◇一の章◇第3話「十三歳、同僚の男、家族」
「『ホウジョウサイ』――」
一ノ瀬は自分のデスクの回転椅子に身を預け、背筋を伸ばしながら天井を仰ぐ。
漢字をあてるとしたら『豊穣祭』だろうか。だとしたら、知里が言ったそれはどういう意味なのか。
あの直前、一ノ瀬は彼女に「山の中で何をしていたのか」と問いかけた。よもや、それに対する返事だったのか。
その答えを探すかのように天井の継ぎ目を目でなぞっていると、突然視界を影のようなものが覆う。
「何してんだ、一ノ瀬」
佐伯が逆さまに一ノ瀬を覗き込みながら、呆れた表情で言う。
時刻は午後十時。第三十八自治区警察局本部には、既に一ノ瀬と佐伯の二人しかいない。知里は応接室のソファで眠っている。
「ねぇ佐伯、『ホウジョウサイ』って聞いたことある?」
佐伯が一瞬動きを止め、ぱちぱちと瞬きをする。
「あの子がそう言った?」
「そう」
言いながら一ノ瀬は身を起こし、椅子ごと佐伯に向き直る。
彼は軽く首を傾げながら言う。
「作物の実りや子孫の繁栄を祈って行う祭り……とか?」
「子孫の繁栄?」
「いや、結構各地にそういう祭ってあるだろ」
「うーん、そうかなぁ……」
また、あの感じだ。概念だけが頭の中を漂うような感じ。
見たことが、聞いたことがある気はするのに、どんなに記憶を検索しても明確な輪郭は浮かんでこない。もやもやして気持ち悪い。
「ねぇ、私って前もこの話を佐伯としたことあったっけ?」
「いや、なかったと思うけど。去年の駅前の夏祭りは、誘ったのに断られたしな」
「あぁ、あの日は仕事だったからね。うーん、『ホウジョウサイ』はどこの祭だろう」
目の前のパソコンからネットで調べてみたが、佐伯の言った通り全国各地、世界各国の祭が出てくる。何のヒントにもならない。
「知里ちゃん、十三歳、ね。それだけの情報じゃ、雲を掴むような話だわ」
先ほどからずっと全国の警察局の事件ネットワークシステムを検索していた。
十三歳の少女の事故、十三歳の少女の自殺、十三歳の少女による万引き事件。年齢と性別でヒットするのはそういうものばかりだ。
一件、九州北部にあたる第百十五自治区では十三歳の少女の捜索願いが出されていたが、名前や特徴は知里と一致しなかった。
国政が破綻して以降、治安は悪化の一途を辿っている。人の目が減り、空き家が増え、モラルは失われつつあった。
警察局はかつての警察の流れを組んではいるものの、恒常的な人手不足と法令の形骸化により、以前ほどの犯罪抑止力にはなっていない。ここ第三十八自治区はまだ落ち着いている方だ。
知里自身に話を聞くことも試みた。だが、当たり障りのない会話はぽつりぽつりとしても、自分のこととなると頑なに口を閉ざして首を横に振る一方だった。
「探してくれるような家族がいない、とか」
あまり考えたくもない可能性を口にした一ノ瀬の隣に、佐伯が腰を下ろす。
「案外、子どものことなんてどうでもいいっていう親、いるからな」
「そうだね……」
その場合、児童養護施設か。
一ノ瀬自身も、昔お世話になった。
「……ねぇ、佐伯は知里ちゃんから何か聞き出せた?」
「いや? 一ノ瀬と似たようなもんだと思う」
「あぁそう」
数時間前、佐伯が三十分ほど応接室にいたので、随分話が弾んで何か情報を得られたのではと思ったが、そうでもなかったらしい。
一ノ瀬ははっとして、佐伯の顔を見る。
「美少女と密室で二人きり。空白の三十分、いったい彼は何をしていたのか……?」
極めて緊迫した表情と声を作り、いかにも大ごとのように言ってやる。
佐伯も大袈裟に口元を覆う。
「一ノ瀬ひどい……そんな目で俺を見てたなんて」
「『つまんないことでクレーム言ってくる人がいるでしょ、そういうのは極力避けたいからねぇー』」
「くっだらねぇ……!」
人気のなくなった部屋に、笑い声が響く。それまで漂っていた重たい空気が、にわかにどこかへ消え去る。
こういう時間が好きだと、一ノ瀬は思う。佐伯とは年も近いし、気を遣わなくても良い。冗談にも乗ってくれる。
軽いノリでかけてくるアプローチめいたものも、コミュニケーションの一つだろう。三年前に彼がここに来て以来、ずっとこんな緩やかな関係が続いている。
やがて笑いの余韻が消えると、先ほどよりも密度の濃い沈黙が訪れる。すべり込むように、待ち受けるように。
「早く、手掛かりを見つけてあげなきゃね」
独り言のようにそう言って、作業に戻る。
何か少しでも知里につながる情報を探さねばならない。
なければないで、彼女が安心して暮らせる場所を紹介する。自分にはそのくらいしかできないのだから。
しばらくはまた無言の時が続く。
ふと視線を感じて、一ノ瀬はそちらに顔を向ける。
佐伯と目が合う。いつになく真面目な表情の彼と。
「ん?」
もしかして、ずっと見られていた?
「えっと……何?」
「うん」
怪訝に思って尋ねたが、彼は短く返事して瞬きを一つしただけだ。優しげな双眸に、淡い感情の切れ端が覗いている。
一ノ瀬の心臓が、思いがけず速度を上げ始める。
佐伯は何か言いたげに見える。しかし、何を?
「あの、佐伯……?」
互いに瞬きを、一つ、二つ。佐伯はようやく口を開く。
「一ノ瀬、明日日勤だろ。あんまり遅くなってもいけないし、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
一ノ瀬はエレベーターホールに立っていた。
本日当直の佐伯を本部に残し、あの空間から立ち去ろうとしている。鏡面の扉に映る自分には、表情というものがまるきりない。
びっくりした。
佐伯のあんな顔、初めて見た。
結局、何だったのか。
どこかがっかりしている自分に気付いて、また驚く。
建物は昼間よりもひっそりとしている。切り取られたホールの空間に、自分の心音だけが妙に大きく反響する。
この場に誰もいなくて良かった。きっとこの音は周囲に聞こえてしまっただろうから。
チン、と前時代的な音が不意打ちのように鳴り響く。一ノ瀬はびくりと身を震わせ、我に返る。
扉が開き、鏡の代わりに白い直方体の小部屋が現れる。一ノ瀬は頭を振り、音を立てずにそれに乗り込む。
目を瞑っても、目蓋の裏にいろいろなものがちらつく。今日は特にノイズが多い。ゴウンゴウンと下るほどに、頭の先からすぅっと冷えていく気がした。
代わりに小さく苛立ちが湧き立つ。自分は何を期待したのか、と。
……馬鹿みたい。忘れよう。
外に一歩踏み出すと、昼間の蒸し暑さがそっくりそのまま冷めたような湿気に包まれる。空にはよく太った月が顔を出している。
一ノ瀬は車に乗り込み、いつもの手順で帰路に着く。
自宅の狭いワンルームは、昼前に出てきたままの乱れた状態だ。
シーツのめくれたベッド、テーブルに散らばった雑誌、洗面所に吊るされた洗濯物。自分一人だけの空間だ。今日はいつもよりも寂しく見える。
何気なく取り出した携帯端末に、メッセージの着信を知らせるランプが点灯している。一ノ瀬はショルダーバッグをベッドに放り投げて、端末を操作する。
メッセージは養母からだ。
何のことはない。季節の変わり目の体調を慮る言葉に、たまには帰ってきなさいという内容が添えられた簡単な内容である。
今日の午後二時すぎに受信していた。ちょうど知里の調書を取っていた頃だ。彼女の家族のことなんかを質問していた。
家族、と一ノ瀬は思う。家族とは何だろう。
一ノ瀬のことを育ててくれた養父母には、感謝してもしきれない。身寄りのない自分を引き取って、高校にも行かせてくれたのだ。
しかし一方で、やはり他人であるという意識はどうしても拭い去れない。
同じ自治区内にいながら一ノ瀬が一人暮らしをしているのは、何も勤め先が不規則な勤務体系だからということだけではない。
むしろそのことも含めて、衣食住に関して気を遣わなければいけない共有部分が彼女にとって心のどこかで負担で、だから仕事を理由にあの家を出た。
中学から高校卒業まで一緒に暮らしていたはずなのに、『両親』の存在は既に『家族』という概念とともにひどくぼんやりしている。
本当の両親は、本当の家族は、どういう人たちだったのだろう。
どんなに頭の中を探っても、それは暗闇に融けている。
あぁ、そうか。だから暗闇を求めるのか。
返信のメッセージを作りかけていた手を、一ノ瀬は止める。
名前と年齢しかはっきりと明らかにしない知里。彼女は、どんな家庭で育った子なのだろうか。
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