもう帰るね。私とお父さんでちゃんと送っていくから、心配しないで」

 すると湛石さんは机に向かって亀みたいに丸くなって、それからよっこらしょと身体の向きを変えた。

「はあ、もうお帰りですかいな」

「そう。仁類、今までお世話になりましたって、ちゃんと挨拶しなよ」

 横にしゃがんでいる仁類にそう言って、軽く頭を押してみたけれど、彼はそのままじっと湛石さんを見ているだけだった。

「あんたが来てくれはって、ほんまに楽しゅうございました。できたら私も一緒に送って差し上げたいんやけれど、なんせ年とって足腰がおぼつかんもんで」

 一緒に来られても困るよ、と一瞬ひやっとしたけれど、どうやら湛石さんはここでお別れしてくれるらしい。

「どうぞいつまでも達者で、長生きしれおくれやっしゃ」

 湛石さんはそう言うと、枯れ木みたいな腕をゆっくりと伸ばし、仁類の頭をぽんぽんと叩くようにして、二度ほど撫でた。

「ほな鈴ちゃん、頼みまっせ」

「わかった。じゃあ行ってくるね」

 鈴香はそれだけ言うと立ち上がり、仁類を連れて離れを後にした。


 髪をオレンジに染めた人なんて、お父さんにとってはそう珍しくもないだろうと思っていたのに、彼は仁類を見た途端に固まってしまった。

「え、一緒に行く友達って、この人なの?」

「だから片道だけだよ、送ってあげるんだから」

 もうお弁当もお茶もリュックに入れて、さあ出発しますという今になってどうこう言われても困る。さっさと廊下を抜け、玄関に向かった鈴香の後を追ってきて、お父さんはひそひそ声で「あの人って鈴の彼氏なわけ?」と聞いた。

「はあ?意味わかんないし」

 思いっきりぶっきらぼうにそう言うと、鈴香はスニーカーを履き、音をたてて爪先を地面にぶつけた。それからいったん外に出て裏に回ると、今度は鈴香が固まる番だった。

「何、この車」

 シルバーがかっているとはいえ、明らかにピンク色。軽じゃないけど小さめで、リアウインドウにはテディベアが二つ並べて飾ってあって、シートカバーはイチゴ柄で、赤いハート型のクッションが後ろのシートに二つ転がっている、

「これ女の人の車でしょ?」

「いや別に、女だろうが男だろうが、友達に借りたんだからいいじゃない」

「友達ってどういう友達?」

「友達は友達だよ。俺はお母さんと違ってね、男女間にも友情が成立するって説を支持してるの。それに鈴だって、煙草くさい車よりも、こういう綺麗な車の方がよっぽどいいだろ?」

「でも趣味わるーい」

「自分の車をどう飾ろうが、それはその人の勝手だからいいんだよ」

「お父さん、やけにかばうね」

「乗るの、乗らないの?」

 そう言われて、鈴香はしぶしぶ後ろのドアを開けた。ぼーっと二人のやり取りを見ていた仁類を押し込んで、それから自分も隣に座ろうとすると、お父さんが「鈴は助手席でしょ」と呼んだ。

「じゃあね。仁類、元気でね」

 南斗おじさんは朝から出かけているので、民代おばさんだけが見送ってくれた。仁類はやっぱりそっちをじっと見てるだけで、何も言わない、代わりに鈴香が「いってきます」と返事をして、車はお寺を後にした。


「随分遠いとこの病院まで行くんだな」

 カーナビに住所をセットして、お父さんは呆れたように言った。

「お見舞いだから仕方ないよ。大事な人だし」

「その割に寝てるけど」

 お父さんはバックミラーごしに、また寝てしまった仁類をちらちらと見ていた。

「だから仁類は狸だって言ってるでしょ。人間と違って夜起きてるから仕方ないんだよ」

「そんなに簡単に信じられる話じゃないけど。鈴さあ、やっぱりあんなお寺に住んでると、言うこともオカルトめいてきちゃうよ。これからはお父さんのとこに来ない?」

「横浜ってこと?ちゃんと家あるの?」

「いやまあ、友達のマンションが空いてるから、使わせてもらってるんだけど」

「いつまで住めるの?ていうか、お父さん、ちゃんと収入あるの?借金返せって手紙来てたよ」

「いや、あれはさ、どうしても買いたいギターがあって、即金ならOKって話だったから。それにね、こないだ俺の曲をカバーしたいっていう話がきて、ちょっとお金が入ることになったから、少なくとも借金はチャラにできるし。あとねえ、昔のインディーズの曲を集めてアルバム作るって企画もあってさ、ね、聞いてる?」

「聞いてるけど、横浜は行かない」

 鈴香はそう言って、わざと身体を窓の方に向けた。もう峠の病院はとっくに過ぎて、じきに水族館のある街に入る。朱音さんが移った病院は、そこからまだずっと先で、道の混み具合にもよるけれど、着くのは夕方近くになりそうだった。

「すーず、お父さんのこと、まだ怒ってるの?」

「別に」

「じゃあ機嫌が悪いのはやっぱり、この人とお別れするから?」

「違う!ちょっと寝るから、放っといてくれる?」

 何だか感情のうすい言葉しか言わない仁類とは違って、お父さんは暑苦しいほどだし、構われないとうるさい。もうちょっと普通の人と会話したいなあ、と思いながら、鈴香は窓の外を流れる景色を眺めていた。

 もしお父さんと横浜で暮らし始めたら、こんどは新しい自分になれるだろうか。保健室に隠れてた事なんか全部忘れて、友達がいっぱいいる、楽しい女の子になれるだろうか。でもお母さんがいない間にそんな事したら、絶対に怒るに決まってる。そもそもどうしてこんな事になったかといえば、お父さんが自分勝手過ぎるせいなんだから。

 けれど、もし夜久野さんが言っていたように鈴香が狸憑きなら、仁類が狸に戻ればそれも解決するかもしれない。そうしたら、こっちの学校でも友達ができるかもしれない。

「どしたの、溜息なんかついちゃって」

 お父さんは何だか心配そうな声でそう言った。

「え?私のこと?」

「そうだよ。ふうーって、中学生にはふさわしくない溜息ついちゃってさ」

「別にどってことないよ」

 鈴香は身体を起こすと、お父さんの横顔を見た。陽の光がまぶしいのか、少し目を細めてまっすぐ前を見ている。

「鈴にはもっと楽しくしててほしいんだけどな」

「世の中こんなもんじゃないの?」

「そっか、こんなもんか」

 お父さんはふっと笑い、短いフレーズを軽く口ずさんだ。そしていきなり「あ、ここいいじゃん、ここでお弁当食べようよ!」と声をあげてハンドルを切った。


 そこは堤防みたいな場所で、海までは階段のようになっていた。ちょうど水門の日陰になっている一角を選んで、鈴香たちは腰を下ろすとお弁当を広げた。

「これ全部鈴香が作ったの?」

「まあね。肉団子は民代おばさんが手伝ってくれたけど」

「いや、すごいじゃん。三角おにぎりなんて長いことコンビニでしか食べてないよ」

 早速おにぎりを頬張ってはしゃぐお父さんとは対照的に、仁類はずっと黙っている。それでも鈴香がリュックからペットボトルを出し、キャップをとって渡すと、ごくごく飲んだ。お茶のラベルがついてるけど、中身はお寺の井戸水だ。

「ねえ鈴、どうしてこの人にはそんなに親切なの」

「だって狸なんだもん。狸ってすごく不器用なんだよ。大人に見えるけどまだ一歳だし」

 鈴香がそう言うと、仁類は「狸の一歳は大人」と訂正した。

「いつもこう言うんだけど、その辺が子供だよね。お箸も使えないし」

 仁類の前にラップをはがしたおにぎりを三つ置き、おかずを食べるためのプラスチックのフォークも並べてから、鈴香は自分のおにぎりを一口齧った。

「俺もお茶もらっていい?」

 お父さんは二つ目のおにぎりを食べながら、ちょっと不満そうに言う。鈴香は早速、水筒についているカップに冷たいお茶を入れてあげた。それからおにぎりを半分ほど食べ、初めて作った肉団子を食べてみた。

「ちょっとしょっぱかった?」

「いや、俺的にはこれでいいと思うよ」

「仁類はどう?」

「おいしい」

 彼はふだんと変わりない感じだったけれど、お父さんの方はあんまり見ないようにしているようだった。

「この卵焼き、もっと食べちゃっていいかな」

 お父さんはといえば、こちらも仁類の事は無視したいみたいだ。まあとにかく、家にいた時と同じように、好きなものを好きなだけ食べたいというところは変わらない。

「いいよ、私は朝も卵焼き食べたし」

 鈴香は卵焼きを全部お父さんに譲って、自分はおにぎり二つでおしまいにした。お茶を飲み、海からの風に吹かれていると、とても不思議な気持ちになる。一体いまどこで、いつで、どうして鈴香と仁類とお父さんの三人でお弁当を食べているのか。夢みたいといえば本当に夢のようだ。


 昼ごはんの後も、車は走り続けた。道はいつの間にか海を離れ、田んぼと畑が交互に続き、思い出したようにお店や家が現れるという、何だか退屈な風景になっていた。仁類はとっくの昔に眠っていたし、鈴香も何だかうとうとしていて、お父さんも時たま「あーあ」と大きな声であくびをした。ただ、FMラジオだけが元気に音楽を流し続けている。

「ちょっと煙草買ってくるね」

 お父さんはコンビニを見つけると車を停めて、一人だけ降りると店に入っていった。鈴香もちょっと外の空気を吸おうかと背伸びをしたら、いきなり仁類が後ろの席から身を乗り出してきた。

「鈴ちゃん、本当の大丈夫?」

「え?ど、どういう意味?」

 ぐうぐう寝てると思ったのに、これが本当の狸寝入り?鈴香はちょっとびっくりして仁類の顔を見た。

「あの人は確かの鈴ちゃんのお父さん。でも鈴ちゃんにごはんが作ってもらって、鈴ちゃんの卵焼きも食べた。もしかして、人間の親で食べ物をとるはお母さんだけ?」

「ううん、そんな事ない!絶対ない!」

 鈴香は慌てて否定した。今ここで仁類がお父さんを信用しなかったら、またお寺に戻るとか言い出しかねない。それだけは絶対に避けなければ。

「お昼はたまたま、お寺にごはんがあったからお弁当にしただけ。本当ならお父さんが食べさせてくれたんだから」そう説明しているところへ、お父さんがのんびり缶コーヒーを飲みながら戻ってきた。

 駄目だ、自分のしか買ってない。鈴香は車の窓を全開にすると「お父さん!」と叫んだ。

「今すぐアイスクリーム買ってきて!仁類の分と二つ。食べやすい奴、もなかアイスにして!」

「あ、うん、わかった」

 お父さんはすぐに回れ右をしてコンビニに戻ると、言われた通りもなかアイスを二つ買って戻ってきた。

「もーう、先に言ってくれればいいのに」

「ちょっとぼんやりしてた」

 鈴香はもなかアイスを受け取ると、仁類の分を開けて渡した。彼は両手で受け取ると、すぐにかぶりつく。なんで氷水は苦手なのにアイスクリームは好きなんだろうな、と不思議に思いながら、鈴香も自分のもなかアイスを食べた。お父さんはそれを横目で見ながら車を発進させる。

「本当に、鈴はその人には親切だね」

 ちょっと皮肉っぽい口調。でもこっちはそれどころじゃないというか、そもそもお父さんが自分の事しか考えないから、こんな演技までしなくてはならないのだ。

 でもまあ、アイスはおいしくて、ぼーっとしていた頭も一気にすっきりしてきた。鈴香がまだ半分も食べないうちに、仁類は全部食べ終わって、後ろのシートからゴミを差し出してくる。ちらっとその様子をうかがうと、さっきより少し落ち着いた感じで、どうやらお父さんも食べ物を調達できる事に納得したみたいだった。

「すーず、ちょっと一口かじらせてくんないかな」

 お父さんは呑気にそんな事を言い出した。

「だったら自分のも買えばよかったじゃない」

「さっきはコーヒー飲んでたから。でも鈴たちが食べてるの見たら、何だか欲しくなってきたんだよね」

「やだ。絶対やだから」

 ずっと一人で運転してて、可哀相な気もするんだけれど、それとこれとはわけが違う。それに、そんなを事したらまた仁類が「鈴ちゃんの食べ物をとった」とか言い出すかもしれない。

「あーあ、そっちの人にはそんなに親切なのにな」

「そっちの人じゃなくて、仁類。狸だけどちゃんと名前あるから」

「わかってるって」

 どうもお父さんと仁類は互いに警戒してるというか、こんなにそばにいるのに、存在を無視し合おうとしてるようだ。本当に面倒くさいなあ、と思いながら、鈴香はもなかアイスの残りを頬張った。


「おっ。ちょっと停まっていい?」

「どうぞ」

 もうこれで何度目の休憩だろう。一度はトイレ休憩を兼ねてファミレスでピザを分け合って食べて、次は中古のレコード屋さんで停まって、さっきは煙草休憩。もう太陽もずいぶん西に傾いてきたというのに、また道草だ。でも何といっても運転できるのはお父さんしかいないので、好きにさせてあげた。

「こんなとこにあったんだ。この楽器屋さんさ、ネットじゃ掘り出し物が多いって有名なんだよね。ちょっと一回りしてくるから」

「いいけど、借金してギター買ったりしちゃ駄目だよ」

「もーう、お母さんみたいな事言わないでよ」と、わざとらしい声で言うと、お父さんは腕を伸ばし、鈴香の頭を軽く叩いて車を降りた。長く座っていて疲れたので、鈴香も車を降りると、店の外からウインドウの中にある楽器をのぞいてみた。

 エレキギターにアコースティックギターに、サックスとクラリネットとトランペット。奥の方にはまだまだ沢山のギターやベースが並んでいて、お父さんはもう店員さんと友達みたいに打ち解けた感じで何やらしゃべっていた。

 なんでああいう風に、知らない人ともどんどん話せちゃうんだろうな。

 鈴香にとってお父さんの最大の謎はそこだった。確かに子供の頃は何度も転校したって話だけれど、それだけであんな風になれるもんだろうか。そのお父さんの子供なのに、自分はとても人見知りなのが、何だかすごく駄目な感じがした。

「鈴ちゃんのお父さんは、これの好き」

 気がつくと仁類も車を降りて、鈴香のそばに立っていた。ウインドウのガラスに、ひょろりと背の高い仁類と、その肩にぎりぎり届くほどの背丈の鈴香が映っている。

「お父さんは昔、バンドやってたんだよ。って、わかんないか。歌うたって、それでお金をもらうんだよ。まあ、今もそうしようと努力してるみたいだけど」

 店の奥では店員さんが、壁にかけてあった赤いギターを下ろして、お父さんに手渡していた。アンプをいじったりなんかしているから、試しに弾かせてもらうつもりらしい。

「あーあ、あれやりだすと本当に長いよ」

 斜めに照りつける西日が暑くて、鈴香はもうエアコンのきいている車に戻ろうと思った。

「仁類は長くてもいい事」と言って、彼はじっと中を覗いている。

「鈴ちゃんはあそこの行かない?」

「別にいいや。あっちはお父さんの世界だし。何ていうの?お父さんって私のことあれこれ気にする割に、音楽の事になるともう自分の世界で、それ以外はどうでもよくなるんだよね。つまんないんだ」

「鈴ちゃんも一緒にやるればいい」

「駄目だよ。私まで音楽やりだしたら、お母さんが一人ぼっちになっちゃいそうで、嫌なんだもの」

 その言葉に首をかしげた仁類の不思議そうな顔を見て、鈴香は自分が余計なことを話し過ぎたと気がついた。

「まあどうでもいいよ、そんな事。ちょっと水飲もう」そう言って車に戻ると、仁類も後からついてきた。


「ほーんと、あれ、掘り出し物だよ。とりあえず予約だけしてさあ、また連絡するって事にして。だから買ったわけじゃないから」

「まあ好きにすれば」

 結局、一時間近く楽器屋さんでギターをいじりまくって、お父さんが車に戻って来た頃にはもう暗くなり始めていた。

「鈴がそういう口きくと、本当にお母さんに似てるね」

「親子なんだからしょうがないじゃない」

「じゃ、お父さんとは?」

「親子だけど、別に似てない」

「そう?でも南ちゃんがさあ、鈴は歌が上手なのに、わざと歌わないようにしてるって言ってたよ」

「そんな事ないよ」

 鈴香は何となく照れくさくなって、シートベルトを直した。そこへ、後ろで眠ってると思っていた仁類が、いきなり口をはさんだ。

「それは本当」

「えっ?」

 お父さんが驚いて聞き直すと、仁類はむっくり起き上がって、「鈴ちゃんは歌を気持ちがこもってる。カンパチさんでそう言った」と念を押した。

「だーよーねー!」

 お父さんはいきなり大きく頷き、その勢いで車は少しだけ左に揺れた。

「やっぱ、鈴はお父さんの娘だもん。ね、君も聞いたんでしょ?」何故だかとつぜん仁類にフレンドリーになって、お父さんはそう尋ねた。

「仁類も聞いた」

「で、どう?やっぱりいいと思ったでしょ?」

「そういう風に無理やりきくの、止めてくれる?」と、鈴香が割って入っても全然気にしていない。

「そう、仁類はどこでも鈴ちゃんの声を聞こえる」と、仁類は質問と微妙にずれた答えを言ったけれど、お父さんには関係ないみたいだった。

「でしょでしょ?すーずー、もっと自信持っていいって」

 鈴香はもうとにかく早くこの話題が終わればいいと思って、何も答えなかった。お父さんはいつもこうして、他の人の前で、平気で鈴香のことを褒めちぎったりする。お母さんはといえば正反対で、道で知ってる人に会ったりしても、「本当に駄目なとこばっかりで」という感じで、よく言わないのだった。前に一度、絵のコンクールで賞をもらって、同級生のお母さんに誉められた時でも、「たまたま他にいい作品がなかったから。ただの偶然よ」と言ってたっけ。

 結局のところ、たぶんお母さんの評価の方が正しくて、お父さんのはただの無責任発言のように思える。でなければきっと、今の学校でもすぐに友達ができたに違いないんだから。

「ほら、もうあと少し、長旅お疲れさーん」

 お父さんにそう言われて、鈴香は我に返った。慌ててカーナビを見ると、目的地の病院は確かに近い。お父さんも仁類に負けない位に夜型で、日が暮れた途端にテンションが上がってきたような感じがする。元祖夜行性の仁類はというと、もうすっかり目を覚まして、じっと窓の外を眺めている。


 いつの間にか街の中に入っていた車は、背の高いビルの立ち並ぶ四車線の広い道路を走り、それから大きな川を越えて、その堤防沿いの道路をずっと走った。そこには工場か倉庫みたいな建物が広い敷地に並んでいたけれど、その向こうにひときわ背の高い建物があって、それがどうやら目的地の病院らしかった。

 ほとんどの部屋に明かりが灯っていて、窓のカーテンを閉めているところもあれば、開けっ放しのところもある。あのどこかに朱音さんがいる、そう思うと鈴香は胸がドキドキしてきた。

「車、どこに停めればいいのかな?あの夜間救急外来ってとこは駄目だし。今更だけどさ、もう面会時間って終わってんじゃないの?」

 お父さんはゆっくりと車を走らせながら、とりあえず駐車場の方に入って車を停めた。

「時間は大丈夫だと思う。お父さんはここで待ってて。私、仁類を送って行くから」

 鈴香はそう言うと、リュックに片腕だけ通し、「ほら、行くよ」と仁類に声をかけた。仁類は病院の方をちょっと見て、それからいきなりシートの間から身を乗り出し、「お父さんは、鈴ちゃんを大事」と言った。

「え?それ質問?」

 軽く頷く仁類を見て、お父さんは「そりゃ当然でしょう」と答えた。

「では鈴ちゃんが大人になるまで一緒がいて、車に踏まれないの注意でする。食べ物がいっぱいあげる」

 それだけ言うと、仁類は車を降りた。鈴香はぽかんとしているお父さんを残して、「すぐ戻るから」とドアを閉めると、仁類と並んで歩き始めた。

 もう辺りはすっかり暗くて、建物に沿って作られた植え込みから虫の声が聞こえてくる。空はきれいに晴れていて、星がよく見えた。

「仁類、ここにあの人がいるの、判る?」

「うん。匂いのする」

「じゃあ一人で中に入って、あの人のところまで行ける?」

「大丈夫」

「それから狸に戻っても、ちゃんとここから出て、近くの山まで一人で行ける?」

「大丈夫」

「そしたらもうずっと山の中にいて、車の通る道に出てきちゃ駄目だよ。うちのお寺に来るのも駄目。仁類は夜久野さんに恨まれちゃってるから、遠くにいた方がいいよ」

「大丈夫」

「じゃあ私はここで見てるから、あとは一人で行って」

 鈴香はそう言うと、立ち止まった。病院の夜間入口まではもう少し距離があるけれど、これ以上ついて行くのは何だかとても辛い気がして、前に進めなくなったのだ。なのに仁類も一緒に立ち止まってしまった。

「何してんの、早く行きなよ」

「鈴ちゃん、仁類はやっぱり狸に戻るはしない」

「なんで今になってそんなわがまま言うの?」

 いきなりそんな事を言われて、鈴香は大声で怒りたくなるのを何とかこらえた。仁類はといえば、困ったような顔でこちらを見ている。

「人間の頭は広くて、いっぱいの事を入るけど、狸の頭は広くない。だからきっと、狸に戻ると色々な事を入らなくて、鈴ちゃんも入らない」

「それはつまり、頭が小さいから、憶えてられないって事?」

「そう。それは仁類の大きく、大きい嫌な事」

 仁類は俯くと、肩をがぷっと噛んだ。それを見て、彼の言う「嫌な事」の意味が、鈴香にはようやくはっきり判ったような気がした。そう、仁類は泣いたり笑ったりしないし、悲しいとか寂しいとか言わない。でも、そういう気持ちは人間と同じようにちゃんとあるのだ。

「確かに狸の頭は人間ほど大きくないけど、心は人間と同じくらい大きいんじゃないかな。だから、頭は難しくても、心にならきっと入ると思うよ」

 自分でも何だか判らないけれど、鈴香にはそんな気がした。仁類はようやく肩を噛むのをやめると、「本当?」と低い声で言った。

「本当だよ。私も仁類のこと、ちゃんと憶えておくから」

 そして鈴香は、ふと思い出してリュックに手を突っ込むと、喉飴のケースを取り出した。振ってみるとからからと音がして、湛石さんにもらった金平糖はまだ少しだけ残っているみたいだった。

「ほら、手を出して。これを食べ終わったら本当にさよならだからね」

 そう言ってケースを逆さにすると、仁類の掌に金平糖が三粒だけ転がり出した。彼は少しためらってから、それを口に放り込んだ。

 さあ、例によってジャリジャリと噛み砕いて、そうしたら仁類はもう行ってしまう。そう思ってじっと待っていたけれど、いつまでたってもあの音は聞こえてこなかった。

「もしかして丸呑みしちゃった?」

 すると仁類は口を開けて舌を見せた。そこには少しだけ角のとれた金平糖が三つのっている。

「最後だから時間かけて食べてるの?」

 鈴香の問いかけに、仁類はまた口を閉じ、黙ってうなずく。それから二人は何だかにらみ合うようにして、ずっとお互いを見ていた。それはとてつもなく長い時間にも思えたし、一瞬のような感じもした、でもとにかく、いくら何でももう金平糖も溶けただろうという気がして、鈴香は「食べ終わった?」と尋ねた。仁類は慌てて首を横に振ったけれど、何だか不自然で、鈴香は思い切って鼻をつまんでみた。すると彼は苦しくなって、口をぱかっと開いた。

「やっぱり食べ終わってる」

 嘘がばれた仁類は、さすがに決まり悪い様子で目をそらした。そして背中を向けて少しだけ歩き出したけれど、また戻ってきて鈴香の顔を覗き込んだ。

「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、人間の男の人は、好きな女の人のこうする」

 そして仁類は鈴香の唇にそっと自分の唇を重ねて、すぐに離れると、こんどは後も振り向かずに歩き出した。

そんなの知ってるよ!

 大声でそう言い返したかったけれど、胸が詰まって何も言えなかった。無理に声を出したらまた仁類が戻ってきそうな気がして、リュックを抱きかかえたまま、鈴香はその後ろ姿が病院の中に消えていくのをじっと見送った。

 虫やカエルやトカゲを食べていた、仁類の唇はとても優しかった。その暖かい息が頬を撫でた感触がまだ残っているような気がして掌をあてると、そこはいつの間にか涙で濡れていて、鈴香は思わずしゃがみこんでしまった。

 仁類、戻って来て!お願いだからずっとそばにいて!

 でもそれは絶対に言ってはいけない。私はもう十分に大きいし、仁類がそばにいなくてもきっと大丈夫。借りたままの魂を朱音さんに返して、仁類は狸の世界に戻らなくてはいけない。


 しばらくして、ようやく涙が止まったので車に戻ると、お父さんは外に立って煙草をふかしていた。

「遅いじゃーん」と言われたけれど、鈴香は何も返事しないで助手席に座る。お父さんもすぐに車に乗りこんできて、エンジンをかけると「さて、どこ遊びに行こうか」と聞いてきた。

「今から?」

「だって夜はこれからでしょ。狸さんもちゃんと送ってあげたし」

 そう言ってお父さんは車を発進させた。駐車場を抜け、道路に出ると徐々にスピードは上がり始め、鈴香は身体をよじって夜の向こうに病院が遠ざかってゆくのを見つめた。

「ねえ、久しぶりにボウリングなんかどうかな。さっき来るとき見つけたんだよ。カラオケもいいと思うけど。あと、さっき待ってる間に携帯でチェックしたら、近くに温泉あるらしいんだけど、せっかくここまで来たんだから、泊まってこうか。でさ、卓球なんかしたくない?」

 次から次へとお父さんの提案は続き、全然そんな気分じゃない鈴香は、うんざりして「別にどこも行かなくていい」と言いながら座りなおした。声を出すと、まだ何だか鼻がつまった感じになってしまう。

「そーんな!あんまりだと思わない?お父さんなんかずっと運転しっぱなしで、全身固まっちゃってんだよ?肩なんかバキバキだよ?ちょっとは動きたいんだけど。ねえ、聞いてる?」

 お父さんはひとしきりゴネて、それから「彼氏じゃないって言ってた割には、落ち込んじゃってる」と言った。

「うるさいな、もう!関係ないでしょ?」

 わざわざ余計な事を言ってくる鈍感さに、鈴香は思い切り不機嫌な声でやり返し、身体ごと窓の方を向いて丸くなった。

「やっぱり鈴って、お父さんの子供だよね」

 鈴香の反撃なんて軽くかわす感じでそう言ったお父さんの声は、呑気さの中にうっすらとした悲しさを含んでいた。

「自分の気持ちに嘘がつけないんだ。それってなかなかキツいよね。自分も、周りも」

 静かに優しく全てを包み込む、夜の闇に眼を凝らしながら、鈴香はもう流れきったはずの涙がまた溢れてくるのを感じていた。それをこっそりと指先で拭うと、顔はまだ窓の方に向けたままで、無理やり大きな声を出す。

「あのさ、ちょっとぐらいならボウリングつきあってもいいよ」

 するとお父さんは「やーった!あーりがと!」と一気にはしゃいだ声になり、次の瞬間、車はぐんとスピードを上げた。





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る