16 もう知らないからね
ゆっくりとした動きでお茶を淹れようとしてくれる湛石さんに代わって、鈴香は茶箪笥から急須を出し、ティーバッグの緑茶を入れると電気ポットのお湯を注いだ。それからお湯呑みを三つ出して、湛石さんがいつも食事に使っている小さなお膳に並べた。
湛石さんと自分のお湯呑みにはお茶を入れて、仁類には湛石さんが夜の間に飲むために用意してある、魔法瓶の井戸水を入れてあげた。
「そうそう、それを取って下さらんか」
仁類は湛石さんに言われて、棚からおせんべいの空き缶を下ろしていた。湛石さんはその中にいろんなお菓子を蓄えていて、仁類もそれを知っているからいそいそと動く。
「残念ながら金平糖を切らしておりまして、この黒糖饅頭っちゅうのはどうですやろな。若いお人の口に合いますかな」
今はとてもお腹が空いていて、もう何だってOKって感じだ。目の前に出された白い小さな袋をびりっと破ると、中からコーヒー色のしっとりしたお饅頭が顔を覗かせて、鈴香はぱくぱくとそれを食べきってしまった。
黒糖饅頭ばんざーい!そう叫びたくなるほどおいしくて、もう一つもらっていいかなと湛石さんの方を見ると、仁類が困ったような顔でお饅頭の袋を見つめているのが目に入った。どうやって開けたらいいかわからないのだ。
「貸して」と手に取ると、仁類は「あげる」と言った。
「いいよ。私もう食べちゃったんだから」
そう言ってお饅頭を出してあげると、仁類はちょっとためらって、それから一口で飲み込むようにして平らげた。
「ほんまにあんたは気持ちのええ食べ方しますなあ。鈴ちゃんも、もっとおあがり。私はお茶だけでよろしいさかいにな」
湛石さんはそう言って、缶の中にあった黒糖饅頭の残りをお膳の上に並べた。全部で三つ。鈴香は二つを開けて仁類の前に置くと、最後の一つを自分にもらった。
「これ二つとも仁類のだよ。私一つでいいから」
言われて仁類は、鈴香の顔とお饅頭を見比べて、それからあっという間に二つとも食べてしまうと、お湯呑みの井戸水をごくごく飲んだ。本当に味がわかってるのかなあ、と不思議に思いながら、鈴香はさっきよりも時間をかけてお饅頭を食べた。甘さがまるで温度を持っているように、じんわりとお腹の中に広がってゆく。熱い緑茶はまだ眠気の残っていた頭をしゃきっとさせてくれた。
「ごちそうさまでした」とお礼を言うと、湛石さんは「よろしゅうおあがり」と返してくれた。仁類はそれをじっと見ていて、鈴香が食べ終わるとやっぱり自分の口の周りをぺろりと舐めて、大きなあくびをした。それからいきなり畳の上に丸くなると、目を閉じてしまう。
その姿を見た途端、鈴香の頭の中には昨日の夜、気を失ってソファに倒れていた彼の姿が甦ってきた。
「ねえ湛石さん、動物の命って人間のよりも軽いの?」
動物を殺しても器物損壊にしかならない、という夜久野さんの言葉は、鈴香の胸から消えそうにない。湛石さんはお湯呑みから緑茶をずずーっと啜り、「命に重い軽いがあると言う人には、まず、人間と動物、それぞれから命を取り出して、量ってみせてもらわんとあきませんなあ」と言った。
「まあ、そんな事のできる秤があれば、の話やけども」
そう言って笑うと、湛石さんはまた一口お茶を飲んだ。
「とはいえ、命っちゅうのは案外と軽いもんで、思わぬ拍子で風船みたいに飛んでいってしまうことがあります。そやから、うっかり手放したりせんように、しっかりと掴んどかなあきませんで」
なんだか、ボケてる割にちゃんとした事言うなあと思って、鈴香は頷いた。
「実を言いますと、私も一度、ぼんやりしておって、あの世へ行きかけたことがあるんですわ」
「え?死にかけたってこと?」
「まあそうですな。それで、山の中で行き倒れておりました」
あ、これは雑誌の「狸和尚四十年」に書いてあったことかな?鈴香は真剣に聞こうと思って、背筋を伸ばして座り直した。
「まあちょっと、傷を負うたりして、具合が悪いのにあちこちうろうろしたんが災いしたんですな。まことに身体がしんどうて、頭では判っておっても、一度横になってしもうたら、ぴくりとも動けませんのや。そうこうするうちに、なにやら気持ちようなってきて、妙に身体が軽いような気がしましてな。ふっと目ぇ開いてみましたら、すぐ下の地面に自分が寝ておるんですわ。そしたらそれを見下ろしてる自分っちゅうのは、さて何なんやろうと首をひねっておりますと、寝ておる自分の周りにけったいなもんが見えました。茶色いような、黒いような、犬にしては足が短うて丸々とした生きもんです」
「もしかして、狸?」
「ご名答。やっぱり鈴ちゃんは頭がええな。その狸が何匹も、寝ておる自分を取り囲んでおりまして、こちらを見上げておるんです。あんたら、何してますのや、と尋ねようにも声が出ません。せやけどあちらさんは私の声が聞こえたんか、てんでに飛び上がると、私のズボンの裾やらシャツの袖やら、色んなところを咥えて引っ張りますのや。そんな大勢の狸にぶら下がられたら、さすがに浮かんでるわけにもいきませんわな。そのままずるずると引きずり落とされてしまいました」
そこで湛石さんは一休みすると、またお茶を飲んだ。
「ほんで気がついたら、私はまた地べたに転がっておりました。ぎょうさんおった狸は、私が目を開くのを待ってたみたいにして、そのままどこへやら行ってしもたんですわ。後になって思えば、あの世へ行きかけておったところを、狸に引きとめてもろたようなもんですな」
「そうなんだ」
雑誌に書いてあった話と少し違うというか、かなりバージョンアップしてる感じがするけれど、やっぱり少しぼけちゃったから、記憶があやふやなんだろうか。でも湛石さんが話すと、何となくこっちが本当の事のように思えてくる。
「あのさ、湛石さん、実は今、仁類は命を狙われてるんだよ。もし誰か知らない人が来て、仁類を売って下さいって言っても、ずっと押入れの中に隠しておいてくれる?」
鈴香は思い切って、そうお願いしてみた。
「それはまたえらい事ですな。せやけど鈴ちゃんの頼みとあれば、私も頑張らんとあきませんな」
湛石さんは快く引き受けてくれたけれど、肝心の仁類は鈴香の心配なんかどこ吹く風で、どうやら眠ってしまったらしい。
「仁類って、湛石さんが飼ってることになるんだよね?」
それさえはっきりさせておけば、夜久野さんも手を出せないだろうと思って、鈴香はそう聞いてみた。
「飼ってはおりませんが、私のお客さんですな。そやから大事にもてなさんとあきません」
ちゃんとかくまってくれるなら、どっちでもいいやと思って、鈴香は小さく頷いた。それから、少し気になったことを確かめてみた。
「湛石さん、さっきお経あげてたでしょ?途中で止めちゃったけど、私達が邪魔しちゃったんじゃないの?」
「はいまあ、お経は毎朝上げておりますが、続きはまた後でさしてもらいます」
「そういえば、中でお経あげてたのに、庭に私達がいるのが判ったみたいだったね」
「はあはあ、あれはですな、仏さんが教えてくれはったんですわ」
「仏さんが?」
また変な事を言い出したな、と思いながら、鈴香は少し残っていたお茶を飲んだ。
「ああしてお経をあげておりますと、段々と心の中が落ち着いてまいります。喩えて言うなら、お湯呑みのお茶が、最初は濃い色をしてるのんが、いつの間にかお茶の葉が底に沈んで透き通ってくるようなもんですな。そうしますと、仏さんの声が聞こえてまいります。鈴ちゃんと仁類さんが庭にいてはりまっせ、と教えてくれはるんですわ」
いてはりまっせ、って、仏様は関西弁でしゃべるんだろうか。でも湛石さんにそういう事を突っ込むのはちょっと無駄だと思えたので、鈴香はそのまま黙って聞いておいた。
ひんやりした風が顔を撫でて、はっと目を開くと、大粒の雨が地面を叩く音が聞こえてきた。開けっ放しの窓から湿った土の匂いが流れ込んできたかと思うと、雨は見る間に本降りになり、やがて瀧のように激しく降り始めた。
ベッドに横になっていた鈴香は身体を起こし、窓を閉めようと立ち上がったが、そこへ稲妻が光り、一拍おいて長い長い雷鳴が地面を這うように響いた。部屋の中にいれば安心、と思うものの、やっぱり雷は好きじゃない。窓を閉めて再びベッドに腰を下ろし、枕元の時計を確かめると四時半。ずいぶん長いこと眠っていたみたいだ。
昨日の夜帰らなかった事について、南斗おじさんには白塚さんの事務所から、「秋にやるイベントの打ち合わせに時間がかかって、遅くなったのでホテルをとった」という連絡が入っていたらしい。もちろんそれは夜久野さんの嘘だったけれど、本当の事を説明するのはとても骨が折れることのように思えて、鈴香はその通りだった、と話を合わせた。
「でも知らない場所だったから、あんまり眠れなかったし、朝起きてすぐにタクシーで帰ってきた」と嘘をつき、シャワーだけ浴びてすぐに寝たのだ。今となっては昨日のどこからが現実でどこからが夢なのか判らないほど、全てが遠い出来事のような感じがした。
激しい雨と雷は一向に止む気配がなく、外はまるで夕暮れのように暗い。明け方に湛石さんからもらった黒糖饅頭を食べただけなのでひどくお腹が空いて、鈴香は立ち上がると台所へ行き、冷蔵庫の牛乳を飲んでから、戸棚にしまってあったビスケットを二枚食べた。座敷の方からは時々笑い声が聞こえてきて、どうやらお客さんが来ているらしい。鈴香はこの大雨で外はどんな感じだろうと、裸足のまま片方の爪先を三和土につき、勝手口を開けて覗いてみた。
地面には浅い川のようになって、雨水がどんどん流れてゆく。庭にある植木の葉は雨粒にうたれる度に、まるで機械仕掛けのようにあちこちで小刻みに震え、今朝開いた朝顔はぐったりと濡れそぼっている。全てが雨で煙ったような景色の中に、一か所だけはっきりと黒いものがあった。目をこらしてよく見ると、それはカラスで、夾竹桃の枝にとまって雨宿りしているのだった。
どうせなら軒下に入ればいいのに、そう思ってぼんやりと眺めていると、カラスはほんの少し嘴を開けた。
「上手に逃げたつもりでいるの?残念でした。あんまりあなたが強情だから、うまく行くはずの事も全部駄目になったわよ」
それは夜久野さんの声だった。瀧のような雨音とは無関係に、妙に鮮明に響くその声に、鈴香は凍りついたようになって立ち尽くした。
「もう知らないからね」
カラスは首を軽く伸ばしてそう言うと、翼を広げ、大雨をものともせずに飛び去ってしまった。
「鈴ちゃん」
後ろから肩をたたかれ、鈴香はびくりとして飛び上がった。振り向くと祐泉さんが立っている。
「どうしたの?こんなとこに裸足でおりて」
どうやら座敷にいたお客さんは祐泉さんだったらしい。洗い物を下げてきたらしく、手にはお盆を持っていた。
「あ、ちょっと雨が気になって」
鈴香は慌てて勝手口を閉めると三和土から上がり、祐泉さんに向き合った。
「大丈夫よ、もう雷も遠くなったし、じき止むわ。ねえ、頂き物の梨持ってきたの、食べない?」
祐泉さんは流しのそばに置いてあった、大きな梨を手にとった。鈴香は「うん」とか何とか返事はしたけれど、やっぱり「ちょっと、後で行くね」とだけ言って、台所を飛び出した。
暗い廊下を走り、縁側から降りるとサンダルをつっかけて軒伝いに湛石さんの離れへ駆けてゆく。それからまたサンダルを脱ぎ散らかして上がると、「湛石さん、入っていい?」と声をかけながら障子を開けた。
「はいはい、おはようさんです」
雷なんか全然関係ない様子で、昼寝をしていたらしい湛石さんは、横になったまま適当な返事をした。鈴香は押し入れを開けてみたけれど、中は空。奥の方におさかなソーセージのフィルムが一枚だけ、ぺろんと落ちていた。
「湛石さん、仁類はどこ?」
「おはようさんです」
まだ寝ぼけているらしい湛石さんにちょっと腹が立って、鈴香はすぐに部屋を出た。縁側から飛び降りてサンダルを履くと庭に出て、木の下とか生垣の奥とか、手当たり次第に探してみた。
「仁類?仁類ってば!」
もしかしたら、もう夜久野さんにつかまった後かもしれない。やっぱり湛石さんなんか頼るんじゃなかった。みるまに雨が全身を濡らしてゆくのも構わず、鈴香は仁類を探し続けた。
「鈴ちゃん」
後ろから聞こえたその声にはっとして振り向くと、仁類が縁の下から這い出してきたところだった。
「何だ、そこにいたの?」
仁類のぽかんとした顔を見た途端、安心したというか、腹が立ったというか、色んな気持ちがごちゃまぜになって、涙がいきなりあふれてきた。
私どうしてこんなによく泣いちゃうんだろう。
鈴香は自分で自分が不思議でたまらなかった。でもまあ、これだけ雨に濡れていれば、泣いているとは気づかれないはずだ。鈴香は小走りに駆け寄ると、軒下にしゃがみこんだ。
「縁の下に入っちゃだめって、いつも民代おばさんに言われてるじゃない」
「掃除のしていると雨が降った」
たしかに、仁類の足元には竹箒が転がっている。彼はじっと鈴香の顔を見ると、「鈴ちゃんは何の泣いている」と言った。
「泣いてないよ。雨に濡れただけだから」
「でも涙の匂いをする」と言うと、仁類はTシャツの上に羽織っていたシャツを脱ぎ、「これは着る」と差し出した。
「え?」
「人間は毛がない。濡れるは寒くなる」
「いらないってば。そのシャツ昨日からずっと着てて泥だらけだもん。だいたい、なんで縁の下に入るの?汚れるから駄目って言われたのに」
「もう汚れてから、新しく汚れても同じ」と言って、仁類は鈴香に拒否されたシャツをくしゃくしゃと丸めた。それを片手に持つと、こんどは鈴香の濡れた髪を拭こうとする。
「やめてよ!汚れてるシャツで拭かないで!」
慌ててその腕をつかんで押し戻すと、仁類は「でもこれは濡れるない」と答える。鈴香は「屁理屈こねないでよ!」とやり返した。言われて仁類は、びっくりしたように自分の手元を見ると、「へりくつ、どこにある」と言った。
「もう!それは一種の表現!とにかく私はちゃんと着替えるから、濡れててもいいの!」
大声でそう言い返すと、仁類は首をかしげ、肩に顔を埋めるようなしぐさをした。それを見た途端、鈴香の中に立ち込めていた苛々がすうっと引いて行く。
あの時と一緒だ。水族館に遊びに行った時、車に挽かれそうになったのを止めてくれたのに、思い切り怒ってしまった。今だって、やり方は確かにちぐはぐだけれど、濡れたのを心配してくれてるのに、けんか腰になってしまう。泣いたり怒ったり、まるで抑えがきかないのが嫌で、鈴香の方が自分に噛みつきたい気分だった。
「ねえ、仁類、もう人間に化けるのやめて、山に帰りなよ。私ね、仁類が魂を借りてる人がどこにいるか知ってるから、そこまで連れて行ってあげるよ」
「仁類は鈴ちゃんの親が戻るまで、お寺のいる」
「そんな事してたら、夜久野さんにつかまっちゃうよ。あの人、仁類のこと殺すつもりだよ。でもあの人が欲しいのは仁類が借りてる魂だから、ちゃんと返せばきっと大丈夫」
「仁類は捕まったり、ない」
「よく言うよ、あんなに簡単に気絶してたくせに。それに…」
鈴香は一瞬口ごもった。こんな事本当は言いたくない。でも言わないと仁類は判ってくれないだろう。
「狸が人間に化けるのってすごく大変なんでしょ?このまま続けていたら、仁類は死んじゃうよ。冬まで生きられないかもしれないよ」
「仁類は生きているとき死なない」
もう、狸ってどうしてこんなに呑気なんだろう。仁類は全然こたえてない感じで、膝の上に丸めたシャツに顎をのせてしゃがんでいる。
「とにかく、私はお父さんやお母さんがいなくても大丈夫なの。来週から学校だって行くし、もう仁類の相手してる暇なんかないの。だからもう山に帰って」
きっぱりそう言うと、仁類はしばらく黙って鈴香の顔を見ていた。もしかして納得してくれたのかな?そう思ったところへ、また一言返ってきた。
「どうして鈴ちゃんの言葉と声は、別々の事で言う?」
「言葉と声が別々?」
「仁類は鈴ちゃんの言葉のわかる。山で帰ってほしい。でも、鈴ちゃんの声は別の事を言う。仁類をずっとそばにいてほしいと言う」
「わ、私そんな事言ってないよ!」
何故だか急に胸がどきどきして、鈴香は大声を出した。仁類はそれでもじっと鈴香を見たまま話を続けた。
「仁類は狸の時、人間の声しかわからない。人間に化けてから、言葉をわかるになった。人間はときどき声と言葉の別々。それはむつかしい。でも湛石さんはいつも声と言葉で同じ。鈴ちゃんも同じ。なのに今はどうして言葉と声の別々?」
「そんな事ない!私の言葉は私が思ってる事!それが本当なの!仁類こそどうしてそんなに頑固でわからずやなの?もういいよ!」
鈴香は思いきり大声でそう叫ぶと、しゃがんだままの仁類を置き去りにして駆け出した。
濡れた服を着替え、髪を乾かし終えた頃には、雨も止んで外には薄日が射していた。まだ祐泉さんはいるかな、と思って座敷をのぞくと、他の尼さんたちもいて、ちょうど帰ろうと立ち上がったところだった。
「あら鈴ちゃん、こんにちは。またうちのお寺にも遊びにきてね」
一緒にきていた妙雪さんから声をかけられて、鈴香も挨拶する。祐泉さんは「ちょっと先に行っててください」と言うと、鈴香に「少しだけいい?」と声をかけた。
誰もいなくなった廊下で、二人きりだというのに、祐泉さんは声をひそめたままで話した。
「今日ここに来る前にね、眞子から電話があったのよ。木津朱音さん、他の病院に移っちゃったんだって」
「え?いつ?」
「今朝だって。急に決まったらしくて、眞子も全然知らなかったらしいわ。でも、鈴ちゃんがお見舞いに行って、彼がいなくなってたらびっくりするだろうからって、連絡してくれたの」
「でも、どこの病院に行ったの?遠いの?」
「まあ、眞子にきけば教えてくれるとは思うけど。ねえ、鈴ちゃん、もうあの人たちの事、心配するのやめた方がいいわ。渚さんだって鈴ちゃんの事は大好きだと思うけど、大人にはそれなりの事情があるし、仁類が彼にそっくりだっていうのも、何ていうか、鈴ちゃんが責任感じる事じゃないしね」
祐泉さんは優しくそう言ってくれたけれど、鈴香にとっては何の慰めにもならなかった。何故ならこれはきっと、夜久野さんが仕組んだ事だからだ。鈴香が言う通りにしなかったせいで、こんな事になってしまった。何もかも自分のせいなのだ。
「もう知らないからね」
飛び立つ前にカラスの叫んだ言葉が、頭の中にこだまし続けた。
「もうおしまい?」
鈴香がごちそうさまを言ってお箸をおくと、民代おばさんは心配そうに尋ねた。
「朝だって食べてないし、ちょっとおやつ食べただけでしょ?」
「でもずっと寝てたから、お腹すいてない」
鈴香の前には手をつけなかった肉じゃがと、昆布巻と、茄子の煮びたしが残ったままだ。食べたのはご飯とお味噌汁と冷奴だけ。それでも喉につかえて、なかなかお腹に収まらなかった。自分のせいで朱音さんが別の病院に移ってしまった、その事への後悔と、渚さんに対する申し訳ない気持ちで、鈴香は頭が変になりそうだった。
「食べないと早くお腹を空く」
何故だかいつも昆布巻だけは食べない仁類は、先に他のものを全部平らげて鈴香を見ていた。
「あとは仁類が食べればいいよ」
そう言って鈴香は立ち上がった。南斗おじさんは「ま、一食ぐらい抜いたって、人間死にはしないさ」と、ビールを飲んだ。
部屋に戻るとベッドに寝転がり、どうしようどうしようと考える。朱音さんが移った病院は判るとして、そこにどうやって仁類を連れて行く?
いくら考えても答えは出ない。本当はお茶碗洗うのを手伝わないといけないのに、鈴香はそのまま天井を見つめていた。一本だけつけた蛍光灯の光がいつの間にか奇妙に滲んで、それは涙に変わると頬を伝う。泣いたってどうにもならない。頭では判ってるのに、鈴香の涙は止まりそうもなかった。
「鈴ちゃーん、電話よ」
廊下の向こうから、民代おばさんの呼ぶ声が聞こえて、鈴香は慌てて起き上がった。祐泉さんが何か新しい情報を知らせてくれるのかもしれない。Tシャツの裾で涙をぬぐうと、急いで部屋を飛び出す。ちょうど台所に戻ろうとしていたおばさんは、振り向いて微笑むと「お父さんから」と言った。
がっくり、というのが正直な気持ちだった。
よりによってこのタイミングで、一体何の用事だろう。鈴香は保留になっている子機を手に取ると、誰にも聞こえないように縁側に出ていった。
「もしもし?」
「すーずー?元気してる?」
相変わらず能天気な、ちょっと鼻にかかった声が受話器の向こうで弾けてる。元気なわけないじゃん、と思いながら「まあね」と答えると、「なーんだかつれないなあ、こないだの事、まだ怒ってるんだ?」と聞かれた。
「別に。あんなのいつもの事じゃん」
太陽館の控室での喧嘩、いつもの事、というには大爆発してしまったけれど、今となってはそれもどうでもいい感じだった。
「そう?じゃあ許してもらったって事でいいのかな?もう、そうしちゃうよ?」
「ご自由に」
蚊取り線香を焚いているのに、足元には藪蚊がまとわりついてくる。それを空いた手ではらいながら、鈴香は気のない返事をした。
「じゃあさ、仲直りって事で、どっか遊びに行こうよ。夏休みも終わっちゃうしさあ。鈴は宿題なんかいつも速攻で終わらせてたから、心配ないよね」
「まあね」
確かにいつも夏休みの宿題は先に片づけていたけれど、それはお母さんがきっちり監督していたからだ。今年は宿題なんか何もしてないけれど、もうどうだってよかった。
「ねえねえ、鈴はどこ行きたい?こっちに遊びに来れば、色々面白いとこがあるよ。」
「別に興味ない。それに今一体どこにいるわけ?」
「あ、南ちゃん言ってなかった?横浜だよ。中華街とか、みなとみらいとか、遊ぶとこいっぱいあるんだから」
相変わらず自分の考えてる事ばっかりしゃべるなあ、と思いながら、鈴香は適当に相槌をうっていた。さすがにお父さんもそれに気づいたのか、話の方向を切り替えてくる。
「いや別に、俺が車でそっち行ってもいいんだよ。でもお寺なんて辛気臭いしねえ。そっちの方はドライブぐらいしかする事ないし」
明らかに来ることを避けている感じ。たぶん南斗おじさんや民代おばさんに説教とかされるのを警戒してるんだ。でも、鈴香の頭にはある考えが閃いた。
「ドライブって、車持ってないのに行けるの?」
昔はうちにも車があったけれど、通勤に必要ってわけでもないし、税金と駐車場代が無駄、というお母さんの決断で売ってしまったのだ。まさか借金して買っちゃった?
「んなもん友達に借りればいいんだよ。どう?鈴はドライブがいいんだ?」
「まあ、行きたいところがあるんだけど」
「それを早く言ってよ。じゃあ、できるだけ急いで行くから待ってて」
それだけ言うと、お父さんは行く先も確認せずに電話を切ってしまった。本当に思いつきだけで生きてる感じがするけど、あれこれ迷うことの多い自分に比べて、お父さんのスパスパ決断する性格はちょっと羨ましくもある。
電話で油断してる隙に、ふくらはぎを蚊に刺されたみたいで、鈴香はそこを少しひっかいてから立ち上がった。庭の方をふと見ると、仁類が松の木のそばに立ってこちらを見ている。
「ごはんもう食べない?」
まだ言ってる、と思いながら、鈴香は縁側の柱にもたれて「食べたくない日もあるの」と答えた。
「お腹のすいたら湛石さんに言う。何かくれる」
そして仁類は、また散歩に行くらしくて、離れの方へ歩き出した。鈴香は慌てて「仁類」と呼びとめた。
「二、三日したら私のお父さんがここに来るから。そうしたら仁類はもう帰るんだよ」
「お父さん」
「それで仁類を、魂を貸してくれた人のところまで送ってあげる」
仁類はしばらく黙って鈴香を見ていた。それから一言「そう」とだけ言って、闇の中へ消えていった。
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