◇一の章◇第9話「蔵、記憶、若者」

 一ノ瀬が監禁されたのは、蔵のような建物だった。後ろ手に手首を縛られて放り込まれたのだ。

 鉄の扉はきっちり施錠されている。今や内部は完全な暗闇で、一筋の光すらも差し込んでこない。

 あらん限りの声を張り上げて叫んだり、扉への体当たりを試みたものの、外からは何の反応もない。

 あの男たちはこの蔵から離れてしまったのかもしれない。そう言えば、誰かに報告するというようなことを言っていたような気もする。


 一ノ瀬は助けを求めるのを諦め、腰を下ろす。背中をつけた壁は冷たくて硬い。一方で、先ほど殴られた頬は熱を持っている。

 これからどうすべきか。できることは何もなさそうだ。手の自由も奪われ、ろくな身動きも取れない。

 せいぜい大声を出すくらいが関の山だが、ここへ至るまでの道のりを思い出すに、周辺に民家はなく、誰かが偶然気付いてくれる可能性は限りなく無に近い。

 あれ以上に乱暴されなかっただけでも感謝すべきなのだろう。


 ふと、ポケットに携帯端末を入れてきたことを思い出し、身を捻って取り出す。

 しかし画面には『圏外』の二文字が無情に並んでいる。

 時刻は午前一時七分。明日――いや、もう今日か――が休みで良かったと、やけに冷静な頭で考える。


 一ノ瀬があの小屋から抜け出したことに、『追放者』の男性は気付いただろうか。今ごろ探し回っているかもしれない。

 我ながら軽率に行動してしまった。思い返せば、いつもは隣に優柔不断な相棒がいたから、うまいことブレーキが掛かっていたのだろう。


 改めて、ここ数時間のことを振り返る。

 知里に連れられてこの得体の知れない『村』にやって来た。

 『追放者』の男から、地下組織たる政府の存在を聞かされた。そして佐伯が政府の関係者であることを知った。

 それだけで充分警戒して行動すべきだったのに、自分の心の中の違和感を解明したい思いだけで抜け出してしまった。

 『村』の存亡が危惧される状況を聞かされていたにも関わらず、また知里を無事に家に帰すという責務があったにも関わらず、自分自身の好奇心に負けてしまったのはあまりに幼稚だ。


 しかしながら、自分の中に無視できない引っかかりがあったのもまた事実だ。

 そもそも、一ノ瀬の中にはずっと埋められない空白があった。

 別の言い方をすれば、暗闇で塗り潰された部分があった。

 『親』の顔を知らないこと、『家族』という感覚が分からないことに加えて、幼少期の思い出が彼女には全くなかったのである。


 遡ることのできる記憶は、第三十八自治区内の孤児院のような施設にいたのが最初だ。

 どういう経緯でそこに入っていたのかは不明だが、とにかく彼女にはその施設内ではあまり居場所がなかった。見知らぬものだらけだったし、彼女には自分の名前ぐらいしかアイデンティティを自覚できるものがなかったからだ。

 程なくして一ノ瀬家に引き取られたので、そのひどく覚束ない時期のことはもう幻のようにしか思い出せない。

 今となってはその前段階が記憶として欠落しているのかどうかすら、特別に意識しなければ曖昧だ。


 だが知里に出会って以降、違和感や既視感を覚えるたび、暗闇の部分は徐々に存在感を増していた。『村』に来てからは、更にそれが強くなった。

 もしかして。

 自分は以前この『村』に来たことがあるのではないか。つまり、その暗闇の時代に。

 感覚としてはほぼ確信に近かったが、それを証明できるものは何もない。

 ひとしきり考えたものの、結局はここからどう脱出するかということが最も重要な問題であることに変わりはないのだ。



 鉄の扉の軋む音で、一ノ瀬は我に返る。

 暗闇に目が馴染み過ぎて、眠っていたのか起きていたのかすら不確かだったが、その音は紛れもなく現実のものだ。

 やがて正面の闇がわずかに割れ、その中央部分に温かい橙色が現れる。自然の炎の灯りだ。


 扉が開けられたことに安堵を覚えながらも、次の瞬間には誰がそこにいるのか、自分の身に何が起ころうとしているのかという懸念に、ぼんやりしていた脳が急速に覚醒する。頭痛は相変わらずそこに重く居座っている。

 ランプを持った人物が、扉を押し広げて蔵の中に入ってくる。

 するとそれまで闇に支配されていた空間が一気にぱっと照らし出される。暗闇に慣れ切っていた瞳孔はその光を咄嗟に受け切れず、一ノ瀬は思わず顔をしかめてぎゅっと目蓋を閉じる。


 恐る恐る開けた薄目は、間近に人影を捉える。どうやら男性のようだ。

 彼は一ノ瀬の傍まで来ると静かにしゃがみ込み、彼女に目線を合わせる。


「こんばんは」


 まだ若い男の声だ。


「あの、あなたは……?」

「僕はこの村で『教師』をしている者です」


 徐々に慣れてきた目が捉えたのは、線の細い、端正な顔立ちの若者の姿だ。年齢は二十歳前後だろうか。


「あなた、どうやってこの村に入ってきたんですか?」


 彼は抑揚なくそう言う。問い質す訳でも、咎める訳でもない口調だ。それが却って、何か底知れぬものを感じさせる。


「えっと……私は第三十八自治区警察局の者です。こちらの『村』の知里ちゃんという女の子を保護したので、おうちに送り届けに来たんです」


 一ノ瀬は正直に言う。少なくとも教師という立場の人であれば、それなりにきちんとした人物だろうと思ったのだ。


「チサトを?」

「えぇ」


 彼は、一瞬驚いたように目を瞠る。そして顎に手をあて、何かを考えるように眉根を寄せる。

 この人、もしかして。


「ねぇ、あの、ひょっとして知里ちゃんの『お兄ちゃん』は、あなたですか?」


 若者は一ノ瀬に視線を戻す。しかし無言のままだ。

 一ノ瀬はそれを肯定と受け取り、毅然とした口調で告げる。


「知里ちゃんに『お兄ちゃんを助けて』と言われました。あなたが何か計画を立てているということも、伺いました」


 彼はいっさい表情を変えない。


「……あなたの計画については、私はとやかく言える立場ではありません。でも知里ちゃんは、あなたと今まで通り暮らしたいと言っています。だから――」

「あなたは」


 若者が一ノ瀬の言葉を遮る。その声はぴしゃりと響き、蔵の中に余韻を残す。


「警察局、と言いましたか?」

「え? えぇ、そうですけど……」


 彼は更にまじまじと一ノ瀬の顔を見つめる。一ノ瀬は動揺を隠し、唇を引き結んで睨み返す。

 不意に若者の手が伸びてきたので、一瞬びくりとして身をすくませる。

 彼は一ノ瀬の頬にそっと触れたかと思うと、後ろで一纏めにしている髪をするりと解く。長い髪が、ぱさりと肩口に落ちる。

 今や息がかかりそうなほどの至近距離に、相手の顔がある。

 彼はわずかに目を細める。そのビー玉のような瞳に映るランプの灯がゆらりと揺れる。


「あなただったのか」


 静かに言葉を吐き出す若者の薄い唇が、笑みを形作る。その表情はどこか狂気を孕んでおり、ぞくりとする。

 やおら彼は立ち上がり、こちらに背を向ける。

 一ノ瀬は慌てて声を上げる。


「ねぇ、ちょっと待って! あなた、誰?」


 彼は一瞬立ち止まり、半分だけ振り返る。


「あなたは『外』に帰った方がいい。もはやこの『村』で起こることは、あなたには関係のないことなんだ」


 若者は質問には答えずそれだけを言うと、扉を閉めようとする。


「あっ、ちょっと! だったらここから出して!」


 一ノ瀬の抗議も虚しく光の入り口はあっという間に狭くなり、重い音を立てて再び暗闇の世界が構築される。

 風のように過ぎ去った出来事に、一ノ瀬は一人呆然とする。




 闇は先ほどよりも深く、一ノ瀬の心の中まで忍び込んでくる。

 正体不明のわだかまりが心臓からこんこんと湧き上がり、全身を駆け巡っている。

 身体が必死に悲鳴を上げながら、脳に何かを訴えかけているかのように思える。


 今のは、今の若者は――

 知っているはず。忘れてはいけない、大切なことを。


 ますます激しくなる頭痛。

 跳ねるように脈を打つ鼓動。

 なぜ忘れてしまったのか。どうして思い出せないのか。

 分からない。


 絶え間ない痛みの波。それは断続的に一ノ瀬を襲い、正常な思考を奪う。

 こめかみの辺りから流れ出した砂嵐が暗闇の視界を覆い尽くし、幾度も幾度も寄せては返しながら万物の輪郭をさらっていく。

 その向こう側で何かの感情の切れ端が新たな像を結ぼうとするが、形を捉え切る前に消失する。

 痛みすらもはや、原型を留めてはいない。

 振動と、反響と、点滅。

 それらの波がピークに達した時、彼女はついに意識を手放した。

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