◆全の章◆第9話「セイジ兄ちゃんとの約束」

 チィ姉ちゃんを『外』の森の端に横たえた時、彼女はわずかに意識を取り戻した。


「チィ、俺が分かるか?」


 だがセイジ兄ちゃんが呼びかけても、チィ姉ちゃんの目は虚ろで、どこか遠い世界で焦点を結んでいた。

 闇に溶ける、朔の夜空。彼らの顔を照らすのは、ユウマと『追放者』の男が持つランプの灯りだけだ。


「チィ姉ちゃん」


 ユウマは彼女の手に触れたが、その細い腕は力なく垂れ下がったままだった。


「意識が戻ったなら大丈夫だ。あの煎じ薬はよく効く。この場所ならすぐ近くに家もあるし、日が昇れば誰かが通りかかって彼女を見つけてくれるだろう。別れは惜しいが、時間がない。早く戻ってやるべきことを済まさねば、全てが水の泡になる」


 生まれて初めて出る『外』の空気は、透き通った匂いがした。それだけで、村と『外』とは違うのだとユウマは肌で感じた。

 しかし暗闇に沈む『外』の世界がチィ姉ちゃんにとって良いものなのか、まだ分からなかった。ましてやこれきり会えなくなるなど、全く実感が湧かなかった。


 セイジ兄ちゃんは、なおも虚空を見つめるチィ姉ちゃんの頬をそっと撫でた。


「チィ、幸せにな」


 ユウマはチィ姉ちゃんの左手を握った。その手はいつものように握り返してはくれなかったが、代わりに手首から木の腕環がするりと落ちてきた。

 ユウマはそれを抜き取り、自分の手首に嵌めた。


「さぁ、行こう」


 『追放者』に促されて、少年たちは村へと続く縦穴の中へ戻っていった。




「さて、皆が目を覚ます前に、あの子の持ち物を残らず焼いてしまわねばならない」


 『村』の葬式では、遺体と一緒にその人の持ち物を全て焼いてしまう決まりになっていた。下手に物を残すと、単家移動の際に邪魔になってしまうからだ。


「私は村の人々に、彼女は蔵の中で亡くなり、つい昨日葬式を終えたという内容で催眠をかけた。二人とも、彼女の持ち物を一つ残らず集めてきてほしい」


 二人の少年は無言で頷き、何を考える間もなく村の中央に向かって走り出した。



 ユウマはチィ姉ちゃんの単家へ行き、彼女の持ち物が入った籠を引っ張り出した。中には普段着や『豊穣祭』で使った白い衣装が畳んで入れられていた。

 また、うんと幼い頃に一緒に遊んだ人形やボール、ユウマが作った折り鶴もあった。

 鶴の折り方はチィ姉ちゃんに教わった。初めて一人で折れた記念にあげたものだった。それはお世辞にも綺麗とは言い難い不格好な出来だったが、チィ姉ちゃんはとても喜んでくれたのだ。

 その時のことを思い出したら涙が滲んできて、ユウマは慌てて立ち上がった。


 家の中を見る限り、他にチィ姉ちゃんの持ち物はなかった。食器などは共同なので、個人の持ち物には含まれない。

 一人ひとりに属する物は、この村では驚くほど少ないのだ。



 ユウマがチィ姉ちゃんの籠を持って中央広場まで行くと、セイジ兄ちゃんは学校から教材やら道具袋やらを持ってきていた。


「学校にあった分はこれで全部だ。ユウマの方は?」

「うん、僕の方もこれで全部」


 やや遅れて、『追放者』が薪を担いでやってきた。


「よし、準備はできたな」


 チィ姉ちゃんの持ち物を置いた周りに薪をくべ、内部の空洞に松脂を浸した布を差し込んだ。

 『追放者』は、そこに手早く火をつけた。


「燃え拡がるまでに、少し時間がかかるな」


 辛抱強く待っていると、炎はじわじわと大きくなってきた。


「……これで本当に良かったんでしょうか」


 セイジ兄ちゃんがぽつりと言った。


「俺たちはチィを殺してしまったかもしれない。少なくとも、この村の中でのチィはもういない。俺たちが殺したんだ」


 背の高い少年は、独白のように続けた。


「例えば俺がチィを説得していたら、村の掟に従おうと考えを改めたかもしれない。例えば俺が村の人一人ひとりにチィの考えを説明して回ったら、理解してくれる大人がいたかもしれない。例えば俺があの日、『みつの祭』を覗こうと言ったチィを止めていたら、そもそもこんなことにはならなかったかもしれない。例えば俺が――」

「もう、やめるんだ」


 気付けば、セイジ兄ちゃんの双眸からは音もなく涙が流れていた。

 火は今や随分と大きくなり、唇を噛み締める少年の精悍な顔をちらちらと照らしていた。


「私も、つい考えてしまう。他に何か方法がなかったのか、と。しかし無数にあった可能性の中から、我々はこの方法を選んだ。残念ながらもう後に戻ることはできない」


 『追放者』の声は静かだった。だからこそ一層、深い思慮を感じさせた。


「あの子は明るく、そして賢い。きっと『外』の世界でも幸せに暮らしていける。私たちにはそれを祈ることしかできないよ」


 燃え上がる炎を眺めながら、ユウマは『豊穣祭』の夜のことを思い出していた。

 あの時は緊張しながらもわくわくした気分で、約束した学校の日時計まで走った。

 いけないことをする時のどうしようもない高揚感と、チィ姉ちゃんとセイジ兄ちゃんの笑顔と。

 激しく立ち昇る火柱と恐ろしい光景をこっそり上から覗き見て、そこから運命が変わってしまったけれど、なぜだかそれ以降のことはこれっぽっちも思い出せなかった。


 浮かんでくるのは、チィ姉ちゃんの笑顔ばかりだ。

 これまで、ユウマの傍にはいつもチィ姉ちゃんがいた。手を引いてくれた。頭を撫でてくれた。笑いかけてくれた。名前を呼んでくれた。慰めてくれた。時々叱ってくれた。抱き締めてくれた。

 ユウマがどんなにみっともなくても、どんなにひどい失敗をしても、チィ姉ちゃんだけは絶対にユウマの味方だった。

 だからこんなに寂しい場所でも、ユウマは独りぼっちにならずに生きてこられたのだ。


 チィ姉ちゃんが大好きだった。誰より大切だった。

 でも、チィ姉ちゃんは死んでしまったのだ。少なくともこの村では。

 明日からユウマは、一人で歩いていかなくてはならない。

 怖かった。ただ、怖かった。


 とうとう堪え切れず、ユウマはしゃくり上げるようにして泣き出した。ユウマの手を、セイジ兄ちゃんがぎゅっと握った。

 目の前で燃える彼女の『遺品』からはまっすぐに煙が立ち昇り、暗い夜空に吸い込まれていった。


「坊や、その腕環……」


 『追放者』が、ユウマの腕に嵌まった木の腕環を指さした。ユウマは大きく首を振った。


「いやだ……これ、を……燃やす、のは……」


 セイジ兄ちゃんが、ユウマの手を更に強く握った。彼は涙を流しながらも、しっかりとした口調で言った。


「これくらい大丈夫です。ちゃんと隠します。ユウマからこれ以上、チィを取り上げないでください」

「本当に大丈夫かい? もしあまりに辛ければ、君たちの記憶も変えるが……」

「それだけはやめてください。どちらにしても、チィはここからいなくなったんです。だったら死んでしまったと思うより、どこかで幸せに暮らしてるんだと信じる方が、ずっといい」

「……そうだな、その通りだ」


 再び辺りを静寂が包んだ。

 ただチィ姉ちゃんの『遺品』が燃えるぱちぱちという音だけが戒めのように響き、心のごく深いところにしんしんと降り積もった。

 何があっても、この秘密を守り通さねばならない、と。


 ユウマは祈った。

 どうか、どうか。チィ姉ちゃんをお守りください。

 その祈りは、何に捧げたら良いか分からなかった。

 ただただ立ち昇る煙を見つめながら、強い願いを込めて心の中でそう唱えるだけだった。




「ユウマ、俺は『教師』になるよ」


 チィ姉ちゃんの『遺品』をすっかり燃やしてしまった帰り、セイジ兄ちゃんはユウマの手を引きながら言った。


「『教師』になれば『協会』との繋がりもできるだろう。そうしたら俺は『協会』に掛け合って、この村のやり方を変える。もう誰も、チィみたいな辛い思いをしないように。もう誰も、俺たちみたいな辛い思いをしないように」


 ユウマはセイジ兄ちゃんの顔を黙って見上げた。彼の瞳は既にしっかりと前を向き、強い光を湛えていた。


「俺がそれを実現できるまで、かなりの時間がかかると思う。それに一旦『教師』になってしまったら、今までのようにユウマの傍にいてやれないかもしれない。それでも、俺は必ずこの村を変える。だから俺を信じて、辛くても我慢できるか?」


 ユウマは返事を躊躇った。これ以上独りぼっちになるのは怖かった。

 しかし、セイジ兄ちゃんの決意を感じ取ってなお嫌だと駄々をこねるようなことは、ユウマにはできなかった。


「約束、してくれる?」


 ユウマはセイジ兄ちゃんの手を強く握った。


「誰も辛い思いをしないように、村を変えるって約束してくれる?」


 セイジ兄ちゃんはユウマの目を覗き込むようにじっと見つめてから、大きく頷いた。


「あぁ、約束するよ。だから信じて待っていてくれ」




 その運命の朔の夜、一人の少女が村から消えた。

 それに関わる出来事を正確に知っているのは、村の中でも二人の少年と『追放者』の男だけだった。

 二人の少年の間で交わされた約束は、命に換えても守るべき秘密をしまい込んだ心の蓋の重石となった。

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