15 今夜は満月だから

「鈴ちゃん」

 とんとん、と背中をたたかれて、鈴香ははっと目を開いた。どうやら少し眠っていたらしい。慌てて起き上がろうとすると、身体はそのまま軽々と持ち上げられて、気がつくと仁類の顔が目の前にあった。彼は鈴香の顔をまっすぐ覗き込んでにこりと笑う。

 あれ?仁類が笑うとこって初めて見たような気がする。

 鈴香はびっくりしてその目を見つめた。彼の瞳には鈴香の顔が映っていたけれど、それは人間じゃなくて、奇妙な生き物だった。犬?にしては熊のように丸顔、この謎の動物は…狸?そんな筈はない!

 慌てる鈴香を高々と抱き上げて、仁類は「鈴ちゃんは子狸だから本当に軽いね」と、歌うように言うと、肩にぽんとのせた。なんとかしがみつこうとするけれど、狸の前足は物につかまるようにできていない。あっという間につるりと滑って、落ちる!と思った瞬間、鈴香はがぶっと歯をたてて仁類のシャツにぶらさがっていた。

「痛いなあ!鈴ちゃんは本当に乱暴なんだから」

 彼は鈴香の背中をひょいとつまんで持ち上げるともう一度肩にのせて、今度はしっかりと掌で押さえた。

「さあ、一緒に散歩に行こうか。今夜は満月だから、色んなものがよく見えるよ」

 鈴香が顔を上げると、すぐそばに仁類のオレンジの髪が風になびき、目の前には月の輝く澄み切った夜空が広がっている。見下ろすと、街の明かりが宝石のように煌めいていた。

 私たち、空を飛んでる?

怖いような気がして仁類の肩に爪を立てると、「大丈夫だよ」という答えが返ってきて、気がつくと二人は地面に近づいていた。見覚えのある建物がせりあがってきて、それが祐泉さんのいるお寺だと判った瞬間、二人はその中に飛び込んでいた。


 そこは鈴香が入ったことのない、小さな勉強部屋みたいな場所だった。カーテンのないガラス窓に向かって机が一つ置かれていて、誰かが背を向けて座っている。部屋は暗くて、机に置かれたスタンドだけがほんのりと辺りを照らしていた。尼さんではない、普通の格好をしたこの人は誰だろうとよく見ると、座っているのは暢子さんだった。

「暢子さん」と呼びかけたら、鈴香の喉からはきゅうっと妙な鳴き声が出た。仁類はその背中を撫でると「静かにして。僕らの姿は他の人に見えないんだから」とたしなめた。

 暢子さんは眼鏡をかけて、手にした文庫本を読んでいる。机にはスタンドの他に電話とノートとペンが置かれていて、そばの棚にある小さな時計は一時十分を指していた。暢子さんの細い指が文庫本のページをめくると、外から誰かが声をかけた。

「どうぞ」と彼女が振り向くと、襖を開けて入ってきたのは祐泉さんだった。「今日はちょっと暇みたいね」と言って、祐泉さんは手にしていたお盆を机に置いた。そこにはお湯呑みが二つと、小皿に盛られたクッキーがのっている。

「これからかもね。満月の夜はけっこう電話が鳴るから」と答えると、暢子さんは軽く伸びをして、「当番でもないのに、ずいぶん夜更かしね」と笑った。

「ちょっと本読んだりしてて。これ食べたら寝るわ」

祐泉さんはそばにあった木の椅子を引き寄せて腰をおろし、クッキーをつまんだ。暢子さんも同じように一つ手にとる。

「今夜はまだ、いたずら電話が一本だけよ」

「そっか、まあ仕方ないわよね。物珍しさでかけてくる人もいるし」

「まあね。でも私ね、いたずら電話してくる人も、結局はみんな同じじゃないかと思うのよ。寂しくて、誰かとつながっていたくて、不安で、追い詰められてる」

 暢子さんはそう言って、お茶を一口飲むと長い溜息をついた。

「だからまあ結局、誰からのどんな電話でも、私は正也からの電話だと思って聞いちゃうの。あの子が最後の最後に、思い直してかけてきた電話だと思って」

 祐泉さんはその言葉に静かにうなずくと、自分もお茶を飲んだ。

「私もね、これが彼女からの電話だったらどんなにいいだろうって、とる前に必ず思うのよね。あの日とらなかった電話のこと、そうやっていつも考えちゃう」

「みんな私達に、偉いわねって言うけど、そんな事ないわよね。ただこうしてると、気がまぎれて、少しだけ赦されたような気持ちになるだけ」

「まあ少なくとも、暢子さんは偉いかな。わざわざ車運転してこんな山奥まで来てくれるんだから」

「一緒よ。どうせ眠れないんだから」

 二人はそして、顔を見合わせて笑った。その時とつぜん電話が鳴って、暢子さんは目配せをするとすぐに受話器をとった。

「はい、叡李院こころの電話です、こんばんは」


 気がつくと鈴香と仁類はまた空を翔けていた。そして次に目に入ったのは、鈴香の住んでいる晋照寺だ。やった、とうとう帰ってきた!と思う間もなく、二人は南斗おじさんたちの部屋に降り立っていた。

 おじさんたちは布団を敷いて横になっていたけれど、枕元の行燈みたいなライトだけをつけて、小声でおしゃべりをしていた。

「遅くなったからビジネスホテルに泊めてくれるって、大丈夫かしらね。やっぱり起こしてもらって、電話で話した方がよかったかも」と、民代おばさんは心配そうな声で言った。

「まあ、白塚さんも同い年の娘さんがいるらしいし、その辺は安心だと思うけどな。帰ってきたらちゃんと話を聞くか」

「だから太陽館でアルバイトの真似事なんて、気が進まなかったのに」

「でも、ずいぶん元気になったと思わないか?俺も最初、祐泉放送の奴が提案してきた時は、何を言ってるんだと思ったけど、学校に行ってた頃よりずっと楽しそうじゃないか」

「それはそうだけど」

 二人の話を聞くうち、鈴香はようやく、自分が話題になっていることに気がついた。

「確かに仁類を連れて歩けば、変な男も寄ってこないし。あの狸も妙なところで役に立つよ」

「でも、太陽館の事はそれでいいとして、休み明けから学校に行ってくれるかしら。教室で授業を受けるのは無理でも、保健室は続けてくれるかしらね。うちで預かってる間に不登校になったりしたら、申し訳なくて」

「俺は病気や怪我さえしなければ、それで十分だと思うけどね。それにさ、天地だって高校に入るまではしょっちゅう学校休んでたじゃないか。うちはそういう家系なんだよな。あいつ、いつも湛石さんの部屋でぶらぶらしてただろ?仁類を見てると妙に思い出すよなあ、押し入れに隠れたりしてさ」

「まあ、それはそうなんだけど。私、女の子って育てたことがないから、何だか心配なのよ」

 民代おばさんはそう言って、ちょっと顔を上げると枕元の目覚まし時計を確かめた。時間は一時近くを指している。

南斗おじさんは大きなあくびをすると、「自分だって女の子だったじゃないか。昔過ぎて忘れてるだけで」と言った。

「忘れるなんてとんでもない、今でも心は乙女なんだから」

「どの口がそう言うんだかなあ」と、大げさに呆れてみせて、おじさんは腕を伸ばすと明かりを消した。

 それと同時に鈴香と仁類の周りも真っ暗になって、辺りを見回すと、満月が目に入った。せっかく帰ってきたのに、また外にいる?慌てて鈴香が飛び降りてお寺に戻ろうとすると、仁類の手がそれを押さえる。

「暴れちゃ危ないよ」

 言われてよく見ると、いつの間にかお寺は小さく遠ざかって、鈴香と仁類はまた夜空を翔けているのだった。


「まだまだ夜は長いんだから、慌てなくても大丈夫」

 そう言って仁類が飛び上がると、月はぐるりと回転し、星々は弧を描いて二人の周りを流れた。

 これじゃ目が回ってしまう。鈴香はぎゅっと目を閉じて、それから恐る恐る様子をうかがった。足元には知らない街が見えて、次の瞬間に二人は小さなビルに向かって飛び込んでいた。

 まず最初にドラムセットが目に入って、それからアンプだとかマイクだとか、立てかけられたギターや、床をのたくるコード、譜面台なんかが見えて、鈴香にはそこがスタジオだという事が判った。どうやら休憩中らしくて、四人いるバンドの人たちは、隅にある折り畳み椅子に思い思いに座り、煙草を吸ったり、携帯をいじったりしていた。

「なーんかこう、あと一息って感じなんだよね」

 足を大きく開き、椅子の背を抱え込むようにして逆向きに座っているのはお父さんだった。黒いTシャツに破れたジーンズ、白塚さんに比べたらとんでもなくいい加減な格好で、髪は練習がうまくいかない時の癖で、ぐしゃぐしゃになっている。

「俺的にはオッケーだけどな」と煙草をふかしているのは、この前も太陽館の控室にいた金髪の人だ。もう一人の背の高い人もいて、こちらは携帯をポケットにしまうと「ライブの反応もよかったんだし、今あえていじったりする必要ないんじゃないの」と言った。

「でもさ、それって結局、昔と同じレベルでよしって事だろ?俺はそういうの嫌なんだよな。ブランクを埋めるんじゃなくて、違う次元に超越したいっていうか」

 お父さんはけっこう真剣な顔でそう言った。

「でもさ、ファンなんて結局、青春時代の一番元気だった頃を再現できればそれで幸せなんじゃないの?」

 この前はいなかった、少し髪の長い、痩せた人は手にしていた譜面を丸めては広げながらそう言った。

「だから、俺はそれじゃ全然満足しないっていうか、自分に嘘ついてるとしか思えないんだよ。ゼロ時代の曲もやるけど、今は今の音や声があるし、それなりに年もとったわけだし」

 お父さんはそう言って、顎を椅子の背もたれにのせた。金髪の人はにやっと笑って、「娘もすっかり大きくなって、反抗期だもんな」とちゃかした。

「うるさいな。それを言うなよ。落ち込むんだよマジで」

「いやいや、変に希望は持たない方がいいぞ。たぶんお前、鈴香ちゃんにかるーくあと十年は口をきいてもらえないから」

「嘘だろ?」

「だってうちの姉貴って、中一でオヤジの事をうぜえって言い出して、結局もう一回口きいたのって、デキ婚で子供が生まれてからだもん。十五年たってたよ。それがしかも、離婚して実家に帰るって報告」

「嘘だって言ってよ。俺はクリスマスまでには仲直りするつもりでいるのに」

「プレゼントでごまかすとか?頑張ってあれこれ選んでも、絶対外すぞ。何これ、キモっ!とか言われるから」

 お父さん以外の三人は、そこでどっと笑った。

「でもさ、うちの子、クリスマスが誕生日なんだよ。だからジングルベルで鈴香って名前にしたんだから、仲直りできないなんてありえないよ」

「だからその話はもう一万回は聞いたって。あのさ、女の子なんて中学にもなったらね、父親より友達とか彼氏が大事なの。マキさんのは鬱陶しいほどの片思いなんだよ」

 金髪の人がそう言ったら、背の高い人が「だったらいっそ、思いっきり片思いの曲でも作ってみたら?」と笑って立ち上がった。それをきっかけにみんな立ち上がると、それぞれの持ち場に戻っていった。

 

 もう一度夜空に駆け上がって、次に仁類と鈴香が飛び込んだのは渚さんの部屋だった。なんだか古くて狭いアパートみたいな場所で、隣の部屋の人のいびきが筒抜けだ。外から帰ってきたところらしい彼女は、深い溜息をついてピアスとネックレスを外し、チェストの上にある銀のトレイにのせた。それから腕時計も外してそばに並べると、お化粧も落とさず、水色のスーツのままベッドに倒れこんだ。

 サイドテーブルに置かれた小さなデジタル時計は一時四十五分を指している。あちこちささくれた畳の上にはショルダーバッグと、小さなペーパーバッグが転がっていて、そこからセロファンに包まれたピンクのバラが一輪だけ覗いている。

 そのまま眠ってしまうんだろうか、と思っていると、渚さんは「ダメダメ」と呟き、起き上がると台所に入った。そして細いガラスのコップに水をくんできて、落ちていたバラを拾い上げるとセロファンを外し、そっと生けた。そのコップをサイドテーブルに置き、またベッドに腰を下ろして、じっと見つめる。コップの後ろには写真立てがあって、渚さんと朱音さんが、海を背景に笑っている。

 渚さんは腕を伸ばしてその写真立てをぱたんと伏せた。それから両手で顔を覆うと、静かに泣き始めた。

 渚さん!どうしたの?大丈夫?鈴香はそう言いたくて、前に飛び出そうとした。仁類は「ほら、じっとしてないと危ないってば」と鈴香を抱き上げ、それからもう一度肩にのせ直した。


「いい?僕らの姿は誰にも見えないんだからね」と念を押すと、仁類はまた夜空を翔ける。すると今度は見覚えのある場所に飛び込んだ。

「どうも、お疲れさま」

 ドアに向かって手を振っているのはカンパチさんだった。そこは太陽館で、どうやらもう閉店らしく、フロアの照明は全部消えていて、カウンターにだけ明かりがついている。カンパチさんはそして、ポケットから携帯を取り出すと、しばらく考えてから、誰かに電話をかけた。

「あ、ちかちゃん?まだ起きてた?ごめんね、いつもこんな時間で。どうかしら、パパの検査の結果ってもう判ったの?うん、まだ別の検査がいるわけ?なんか友達に聞いたりしたけど、見つかった時には手遅れってケースが多いらしくて、また心配になっちゃって。うん、でもちかちゃんは旦那さんとあっくんを最優先にしなきゃ駄目よ。本当は私が長男だからしっかりしなきゃいけないのに、色々任せちゃってごめんね。とことん親不孝な息子で、我ながら泣けてくるわ。え?まあ今はまだ泣いてないけどね。一応それは言っとかないと。うん、じゃあまた電話する、おやすみ」

 カンパチさんが電話を切ると、ディスプレイには二時十五分という表示が出た。そして携帯をポケットに戻し、カウンターに置いていたショルダーバッグを肩にかけると、カンパチさんは「ほーんと親不孝」と呟いて明かりを消した。


 カンパチさん、私と仁類、最後のバイトに行けないかもしれないよ。そう言おうと思った瞬間に、もう仁類は空高く舞い上がっている。澄み切った夜風は狸になった鈴香のヒゲを優しく震わせて、その感触から空気の湿り具合や、明日の天気なんかが手に取るようにわかった。

 へーえ、狸って案外すごいんだ。

 そう思ったら、仁類は「やっと判った?」と鈴香の方を向いた。彼の頬に触れて、弓のようにしなった鈴香のヒゲを伝わってくるのは、とても暖かい心だった。なんで今まで気が付かなかったんだろう。いつもぼんやりして、大食いなだけだと思っていた仁類は、本当はすごく優しい生き物だ。今まで当り散らしてばかりでごめんね、そう言おうとしたのに、仁類はまた急降下を始めて、鈴香はぎゅっと目を閉じた。


 次に目を開けると、そこはまた見覚えのある場所だった。いつもより少し薄暗いけれど、たぶん峠の病院の廊下。そこを勢いよく歩いているのは眞子さんだった。

「どいつもこいつも一斉にナースコール押すんじゃねえよ。早押しクイズじゃないっつうの」

 ぶつぶつ文句を言いながら大股で歩いてゆくと、眞子さんは個室のドアを開けた。

「ハヤミさん、どうしました?」

 さっきとはうって変って優しい声で患者さんに話しかける。

「なんだかやっぱり痛みが引かないんだよ。強くなったような感じもするし」

 ベッドで丸くなっている患者さんの声は、とても不安そうだ。眞子さんは「そっか、じゃあ痛み止め打てるかどうか、先生に聞いてみますね。あと少しだけ待ってくださいね」と言うと病室を出て、それから隣の部屋に入った。

「カンダさん、どうしました?」

「あ?俺?呼んでねえけどな?」

 患者さんは寝ぼけている感じで、眞子さんは「手が当たっちゃったんですかね、ちょっとナースコール、こっちに動かしときますね」と調節すると、「お邪魔しました」と部屋を出た。ドアが閉まった途端に「こらこら、ざけんじゃねえよ」と一言呟き、速足でナースステーションに戻る。それからデスクの上の電話をとると、「すみません、大山先生お願いします」と明るい声で呼びかけた。壁にかかった、学校の教室にあるような丸い時計は三時十分を指している。

 

 看護師さんって、ああして夜もずっと患者さんの面倒見てるんだ。ナースキャップが可愛いからって、ちょっと憧れたこともあるけれど、鈴香はやっぱり自分には無理かもしれないと思ってしまった。

「鈴ちゃん、あっち見てごらん」

 ふいに背中を押さえる仁類の指先に軽く力が入って、鈴香はその方向に首を廻らせた。二人はいつの間にか広い森の上を翔けていて、その向こうにある湖は月の光を反射して銀色に輝いていた。湖のほとりにはひときわ背の高い大木がそびえ立ち、水面に向かって勢いよく枝を広げている。よく見るとその枝の先の方に、誰かが腰かけていた。

 あ、湛石さん!

 一体どうやってあんなところまで登ったんだろう。ボケちゃった人は時々とんでもない事をするっていうけれど、まさにそんな感じ。これじゃ南斗おじさんでも救出は無理だし、レスキュー隊出動かな。

 鈴香が呆気にとられていると、湛石さんはこちらを見上げてにっこり笑い、緩やかに大きく手を振った。何故?私たちは誰にも見えないんじゃないの?

「それは普通の人の話。湛石さんは特別なんだ」

 仁類はそれだけ言うと、鈴香を押さえていない方の手を振った。鈴香は思わず振り向いて、遠ざかる湛石さんの姿をじっと見つめた。やがて湖は森の中へと吸い込まれていって、あとはもう月明かりに浮かぶ木々の梢が海のように広がるだけだった。

 夜風はただ心地よくて、お腹の下と背中からは仁類の温もりが伝わってくる。鈴香はなんだか嬉しくなり、その気持ちは身体の中を走り回って尻尾に飛び出してゆく。ぱたぱたと勝手に動く鈴香の尻尾が仁類の背中をたたくと、彼は「うん、すごく楽しいね」と頷くのだった。


「さあ、今度は少し遠くまで行ってみようか」

 そう仁類が言うか言わないうちに、夜空に浮かぶ月と星はすごい勢いで流れ、やがて虹色に輝く光の帯になる。それがぐにゃりとねじれて裏返しになったかと思った次の瞬間、真っ白な光が弾けて、二人は太陽の射し込む明るい部屋にいた。

 そこは中学の教室を一回り小さくしたような場所で、スーツを着た白人の女の人がホワイトボードに何か書きながら説明している。英語のクラスかな?と思って、生徒たちを見てみると、そこにいるのは大人の女の人ばっかりだ。たぶん日本人、という人もいれば、東南アジアっぽい顔立ちの人もいて、小さなテーブルのついた椅子に座って、みんな真剣な顔で先生の話を聞き、時々ノートをとっている。

 中学の授業とは比べ物にならないほど熱心だなあ、と感心しながら一人一人の顔を見て行くうち、鈴香はそこにお母さんがいることに気づいた。

 鈴香に小言を言うときの、眉間にしわを寄せた顔でもなく、お父さんに嫌味を言うときの、少し横を向いた冷たい顔でもなく、まるで小学校に入りたての一年生みたいに、しっかりと先生を見ているお母さんの顔は、鈴香の全然知らないものだった。

 お母さん、英語でやってる授業なんかわかるの?

 鈴香は思い切り身を乗り出して、お母さんのノートを覗き込む。するとついバランスが崩れ、前足は空中を踏んだ。

「危ない!」

 そう叫ぶ仁類の声が一気に遠くなって、鈴香はくるくると回りながら落ちて行った。


「わ!」

 自分の声で目が覚めると、鈴香はまだ枯葉の中に寝転がっていた。

「なんだ、夢か。変な夢」

 鈴香は横になったままで軽く伸びをした。外からは色々な鳥のさえずりが聞こえてくる。そろそろと這って穴から顔を出すと、辺りはまだぼんやりとした明るさで、日が昇るまではもう少し時間がありそうだった。

 仁類はどこに行ったんだろう。見回してもその姿はどこにもなく、鈴香は急に不安になって「じんるーい」と呼んでみた。しばらくすると目の前の土手からオレンジの髪がひょっこりのぞいて、「起きた」と言った。

リュックを抱えて穴から這い出し、「何してたの?」と近づいて行くと、「水飲み」と答える。確かに彼のシャツは少し濡れていて、髪にも水の雫が光っていた。土手から身を乗り出してみると、下の方に沢が流れているのが見える。鈴香は土手を越え、木の根を伝って降りてゆくと、沢に両手を浸してみた。

 思っていたよりずっと冷たい水が、砂埃で汚れた指を見る間にきれいにしてゆく。鈴香は両手で水をすくい、顔を洗ってみた。それから今度はその水を口に含んだけれど、やっぱり飲む勇気はなくて、何度かうがいだけした。

 それだけでも気分はすっかりシャキッとして、鈴香はリュックからタオルを出して顔をふいた。そして斜面を登ろうとすると、仁類がまた下りてきた。

「もっと水飲むの?」と尋ねると、「ここの通っていく」と言って、沢伝いにどんどん歩き始めた。鈴香も慌てて後を追いかけ、「あとどれくらい?」ときいた。

「あと短い歩く」と答えてからちょっと立ち止まると、仁類はいきなり沢に手をつっこんで小さな蟹をつかまえた。それからちらっと鈴香を見て、また蟹を水に放り込むと歩き出す。

「あのさ」

石の下に慌ててもぐりこむ蟹を目で追いながら、鈴香は仁類に声をかけた。

「食べたかったら、別に我慢しなくていいじゃない」

 でも仁類は何も言わない。やっぱり自分に遠慮してるのかと思うと、鈴香は複雑な気持ちになった。確かに前は気持ち悪いとか言ったけど、コンビニのごみ箱をあさるのに比べれば、つかまえた蟹を食べるのは狸にはもっとずっと自然なことに違いない。

 夢の中で狸になったせいか、鈴香は何となく、こうして山の中を歩き回って暮らすのも面白いような気がしてきた。誰にも邪魔されず、好きなように走って、好きなように寝て、好きなように食べる。

 そんな事を考えていて、ふと顔を上げると仁類の姿が見えない。はぐれちゃった?そう思ってきょろきょろすると、上の方から「こっち」という声がした。見上げると仁類は沢の土手を登り切って、繁みから顔だけ出している。

「黙って置いてかないでよ」

 鈴香も急いで土手をよじ登り、木の繁みに潜り込むと、トンネルのようになった細い道を這うようにして仁類の後に続いた。繁みのトンネルが途切れた場所から顔を出すと、そこは湛石さんの離れの庭だった。

 ようやくここまで戻ってきた!そう思うと鈴香はなんだか涙が出そうになったけれど、また泣いたら仁類に馬鹿にされそうなので、あくびをするふりをしてごまかした。仁類はそんなの気にもしないで、すたすたと離れに向かって行った。

「ちょっと待って、いくら何でも湛石さんはまだ寝てるよ!」

 辺りはようやく明るくなってきたところだし、縁側の障子は閉まったままだ。もう少し待った方がいい。小声だけど必死で呼びかけた鈴香の耳に、何か不思議な声が聞こえてきた。

 誰かが歌っているようなその声は、強くなったり弱くなったりしながら離れの方から響いてくる。

「あれ…湛石さん、お経あげてるんだ」

 呆気にとられていると、仁類は振り向いて「毎日ですること」と言った。

 ぼけちゃってるけど、やっぱりお坊さんなんだなあ。鈴香は感心してしまったけれど、これじゃなおさら邪魔するわけにはいかない。終わるまで待っておこうと思ってその場にしゃがむと、仁類もこっちに来るように手招きした。

 その時、お経をあげる声が中途半端にぴたりとやんだ。それから咳払いが何度か聞こえて、続きはなかなか始まらない。鈴香は、もしかして湛石さん、どうにかなっちゃったかな、と心配になってきた。そこへ突然、縁側の障子がかたん、と開いて、湛石さんがゆっくりとした足取りで出てきた。

「おはようさんです」

 作務衣姿の湛石さんは、さも当然、という感じで、庭にいる鈴香と仁類に向かってあいさつした。

「あ…お、おはようございます」

 鈴香は庭の隅っこにしゃがんだまま、上目使いであいさつを返す。仁類は何も言わずに縁側に寄って行くと、靴を脱いで上がり、湛石さんの脇をすり抜けると座敷に入り込んだ。

「あんたら夜っぴて外で遊んではったんか。元気でよろしなあ。まあ上がってお茶でもどうですか」

 そう湛石さんに呼ばれて、鈴香もようやく立ち上がった。

 

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